
石薬師宿
「石薬師宿」は宿駅制度が開始されてから 15 年後の元和二年(1616)に設置された。また、次の「庄野宿」は寛永元年(1624)で、東海道で最後に設置された宿場だ。この二つの宿駅がかなり後になって追加されたのは、「四日市宿」「亀山宿」間が五里十八町(21.6 キロ)と長く、人馬の往来に不都合が生じていたためとされる。確かに宿場間距離 20 キロを越えるような宿は「東海道」には見当たらない。しかし、宿場町になるということは、伝馬の役目を果さねばならず、大変なことだった。「石薬師」はもともと「薬師堂」の前に家数が 32 軒の「高富村」という小村だった。しかし、この家数ではとても対応できず、隣の上野村と併せてもまだ少ない。そこで、付近より人家を集めて 180 軒とし、「鞠鹿野」に宿場町を開いたらしい。その概要はつぎの通り。
- 所在地:伊勢国鈴鹿 (すずか) 郡(三重県鈴鹿市石薬師町)
- 江戸・日本橋からの距離:101 里 34 町 7 間
- 宿の規模:家数 241 軒、本陣 3、脇本陣なし、旅籠屋 15
- 宿の特徴:宿場の南に真言宗東寺派の古刹石薬師寺があり、これが宿場の名前となった
宿場町に入ったところにあった「説明板」の地図をあげておこう。「東海道」としては珍しく、街道は北から南へ伸びている。現在はそれに並行して「国道 23 号線」が走る。南の「石薬師寺」だが、これは町はずれだ。宿場の終わりは判然としないが、北町・中町・南町と八町(約 870 m)続いたらしい。

この説明板の側に「北町の地蔵堂」がある。江戸時代に宿場の入口に安全祈願の「延命地蔵」を祀ったものだ。

「石薬師」は歌人・国学者の「佐々木信綱」の生家があったところで、通りのあちこちに彼の歌を書いた板が取り付けられている。名付けて「信綱かるた道」という。

「佐々木信綱」と聞いても馴染みがないが、彼が作詞した唱歌「夏は来ぬ」は有名だ。
「卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」
有名だとはいっても、今の若い人はこの歌も知らないかもしれない。
通りの右側に「式内社 大木神社」の鳥居。祭神は「天照大神」である。

その先の右側に「小沢本陣跡」。連子格子(れんじこうし)が美しい。この周囲にあと二つの本陣(園部、薗部)があったようだ。向かいには「問屋場」があったとのこと。

この先の右側に「石薬師文庫」「佐々木信綱記念館」があったのだが、残念ながら写真を撮っていない… と思ったら、振り返って通りを撮った写真があった。左の建物が「佐々木信綱記念館」。本陣など古い建物がちらほら残っているが、宿場町の雰囲気はあまりしない。

県道を横断する。左のお寺は真宗高田派の「浄福寺」。

進むと「徳川家康 石薬師の思案橋」の説明板があった。「本能寺の変」の後、「堺」にいた「徳川家康」は急いで本拠地「三河」へ戻る。いわゆる「家康」の「伊賀越え」である。ルートとしてはいろいろな説があるようだが、「石薬師」を通って「四日市」に向かったという説もある。その時、ここ「石薬師南町橋」が一つの分岐点だった。二つのルートのうち、どちらを取るかで家康が思案したというのだ。一つは南の「織田信孝」の居城「神戸城」に向かい、そこで保護してもらうというもの、もう一つは先の「杖衝坂」を越えて「四日市」に出て、そこから「尾張」に向かうというものだ。実は「四日市」の「浜町」にも「思案橋」がある。ここは「尾張」まで海路をとるか陸路をとるかの思案である。実際にどういうコースがとられたのかは明瞭ではないが、「船」が使われたことには間違いなく、「堺」を立ってから二日後に「家康」は「三河」に着いている。

