旧東海道歩き旅(53)石部宿~草津宿(2024. 11.8)

図1 安藤広重「東海道五十三次 石部 目川ノ里」

 広重の絵の舞台は「目川」。ここはほとんど次の「草津宿」といっていい場所なので、「石部宿」の絵としてはもう一つそぐわない。なぜこの場所を選んだのか? 同じような絵が「東海道名所図会」(図 2)にあるので、ひょっとするとそのパクリかもしれない。

図2 東海道名所図会 目川

石部宿

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:近江国甲賀郡(滋賀県湖南市石部など)
  • 江戸・日本橋からの距離:116 里 18 町 7 間
  • 宿の規模:家数 458 軒、本陣 2、脇本陣なし、旅籠屋 32
  • 宿の特徴:886 年に「水口」から「鈴鹿」を通り「関」に至る「阿須波新道」(後の東海道ルート)が新設されその駅家となった。中古は銅、その後石灰の産地。

 宿場の地図が「東海道をいく 湖南の旅」にあったので抜粋を掲載しておく。

図2 石部宿地図(「東海道をいく 湖南の旅」より抜粋)

 まず「石部」という名前に引っかかった。これは古い地名であろう。「大化の改新」以前にヤマト王権の支配組織の一つとして「部民制」があった。もとは朝鮮半島から渡来した技術者や技能者の集団に諸役の奉仕を義務づける「トモ」という制度があったが、この組織化のさいに「○○部」と表記したのが始まりだ。これら特殊技能をもって王権に仕える「職業部」の他にも、朝廷や大王家、さらに中央の豪族によって支配される人々の集団も「部」と呼ぶようになり、さまざまな種類の「部」が設定されるようになった。「宝賀寿男」は『石部神とは何か』の中で、「『石部』とは何かという問題であるが、字義どおり石を原材料にして石棺や様々な石製品を調達・製作し、関連して陵墓の石室などの築造もする品部ということであり、石作部も同様であろう。だから、音が同じく「イソベ」で、相互に混用されることが多くあっても、漁撈が主体の磯部とは性格が大きく異なる。(中略)次ぎに、「石部」と「石作部」との違いは、職掌上殆どないように思われるのだが、その関係の管掌(伴造)氏族について見れば、石部の管掌氏族は不明であり(伊勢に石部直という姓氏は見えるが、これは本来、磯部であって、石部の管掌をしたとは思われない)、石作連・石作首が石作部の管掌氏族であった。あるいは、石部を管掌したのは物部氏かもしれない」と書いている。

 前回の「水口宿」のところで、「物部氏」の移動について書いた。この「石部」も「物部氏」と関係があるかもしれないが、ハッキリとした痕跡はない。では、この地が「石」と関係するのかと調べてみると、大いに関係があるのである。

『東海道名所図会』には「駅の端に金山村あり。中古銅山とて坑口あり、石部の金山という」とある。また、吉田東伍の『大日本地名辞書』には「此地に石灰を産出す。石部は石灰に因める名か。石部駅の端に金山(カナヤマ)と云字あり、天狗谷とも云ふ。中古銅鉱を出したりとて其坑口を遺す、南嶺を磯部山と曰ふ、即金勝山の尾なり」とあり、銅・石灰の産地であったことが示されている。

