旧東海道歩き旅(39)藤川宿~岡崎宿(2024.10.17・18)

図1 安藤広重「東海道五十三次 藤川 棒鼻ノ図」

藤川宿

写真1 藤川宿地図(案内板から)

 前回は「藤川宿」の「東棒鼻」に到着したところで終わった。写真1 の地図の右端の部分である。「棒鼻」とは宿場の入口のことで、棒杭が立っていたことからこう呼ばれている。広重の絵の主題はこの「棒鼻ノ図」で、棒柱の左に掲示板が二つ立っており、入口に木が植えられている。その前で人々がひれ伏して幕府の使者たちを迎えるところ。これは幕府から京都の御所へ馬を献上する一行を描いたものらしい。現在の「東棒鼻」は写真 2 。「従是西 藤川宿」の標柱、その右側に掲示板が二つ、道に向かって突き出した低い塀とその向こうの木、明らかに広重の絵をイメージして作ってあるようだ。

写真2 東棒鼻跡

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:三河国額田 (ぬかた) 郡(愛知県岡崎市藤川町)
  • 江戸・日本橋からの距離:78 里 34 町 45 間
  • 宿の規模:家数 302 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 36
  • 宿の特徴:三河高原を横断する御油断層が平地に至る出入口にあたり、山綱川に沿う渓谷に作られた小さな宿場町

 道がクランク状に折れ曲がる「曲手(かねんて、曲尺手)」を過ぎて宿場町の中に入っていく。すぐ「市場町」で旧街道につきものの格子戸の家が並んでいる。

写真3 曲手
写真4 曲手を過ぎてすぐの藤川宿の通り
写真5 市場町格子造りの家

 通りの右側に「津島神社の鳥居」。神社はどこかと覗くと、「国道 1 号線」の向こう側とだいぶ離れている。

写真6 津島神社の鳥居

 左側に「あおう人形店」、独特の建物が印象的だ。その先、左に浄土宗西山深草派のお寺「稱名寺(しょうみょうじ)」がある。

写真7 あおう人形店
写真8 稱名寺

「藤川宿」は小さな宿場町だが、昔の雰囲気が良く残っている。写真 9 の左の建物は「米屋(野村家住宅)」。天保年間(約 160 年前)の建築であり、江戸時代には穀物商として栄えたという。昭和期に薬局を営み、これに伴う改修が行われていたらしいが、2014 ~ 2015 年に江戸時代の雰囲気を再現すべく大規模な改修がなされたとのこと。

写真9 藤川宿の通り(左は「米屋(野村家住宅)」

 その先の右側に「本陣跡」があるが現在、建物は残っていない。

写真10 藤川宿本陣跡

「脇本陣跡」は「藤川宿資料館」になっていた。正面の門は江戸時代のものらしい。門から入ると小さな資料館の建物があった。戸を開けて声をかけたが、どなたも出てこられない。常駐の人はいないようだ。「藤川宿」の街並みが再現された「藤川宿街道模型」やパネルが展示されていた。

写真11 藤川宿資料館(脇本陣跡)
写真12 藤川宿資料館の建物

 この先、「藤川小学校」の手前を右折すると「藤川駅」の前に出る。ここから名電に乗って「東岡崎駅」に移動し宿泊。翌 10 月 18 日の 7:44 に旧街道に戻り歩き旅を再開したが、すでに宿場の大半を歩いてしまっていたようだ。小学校の前にあったのが「西棒鼻跡」で「藤川宿」はここまでだ。

写真13 西棒鼻跡

藤川宿~岡崎宿

図3 藤川宿~岡崎宿行程

 この日は前日と打って変わって天気がいまひとつ。いつ雨が降り出してもおかしくない空模様だった。登校する小学生の横をすり抜けて「岡崎宿」に向けて歩き始めた。道が分岐するところに石柱が立っている。「吉良道道標」で左が「吉良」(現・幡豆郡吉良町)方面に抜ける「吉良道」だ。この「吉良」は忠臣蔵で有名な「吉良上野介義央」の所領。この道は「三河」では「東海道」についで整備されたのだそうだ。右の「旧東海道」はこの先で「名電」の線路を越える。

写真14 吉良道分岐道標

 この辺りの地名が「境松」。名前のとおり松並木が続くが、「御油」ほどの長さはなく、すぐ「国道 1 号線」に合流してしまう。

写真15 藤川の松並木

 しばらく国道を歩いた後、「美合新町北」の交差点の少し手前で左のわき道へ入る。「乙川」の支流の「竜泉寺川」を越え、その先の「乙川」を渡るのだが、橋がないため「北棚田」で右へ移動、橋のある国道へ戻った。

写真16 乙川

 川を渡るとすぐ旧街道の位置に戻る。昔はここに土橋が作られていたようだ。旧街道を歩いているとこのパターンが多い。旧街道は道幅が狭く多くの交通量をこなせないので、新しい広い道が作られる。新しい橋が架けられる。ということで、街道を歩く旅人は遠回りすることになる。

旧街道は今度は国道を横切り「大平町」へと入っていく。すぐ右側、消防団の車庫の隣に常夜灯。

写真17 常夜灯

 その先、郵便局の角に標識を見つけた。「ようこそ東海道 西大平藩陣屋跡」と書かれている。矢印が右を指している。「西大平藩」は初耳だ。ちょっと立ち寄ってみようと右折。ゆるやかな坂を上っていくと右側に立派な建物がある。「岡崎観光きらり百選 大岡越前守陣屋跡」と書かれた標柱も立っていた。

写真18 西大平藩陣屋跡

 中に入ると庭園の向こうに説明板が立っていた。つぎのように書かれている。

西大平藩陣屋
西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72 歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏 10 月 1 日に三河国宝飯・渥美・額田 3 郡内で 4,080 石の領地を加増され、 1 万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、 東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか 3 年間で、 宝暦元年(1751)には亡くなっています。2 代目は忠宜が継ぎ、廃藩置県まで 7 代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。大岡家は、江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも部代 1 人・都奉行 1 人、代官 2 人・手代 3 人・郷足軽 4、5 人程度でした。

 つまり、あのドラマで有名な「大岡越前」が晩年に大名となり、領地を治めるために置いた陣屋がここなのだ。「大岡忠相」は「徳川吉宗」の側近で町奉行として江戸の都市政策に携わった。町奉行から大名になったのは江戸期を通じて忠相ただ一人だそうだ。

写真19 西大平藩の領地を表した庭園

 写真の庭園だが、これは「西大平藩」の領地の模型だった。砂利の部分が川で、ポイントとなる場所には小さな札が立ててある。

 街道に戻って進むと右側に大きな駐車場がある。ここは真宗大谷派の「専光寺」。その先の四つ角左側に「大平の一里塚」、その前には常夜灯もある。そして道は再び「国道 1 号線」に合流する。

写真20 専光寺
写真21 大平の一里塚

 岡崎インターを過ぎ、街道は国道に沿って右側を進むが、「竹橋入口」の手前で右に離れ、いよいよ「岡崎」の中心部へと入っていく。

 右に「秋葉山常夜灯」、更に進んで「若宮町 3 丁目」で左に「冠木門」が現れるのだが、この写真を撮っていない。「倉橋歯科医院」の角を右に曲がると、ここからが「岡崎宿」。「岡崎城下二七曲がり」の入口なのだ。時刻は 9:26 だった。

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