さて、「思案橋」といっても橋がないではないかと不思議に思っていたら、かつてここには「願入坊川」が流れていたようだ。現在、この辺りは暗渠になっているが、地図では東側に川が見える。この先にもう一つ橋がある。「瑠璃光橋」という立派な名前がついた橋だ。ただ、越えるのは川ではなく、「国道 15 号線」なのだ。


橋を渡ると「石薬師寺」の裏門がある。「旧街道」は寺のまわりを回って表門に出るのだが、私はここから中に入った。階段を下りていくと左に「薬師堂(本堂)」に至る路が現れる。


本尊は「石薬師如来」。説明板に写真が出ていた。高さが 190 cm、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだといわれる。

地面生え抜きとはどういうことか? 『東海道名所図会』ではこうだ。「寺記にいわく、当寺尊像は金輪際〔地の底〕より出現の霊石なり。聖武帝の御宇〔御代〕神亀年中〔724 -29〕、越の泰澄、この所を通りたまうに、霊光曄々〔かがやき〕たれば、野を分けて求めたまうに、秦然たる樹林の中より異香薫じ、十二神将あらわれたまい、一箇の奇石を捧ぐ。泰澄感悟〔気づく〕したまい、末世の衆生利益のため正しく医王尊の示現なりとて、速やかに一宇を創して霊石を安ず。その後弘法大師、泰澄の跡を追い、霊石をもって医王の尊体を彫刻し、相好円満したまえば開眼供養ある」。
表門を外から撮った写真が写真 14 だ。

ここで冒頭の広重の絵である。絵はこの門を描いている。やや左り後ろから見下ろすような視点である。縄手道の先に門がある。「旧東海道」はこの縄手道ではなくお寺の前を通っている道である。お寺の右後ろに大きな山が描かれているが、今はそんな山はない。写真 15 はお寺の前の旧東海道を南側から見たところだが、お寺の木々は見えるが山は写っていない。

ところが、江戸時代にはここに山があったのである。『東海道名所図会』の挿絵(図2)にはハッキリと山が描かれている。現在はこの位置に国道が走り、住宅地となっているが、広重はこの山をかなりデフォルメして描いたのではないかと思う。

「旧東海道」を先に進む前に、お寺から東に進む道(さきほどの縄手道)の左側に「蒲冠者(がまのかんじゃ)範頼之社」があったので立ち寄ってみた。

「蒲冠者」とは「源頼朝」の異母弟「源範頼」のことで、遠江国蒲御厨で生まれ育ったため、こう呼ばれる。この場所との関係はというと、平家追討のため西へ向かう途中に「石薬師寺」に詣でて武運を祈願したことによるようだ。ここから南に進んだところに「石薬師の蒲ザクラ」があるが、「範頼」が鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って去ったものが生長したものとされる。見に行こうか迷ったが、11 月で桜も咲いていないのでパスとした。ここで 10 時、先に進もう!
石薬師宿~庄野宿

南下していくとすぐ川の前に出る。この川は「才石川」だが、別名「蒲川」。「蒲冠者」と関係があるのだろう。橋を渡ったところに、「石薬師一里塚」がある。

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写真を撮っていると後ろから声を掛けられた。振り返ると自転車に乗ったオバさんがいた。「歩いているのか」と訊く。「亀山まで行くんです」というと、「よく歩けるな」いう。笑いながら「私はコレ」と自転車で左に曲がってトンネルの方へスイスイ進んでいく。道標が目の前にあった。「庄野宿」は左とある。オバサンと同じ方向だ。地図で確認するとこのトンネルは「関西本線」を潜るものだ。

トンネルを潜るとまた道標。「庄野宿」は右だ。

「関西本線」沿いの細い道を進む。

「旧東海道」はこの先で右に折れて国道を潜り、川沿いに少し進んで橋を渡り、県道を潜って「国道 25 号線」に合流する。しばらく国道を歩いた後、コンクリート工場の先で右折、「庄野口西」の交差点が「庄野宿」の入口である。時刻は 10:40、「蒲冠者範頼社」から 50 分、あっという間だった。