新修石部町史』に詳しい解説がある。「近江出身の物産学者木内石亭は、著書『雲根志』(前編、安永二年刊)において、『近江国石部駅西北に金山という山あり、往昔此山にて金を掘りたりと、よって後、村の名とし、また山の名とす、此山に金を掘りたるという岩窟あり』と記し、石亭自身は石部出身の門人服部未石亭をともなって宝暦十年(1760)五月、この金山岩窟を踏査している。この岩窟は石部山吹屋ヶ谷にあり」とあり、以降何回も銅の採掘・事業化が試みられたが、採算性の観点から継続されていないことを記す。さらに、「石部付近に最も広く分布するのはチャートである。チャートは放散虫の化石が含まれることから、かなり深い海底で静かに堆積した地層であることがわかっている。また、チャートは岩質が緻密(ちみつ)で固いため、現在下山一帯で見られるように砕石されて、河原の砂利のかわりに建設用のコンクリート骨材などに利用されている。粘板岩もかつては採石され、硯石などに使用されていた」と石の産地であることを示し、石灰については「石部の石灰岩地域でも小規模ながら灰山の北西麓に鐘乳洞が形成されている。石部では、古くからこの石灰岩を採石し、石灰(いしばい)として商品化していた。採石は後述するように明治期に最も盛んとなるが、その後は徐々に減少し、戦後間もなく閉山した。しかしこのような歴史を経てきたことを示す地名として灰山の名が残ったのである。同様に、灰山の背後には金山の名がある。ここはかつて銅鉱石を採堀していたことにちなむ山名なのである」と説明している。この「灰山」の位置は図 2 に宿場の西の出口辺りに記載されている。金山はさらにその西、「国道 1 号線バイパス」の向こう側だ。

 では、前回の続き「落合橋」を渡ったところから、歩いて行こう。「𠮷姫あけぼの公園」の矢印があったので左折すると公園の入口があった。「𠮷姫神社」とつながっていそうだが、ここで入ると「東の見附跡」を通らなくなるので、街道まで引き返す。

写真1 吉姫の里あけぼの公園入口

「東の見附跡」は説明板のみ。宿場の東と西の端に見附があったらしい。

写真2 東の見附跡の説明板

 更に進んでいくと、左側に「𠮷姫(よしひめ)神社」の鳥居が現れた。

写真3 石部宿入口付近の通りの様子
写真3 𠮷姫神社の鳥居

 奥に進むと、鬱蒼とした森の手前にいかにも歴史のありそうな社殿があった。この奥の山は五世紀の「宮の森古墳」だ。

写真4 𠮷姫神社社殿

 由来を記した石碑があった。それによると、祭神は「上鹿葦津姫(カミカシツヒメ)大神」と「吉比女(ヨシヒメ)大神」、配祀神が「木花開耶姫」。「創祀年代不詳。御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが、明応年度兵火によりこれを焼失し、天文三年に現在の地に祭祀された。江戸時代においては社号を上田大明神社としており、 明治元年許可を得て旧社の上田大明神社を改称して現在の社号の吉姫神社どなった。室町時代、天文三年(一五三四年)の再建一間社流造 間口一間三尺 真行一間一尺」とある。

『延喜式神名帳』では「甲賀郡」に「石部鹿塩上(いしべかしおかみ)神社」があったとされる。この候補として上がっているのが「石部宿」の東のこの「𠮷姫(よしひめ)神社」と西の「𠮷御子(よしみこ)神社」で、比定の議論の対象となる有力候補である「論社」とされている。また、前回、「落合橋」の手前に道標のあった「上葦穂(かしほ)神社」と「水口」の「柏木神社」が諸説(有力とまではいかないが、後継社であるという説が提起されている神社)となっている。

 今回は「𠮷御子神社」をスルーしてしまったので、ここでその由緒や祭神についても書いておこう。祭神は「吉彦命」「鹿葦津姫命」「吉姫命」の三柱、配神が「応神天皇」「猿田彦大神」となっている。由緒は、「崇神天皇六八年(前三十)石部山に御神降があり、吉比古、吉比女神を黒の御前に祀っていたが、弘仁三年(八一二)現鎮座地に移し、承平五年(九三五)吉比古、吉比女神を末社より本社に遷座し吉御子神社と称した。現社殿は京都上賀茂神社の旧社殿を慶応元年(一八六五)に移築したもので、重要文化財に指定されている」とある。

