2 回目の「京街道歩き」は 4 月 14 日。これも同窓会がらみで、会が終わったつぎの日の午前中、東京へ帰る新幹線までの時間を利用した。
伏見宿(続き)
8:19 に前回ゴールした「伏見大手筋商店街」からスタート。前回、「伏見宿」の概要について書いたので、今回はまず「伏見」そのものの歴史をおさらいしておこう。
「大手筋」を東に進むと「京阪伏見桃山」と「近鉄桃山御陵前」の二つの駅があり、その先は「伏見山」に至る。その南側の麓の「指月(しづき)の丘」(「京阪宇治線観月橋駅」の北)に「藤原頼通」の子の「橘俊綱」が延久年間(1069~74)に「伏見山荘」を建てた。以来、この地は貴族らの別荘地となっていく。昭和初期に埋め立てられるまで、この南に「巨椋池(おぐらいけ)」と呼ばれる広大な湖が広がっていた。「指月の丘」はそれを見下す「観月の地」だった。山荘に付随する荘園「伏見荘」(「伏見九郷」と呼ばれる 9 つの村で構成)は持ち主が変わっていくが、次第に団結し自治・自営化していく。そして 1592 年関白職を辞した「豊臣秀吉」が、ここに隠居所の造営を始めた。これは本格的な城郭となり「指月城」と呼ばれる。有力諸大名も「城下町伏見」に集まってくる。これに合わせて、「秀吉」は「太閤堤」という一大土木事業を実施した。複雑に「巨椋池」に流れ込んでいた「宇治川」を一本化し、「伏見」を中心とした舟運の流路を整備、また堤の上に道路を作り、街道を整備した。これによって「伏見」は「中央政治都市」に変貌したのである。この後、96 年の大地震によって破壊された「指月城」の代わりに、「伏見山」に「伏見城」が築かれ、町は更に発展する。「秀吉」の死後、「関ヶ原の合戦」で覇権を握った「徳川家康」も「伏見」を重視し再生を図るが、三代将軍「家光」の時、「伏見城」が廃城となるのを機に、町は城下町から京・大阪を結ぶ「港湾商業都市」へと変貌していく。その後、幕末には「鳥羽伏見の戦い」の戦場ともなった。

「伏見大手筋商店街」を横断し、「南部町通」を南下。右折して「油掛通」に入る。本来はここを「県道 115 号」まで進んで左折するのだが、ちょっと寄り道して「黄桜カッパカントリー」の先で左折して「竜馬通」を抜けよう。


途中の「塩屋町」、通りの左がよくお世話になった「黄桜カッパカントリー」の入口。

「龍馬通」を抜けると正面が「濠川」、右側に寄り道の目的地である旅籠「寺田屋」がある。『伏見の歴史』には、「文久 2 年(1862)大坂の薩摩藩邸より同藩の倒幕派が三十石船で伏見寺田屋に集まり倒幕を成就させるため、決起の準備を整えていました。このとき、伏見の薩摩藩邸にいた公武合体派の実力者であった薩摩藩の島津久光は、決起をやめるよう説得するため、大山格之助、奈良喜八郎ら 8 人を送りましたが、話し合いは失敗におわり、ここに大乱闘がはじまりました。倒幕派の有馬新七ら 6 人は即死、田中謙介と森新五郎は伏見の薩摩藩邸で切腹したのが『寺田屋事件』です。寺田屋は土佐藩士坂本龍馬の定宿で、慶応 2 年(1866)の正月、龍馬は長州藩の三吉慎蔵と酒を酌み交わしているところを、幕府の捕手に囲まれましたが屋根伝いに逃げて難を逃れ、薩摩藩邸にかくまわれました。同年 2 月に龍馬は薩長同盟を成立させています」と説明がある。この旅籠、現在も宿泊可能だそうだ。


「濠川」沿いに県道まで出ると、左が「京橋」。橋の上から「濠川」を撮影。「濠川」は文禄3年(1594)に「指月城」建設にともなう建築資材を運ぶため、宇治川の流路改修工事によりつくられたもの。江戸時代、「濠川」沿いには問屋、宿屋、酒蔵が建てられ、米・薪炭・ここで造った酒などを運ぶ小舟が往来していたという。その荷上場を総称して「伏見港」と呼び、特に「京橋」付近は、大坂へ向かう「三十石船」、山城へ向かう「淀二十石船」、宇治へ行く「芝舟」など、千数百隻にもおよぶ舟運で賑わった「伏見港」の中心だったらしい。

