旧東海道歩き旅(52)水口宿~石部宿(2024.11.7・8)

図1 安藤広重「東海道五十三次 水口 名物干瓢」

水口宿

「土山宿」と同様、絵地図があったので掲載しておこう。

図2 現代版 東海道名所図会 水口宿絵地図

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市水口町水口など)
  • 江戸・日本橋からの距離:113 里 7 間
  • 宿の規模:家数 692 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 41
  • 宿の特徴:伊勢大路が走り中世には宿村・市場として発達、戦国時代には城が築かれ城下町として発展、東海道の整備にともない南近江の中心的な町となった。

 同じ「甲賀郡」の「土山」に比べると、家数が 2 倍。「水口藩」の城下町でもあり、郡内最大の町場だったようだ。「水口」の名前は「野洲川」(昔は横田川という)に面した場所であり、その水口を設けていたことによるようだ。「水口神社」に祀られている「水口宿禰」が名の起こりとする説もあるが、そもそも「水口宿禰」という名前自体が地名からきていると推測されるためこの説はないと思われる。これについては後述する。

 城下町としての発展だが、最初の城は現在「古城」とされる「水口岡山城」で、「豊臣秀吉」が家臣「中村氏」に築かせたもの。三代目の城主「長束正家」の時、「関ヶ原の戦い」後、「池田正吉」に攻められて落城した。新しい城は江戸期、「徳川家光」の上洛に際し宿舎として造られたもので、後に「水口藩」の居城となる。

 図 2 の地図で特徴的なのは、「作坂町」の先で通りが三本に分かれ、現在「石橋」の駅があるところで一本に戻ることである。このような形式はあまり見たことがない。宿場の西側は「寛永期」の新城建設とその後の「水口藩」の成立によって、街道がお城から遠ざけられ北側を走るようになったため、鉤の手に屈曲して「北町」「東小坂町」「東林口」と進むのだが、それとは気づかず直進して古いコースを歩いてしまっていた。

 さて、前回の続き。「田町」に入っていく。

写真1 田町の通り

「東見附跡」は北からの道との合流点にあった。

写真2 東見附跡

 各町に「曳山(ひきやま)祭」で使う「曳山」を収める「山倉(くら)」がある。これは「片町」のくら。「曳山祭」については後述する。

写真3 曳山山倉

「松原町」に入り、左に「脇本陣跡」。

写真4 脇本陣跡

 「鵜飼本陣跡」は通りの左、細い路地を入ったところにあったようだ。気づかずスルーしてしまった。左手に「桔梗屋文七」の看板。クリーニング店とのこと。

写真5 桔梗屋文七

 この先、正面に「高札場跡」。ここで道が二つに分岐している。「旧東海道」は左を行く。すると、すぐまた二つに分かれる。今度は右に進む。これで三本ある真ん中の道を進んだことになる。

写真6 高札場跡 道が二手に分かれる 左を進む
写真7 すぐまた二手に分かれる

 右手の「一味屋」は老舗の和菓子屋さん。かんぴょうを使った「水口みたらし餅」が有名。

写真8 一味屋

 ここで冒頭の広重の絵。今回のテーマは「干瓢(かんぴょう)」で「かんぴょう干し光景」が描かれている。「かんぴょう」といえば栃木県が有名だが、甲賀市観光ガイドに「慶長の初め(1600 年ごろ)、水口岡山城主長束正家が作らせ、その後下野国壬生(栃木県)に伝わりました。正徳二年(1712 年)、水口城主加藤氏の時、かんぴょうの新しい製法が壬生から水口に導入され、その後、改良に改良を加えて献上、贈与、土産品として珍重されるようになったと伝えられています。 水口の初夏の風物詩といえば、かんぴょう干し風景に尽きるといわれています」とある。日本でかんぴょうを作り始めたのは、「山城国」の「木津」(現在の大阪市浪速区敷津町、大国町あたり)、別説では「滋賀県木津村」(現在の滋賀県蒲生郡日野町木津)とされる。いずれにしても関西のものである。「下野国壬生」(栃木県)に伝わったのは、「水口城主」だった「鳥居忠英」が、1712 年に「下野壬生城主」に国替えになり、旧領地の木津から種を取り寄せて試作させたのが始まりらしい。

