
池鯉鮒(ちりゅう)宿
毎年四月二十五日より始まって、五月五日に終わる。駅の東の野に駒を繋ぐこと、四五百にも逮(およべ)り。馬口労(ばくろう)、牧養(うまかい)集りて、馬の価を極むるを談合松という。この野の東北に、駒場村というあり。駒を宿すところなり。また野中に桜の馬場というあり。近き年まで桜多し。毎歳この市の間は、駅中大いに賑わいて、諸品の市店を錺(かざ)りて、近国より控馬卒(うまかた)〔旅行者やその荷物を馬で運ぶ労働者〕、馬長(ばしゃく)〔馬を使った運送業者〕聚(あつま)ること多し。
新訂 東海道名所図会〔中〕ぺりかん社
『東海道名所図会』の「池鯉鮒馬市」のくだりである。「池鯉鮒宿」の東の野で四月終わりから五月始めに「馬市」が開催されていたという。広重の絵はまさにその様子を描いたものだ。野原にたくさんの馬が繋がれている。その向こうに 1 本の松、その周囲に人が集まっている。奥には小屋もある。これが「談合松」だろう。江戸時代の「馬市」の場所を示す古地図がある。『東海道分間絵図巻之四』(江戸中期)である。これによると松並木の北の野原に馬がたくさん集まっている。ここが馬市の場所だろう。地図の右側に松並木と川らしきもの。この川が「猿渡川」で松並木の中央に「来迎寺一里塚」が描かれている。となると、その左側の集落が現在の「牛田町」。ここで街道が緩く南に曲がり、今度は「知立の松並木」。それが終わったところから「池鯉鮒宿」が始まる。松並木の西端の北に描かれているのは「慈眼寺」か? 現在の地図(図 3)では 松並木は「国道 1 号線」の手前までだが、かつては「慈眼寺」の手前まで続いていたのではないだろうか? すると馬市の場所は点線で囲んだあたりか。「旧街道」が「名鉄線」と交差するあたりの地名が「引馬野」とそれらしい。また「慈眼寺」の西に「桜馬場」という地名も残っている。ここが『東海道名所図会』が言う「野中の桜馬場」だろうか? 現在、この「桜馬場」の北に「御手洗公園」があるが、かつてはこのあたりに「御手洗池」という池があったらしい。この「御手洗池」に鯉や鮒が多くいたことから「池鯉鮒(ちりゅう)」という当て字となったという話である。
.png)

宿場の西の端で街道がクランク状に折れ曲がったのち北西に向かうのだが、図 3 を描いていて、間違ったコース(赤線)を歩いていたことに気づいた。正しいのは青線で、私はかなり手前で北に曲がってしまい、宿場町の北側を歩いていたのだ。道理で何も見つけられなかったはずだ。宿場の概要はつぎのとおりである。
- 所在地:三河国碧海 (へきかい) 郡(愛知県知立市本町など)
- 江戸・日本橋からの距離:84 里 17 町 7 間
- 宿の規模:家数 292 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 35
- 宿の特徴:知立神社は三河国二宮。4月に馬市が立った
では、松並木に戻って、現在の姿を写真で示していこう。この松並木、長さは 500 m、170 本の松が残されている。


「池鯉鮒宿」の標柱が立っていた。松並木の終わり近く、左手に碑が並んでいる。右は「馬市の碑」、左の石碑には「かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて」という星野麦人の句と「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」という万葉の歌が刻まれている。この辺り、万葉の時代には「引馬野」と呼ばれていたとの説明がある。

この先の「国道 1 号線」を越えるには地下道を通る。そこの壁にも「東海道」と書かれていた。

国道を潜り抜けて、振り返ると鬱蒼とした松並木が見える。時刻は 15:26、ここから「池鯉鮒宿」に入っていくが、しばらくは何もない。

「中町」の交差点あたりから古い家が眼に付くようになった。写真は「ゑびすや」という呉服屋さんだ。街道は写真の右端の正面の道。ところが、ここで右折してしまったため、肝心の宿場の中心を通らなかった。問屋場跡、脇本陣跡(現在は公園)、本陣跡も残念ながら見ていない。

「知立駅」の北側の地域は再開発が進んでいるようだ。時刻は 15:50、この日はここまでとしホテルに入った。「藤川宿」からの歩行距離は 27.9 キロ、食事・休憩・見学を含む所要時間は 8 時間だった。


