第 30 回のウォーキングでは、前回ゴールした「蘇我駅」から「五井駅」まで歩く。これで、 このウォーキングの出発地である「姉ヶ崎駅」の隣の駅まで進んだことになる。この辺りの海岸線は「京葉臨海コンビナート」の工場地帯だ。だから内側を歩くことにして、前回の続きの「房総往還道」進む。そして「八幡宿」から以降はより内陸へと向かい、古代の「菊麻国(くくまこく)」経由して奈良時代の「上総国分寺・国分尼寺」の跡を訪ねた後、「五井駅」へと向かう予定である。


2023 年 11 月 29 日 7:56 に「蘇我駅」をスタートした。「房総往還道」を南下する。最初に訪れたのは「蘇我比咩(そがひめ)神社」だ。「蘇我」という地名の由来については、ずいぶん前から気になっていた。果たして古代豪族の「蘇我氏」と関係があるのだろうか? 気にはなっていたが、これまで調べようともしなかったのだからいいかげんなものだが、今回その由来を調べてみようと思う。



「神社のしおり」ならびに説明板にはつぎのような由来の記載がある。
当社は、今から千五百年前から建てられていたといわれている。
蘇我比咩神社のしおり
古記によりますと、第十二代景行天皇の皇子であ らせられた日本武尊命が東国地方を統一すべく勅命を受け弟橘姫を始め多数の家来を引きつれ軍船に乗りて、千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険にあった。このとき弟橘姫は 「龍神の怒りに触れた」とこれを静め和げんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じた。そして 日本武尊命は、無事航海をつづけた。身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられた。里人等の手厚い 看護で蘇生することが出来た。そして無事に都に帰ることが出来ました。又里人達は日本武尊命が日嗣の皇子でありながら東征の途中にて崩ぜられ皇位を継承するに及ばなかった事を聞き及んでその霊をなぐさめんと社を建て神として祭った。この里人等の行為に深く感激した第十五代応神天皇は、特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせた。蘇我一族は、代々「春日神社」「比咩神社」を守護神としており、両神社の御分霊をいただき「蘇賀比咩神社」を建立した。「延喜式卷九神 祇神名帳千葉群記載。」その徳は山より高く海より 深く「春日様」「下総の国香取神明様」と下総の国の守護神として人々に敬神された。江戸時代には、徳川家康も敬神され 10 石を献上した。この所は 江戸又上総、香取への街道の要所にもあたり参動する大名また人々の集まる宿場町であったため参詣する賑わいをみせた。
明治五年社格郷社となり皇室、国家の守護となり皇族の尊宗をうけ参拝もあり、御手植の松もありましたが、明治の大火事で神社も社宝、古文書、御手植の松すべて焼災してしまったが今もって海難防止、民政安定、家運繁栄、五穀豊穣、諸病消除、 延命息災など神威をこよなくあらたかな神として近隣の人々に敬拝されています。
第一に「日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)」の東征の際の「弟橘媛(オトタチバナヒメ)」入水の話が書かれている。「日本武尊」に関する伝承はこれまで何度かでてきており、千葉ではとてもポピュラーなもの。東京湾沿いに来ると「弟橘媛」入水伝承があちこちで現れる。「身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩(ひめ)がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられた。里人等の手厚い 看護で蘇生することが出来た」となっているが、ここで蘇生したのは「弟橘媛」で、その時「我、蘇り」と言ったのでそこから「蘇我」という地名が生まれたという説もある。つぎに「第十五代応神天皇は、特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせた」とあるが、千葉の国造(くにのみやつこ)は『日本後紀』に記載のある「大私部直(おおきさいべのあたい)」であり、これと「蘇我氏」の関係がよく分からない。『日本歴史地名体系』の「蘇我比咩神社」の項では「千葉国造の大私部直は蘇我氏出身の炊屋姫(のちの推古天皇)が設定した私部(きさいちべ)を千葉に置いて管掌し、生産物を貢進していた責任者であったとされる」と述べられているが、『千葉市史』の「第二項 千葉国造の成立」にも詳しい話は書かれてない。「蘇我部(そがべ)」はあったようだが、蘇我氏がこの地を広く支配していたような形跡は見られない。
祭神は「天照皇大御神」「蘇我比咩の大神」「春日大明神」「経津主神」「武甕槌神」「天児屋根神」「天児屋根比売神」「応神天皇」「千代春稲荷の大神」「御霊の大神」と多数だが、「春日明神」を称したのは近世初頭であり、本来の祭神は「蘇我比咩の大神」であろう。
境内ではご神木の銀杏がすっかり色づいていた。