新修石部町史』は「石部鹿塩上神社」について次の様に解説している。長い引用になるがここに載せておこう。

 現在、石部町にある吉姫神社と吉御子(よしみこ)神社は、ともに式内社の石部鹿塩上神社の後身で、同社が後世に分かれたものだと伝える。『東海道名所図会』に「石部鹿塩上神社。駅中田間に鎮座す。延喜式内なり。今両社として下の社を吉彦明神、上の社を吉姫明神、土人虚空蔵(こくうぞう)と称す。祭神倭姫世紀(やまとひめせいき)に見えたり」とあり、『神祇志料』もまた「石部鹿塩上神社。今石部駅に在(あ)り。上下両社とす。上を吉姫明神、下を吉彦明神といふ。即駅中の生土神(うぶすなしん)也」という。
 式内社がのちに吉姫・吉御子(彦)両社となったとみるのに対して、どちらか一方に比定する考えもある。『神社覈録』には「石部鹿塩上神社。石部鹿塩は伊志倍加志保と古点あり。上は加美と訓(よむ)べし。祭神吉比女、檜物荘石部駅に在す。今は吉比女明神と称す」とあって、石部鹿塩上神社は吉姫神社だけをさすとする。また、吉御子神社も、もとは谷村の「黒之御前(くろのごぜん)」にあったが、弘仁(こうにん)三年(八一二)いまの「宮山(みややま)」に移転し、これが式内社の石部鹿塩上神社であるという社伝をもつ(『甲賀郡志』)。
 それでは、式内社の石部鹿塩上神社は現在の吉姫神社と吉御子神社のいずれにあたるのであろうか。『近江輿地志略(よちしりゃく)』が、石部にある神社として、「吉御子大明神(だいみょうじん)社」と「上田大明神社」(吉姫神社の別称)をあげながら、後者にのみ「神名帳に載(のせ)る所の、甲賀郡八座の中の、石部鹿塩上の神社と云是なるべし」と注記するのは、式内社の後身が吉姫神社とする説を支持していることを示している。『吉姫神社誌』が、『神社覈録』や『特選神名帳』の所説を引用しながら、石部鹿塩上神社の「上」とは、もとは上下両社あって、野洲川の川上の石部鹿塩上神社は吉比女をまつり、川下の石部鹿塩下神社が吉比古をまつり、上社だけが祈年祭の奉幣にあずかって、下社は祈年祭の奉幣にあずからなかったので神名帳に記されなかった、と推論するのが妥当な見解であろう。
 石部鹿塩下神社が祈年祭奉幣の例に加えられなかった理由を想定することは困難だが、石部鹿塩上神社=吉姫神社、石部鹿塩下神社=吉御子神社となれば、両社の創祀はすくなくとも律令時代にさかのぼることができよう。上下社の祭神である吉比女・吉比古のことは、『東海道名所図会』が指摘するとおり、『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』に見える。しかし、それは倭姫命が皇大神(天照大神)を伊勢へ遷座する途中、阿佐加藤方片樋宮(あさかふじかたかたひのみや)に斎(いつ)き奉る時、阿佐加々多(あさかがた)(阿佐加潟)に「多気連(たけのむらじ)の祖、宇加乃日子(うかのひこ)の子、吉志比女(よしひめ)、次に吉比古(よしひこ)二人参り相いき」とあり、吉比女・吉比古が倭姫命に会ったのは、伊勢国壱志(いちし)郡の阿佐加(あさか)(今の松阪市大阿坂・小阿坂付近)であった。吉比女・吉比古が倭姫命のもとに参向したのは、「淡海(おうみ)甲可日雲(ひくも)宮」(甲西町三雲か)に遷座した時の話ではなく、また多気連は伊勢国多気(たけ)郡の豪族であるから、石部鹿塩の上下社と倭姫命伝承を結びつけることは難しい。強いて関係づけるとなれば、多気連の祖神・宇加乃日子につらなる吉比女・吉比古を奉祀する氏族が石部に居住していたとだけ考えられるのである。

 神社名と祭神に関して次の様な疑問が沸いた。

  1. 「石部鹿塩上神社」の「鹿塩」とは何か?
  2. 「𠮷姫・𠮷御子神社」共通の祭神「鹿葦津姫」とは誰か?
  3. 「𠮷姫」「𠮷御子」とは誰か?
  4. なぜこれらの神が祀られるのか?
  5. 「石部鹿塩上神社」の奉祀者は誰か?