 右手の立派な建物は無料休憩所。このそばに「大池町のからくり時計」があるのだ。

写真9 無料休憩所

「からくり時計」は二箇所にあり、ここ「大池町」のものは時計の中の「曳山」が 9 時、12 時、15 時、18 時の 4 回動く。

写真10 大池町からくり時計

 交差点の先の「柳町」の通りの様子。ほとんど人を見かけない。

写真11 柳町の通りの様子

 三本の通りが一つ集合する「三筋の辻」。正面に「近江鉄道」の線路がある。左手にあるのが「からくり時計」。

写真12 三筋の辻

 こちらは「大池町」の逆で、全体が「曳山」の形をしており、その中に時計がある。詳細な写真は下の「甲賀市観光ガイド」の記事を参照。こちらも 9 時、12 時、15 時、18 時の 4 回動く。

写真13 三筋の辻のからくり時計
甲賀市観光ガイド

 この辺りに来ると観光客らしい姿をチラホラ見かけるようになった。線路を越えた右手に立派な建物があり、「曳山展示しています」と掲示があった。ここが「水口中部コミュニティセンター」、通りから右に入ると正面に「甲賀ひとまち街道交流館」があった。パンフレットをいただき、優しそうなオネエサンから話を聞く。

写真14 水口中部コミュニティセンターの山倉
写真15 甲賀ひとまち街道交流館

 祭りの始まりは江戸中期。「水口神社」の祭礼だが、町の人々の力で作り出されたものだという。祭礼は毎年 4 月の 19 と 20 日。後半の「例大祭」では、各町に収納されていた 16 基の「曳山」が巡行して「水口神社」に向かう。「曳山」はいわゆる「山車」だが「ヤマ」と呼ばれ、二層露天四輪構造で非解体式。上部に「ダシ」と呼ばれる作り物を飾る。「ダシ」は巡行ごとに題を替え、本来は芝居などの一場面を構成するものだったらしい。「ヤマ」は大きく全高 6 m 弱、だからだろうか、「ダシ」は比較的小振りなものが多いようだ。千葉の「佐原」などでは大きな人形を据え付け、全高 9 m に及ぶ。街道筋なので電線に引っかからないようにとの配慮も働いているかもしれない。

「曳山」を見たいという希望に応えて、オネエサンが「コミュニティセンタ-」の隣にある蔵に案内してくれた。これがお化粧なしの「素」の「曳山」の姿。

写真16 河内町の曳山

 記念写真を撮ってもらったあと、ちょうどお昼なので、オススメのランチの店を尋ねた。オネエサンはちょっと考えてから、「珍しいところでは、スヤキのやきそば屋さんがあるんです」という。「ケンミン SHOW」で紹介されたらしい。「谷野食堂」という名前を教えてもらって、そこに向かう。この先まっすぐ、お城の前だという。途中の右側に「水口教会」があった。

写真17 水口教会

 教会は「ヴォーリーズ」が設計し、昭和 4 年(1929)に建てられたもの。教会の礼拝堂と門柱が平成 13 年に「国登録有形文化財建造物」として登録されている。「V. M. ヴォーリーズ」はアメリカ人、あの「メンソレータム」の「近江兄弟社」を立ち上げた人物。「メンソレータム」は彼の活動を支援するため米国実業家 A. A. ハイド氏が提供したものだ。「ヴォーリーズ」は 1905 年に滋賀県県立商業学校の英語教師として来日するが、 2 年で職を解かれる。そこで事業を立ち上げるとともにキリスト教の伝道を行う。そして、1908 年には建築設計の事業を開始。地元の「近江八幡市」を中心に日本各地に優美な建築物を残している。(人物・事業については V. M. ヴォーリーズ ライブラリに、建築物についてはヴォーリーズの建築に詳しい)。今回立ち寄っていないが「旧水口図書館」も「ヴォーリーズ」設計の建物だ。