この地域は古くは「曽我野村」と呼ばれ、江戸時代には「曽我野浦」と呼ばれる湊だった。明治の一時期には「曽我野藩」が置かれたという。地図にその陣屋跡の位置が出ていたので立ち寄ってみようと思ったが、ただの荒れた空き地の雰囲気だったのでパスしてしまった。
「生実(おゆみ)池」から流れる「生実川」を渡って「塩田町」に入る。更に南下すると「浜野川」、向こう側が「浜野」である。この辺りから「県道 66 号線」が「房総往還道」になる。「浜野」に入ってすぐに「諏訪神社」があった。



「諏訪神社」なので祭神は「大国主命」の子の「建御名方命(タケミナカタノミコト)」。神社の由来は説明板に「上総国市原郡養老庄(現 市原市)の領主であった村上周防守義清は、大永元年(1521) に信濃国にある諏訪神社の神様を領内にお迎えしてお祀りするため重臣を遣わしました。重臣は神鏡などの宝物を受け取り、 帰途に浜野村(現浜野町) に宿泊しました。この神社は、村人がこれを縁として、当地にも諏訪の神を祀ったことに起源するといわれています」とある。なお、「市原市」の「諏訪神社」は「五井」の「国分寺台」にある。
「国道 16 号線」にかかる陸橋を渡って、すこし歩くと「村田川公園」に出る。ここに「村田川渡船場跡」の看板があった。「村田川」は「下総国」と「上総国」の境界であり、防御上、橋が架けられなかったらしい。「江戸川」と同様、ここにも渡船場があったのだ。それにしても、現在の「村田川」とは少し距離がある。説明板には「今は川筋もかわり元の川は埋め立てられ公園となり、当時の姿を偲ぶよすがもありません」とあり納得。なお、「千葉市」と「市原市」の境界は河口付近では「村田川」の中央線だが、この辺りでは現在の川より北にあり、「村田川公園」の南端となっている。また、さらに上流側では南北に入り乱れている。これは昔の川筋がかなり蛇行していたせいであろう。



9:25 に「村田川」を渡る。ここからは「県道 24 号線」が「房総往還道」となる。歩くこと約 20 分、「飯香岡八幡宮(いいがおかはちまんぐう)」に出る。JR の「八幡宿」という駅名はこの「八幡宮」が近くにあること、この地が「房総往還道」の宿場町であったことに由来する。
「飯香岡八幡宮」の道を隔てた手前(北側)に「白山神社」があった。杜の中のひっそりとした神社だ。調べたが残念ながらほとんど情報がない。

「飯香岡八幡宮」だが、この名前は「飯」+「香」+「岡」から構成されている。つまり「ご飯の香りの岡」ということになる。『日本歴史地名体系』では、神社について「創建年代は明らかでないが、産土神の六所御影(ろくしよみかげ)神社(現奥宮)を前身とするとされ、社人が「日本武尊」に夕飯を出したところ飯のよい香りがしたという所伝がある」と書いている。まさにズバリである。
社殿によれば、天武天皇白鳳 3 年に勅使桜町季満卿、奉幣使菅原時春卿が下向し、清浄の地を求め、神殿をこの地に創建して正殿に「応神天皇」、左殿に「神功皇后」、右殿に「玉依姫」を斎祀して、一国総社八幡宮と称したという。「総社」とは。『日本大百科全書』によれば、「一定の地域内に鎮座している神社の祭神を勧請(かんじょう)して、特定の一神社に合祀(ごうし)し、その地域の集約的な祭祀を行うものとされる神社。一郡、一郷の総社もあるが、一般的には一国の総社をいう」とある。「飯香岡八幡宮」は「上総国の総社」と称している。