 いろいろ検討したのだが、残念ながら結論は出ていない。要点をつぎに記しておく。

  1. 新修石部町史』の「𠮷御子神社」の項に「当社所蔵の絵図に背後の石部山中に鹿塩山とみえるのは、式内社のなごりか、旧社地谷の『黒の御前』の背後の丘陵をさしているのか興味深い」と書かれている。つまり、「鹿塩」は山の名前、さらにそこから来る地名だと推測した。松永美吉 日本地名研究所編『民俗地名語彙事典』(ちくま学芸文庫)で「カシオ」を引くと、「山稜の斜面=鹿塩、樫尾、柏尾〔『日本の地名』、『地名の語源』〕。『日本地名学』Ⅱは『方言及び適用例から『棟型の尾根』の意と解されるケショーに同じ』とあるは『山稜の斜面』の意と同じであろう」とある。つぎに「カシ」だが、いろいろな意味があるうちの「谷壁、山麓、自然堤防、砂丘などの傾斜地(首カシゲルのカシ)に見る地名〔『日本の地名』、『地名の語源』〕」であろう。『新修石部町史』に「町域はその南端にそびえる秀峰阿星(あぼし)山(六九三メートル)を頂点とし、北端を限る近江最大の野洲(やす)川を底辺とする逆三角形の中に広がり」とあるから、「石部」は「鹿塩(カシオ)」にふさわしい地形である。「鹿塩」の地名は奈良県吉野郡吉野町、長野県下伊那郡大鹿町、岐阜県加茂郡川辺町など各地にあるが、確かにみんなよく似た地形である。
  2. 「鹿葦津(カシツ)姫」は天孫降臨神話の「ニニギノミコト」の妻となる「大山祇神(オオヤマツミノカミ)」の姫の名である。『日本書紀』では「鹿葦津(カシツ)姫」またの名を「神吾田津姫(カムアタツヒメ)」、またの名が「木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)」、一書では「神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)」とする。一方『古事記』では「神阿田津比売(カムアタツヒメ)」またの名を「木花の佐久夜毘売」となっていて「鹿葦津」が出てこない。『岩波文庫版 日本書紀』の註を見ると、「木花開耶姫」は、本来は「鹿葦津姫」とは別神で、二つの神が結合されたものとある。したがって、「𠮷姫神社」において「上鹿葦津姫」を祭神、別神の「木花開耶姫」を配神としても不思議はない。本来は「鹿葦津姫」を祀る神社なのだろう。では「鹿葦津姫」とは何なのか?「鹿葦津姫」の「津」は助詞で「の」の意味。つまり、「鹿葦津姫」は「鹿葦(カシ)の姫」となる。「岩波文庫」の註では「カシ」を九州南部の地名とするが、「吾田」も「薩摩国阿多郡」を指す地名(岩波文庫版『古事記』)である。しかし、「鹿葦」は該当地域の中に見つからない。前述の『民俗地名語彙事典』で「カシ」は谷壁、山麓、自然堤防、砂丘などの傾斜地の意だから、この解釈では「神吾田鹿葦津姫」は「阿多の山麓に住む姫」ということになる。別な解釈として、吉野裕氏が提唱する「鍛師の姫」説(『風土記世界と鉄王神話』)がある。「ニニギノミコト」が「鹿葦津姫」をめすと一夜にして孕んだので、誰か別の男の子だろうと疑うと、「鹿葦津姫」は室(むろ)を作り、「天孫」の子でなければ焼け死ぬだろうと誓いを立て、室の中に入って火をつけ、火の中で三子を産み落とす(「火中出生譚」)という恐ろしい話になる。吉野氏はこれを「溶鉱炉の中で鉄を作る話」と解釈し、「鹿葦津姫」を「鍛師」の姫と解釈する。もう少し拡げると「鍛冶」の姫、つまり「鍛冶族」のシンボルとなる。