 さて、「谷野食堂」に到着。「元祖スヤキ」の黄色い幟が立っている。しかし、扉は閉まっていて、その上になんと無慈悲な貼り紙が! 「本日は休ませていただきます」。

写真18 谷野食堂

 それではと、「水口神社」に向かう途中の「ムツゴロー」という店でオムハヤシを頂いたのだが、この店も 12 月で閉店するとの案内が貼ってあった。そこから「近江鉄道」の線路を越え、並行して東に進み、裏口から「水口神社」に入った。なかなか立派な神社である。祭神は「大水口宿禰命(オオミナクチスクネノミコト)で、「旧東海道歩き旅(47)庄野宿~亀山宿」に書いたように「ヤマトタケル」の后「オトタチバナヒメ」の父とされる「忍山宿禰」の父、つまり「オトタチバナヒメ」の祖父になる。彼らは「物部氏」と同じ祖先を持つ「穂積氏」なのである。神社のホームページにも「祭神 大水口宿禰命は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の六世孫、出石心大臣命(イズシゴコロオホヲミノミコト)の御子に坐し吾が郷土を御開拓遊された祖神にて御神徳広大無辺である」と書かれている。「饒速日命」は「物部氏」の祖先神である。

写真19 水口神社 神門
写真20 水口神社拝殿
写真21 水口神社本殿

 この「物部氏」の移動とはどういうものだったのだろう? ここで谷川健一著の『白鳥伝説』の「第一章ヤマト政権の東国進出」を紐解こう。ここには「物部氏」が「近江」→「東海」→「相模」→「房総」へと移動していったことが書かれている。そのうちの「近江」に関する部分を記すとつぎのようになる。

物部氏の系譜には近江出身を思わせる人名がいくつも見られる。ニギハヤヒの孫に彦湯支命(ヒコユキノミコト)がある。そこから数代の系譜は次の通りとなる。(系譜略)太田亮の説明では 一、彦湯支の妻の淡海川枯姫は甲賀郡川枯神社の鎮座する土地の名に由来する。 一、新川小楯姫(ニイカワオダテヒメ)は野洲郡上新川神社、下新川神社のある地方との関係がみとめられよう。大新河、建新河の名もその地方に由来する。 一、大綜杵(おおへそき)の綜は栗太郡の北部、野洲郡に近いところに綜(へそ)村がある。その地名をとったらしい。その地は『和名抄』にいう物部郷の地で、いまその北に物部村がある。(中略)一、高屋阿波良姫(タカヤノアワラヒメ)は『和名抄』に神埼郡高屋郷とある土地の娘であろう。 一、その子の伊香色雄、伊香色謎の兄妹は伊香郡伊香郷という地名を負うたらしい。その付近にも物部村が残っている。 一、水口は甲賀郡水口神社のある地名であろう。 このようにしてみると、物部氏が近江の国の土地の豪族の娘と婚を通じながら、近江の国に大きな勢力をのばしていったありさまが手にとるように分かる。彦湯支から数代の物部氏族は、そのほとんどが近江の地名をとって自分の名としているのである。

(中略)

物部氏の東海進出は四世紀の後半から六世紀の前半にかけて行われたと考えるのが妥当である。(中略)その場合、物部氏はヤマト朝廷の尖兵として東国の開拓を目指したのか、それともヤマト朝廷の圧力から逸脱しようとして、河内、大和から近江をへて東へ移動したのか。『日本書紀』によると、ヤマトタケルにしたがったオトタチバナヒメは、穂積氏の忍山宿禰の娘であるという。穂積臣はニギハヤヒの子孫で物部氏と同祖である。もちろんヤマトタケルは伝説の皇子であるが、ヤマト朝廷の東征のシンボルとみて差し支えない。そのヤマトタケルが物部氏と同族の穂積氏の娘を伴っていたという挿話は、ヤマト朝廷に物部氏が協力したという歴史的な事実を示唆するもののように思える。

谷川健一『白鳥伝説』(集英社)

「水口神社」から「水口城」の横を通って「東海道」へ戻った。写真 22 は城の出丸部分。石垣と白亜の櫓が美しい。右側にクレーンが写っているが、この時は街道と城を結ぶ「御成橋」が改修工事中だったのだ(2025 年 6 月には完成している)。

