
御油宿
「御油(ごゆ)」という名前は珍しい。この「油」は椿油で、飛鳥時代、このあたりに椿の木が生い茂った椿屋敷があったらしい。その住人が油を「持統天皇」に献上したことからこの名前がついたという。宿場の概要はつぎのとおり。
- 所在地:三河国宝飯 (ほい) 郡(愛知県豊川市御油町)
- 江戸・日本橋からの距離:76 里 9 町 45 間
- 宿の規模:家数 316 軒、本陣 4、脇本陣なし、旅籠屋 62
- 宿の特徴:見附や浜松より分かれて浜名湖の北岸を通る姫街道(本坂道)は、気賀 、三ヶ日、嵩山を経て御油に出る。気賀には関所があった。さらに秋葉山、三州一の宮砥鹿神社、豊川稲荷、鳳来寺へも行く道があり賑わった。つぎの赤坂までの距離はわずか16 町。
本陣が 4、旅籠屋 62 はなかなか立派な宿場町だ。前述のように「東海道」と「姫街道」(本坂道ともいう)との分岐点にあたる。「今切の渡し」を嫌って「見附」から「姫街道」に入った旅人はここで本街道と合流する。さらに「秋葉山」、三州一の宮「砥鹿神社」、「豊川稲荷」などへの道もあり、旅人で賑わった。それに加えて「飯盛女」を置く「飯盛旅籠」が多くの客を引いたのだ。
御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い
前回紹介した三宿場の「飯盛旅籠」の盛況ぶりを詠んだ唄だが、こんなのもある。
御油や赤坂吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ
「吉田」との距離二里半四町に対し、つぎの「赤坂」との間はただの十六町と東海道でもっとも宿場間距離が短い。そんな短い距離のところに娼婦を抱える宿が乱立しているのだ。客の争奪合戦が起こるのは自明であろう。
冒頭の「広重」の絵の副題は「旅人留女」である。通過しようとする旅人を強引に留めて、宿に引っ張り込もうとしているのである。この様子を詠んだつぎのような唄が残っている。
折り折りは 馬も御油にて 抱きつかれ
名物のうちだと御油ですゝめこみ
これほどの賑わいをみせた宿場が明治末にはすっかり寂れてしまう。「東海道線」が海岸の方を通ることになったからである。
さあ「御油橋」を渡って宿場町に入ろう。写真は「音羽川」である。晴れて暑い一日だった。

橋を渡るとすぐ左手に「若宮八幡社」の小さな社がある。

時折、千本格子の家も見かけるが、あまり宿場町の風情は感じられない。道は先で右に折れる。大名行列の鉢合わせを防ぐために設けられた「曲尺手(かねんて)」だ。この角のところに「花・ベルツゆかりの地」の説明版が立っていた。


この「ベルツ」とは「森鴎外」の師で日本近代医学の父と呼ばれるドイツ人「エルウィン・フォン・ベルツ」である。彼はまた「草津温泉」を「世界第一級の温泉保養地」と世界に紹介したことでも有名で、草津の恩人と称えられている。彼は日本政府から招聘されて明治 9 年(1876)年に来日し、東京医学校に着任。ドイツに戻るのが明治 38 年だから、なんと 29 年間も日本に滞在している。その奥さんが「花(花子)」なのだ。来日から5 年後の明治 14 年(1881)に「戸田熊吉」の娘「はつ(のちに花、花子となる)」と結婚(正式な入籍は明治 37 年)。父「熊吉」は「御油」の旅籠屋「戸田屋」の子孫だが、一家没落して東京に移り、荒井家の養子となって小売業を営んでいた。「花」は 1864 年、神田明神下の生まれ。明治維新の時、父とともに御油に戻るが、七歳の時、父が亡くなり東京の母「そで」を頼って単身歩いて東京へ。母がベルツの世話をしていたことから、彼と知り合う。ベルツが長期間日本に滞在したのは、「花」の存在が大きい。ドイツに戻る際には「花」も同行している。1913 年ベルツが死去し、「花」はドイツ国籍が得られず日本に戻る。
この説明板のある場所は「熊吉」の生家「戸田家」があったところだ。説明板が「花・ベルツ」としているのは、1993 年に刊行された眞寿美・シュミット・村木さんの本「花・ベルツへの旅」の影響かもしれない。
「曲尺手」の北西の駐車場の前には「高札場跡」の説明版がある。「御油宿」の町並みは図 2 の通りだ。曲尺手までが「茶屋町」、「横町」に入って街道の右側の最初が「戸田屋」で先ほどの「花・ベルツ」の説明版があったところ。


「御油宿」のメインストリートは「横町」から左に折れた「県道 374 号線」の「中町」だろう。通りの両側に大中小の旅籠屋がずらっと並び、左側には三軒の本陣があった。ところが、それは往時の話。多少、宿場町の風情を残すがすっかり変わってしまっている。本陣は説明版があるだけである。

御油宿~赤坂宿

「御油宿」を抜けてすぐに有名な「松並木」の前に来る。時刻は 11:04 である。「御油橋」を渡ったのが 10:51 なので、わずか 13 分だ。立派な松の隣には「天然記念物 御油の松並木」の石柱が立っている。この松並木は慶長 9 年(1604)に整備されたもの。ここに限らず街道沿いには松並木があったのだが、残っているものはわずか。ここはなんと 600 m も松並木が続いている。



松並木に圧倒されながら街道を歩く。右側が公園になっていたので、ちょっと休憩。トイレもあった。松並木が終わり「天王川」を渡る。次の交差点の角に説明版が立っている。なんと「見附跡」! 時刻は 11:29、あっという間に「赤坂宿」に着いてしまった。