  3. 「𠮷姫」「𠮷御子」の二神を祭神とする神社が他にないか調べると、「福井県鯖江市」のその名も「石部(いそべ)神社」がヒットした。祭神も神社の名前も同じである。社伝によると古昔ここに「多気の連」姓の人が居住しその祖先である「吉彦・吉姫」を氏神として祀ったという。とすると、「石部鹿塩神社」についての『新修石部町史』の次の記述、「多気連の祖神・宇加乃日子につらなる吉比女・吉比古を奉祀する氏族が石部に居住していた」という説が説得力を持つ。「多気連」は「伊勢」の豪族であり、「石部(いしべ・いそべ)」は「伊勢部」の訛った形という説もあるので可能性は高い。
  4. 「𠮷姫」「𠮷御子」については、この地に住んでいた「多気連」のひとびとが自分たちの祖先神を祀ったということでわかりやすい。問題は「鹿葦津姫」である。①山の裾(鹿塩)に住まう民が同じ名前(カシ)の姫を祀る、②鍛冶族が「鍛冶の姫」を祀ると考えられる。②だが、この地域は「鍛冶族」に関係の深い土地である。銅が採取されたことは前述の通りだが、鉄鉱石も採れる。大道和人著「鉄鉱石の採掘地と製鉄遺跡の関係についての試論」には、甲賀郡石部町カナ山に磁鉄鉱の鉱床が知られていたと書かれ、「石部町において五軒茶屋遺跡という江戸時代の製鉄遺跡の存在が確認されているが、古代・中世に遡る製鉄遺跡は確認されていない。しかし、今後分布調査等により製鉄遺跡の存在が確認される可能性は高そうである」とし、その理由として野洲川左岸の古代豪族「小槻山君氏」の存在をあげ、「石部」の山が古墳時代の鉄器生産・鉄製品所有の伝統を持つ可能性が高いとされる「小槻山君氏」の中心勢力下の背後に広がる山林地帯であると指摘している。問題は「小槻山君氏」が果たして「鹿葦津姫」を奉じるかである。鍛冶族においても自らの祖先神を奉じるのが普通なので、「鹿葦津姫」ではあまりに一般的すぎて無理があるように思う。では「コノハナサクヤヒメ」ではなく、「鹿葦津姫」を祭神とする神社が他にもあるか調べてみると、全国でなんと一社だけあった。奈良県吉野郡吉野町南国栖の「大倉神社」がそれで、驚くべきことにこの神社「大和国吉野郡」の式内社「川上鹿塩神社」の論社なのだ。「鹿塩」が共通、そして祭神「鹿葦津姫」も共通だ。ただの偶然ではないように思えるが、関係が分からない。「吉野」では「鹿塩」の地名から「鹿葦津姫」が連想されたような気がする。となるとここも同じだろうか? なお、「鹿葦津姫=鍛冶姫」の説だと「吉野」の「大蔵神社」付近にも「鉄鉱石」や「銅」の採掘場所があってもいいことになる。神社の周辺には鉱山はないが、直線距離で約 5 キロ東の「三尾」には銅の鉱山があることが知られている。
  5. 「石部鹿塩神社」はいくつかの異なるグループが奉祀する神社が融合したものではないかと考えている。一つは「石部」が示す「巨石信仰」「石作」のグループ、一つは「鹿葦津姫」を奉祀する者、そして、最後に自らの祖である「𠮷姫・𠮷御子」を奉祀する「多気連」のグループである。

