1 月 2 日から始めたこのウォーキングも第 7 回となった。すでに「内房エリア」を館山まで南下していて、浦賀水道に突き出た「州崎」を回れば「外房エリア」だ。さて、この館山~州崎~千倉の海岸ルートだが、JR が走っていない。電車は館山から東に向かい、九重を通って千倉に入るショートカットコースを取るのである。海岸ルートを館山から千倉まで歩くと 40 km を超えるので一日では無理である。JR の駅がないので電車には乗れない。もちろん、バスは走っているが、本数が少なく不便だ。そこで今回はコースの中間地点あたりで一泊することにした。館山から 20 km は平砂浦(へいさうら)海岸のあたりであり、「アロハガーデン館山(道の駅南房パラダイス)」の山側にある「ペンションフローラ」に予約を入れた。

2 月 4 日 9:30 に館山駅に到着。どんよりとした空で路面が濡れている。さきほどまで小雨が降っていた様子である。予報ではこれから天気になるとのこと。案内所でもらった「たてやまROAD MAP」を広げる。いつもはスマホの Google MAP を使うのだが、今回は大きなトラブルが発生していた。2 日前にスマホの機種変更をし、設定はすべて完了したと思っていたのだが、いざ使用してみるとなんとインターネットにつながらない。ずっと Wifi に接続していたので気づかなかった。インターネットが使えないと Google MAP が見られない(正確には見ることはできるのだが、詳細な地図が表示されない)。ということで、今回はこの地図が頼りなのだ!

館山駅から「州崎の灯台」までが前半、そこを回って平砂浦海岸を進むのが後半である。ほぼ国道 257 号線を歩くので、Google MAP がなくてもとくに大きな問題はないだろう。時間があれば岬を回ったところにある「漁港食堂だいぼ」で昼食をいただくという計画である。駅から海の方向へ進み、その後南下する。小雨が降り出した。しまった! 天気になるとのことだったので、傘を家に置いてきてしまった。「渚の駅たてやま」の辺りで国道に入る。まずは「館山城」に行ってみよう。さきほどから丘の上にお城が見えている。館山にお城があるのは今日まで知らなかった。国道を左に曲がり城山公園目指して進む。幸いなことに雨が上がった。
「館山神社」の鳥居から館山城が見える。その先に「城山公園」の表示が。案内板を見ると、館山神社の手前に「館山市立博物館」の本館があり、館山城は博物館分館となっている。きっとお城のそばに分館があるのだろうと思いながら、坂道を登っていく。