翌 10 月 19 日、朝 6:10 に「歩き旅」を再開。出発時刻が早いのは今日が今回の旅の最終日で、「宮」まで歩いた後、名古屋駅から新幹線で帰るためである。それに加えて午後から雨が降るという予報、それまでに「歩き旅」を終了させておきたかった。
正しい「旧東海道」の道に戻って、浄土宗の「了運寺」。その後、「国道 155 号線」を潜るのだが、その手前に「総持寺跡の大イチョウ」と書かれた標識を発見した。なかなか見事なイチョウが 1 本。かつては、これから向かう「知立(ちりゅう)神社」の神宮寺だった「総持寺」がここにあったらしい。「神宮寺」とは神社のそばに建てられたお寺で、神社の管理機能を持つものも多かったが、明治の神仏分離で大部分が廃寺になってしまった。なお「総持寺」は大正 15 年に「知立神社」のそばに再建されている。


「知立神社」に向かうべく街道から東に外れた。


左側に「知立公園」。そこを過ぎるとすぐ「知立神社」の入り口。正面には「多宝塔」が見える。時刻は 6:25、オジイサン、オバアサンがたくさん集まっている。どうやら境内が体操会場になっているようだ。

「知立神社」の江戸時代の絵が『東海道名所図会』に出ている(図 4)。現在もこの配置から変わっていない。絵の左下が「旧東海道」、そこから東に向かう道が描かれ、その正面が多宝塔、左に社殿がある。



お詣りを済ませて「旧街道」に戻り、北に進むとすぐ右側に再建された「総持寺」があった。

さらに進んで「逢妻(あいづま)川」の前に出た。時刻は 6:34、ここで「池鯉鮒宿」が終了して、つぎの「鳴海宿」に向けて歩き出す。

池鯉鮒宿~鳴海宿

この「鳴海宿」までの道がまた遠い。二里三十町、11キロ、約 2 時間 45 分の行程だ。途中に「桶狭間」、間宿の「有松」がある。
「逢妻川」、なんかロマンティックな名前だ。その由来はと調べると、この橋の東側で二つの川が合流する。北が「女川」、南が「男川」。合流するさまが「着物の褄(裾)が合うようである」と風流な先人が命名したとある。もともとは「妻」ではなく「褄」だったのか、とちょっと残念な由来であった。

川を越えて、旧街道は「国道 1 号線」に合流し、「刈谷市」に入る。「今岡町新町」で左に入ると左側に曹洞宗の「洞隣寺」。「富士松駅」を過ぎ、国道を横断して向かい側へ移る。

敷島製パンの工場横を過ぎて「境川」の前に出た。ここを越えると「尾張国」だ。「豊明市」に入る。

「豊明駅前」でいったん国道に合流するが、「阿野(あの)町」で再び国道から離れる。「県道 57 号」の高架をくぐった先に「阿野一里塚」があった。

桶狭間古戦場
「中京競馬場駅」の手前で再び国道に合流。線路をくぐった先に「伝桶狭間古戦場」の表示があった。あの「織田信長」が「今川義元」を急襲して打ち破った戦場だ。この「桶狭間古戦場」の場所だが諸説あるようだ。実はこの先の「名古屋市緑区」にも「古戦場」がある。そちらには「桶狭間古戦場公園」があり、その南の地名が「桶狭間」。ただし、街道から 1.2 キロほど離れているので、結構時間がかかりそうだ。とりあえず、ここに立ち寄ってみようと左に入る。
時刻は 8:40。曲がってすぐに公園があった。「史跡 桶狭間古戦場」の石柱が立っている。その先の説明板には「この地は、永禄三年(1560)五月十九日今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。今川義元・松井宗信無名の人々の塚があり、明和八年(1771)七石表が建てられた。文化六年(1809)には桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられたおばけ地蔵徳本行者念仏碑などがある」と書かれている。

ここでちょっと「桶狭間の戦い」について勉強しておこう。豊明市のホームページはつぎのように解説している。「戦国大名は戦乱の中にあって互いに全国統一を目指し、しのぎを削っていた。相模の北条、越後の上杉、甲斐の武田、駿河・遠江・三河の今川、尾張の織田等々が勢力を得て、常に領土の拡大、天下支配の野望に燃えていた。今川義元は、約 2 万 5000 人の軍勢を率いて永禄 3 年(1560 年)5 月 12 日に駿府(静岡)を出発した。17 日に岡崎へ、18 日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。織田信長は、5 月 19 日未明清洲城出陣に際し、幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出るときは、主従わずかに 6 騎、途中輪乗りをかけて人数を待ち、熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、1000 人余りとなり、合戦のときには軍勢 3000 人ほどになった。今川軍は、難なく丸根・鷲津を攻め落とし、本陣は桶狭間の松林に休憩して、戦況を聞きつつ昼食をとっていた。その折、天候が急変して夕立となり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は一挙に本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取った。この戦いの死者は、今川軍 2500 人、織田軍 830 人 ほどで、要した時間は 2 時間という一瞬の出来事であった」。
この「今川義元」が陣を張っていた場所がここだというのだ。説明板にある「七石表」というのは、古戦場伝説地の中で一番古い史跡で明和 8 年 12 月に尾張藩士人見弥右衛門桼・赤林孫七郎信之によって建てられた七基の石碑である。一号碑は今川義元の戦死した場所、二号碑は松井宗信戦死の場所を染めしている。三号碑以下は義元の武将五人の戦死の場所であり、氏名不詳とのことだ。
第一号碑は道路横にあった。その側に「今川義元」の墓がある。