写真22 水口城

 なお、前述のように道を間違え、本来は図 3 の赤点線を歩かなければならないところ、直進してしまった。

図3 水口宿行程

 13:36 に「西見附跡」に到着。「水口宿」を出た。

写真23 西見附跡

水口宿~夏見

図4 水口宿~石部宿行程

 つぎの「石部宿」までは三里十二町で 4 時間くらいかかるし、「石部」にホテルはない。「JR 草津線」の「三雲駅」にはビジネスホテルがあるが満室。電車で「草津」まで出ようかとおもったが、ここも満室。ということで途中の「夏見」のコンテナホテルに宿泊を決めたことは既に書いたとおりだ。まず、そこまでの道中。

 街道の左手に「美富久(みふく)酒造」。「甲賀地域は滋賀県の酒蔵の約三分の一が集まっている有数の酒処で、『近江の灘』とも呼ばれています。その甲賀の中心であるここ水口は、 その名のとおり水がきれいで、米作りにも適した豊かな土地です。また、数々の東海道にまつわる本や雑誌、旅行番組などでも紹介されており、司馬遼太郎作『竜馬がゆく 』でも竜馬が立ち寄った宿場町として描かれています」と説明があった。「甲賀」が『近江の灘』と呼ばれているのは初めて知った。もともと美味しい「江州米」の産地である。それには「野洲川」の水が大きな役割を果たしているのだろう。この地域では「野洲川」はかつて「横田川」と呼ばれていた。まさに田圃の横に川があったのである。

写真24 美富久酒造

「水口町泉」に入り、右側に「泉福寺 延命寺蔵尊」の石柱。この先で「旧東海道」は左のわき道へ入る。角に「横田渡」の標識があった。

写真25 横田渡の道標

 その先で「泉川」に架かる「舞込橋」を渡る。

写真26 泉川に架かる舞込橋

「日吉神社御旅所」の石柱を過ぎると、「泉の一里塚」。進むと「横田渡」の前に出る。

写真27 日吉神社御旅所の石柱
写真28 泉一里塚跡
写真29 横田渡跡

 室町時代には「横田川橋」が架かっていたようだ。江戸期には「東海道十三渡」の一つとして重視され、軍事上の理由から通年の架橋は許されず、三~九月は船渡し、十月~翌二月は土橋を架けて通行させたらしい。明治にはここに板橋が架けられていたらしいが下流に移され、現在は「国道 1 号線」に出て、その先「県道 13 号線」の「横田橋」を渡ることになる。

写真30 野洲川

 国道に合流してからは左の歩道を進む。途中、右「大津」方面と左「三雲」方面に分かれるので、左を進むと陸橋が現れ、「この先に歩道がありません」という標識が立っている。これを渡って、右側へ移動。陸橋の上から「横田橋」が見えた。歩道が見えず、どこを歩くのかと戸惑っていると、右側に歩道橋があった。

写真31 陸橋
写真32 横田橋
写真33 横田橋歩道橋

 橋を渡って右の枝道に入り「三雲駅」の方に進む。駅の手前で右に折れるとここが「旧東海道」。右側に「明治天皇聖蹟碑」があった。ここから「草津線」と並行して歩くようだ。

写真34 明治天皇聖蹟碑(三雲)

「野洲川」の支流に架かる橋を渡ると左側に「立志(りゅうし)神社」と「妙感寺」の道標。一番右側は読み取れない。

写真35 立志神社と妙感寺の道標

 通りは街道らしい雰囲気が残っている。

写真36 三雲の通りの様子

 前にトンネルが見えてくる。その手前の右側に、「三雲城趾 おもてなし処」と看板のある小屋が建っている。「三雲城」はここから南西すぐにある室町時代の後期に「三雲典膳」が築城したと伝えられる山城。トンネルの先に上がり口があるのだ。

写真37 三雲城趾おもたなし処

 このトンネルは古い。「大沙川隧道(おおすながわすいどう)」と呼ばれる明治 17 年に作られた道路トンネルで、上は道路ではなく、「大沙川」が流れるのだ。いわゆる「天井川」である。ただし、普段はほとんど水がないらしい。別名を「吉永のマンポ」という。「マンポ」というのは、鉄道や天井川の下をくぐったり、農業用水を通したりする小規模なトンネルの事だ。語源は「鉱山の坑道」を表す「間府(まぶ)」であるとの説が有力で、地域によって「マンプ」「マンボ」などと呼び方が変わるのだそうだ。