ここで疑問が生じた。ここは海の近くだ。「日本武尊」の 4 世紀頃の古代にはここは海の中だったのではないか? 縄文時代にはこの後で行く「館山自動車道」の向こうの「市原台地」の端まで海が広がっていたはずだ。「縄文海進」も収まり、弥生時代・古墳時代・飛鳥時代と海水が引いていったとしても、JR の線路から海よりのこの場所は、社ができたという飛鳥時代に果たして陸地だったのだろうか?さらに疑問が広がる。歩いてきた「房総往還道」は江戸時代に確立した道だ。さきほど訪れた「蘇我比咩神社」は「式内社」に比定されている。「延喜式」が出来たのは平安時代だが、その頃、この道はあったのだろうか?
この疑問は後日、氷解する。最初に入手した資料は 図 1 の c) の中世の状況だ。櫻井敦史さんの「市原八幡宮と中世八幡の都市形成 (1)」という研究ノートに次の様に書かれている。
市原市は養老川の流域をほぼ占め、東京湾から山間部に向けて長く伸びています。上流域は急峻な谷が続きますが、下流域に向かうと平地面積が増し、広大な海岸平野に合流します。海岸線には砂堆列(右図クリーム色の部分)が育ち、平野部を肥沃な後背湿地にしています。この海岸砂堆列上には、いわゆる房総往還が通り(右図赤ライン)、近世には八幡・五井・姉崎の継立場が発展しました。(中略)市原の海岸地帯は昭和 30 年代以降、京葉工業地帯の一角として急速に埋め立てられましたが、それ以前の地形、特に八幡の砂堆列は、古代にはすでに安定していました。この地域は陸上・水上交通の結節点ですので、どこかに政治的な拠点が置かれた可能性は高いものと考えられます。八幡・五所の砂堆以外は低地になっておりますので、それなりの規模の居住域を確保する場合、どうしても選地は限定されてきます。現在鎮座する飯香岡八幡宮が、その前身社と思われる『市原八幡宮』時代から、この一帯に鎮座していた可能性を示す一つの根拠になるものと思います。
研究ノート 櫻井敦史「市原八幡宮と中世八幡の都市形成 (1)」

波や沿岸流の働きで運ばれた砂が堆積したところが「砂堆(さたい)」であり、これが連なったのが「砂堆列」である。これが鳥の嘴のように伸びると「砂嘴(さし)」、湾を塞ぐほど発達すると「砂州(さす)」と呼ぶ。また、「海岸平野」とは遠浅の海底の堆積面が、隆起または海退によって上昇し、海岸線に平行して形成された平野である。中世にはこれらの平野は湿地帯であり、「砂堆列」の上を「房総往還道」の元となる道が走っていた。また、「飯香岡八幡宮」も安定した「砂堆列」の上にあったのだ。これらの「砂堆列」はすでに縄文後期(a)に現れているが、「八幡」「五井」の「砂堆列」の内側には「潟湖」が広がっていた。古墳時代(b)になると「潟湖」は消えるが、古墳の造営は台地か安定した「砂堆列」上が中心となっている。つまり、船で「砂堆列」に上陸した「日本武尊」が、この辺りで漁をしている漁民から食事の提供を受けたり、ここに「社」を設けることは可能だったのだ。
さて、「八幡宮(はちまんぐう)」は「八幡神(やわたのかみ)」を祀る神社である。『日本大百科全書』によれば「八幡神は奈良時代には第 15 代応神 (おうじん) 天皇(誉田 (ほんだ) 皇子)に比定され、その本宮は大分県宇佐 (うさ) 市鎮座の宇佐神宮である。この神宮に祀る八幡神が中央に進出するのは、東大寺大仏鋳造に神助を与えて入京したこと、法師道鏡 (どうきょう) の専横を託宣によって排除したことなどで、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立された。やがて八幡神に菩薩 (ぼさつ) 号が授けられ、これまでの神仏習合形態はいっそう進められた。859年(貞観 1)その分霊は山城 (やましろ) 国(京都府)男山 (おとこやま) に勧請 (かんじょう) されて石清水八幡宮 (いわしみずはちまんぐう) が創祀 (そうし) されると、八幡神は王城鎮護、勇武の神として朝野の尊崇を集め、八幡信仰は急速に広まり、やがて伊勢 (いせ) の神宮と石清水八幡宮は『二所宗廟 (にしょのそうびょう)』と称せられた。その後、武家政権の成立、鶴岡 (つるがおか) 八幡宮の創祀とともに、武人の守護神としての八幡信仰が普及し、全国各地に八幡神が勧請され、八幡宮が創設された」とある。この解説どおり、「飯香岡八幡宮」の主祭神は「応神天皇」であり、「鎮護国家神」としてあがめられたのであろう。また、本八幡宮は国司をはじめ源氏・千葉氏・足利氏・徳川氏などから崇敬され、「源義家」寄進の鉄製矢筒底や「源頼朝」寄進の甲冑など社宝も多いとのことである。
境内にある「さかさ銀杏」が黄色く色づいていた。「治承四年(1180)、源頼朝は石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた。 当時、飯香岡八幡宮は源氏と縁の深い石清水八幡宮別宮であった。頼朝は源氏再興を祈願して、本宮に 銀杏をさかさにして植えたと伝えられる。 その結果、銀杏は根付き源氏も無事に再興された」と説明板に解説があった。