お城の前に出た。ここから館山の町や北条海岸が見渡せるが、残念ながら曇り空なので海は鉛色だ。新しい天守閣だと思ったら 1982 年(昭和 57 年)に建てられた模擬天守閣で、お城の中が八犬伝の博物館になっていた。里見氏の居城跡に建築されているらしい。近くには「八遺臣の墓」もあるようだ。不思議に思った。昨年の秋、鳥取県の倉吉に行ったのだが、「大岳院」というお寺で里見のお殿様の墓と「八賢臣」の墓を見ていたのだ。いったい、どういうことになっているのだろうと帰ってから調べた。「なぜ館山は里見のまちなのか?」 によれば、経緯はつぎのとおりである。
- 里見家のルーツは上野国(今の群馬県)にあり、鎌倉時代の始めに、この地を所領していた新田一族の一人が里見姓を名乗ったのが始まり。以来、里見氏は美濃国、陸奥国、常陸国など各地へと移住したが、室町時代に安房国に移住したのが安房里見氏の初代とされている里見義実。
- 当時、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉氏と対立し、関東地方は 2 つの勢力に分かれ、覇権争いが繰り広げられた。その際、東京湾の制海権をめぐる抗争の舞台となったのが房総で、足利成氏方についた里見義実には安房国の国守としての権限が与えられた。
- 16 世紀に入ると里見家内のお家騒動が起こり、分家筋だった義堯が里見家の家督を継ぐ。義堯は安房から上総へと領土を拡大。これによって下総にも力が及びつつあった小田原北条氏との対立を生み、40年間に渡り各地で争いが繰り広げられたが、義堯の子義弘が 1577 年に北条側からの和解申請を受け入れ、長い諍いに終止符が打たれた。
- 義弘の死後の家督争いを制して当主となった里見義頼は豊臣秀吉に服属する姿勢を示す。その子の義康は豊臣秀吉の北条攻めにも参加したが、秀吉の命令を受けないままに三浦半島で北条軍と一戦を交えるというミスを犯す。その結果、上総の領地は没収され、徳川家康に与えられる。上総から安房への引き上げに際し、新しい城が必要となり、急遽整備されたのが館山城。義康は秀吉の臣下として九万石の大名となる。秀吉没後はいちはやく家康に服属。関ヶ原の戦いにも出陣し、12 万石を擁する関東最大の外様大名となった。
- 義康が没すると、その子の忠義(10歳)が家督を継ぐ。側近たちは徳川幕府とのつながりを密にするため政略結婚を試み、忠義は幕府の重鎮大久保忠隣の娘を娶ったが、1614 年に幕閣内での政争に敗れた大久保氏に連座するかたちで、安房の領地を没収され、伯耆国(今の倉吉)に移された。伯耆国でもほとんど領地をもらえず、1622 年、忠義は 29 歳の若さにして失意のうちに没し、里見家の歴史は幕を下ろす。
このように、里見家のそもそもの所領は安房であるが、最終的には倉吉で終焉を迎える。里見忠義の死後、8 人の家臣が殉死している。それを題材に滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」を書いたのだが、これは完全なフィクションだ。倉吉で八遺臣の遺骨を分骨し、この地に供養したものがここにある「八遺臣の墓」だといわれている。
さて、お城でちょっと時間をとった。国道に戻り、州崎への道を急ぐ。「海上自衛隊館山航空基地」の前まで来ると、「赤山地下壕跡」という看板が出ていた。左に入っていく。「豊津ホール」が受付になっていて、200 円を支払い、ヘルメットと懐中電灯を借りて地下壕跡へと向かう。ここは館山海軍航空隊が作った防空壕の跡だ。

入り口の閂を外して中へ入る。壕内にはいくつも部屋がある。発電施設や病室、電信室が作られていたとのことである。この辺りの地質は新生代第三紀で比較的軟らかで穴が掘りやすい。前回訪れた大房岬にも地下壕があった。この地域には多くの戦争遺産が残っている。館山には海軍航空隊があり、横須賀と並んで東京湾防衛の要だったのだ。近くには航空機の格納庫である掩体壕もあるそうだ。

さらに国道を進むと左手に「船越鉈切り神社」と「鉈切洞穴」がある。ここは波による浸食で海岸の崖につくられた洞窟で、中に船越鉈切神社の本殿がある。


鉈切り洞穴から出て国道に戻ると海側に「海南刀切神社」がある。この本殿は二つに割れた巨大な岩の前に建てられているという。

波佐間を過ぎ、坂田辺りで海岸に出て州崎方向をカメラに収める。予報通りのいい天気となり、青い海になった。

州崎の灯台の手前に「矢尻の井戸」がある。ここは源頼朝が上陸したとされる地のひとつ(鋸南町の頼朝上陸の碑はすでに紹介している)で、飲み水がないので地面に矢尻を突き刺したところ、清水が湧き出たという伝説の場所だ。井戸の前に石碑が立っている。気がつかなかったのだが、頼朝上陸の地の碑もあるそうだ。