写真37 大沙川隧道

 トンネルを抜けた左に「弘法大師錫杖跡」(弘法大師が杖をついたところ)の碑と「弘法杉」の説明板があった。坂を上ると「太子堂」と「弘法杉」があるようだ。「三雲城趾」へのハイキングコース入口にもなっている。「大沙川」の堤防を歩いていくようだ。

写真38 弘法杉と弘法大師錫杖跡

 途中、左側に「三雲城趾」の山が見通せる場所があったのでパチリ。

写真39 三雲城趾

「夏見」に入る。説明板があった。昔は何軒か茶店があり、立場の役割を果たしていたらしい。『東海道名所図会』には「山水を筧にとり、水車に唐操(からくり)を仕かけ、人形を働かせて、四時(つね)に旅人に心太(ところてん)を商う。また、名酒桜川というあり」と記されている。地名通り「夏」に涼を求めて来るには良いところだったようだ。

写真40 夏見の里の説明板

 その先の掲示板にも「夏見」の説明があった。茶屋の絵はこちらの方が見やすい。

写真41 夏見の里の説明

 15:24 「夏見」の交差点までやってきた。「土山宿」からここまでの歩行距離は 26.1 キロ、昼食・休憩を含めて 7 時間 29 分だった。この後は北へ歩き、「草津線」を越えて「県道四号線」にあるコンテナホテルに宿泊した。

写真42 夏見のコンテナホテル

夏見~石部宿(11・8)

 最終日である。「夏見」の交差点に 7:05 に到着、歩き旅をスタートした。「石部宿」を経て「草津宿」まで歩き、新幹線で帰宅する予定だ。昨夜のコンテナホテルは快適、県道に面しているのでレストランもいくつかあって、ステーキ丼とビールを頂いた。昨夜の予報では朝は冷え込むとのこと。最低気温が 8 ℃で確かに冷たい。手袋を持ってこなかったのが悔やまれた。

写真43 夏見交差点から出発

 歩き出してすぐ、左側に「夏見一里塚」の説明板。

写真44 夏見一里塚の説明板

 先に進むと再びトンネルが。これが「由良谷川隧道」で上を流れているのは「由良谷川」。その手前右に「新田道」の道標。これは昭和 10 年の建立で新しい。

写真45 由良谷川隧道
写真46 新田道の道標

「針」に入り、右手に「針公民館」。ここより南に「針城跡」がある。「針家」は隣の「夏見家」とともに「甲賀五十三家」の一つ。この先、左側の空き地風の場所に「二ノ宮神社」の社、さらに行くと「北島酒造」があった。銘柄は「御代栄」と「北島」。

写真47 二ノ宮神社
写真48 北島酒造

 この先の「家棟川」を橋で渡る。昔はここも隧道だった。橋の左手に「うつくし松」の説明板。「平安時代、体が悪く弱々しい生活を送っていた藤原頼平という青年がこの地を訪れたとき、美娘が突然現れ、松尾神社のつかいで頼平のお供を命じられたといって姿を消した。当たりを見ると周辺の木々が美しい松に変わったという。この地を頼平の平と美松の松をとって平松となったと言われています」とある。フムフムと合点してまわりを見渡すが、残念ながら美娘が現れないので松もない。この「うつくし松」、赤松の変種で日本でここだけにしかないらしい。ここから南西に行ったところにある「美松山」がこの松の自生地だ。

写真49 うつくし松の説明板
写真50 家棟川

  橋を渡ると右側に常夜燈があり、その横に「家棟川隧道」の扁額があった。

写真51 家棟川隧道の扁額

 右手に「高木陣屋跡」。元禄期に「高木伊勢守」が「平松」を領有することになり、ここに陣屋を建てた。立派な門があったが移築されてしまっている。

写真52 高木陣屋跡

 さらに 10 分あまり歩くと左に「上葦穂神社」の標柱と常夜灯があった。神社はこれから渡る「落合川」の向こう側のようだ。「落合橋」を渡ると「これより石部宿」の看板があった。7:48 「石部宿」に入った。

写真53 落合橋
写真54 石部宿の看板
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