 この問題はここまでにして、街道歩きに戻ろう。左手に真宗大谷派の「西福寺」を過ぎて宿場の中央付近に入っていく。

写真5 西福寺
写真6 宿場中央付近の通りの様子

「石部中央」の交差点に出る。この辺りに「本陣」「問屋場」など宿場町の機能が集中していたようだが、現在、遺構は失われてしまっている。交差点の角に小さな広場が設けられ、「高札場跡」「三大寺本陣跡」「石部城跡」「安民米倉跡」「お半長右衛門」など多数の説明板が建てられていた。一箇所で情報量が多いと、ちょっとついていけない。

写真7 石部中央の広場

 南北の通りを渡った左側にも「問屋場跡」「常盤館跡」の説明板。「常盤館」は芝居小屋だ。少し歩いた左手に「明治天皇聖蹟碑」と「小島本陣跡」の石柱。

写真8 明治天皇聖蹟碑と小島本陣跡の石柱

 この先で街道は直角に右に折れ曲がる。いわゆる「曲尺手」だが、ここでは「鉤の手道」という。最初の曲り角は茶屋になっていた。見るとまだ準備中。ここで右折し、次の曲りで左へ。実は最初の曲りを直進すると「𠮷御子神社」の鳥居の前に出たのである。

写真9 鉤の手道 最初の曲り
写真10 鉤の手道 二つ目の曲り

 この先に「西の見附跡」の説明板があったようだが気づかず、休憩の為に「石部駅」に立ち寄った。時刻は 8:36、ここで「石部宿」は完了。

写真11 石部駅

石部宿~草津宿

図3 石部宿~草津宿行程

 街道に戻って先に進むと左側に「西縄手」の説明板があり、小さな公園になっていた。昔は松並木があって、宿場に入る大名行列を整列させた場所だという。

写真12 西縄手

 この先に「灰山」があるのだが、写真を撮らずに通り過ぎてしまったので、Google Map のストリートビューの写真を掲載しておく。山の大半が削り取られてしまっているようだ。

写真13 灰山

 この先、左に分岐する道があり、そこに「五軒茶屋と古道」の説明板があった。今歩いている「旧東海道」は「野洲川」に沿う道だが、川が氾濫しここから宿場への迂回路が開かれたようである。またこれは「金山」に通ずる道でもあった。その「金山」についてもGoogle Map のストリートビューの写真を示しておく。真ん中に「国道 1 号線バイパス」が通っている。左の山が不自然で、かなり削られていることが分かる。

写真14 金山

 右側「名神高速」の向こう側に「近江富士」と呼ばれる「三上山」がくっきりと見えていた。青空と緑の対比がとても美しい。寒いが天気が良くてよかった。『東海道名所図会』では「一名百足(むかで)山という」とある。この名は「俵藤太秀郷のむかで退治」から来ているのだが、説明は次回「俵藤太」の霊を祀る「瀬田の唐橋」のところで行おう。なお、この山の西側に「御上神社」がある。もともとの社は「三上山」の山頂にあったという。祭神は「天之御影命(アメノミカゲノミコト)」で「三上氏」の祖先神である。鍛冶神「天目一箇神」(「桑名宿」で登場)と同神とする見解もある。神社のすぐそばに「中山道」が通っているので、だいぶ先になるがその歩き旅で立ち寄ってみたい。

写真15 三上山

「名神高速」を潜り、「旧東海道」は「草津線」に沿って西進する。「伊勢落(いせおち)」という町に入った。ここは「野洲」「甲賀」「栗太(くりもと)」の三郡の境界である。「伊勢落」は「伊勢大路(いせおおじ)」の訛ったものらしい。

写真16 伊勢落

 右に浄土真宗本願寺派の「長徳寺」。ここは「栗東(りっとう)市」になる。「栗太郡」の東にあることから付けられたらしい。「名神高速」の「栗東インター」で有名な名前だが、どうして「栗」がつくのか疑問に思っていた。この「栗太郡」の郡衙が「草津」に置かれたとされる。

写真17 長徳寺

 旧街道らしいたたずまいだ。三軒先は酒屋さんで、オールドの看板と建物の組合わせがおもしろい。

写真18 長徳寺付近の街道の様子

 右側に「新善光寺」の道標。「新」がつくので新しそうだが、『東海道名所図会』にも出ている。本尊が「信州善光寺如来と同体なり」とある。

写真19 新善光寺への道標

「六地蔵」に入り、右手に「金剛山法界寺」。「六地蔵」の名はこの村に六体の地蔵があったことから来ているが、現在残っているのはここの「木造地蔵菩薩立像」のみ。

写真20 金剛山法界寺
写真21 金剛山法界寺本堂

 この先で道がゆるやかに右にカーブしており、左手に「和中散本舗」の建物が見えてきた。

写真22 道がゆるやかにカーブし、左手に和中散本舗の建物があった

「史跡 和中散本舗跡」と書かれた石柱の横にいかにも古そうな建物があった。江戸時代に胃薬「和中散」を売る「ぜさいや」の本舗として栄えた「大角家」の建物。「店舗、製薬所、台所、居間」部は 17 世紀末、「玄関、座敷」部はやや遅れて 18 世紀前半の建立と推定されている。この「六地蔵村」には「和中散」を売る家が三軒ばかりあったらしい。