ようやく、「州崎灯台」の入り口に到着。国道を離れ海岸へ進む。階段を上ると白亜の灯台があった。


すでに 13:25 になっていた。館山駅から歩くこと 4 時間だ。寄り道が多かったので思いのほか時間がかかった。「海港食堂だいぼ」までいくとさらに 1 時間はかかる。仕方が無い、ここで昼食にしようと持参したおにぎりを頬張った。
ちょっと休憩して、歩き始める。宿には 16 時に入ると連絡してある。あと 3 時間も無い。先を急ごう。すぐ州崎神社に出る。急な階段を上ると本殿に出る。州崎神社は「安房国一宮」である。ちょっと変な気がした。明日、行く予定になっている「安房神社」も「安房国一宮」となっているのだ。「一宮」は一つの国に一つの筈だ。帰って調べると、これにも頼朝が関係していた。頼朝が上陸後、再起を祈念したのが「州崎神社」、そして平家討伐に成功する。これによって、洲崎神社を「一宮」と呼ぶ風習が広まっていたところに、江戸時代に松平定信が「安房国一之宮大明神」と自筆した篇額を奉納したため州崎神社が自然発生的に「一宮」となったようだ。


州崎神社を後にして進むと「海港食堂だいぼ」の看板が。14:18である。おにぎり食べておいてよかった。

伊戸地区にでる。海に出る道があったので、国道を離れる。車の通行が多い国道は歩きにくい。ここまでは岩場の海岸、その先には砂浜が見えている。砂浜が 5 km も続く「平砂浦」の入り口なのだ。この道、砂場もとこどころにあり、結構歩きにくい。


再び国道に戻る。左手の雰囲気が急に変わる。「館山カントリークラブ」だ。このゴルフ場は 1967 年に旧帝国観光が開設したが 1976 年に同社が倒産し西山興業が経営を引き続く。そして、ゴルフ場に隣接して「館山ファミリーパーク」が 1977 年に開設された。30 年前、子供を連れた何回か行った。ポピーの花摘みが売りだったところだ。当時、この地域には大型レジャー施設が並んでいた。「館山カントリークラブ」、「館山ファミリーランド」、「南房パラダイス」、そして「いこいの村たてやま」である。
平砂浦は関東大震災などの大地震の際に海底の隆起によって海岸には広大な砂原が出現したものだ。砂は風によって内陸へ移動し、耕作地に多大な砂害をもたらしてきた。海岸から 1 km 内陸に行ったところに「砂山」という場所があるが、ここは吹き上げられた砂が貯まった場所なのだ。1947 年頃の写真を見ると砂浜はもっと内陸部まで広がっていて、ここに道などなかった。砂防林が作られていたが軍の演習場になっていた。戦後、軍用地が払い下げられ、開拓事業が始められ、昭和 24 年には県の砂防林造成事業に指定され現在に至っているとのこと。このような事情だから、地価が安かったのだろう。大型レジャー施設が建設されたのだ。南房パラダイスの開場は 1970 年、雇用保険を財源にした勤労者野外福祉施設「いこいの村たてやま」は1978 年の開業である。しかし、現在は状況が変わった。2011 年の東日本大震災、2019 年に千葉県に多大な被害をもたらした台風 15 号、さらにコロナ禍の影響もあるが、それ以前に大型レジャー施設で遊ぶというライフスタイル自体が変化していた。南房パラダイスの動植物園は 2014 年に「アロハ・ガーデンたてやま」となり、駐車場やレストランは国土交通省関東地方整備局が管理する「道の駅 南房パラダイス」に、「いこいの村たてやま」は 2014 年に民間の宿泊施設「千里の風」となり、館山ファミリーパークは 2021 年 5 月についに閉館。現在はキャンプ場「RECAMP」になっていた。

-1024x768.jpg)
-1024x768.jpg)
さて、ようやく「アロハガーデンたてやま」にたどり着いたところで問題発生。ペンションはこの山側にあるはずなのだが、Google MAP が使えないので道が分からない。仕方なくペンションに電話して迎えに来て貰った。ということで、今日のウォーキングはここで終了である。歩行距離 25.3 km、歩行時間 6 時間だった。