そこから回って行くと、「桶狭間の戦い 桶狭間古戦場石碑配置図」なる案内板があった。右側の地図に「七石表」をはじめとする石碑の場所が示されている。

見ていると後から声を掛けられた。振り返るとボランティアガイドのオジイサンが立っていた。毎週土日祝日の 9:30 からここで説明されているとのこと。まだ時間前だが、とても詳しく説明して下さり、資料も写真に撮らせていただいた。ガイドの詳細は「とよあけ桶狭間ガイドボランティア」のホームページに詳しい。かなり突っ込んだ研究がなされているようで、それをまとめた冊子も有料販売されているようだ。
この案内板の前には文化六年(1809)に建てられた「桶狭間弔古碑」と大正四年(1915)大正天皇即位御大礼式典を記念して、有松町が立てた標柱である「大正天皇御大礼記念碑」が並んでいる。写真 25 は大正六年当時のこの場所の写真だ。今は建物がたっている碑の後は当時は何もなく林だったことがわかる。
と大正天皇御大礼記念碑(右)-1024x769.jpg)

時刻は 9:10。だいぶ時間をかけてここで「桶狭間」について勉強したので、緑区はパスして先に進もう。「有松」の交差点で「国道 1 号線」から外れて北上し「有松郵便局」のところで左折する。9:26 に「間宿」である「有松」の町に入った。
有松
辺りの雰囲気が一変した! 美しい町並みが続いている。これが「有松」の入口なのだ。絞りの町「有松」は昔の雰囲気を残そうとかなり努力していることが分かる。



『東海道名所図会』には「尾州有松村の名物は、細き木綿をいろいろに絞りて紅と藍とに染め分け諸国へ商う。これをありまつしぼりという。店前に多くかざりて、これのみを賈(あきな)う家、所々にあり」とある。
この「有松絞」については『日本地名体系』に、「絞業の創始者は、英比庄から移住した竹田庄九郎であると伝えられている(尾張名所図会)。慶長一五年名古屋築城の時、豊後国から伝えられた技法に加えて、寛永年中、豊後の人三浦玄忠は有松に移住し、妻の指導によって三浦絞(豊後絞)を創案したと伝え、さらに二代目庄九郎は改良を加えて一躍有松絞の名をなしたという。寛文年間には藍だけの染料に加えて紅・紫絞染が工夫され、旅人の目をひいたという。延宝八年(一六八〇)徳川綱吉が将軍になった時、尾張藩主は、有松絞の絹布の手綱を「九九利染」と名付けて将軍に献上し、以来将軍の替わるごとに絹布の手綱を献上することを例とした。有松絞は藩の保護があり、鳴海村・大高村の絞染については一反につき銀二分ずつ運上を取っていた(徇行記)。現在、有松絞業の昔の面影を残す服部孫兵衛宅(井桁屋)は東海道に面し、近世の町屋建築であり、有松絞の生産・販売のための絞倉・藍倉をそのままに残し、防火を工夫した塗ごめ構造建物として県指定文化財。天神社の祭の山車(布袋車・唐子車・神功皇后車)は市指定文化財」と詳しい説明がある。
-1024x769.jpg)
上が説明に出てきた「井桁屋」。その先で「三与遊歩道」に入り、少し北進して「藍染川」沿いの遊歩道を眺めた。

街道に戻り、県道を越えると右手に「中町唐子車山車車庫」。「天神社」の祭りで使う山車の一つ。この祭りは毎年 10 月の第一日曜日なので、2024 年は 10 月 6 日で二週間前だった。その様子が「Aichi Now」に紹介されている。「中町唐子車」には三体のからくに人形が乗るらしい(詳しくはこちら)。

その先の左側に「竹田家住宅」、更に「岡家住宅」「小塚家住宅」など古い建物が保存されていて素晴らしい。



「環状 2 号線」の高架の手前に「有松一里塚」、ここで 9:40。だいぶ雲が多くなってきた。
ずっと「県道 225 号線」を歩いているのだが、「平部北」の交差点を過ぎると道が急に細くなり、色も茶色に変わった。どうやら「鳴海宿」に入ったようだ。宿場の入口に常夜灯があった。時刻は 9:54 だから、一里塚からわずか 15 分だった。