写真23 和中散本舗跡

 この先に「六地蔵一里塚」の石柱があったようだが、通り過ぎてしまった。「小野」に入り、右手に「肩かえの松」。この松の下で旅人が休憩し、荷物を担う肩をかえたところからこの名がついたという。

写真24 小野村肩かえの松

 高架を潜り進むと、右側に「手原醤油顕彰碑」の石柱、その先左手に「稲荷神社」。

写真25 手原醤油顕彰碑
写真26 稲荷神社

 つぎの交差点の右側が「手原(てはら)駅」である。ここで休憩。駅の隣のビルにあったカフェでコーヒーをいただいた。

写真27 手原駅

「手原」は古くは「手孕村」と書かれたらしい。『日本歴史地名体系』には「村名は斉明天皇の頃に村造布佐が伊弉諾尊・伊弉冉尊の陰陽神を勧請して、毎夜女の腹に手を置いて唱名したところ、男児(手孕児)が誕生したとの霊験譚に由来するという(『天満宮本社神記』近江栗太郡志)。旅に出た友人の妻を預かった村の男が夜は彼女の腹に手を置いて守ったところ、女は孕んで人の手を産んだので手孕村と称したとの俗伝もある」という不思議な話が書かれている。なにか裏がありそうな話だ。

 駅の右手には「手原遺跡」の石柱と説明板があった。「白鳳時代から平安時代前期にかけての寺院域を画す築地跡と思われる遺構、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての掘立柱建物群を、又多量の土器や古瓦、土馬を検出した。更に附近地から平安時代後期の大規模な堀立柱式建物群石鈴帯・巡方等も検出した。これらのことからこの地は旧栗太郡北東域の中心地(役所)であったと推定される」と書かれている。

写真28 手原遺跡の石柱

 再び街道に戻り、西進。「東経 136 度」の石柱。135 度は「明石」だが、ここは 1 度分、東にある。たった一度でも北緯 35 度では約 91 キロの距離となる。

写真29 東経136度子午線

 「旧東海道」はこの先で南西に向きを変える。入った場所の名が「鈎(まがり)」、「応仁の乱」の時、将軍「足利義尚」が近江守護「六角高頼」を征伐せんと近江に進行し、陣を置いたところだ。その「鈎の陣所ゆかりの地」の碑が左手に建っていた。戦線は膠着状態となって、「義尚」はここに 1 年半滞在したが 25 歳の若さで亡くなった。

写真30 足利義尚公鈎の陣所ゆかりの地

 しばらく直進すると天井川である「金勝(こんぜ)川」が行く手を阻む。この T 字路を右折して、川に沿って再び南西に進み、やっと広重の絵に描かれた「目川」に入る。

写真31 東海道道標

 右側に「目川一里塚」の標柱。

写真32 目川一里塚の標柱
写真33 目川の通り

『東海道名所図会』によれば、「目川とは村の名なれど、今は名物の菜飯に田楽豆腐の名に襲いて、何国にも目川の店多し。豆腐百珍の一種となるも、かれが全盛なるべし」と書き、「田楽豆腐」が当時の人気グルメとなっていたことを示している。右側に「田楽豆腐発祥の地」の石柱。説明板によれば「元伊勢屋跡」とある。「目川」は人気の立場だったらしい。もう一つの石柱は「従是西膳所領」と読める。「膳所藩」は大津を中心とした藩なので、このあたりまで含んでいたとは驚きだ。

 こちらも田楽茶屋の跡。

写真35 目川田楽古志゛まや跡

 少し歩いて「岡」に入る。正面に「田楽茶屋ほっこり亭」があり、旧街道は右の道になる。「草津本陣」の矢印が出ていた。逆に左に少し入ったところに、「伝膳所城大手門」があるのでちょっと見ていこう。「芭蕉句碑」があり、芭蕉の「草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒」と「田楽で 芭蕉も飲んだ 菊の水」沙弥随縁と刻まれている。「菊の水」はここの地酒らしい。