橋から下に降りてみる。枝垂れ桜の花がまだ残っていた。その側に「龍馬とお龍、愛の旅路像」があった。


幕府の捕手が寺田屋を取り囲んだ時、危機を察知し「龍馬」に知らせたのはお龍だった。龍馬はしばらく伏見薩摩藩邸にかくまわれていたが、右手の傷を癒すため「寺田屋」の前の浜から三十石船で、お龍とともに九州の「霧島」へと旅立ったとのこと。これが「日本初の新婚旅行」となる。
さて、「京橋」から南下し「中書島」の駅の手前で右折して「宇治川」に沿って「淀」に向かうのだが、歩いた道の意味を探るために「古地図」に歩いたコースを重ねてみよう。図 2 は橋本博幸「京野菜の一大産地『巨椋池干拓史』」『河川文化』97 号(2022)にある「秀吉伏見築城~江戸期の巨椋池」の図で「秀吉」によって行われた一大土木工事「太閤堤」の跡が記されているものである。黒い線が歩いたコースでなのだが、「堤」の上を歩いていることが分かる。「中書島」だが、以前からどうして陸地なのに「島」というのだろうと不思議だったのだが、図を見れば一目瞭然。ここは昔は島だったのである。

しかし、この地図だと歩いたコースがまだ水の中にある場所がいくつか残っている。特に「淀」の辺りが顕著である。これについては、「淀」のところで考えて見よう。
「濠川」に架かる「肥後橋」を渡り、南へ進む。桜が植えられているが、かなり散ってしまっていた。前方に「京阪宇治線」の鉄橋。その向こうの「伏見みなと広場」は「伏見港」を再現しており、十石船の模型も置いてある。この辺りが「伏見宿」の出口だろう。


伏見宿~淀宿
「三栖閘門」「伏見船の乗り場」を過ぎて、「宇治川」の手前まで出たが隣の「東高瀬川」を越える橋がない。先ほどの「肥後橋」あたりまで戻って川を越え、再び「宇治川」の手前まで戻ることになった。前回、オススメした「歴史街道」の地図では、「伏見みなと広場」に行かず、「肥後橋」を直進して「東高瀬川」を渡り、左折して「宇治川」土手に向かうようになっていた。


「宇治川」に近いところで「東高瀬川」を越えるこんな橋があったのだが通行止め。Google Mapでは渡れることになっている。

「京阪国道(国道 1 号線)」を横断し、土手の上の道を歩く。ここは「秀吉」の時代には川の中洲に作った堤だ。この堤で「宇治川」を分断した。現在は左が「宇治川」、右側を「京阪電車」が走る。


少し先で「京阪電車」とともに土手から下りた。こんどは線路の右側を歩く。もともと川だったとこらなので、殺風景な道だ。「下野第二公園」の隣に「戊辰戦争」の碑。慶応 4 年(1868)、「戊辰戦争」の緒戦「鳥羽・伏見の戦い」で、最大の激戦地になったのがここ「淀の千両松」。吉田東伍『大日本地名辞書』は「伏見の役、三日の戦に東軍敗れたりしより、四日の晩に新撰組の隊長土方歳三は千両松の辺に陣を置き、淀川と淀沢の間一条の通路を扼して官軍を拒む、薩長の銃兵奮進之を撃ち、猛攻して敵三十余人を斃す、東軍敗走、然れども尚地形を相して各所に防禦を試みたるを以て、六日八幡上下の戦に至るまで伏見以南の地昼夜戦闘を継続す、蓋云く薩長の兵苦戦、死傷を被るもの戊辰各処の諸戦中伏見の役を最大とす」と書いている。その死者の埋骨所がここにある。

「京都競馬場」の横を歩く。次第に「京阪電車」から離れていった先、右側に「淀小橋旧趾」の標柱。横の説明板には「淀小橋は、かつてここを流れていた宇治川に架けられた橋で、紀伊郡納所村と淀の城下町とを結んでいた。京都・伏見と大坂とを結ぶ街道にあった重要な橋である。慶応四年(一八六八)正月三日に鳥羽伏見の戦いが始まった。当時の淀藩主であった稲葉正邦は、板倉勝静らと共に幕府老中の重職にあり、淀城は幕府方の重要拠点だった。ただし藩主正邦は淀におらず、城の留守は家老の田辺権太夫が守っていた。五日、富ノ森・ 千両松の戦いで官軍に敗れた幕府軍は、態勢を立て直すべく淀城へ入ろうとしたが、権太夫は、官軍方の働きかけを受け、幕府軍の入城を拒んだという。そのため幕府軍は、淀小橋・淀大橋を焼き落としたうえで、さらに南の橋本(八幡市)まで退却した。このあと、淀城は官軍に対して開城する。幕府軍にとって淀城を失った打撃は大きく、鳥羽伏見の戦いの趨勢を決めた要因の一つとも言われている。淀小橋はすぐに再建されたが、淀川改良工事の一環として、明治三十六年(一九〇三)に宇治川が付け替えられ、現在の流路へ変わると、この地に橋は不要となり撤去された」と書かれている。

淀宿
「京街道」はここで左折、一方通行の細い路地を抜けると「京阪淀駅」の前に出る。枝垂れ桜の前に水車のモニュメントがあった。

「京街道」はここで「京阪電車」の線路をくぐり南に向かうのだが、ちょっと「淀城」に寄っていこう。線路に沿って進むと「與杼(よど)神社」の鳥居の前に出た。写真を撮っていなかったので、Google Maps ストリートビューから拝借。