「飯香岡八幡宮」を後にして、かつての海岸平野を突き抜けて歩くこと約 30 分、「市原台地」の「菊間」まで移動した。ここには 古代「村田川」流域に君臨していた「菊麻国造(くくまくにのみやつこ)」が支配していたとされる地域である。
古代から「大化の改新」ごろまで「市原市」には 2 つの国があったと考えられている。ひとつはこの「菊麻国」で北は千葉市中央区蘇我町の近辺まで、東は「村田川」上流の千葉市緑区土気町一帯まで、西は市原台地の「稲荷台古墳」のそばまでにおよんでいたと思われる。もうひとつは「養老川」の両岸を「上海上国造(かみつうなかみくにのみやつこ)」が支配していた。図 2 にその大雑把な領域を古墳の位置とともに示している。

「村田川」沿いの「市原台地」の北端には、「菊間手永台(てながだい)1 号墳」「菊間天神山古墳」など「菊麻国」の古墳が並んでいるが、今回はそこまで足をのばさず、その手前にある「阿波能須(あわのす)神社」を訪れた。小さな丘の上に小さな社がある。そばの説明板によれば、祭神は「天比理刀咩命(アメノヒトリメノミコト)」で「天太玉命(アメノフトダマノミコト)」の妻である。「二人の子孫天富命(アマノトミノミコト)は神武天皇の命を受けて天日鷲命(アマノヒワシノミコト)の子孫を率いて、麻や穀物の栽培に適した地を求めて四国阿波に赴いた。 その一部は阿波から房州に渡来、菊間に至り住むと麻と穀物の栽培で成功する。この成功も先祖の導きのおかげと「天比理刀咩命」を祭神として祀るようになり「阿波」の地名をとり「阿波能須神社」として造営された」となっている。「天太玉命」といえば「安房神社」の祭神であり、「阿波忌部氏」が奉じる神である。それが「菊麻国造」のお膝元に建っているとは意外である!


考えるに古代氏族の支配はそんなに強いものでは無かったのではないか。この地にはいろいろな氏族が渡来し、船が着いた場所に小さな集落を形成した。もともとの土着の民もいる。氏族は次第に拡大し、勢力範囲をのばしていくが、支配するにしても比較的ゆるい統治だったのではないか。前に利根川沿いを歩いたとき、いろいろな氏族の神社がパッチワークのように現れるのを経験している。ここも同じようなものなのだろう。
「菊間」から南下して「若宮団地」に入る。ここに「菊間八幡神社」があったのだが、道路より少し東に入るためパスしてしまった。この神社、「源頼朝」が鎌倉の「若宮殿」より「大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)」の御分霊を奉遷したといわれ、この「若宮」が地名に残っていたのだった。
道路の右手に公園があった。中央がこんもりと盛り上がっている。古墳のようだ。「高呂塚公園」。説明板には「コーロ塚と巨人伝説。昔デーデッポという男が、西の方から海をこえてやってきた。その足あと は、各所で窪地になっているとのこと。 デーデッポの大きな足に付いていた泥をはらい落としたときにできた山が高呂塚だということである。デーデッポは丘に腰をかけ、大きな長い手を海に伸ばしてアサリやハマグリをすくっては食べ、食べた貝殻を捨てた跡が、 貝塚として散在するといわれている。なお、コウロの語源は『清ら』が、キョウラ → コウラ → コウロになったと考えられている」とある。古墳のように見えるが、古墳だという説明はない。帰ってから調べたが、ここでも古墳という説明は見当たらながった。これはいったい何なのだろう? ほんとにデーデッポの足についた泥か?