「膳所城大手門」だが、「膳所」とは随分離れているのにどうしてここに大手門があるのかと不思議に思いながら説明板を見る。「勝所城は、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦直後に大坂方への供えとして徳川家康が築城した。縄張りは藤堂高虎に、工事は諸大名に命じて築城した天下普請・第一号の徳川家の城である。この門の形式は高麗門と言い、城の枡形虎口の一の門で攻城戦に耐える堅牢さと威厳を備えた意匠である。門は左手に潜り戸を設け、控柱は八双に開く、屋根は本柱通りに切妻を設け、控にはそれより低い切妻屋根をのせる。乗馬のまま通れる寸法で、内法高は八尺三寸(二・五米)である。膳所城は、寛文二年(1663)五月一日に起きた安曇川地震で、大破したため、時の城主本多俊次によって大規模な改修・改築がされた。この門の主要な部材の経年変化と屋根瓦の家紋が改既当時の城主・本多氏の『本多立葵紋』であることから、地震直後に築されたと推定される。 甍部分に徳川家の『三葉菱紋』の紋瓦が六枚残ることから、膳所に築城された当時の家紋は、すべて『三葉葵紋』が使われていた可能性が高い。明治の廃藩置県で城の建物は膳所藩領の村に移築された。この門は膳所藩領だった栗東市林の長徳寺へ移築されていたが今般建替えられ、同じ膳所藩領の当地へ移築したものである。膳所藩領の村へ移築された城門の例は、膳所の勝所神社や矢橋の報崎神社が知られている。移築にあっては、主要部材は現状のまま使用した。屋根は長徳寺への移築寺に寺院用に改装されていたことが判明したため一部を復元した。併せて耐震補強を施した」と詳しく説明されている。明治の「廃城令」で多くの城が取り壊され、建物の一部を移築したケースをこれまで何度となく見てきたが、ここもその一つだったようだ。

写真36 伝膳所城大手門と芭蕉の碑

 この先で「金勝川」は「草津川」と合流する。「草津川」は典型的な天井川で多くの水害をもたらしてきたため、2002 年に「草津川放水路」が開削され、もともとの「草津川」は廃川となった。「旧東海道」はこの先「新幹線」の高架を潜るが、この道の左側が土手になっているのが写真から分かる。以前はこの土手の向こうを「草津川」が流れていたのだ。

写真37 新幹線の高架を潜る

 右側におもしろい標柱を見つけた。「老牛馬養生所跡」とある。説明板には「栗太郡志等にこの施設
は和弥村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和弥村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めるようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。「打ちはぎ」とは殺して皮を剥ぐという意味だろう。老牛馬が寿命を全うできる養生所の設立とは奇特な人がいたものである。

写真34 老牛馬養生所跡

 さあ「草津宿」は近い。「大路交差点」で「県道 2 号線」を横断し向かい側の小道へ。少し先で左折して、「旧草津川」を渡る。ここは「草津川跡地公園」になっている。渡った先が「江戸方見附跡」で道標のついた常夜灯が設置されている。『東海道名所図会』によれば、江戸時代は「つねには仮橋、霖雨・洪水には歩わたりなり」とある。

写真35 草津宿江戸方見附跡

 11:19「草津宿」に入った。いつもはここで筆を置くのであるが、今回は最終日、「中山道」との「追分」まで歩いたので、そこまで記録しておこう。土手から下りて、まっすぐ進むと路面の舗装が街道風に変化する。正面に T 字路が現れる。左が「東海道」、右が「中山道」だ。左の角に大きな常夜灯のついた道標がある。時刻は 11:26、「夏見」からここまでの歩行距離は 17.4 キロ、休憩・見学を含めての歩行時間は 4 時間 20 分。このあとは「草津駅」まで歩き、ビールと昼食の後、名物「姥が餅」を買って、「米原」経由で新幹線に乗り帰宅した。

写真36 草津宿入口
写真37 中山道との追分
写真38 草津名物姥が餅
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