参道を進むと神社は右で、左側に「淀城」の石垣が見えた。

説明板の絵を見て驚いた。まわりを無数の濠で囲まれた水城だったのである。こんなものがここに建っていたのだ。

「淀城の由来」と書かれた説明板もあった。ここに書き写しておこう。「徳川二代将軍秀忠は、元和五年(一六一九)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定編に築城を命じて、元和九年(一六二三)着工、寛永二年(一六二五)に竣工した。翌寛永三年、秀忠、家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。寛永十年(一六三三)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(一七二三)五月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新道での百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし 『淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると』のうたで名高い水車は直径ハメートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていた。淀城とその城下町の盛観は延享五年(一七四八)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節) の様相を写した『朝鮮聘礼使定城看系図』に詳しく描かれている。昭和六十二年夏に天守合の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守間の地下室と基礎であり、宝暦六年(一七九六)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。 なら淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。」
これでだいたいの事がわかる。駅前の「水車」についても説明されている。だが、ハッキリしないのはその規模感だ。2013年に行われた「第247回京都市考古資料館文化財講座」で尾藤徳行氏が「淀城跡」という講演をされている。その資料が公開されている。そこにある「寛永 14 年以降の淀城下町」の図に、『歴史街道』の京街道のコース情報や現在の駅・寺社等所在情報を加えてみたのが図 3。寛永14年に「永井尚政」が「木津川」の付け替えを行い、城下町を拡張しており、その姿が図に描かれている。

「淀小橋」は「宇治川」に架かる橋で、ここを越えると「淀城」。すぐ西に本丸があった。「與杼神社」はもともと「桂川」の向こうにあったが、明治35年(1902)の「桂川」の河川敷拡幅工事に伴って本丸跡に移設された。「京街道」のコースは赤線、「伏見」から来るとこの「小橋」を渡り、お城のすぐ横を抜け「木津川」に架かる「大橋」を渡って、「円通寺」前の道に出る。いずれも「町家」のあったところを抜けている。「ブラタモリ」でも説明していたが、この街道は「西国」の大名の参勤交代用に「京」を通らないルートということで作られたのである。西から「江戸」に向けてここを通る大名たちはこの水で囲まれた城を見てビックリし、「徳川」の力を思い知ったことだろう。
説明板にもあったが、この「淀城」は「淀君」が住んでいた城ではない。図3 より以前、1623年(元和9年)以前の淀の図があったので、同じように「京街道」のコース等を追記したのが図 4。「淀城」があったところは川の中洲。「淀君」の「淀古城」はちゃんとした陸地にある。また、「小橋」から北に進み「桂川」沿いに進む「鳥羽往還(大阪街道)」が主要街道だったようだ。

現在、「淀」の状況は現在まったく変わってしまっている。明治の改修で「桂川」「宇治川」「木津川」の合流地点が、ずっと南、「石清水八幡宮」のある「男山」の前に移ったのある(図1)。
さて「淀宿」だが、下記の概要が示すとおり、
- 所在地:山城国紀伊・久世郡(京都府京都市伏見区淀本町など)
- 江戸・日本橋からの距離:128 里 28 町 1 間
- 宿の規模:家数 836 軒、本陣・脇本陣なし、旅籠屋 16
- 宿の特徴:桂川、宇治川、木津川が合流し淀川となる地点にある津で、人・物資の水陸輸送の要。淀藩の城下町。
「京街道」歩きに戻ろう。「淀駅」を越えて南西に進む。途中に「淀水路」があり、枝垂れ桜や河津桜の名所となっている。ここがかつての「木津川」の跡である。

淀宿~石清水八幡宮
さらに「桂川」と「宇治川」の間を西に進み 11:22 に「御幸橋」に到着。「宇治川」を渡る。


ここで「木津川」を渡れば右側にゴールの「石清水八幡宮駅」があるのだが、「宇治川」と「木津川」の間にある「淀川河川敷公園背割堤」は有名な桜の名所なのである。せっかく来たのでちょっと寄っていこう。「宇治川」を越えたところで右に入った。
堤の上を歩く。ここには 1.4 km の約 220 本の桜並木がある。ちょっと花の盛りを過ぎていたが、結構賑わっていた。京都なのでインバウンドが多く、ドレスで写真を撮ろうという中国人らしい女の子たちがいろんなポーズをとっている。

桜の時期は水上からお花見ができるよう「クルーズ船」が運航している。


堤の上の道をずっと歩いて行けば川の合流が見られるかと思い進んだが、見えるのは草ばかり。ここから下りなければ無理のようだ。電車の時間もあるので引き返すことにした。

「木津川」の方に下りてみる。なかなかいい感じだ!

「御幸橋」に戻り、「木津川」を越えた。

入ったところは「八幡市」。もちろん「石清水八幡宮」から名前がきている。

橋を渡って直進する。「京阪電車」の踏切を越えたあと右へ。12:16 「石清水八幡宮駅」にゴールした。この日の歩行距離は 15 キロ、時間にして 3 時間 57 分だった。