「若宮」を抜け、「辰巳台」への分岐を過ぎて「国道 297 号線(大多喜街道)」へと入った。途中、「まこと屋」さんでおいしいトンカツを食べてエネルギーは十分。時刻は 12:00、「山田橋」から「五井」の町に入る。実はこの「山田橋」も長らく謎だった。この付近、川がないのである。だから「橋」もない。なのになぜ「山田橋」なのか? 調べると「市原ふるれんネット」の「市原市内の地名の由来」に答えがあった。「地名の由来は、やまだ(山処)・はし(端)で山田郷の端という意味」だそうだ。ややこしい命名だ。それにしてもなぜ「橋」の字を用いたのか?
「国分寺通り」に入る。「下総国」の国府は「市川市国府台」にあった。「上総国」の国府は「五井」にあったが、「五井」のどこにあったのかが未だに分かっていない。「国府」と「国分(僧)寺」「国分尼寺」「総社」はセットで建てられるのが通例である。「国分寺」「国分尼寺」はここ「国分寺台」で発掘されている。だから、この辺りにあるのは間違いない。「総社」についても、「飯香岡八幡宮」が「上総国総社」を称しているが、ここからはちょっと遠すぎる。近くに「惣社」という地名があり、そこにある「戸隠神社」がそれではないかとも言われるが、はっきりしないのが現状である。ということで、今回はハッキリしている「上総国分尼寺(かずさこくぶにじ)」「上総国分寺(かずさこくぶんじ)」を訪ねよう。
まず訪れたのが「上総国分尼寺」だ。ここに遺跡があることは 1920 年代から注目されていたが、本格的な調査は第二次大戦後に行われたという。なかでも、1973 年以降の調査で、寺院内の各種施設の配置や寺域が想定規模を大きく上回る最大 12 万平方mに達することが確認でき、さらに国分尼寺跡を直接示す墨書土器(「法花寺」)が発見された。1983 年には伽藍中心部と政所院が国の史跡に指定、1986年には東門跡が追加指定されたという。「展示館」のところから中に入ると、朱塗りの回廊が目を引く。ここがリーフレットの中央下にある「金堂」と「回廊」にあたる。


「金堂」の位置に立って、「仏地(ぶつじ)」と呼ばれる回廊の中庭、青銅の表面に漆を塗って金箔をはって仕上げた「灯篭」、さらにその先の「中門」を眺める。

「金堂」前には立派な椎の木が生えている。「この木なんの木、気になる木」に出て来そうな光景だ。

こちらは「鐘楼」跡。その向こうにやはり椎の木が生えている。

綺麗に整備されていて気持ちのいい施設だったが、訪れる人は少ないようだ。
ここから「市原市役所」の横を通り、「市役所通り」を渡り、「市民会館」の横を抜けて「惣社」へ。ここに「上総国分寺跡」がある。「国分寺」は、天平 13 年(741)に聖武天皇の詔によって全国に建立された国立の寺院で、昭和 41 年(1966)以降の数次にわたる発掘調査により、この場所から金堂、講堂の基壇や中門跡、南大門跡と推定される遺構、国分寺の屋根を葺いた瓦を焼いた窯跡などが発見された。

こちらは「七重の塔」の礎石で、ここから推定される高さは 63 m。「千葉ポートタワー」が 125.15 m だからその半分である。寺はその後、荒廃していたが、元禄年間に「医王山清浄院国分寺」が建てられた。「薬師堂」は正徳 6 年(1716 年)の建立。「仁王門」は江戸時代中頃の建立である。


出入り口付近に「将門塔」があった。「将門」の墓と伝承されてきたが、特に関係はないようだ。

ここから約 3 km 歩いて 13:47 に「JR 五井駅」の東口に到着。今回の歩行距離は 20.1 km、食事などを含めた歩行時間は 5 時間 55 分だった。次回はいよいよラストである!


