最初は「常陸国一之宮」の「鹿島神宮」である。
国道 51 号線を潮来から東に進んで「神宮橋」を渡り、左折して案内板にしたがい県道 192 号に入る。直進すると参道商店街を経て、「鹿島神宮」の「二の鳥居」の前に出る。スダジイの大木が私を迎えてくれた。

境内案内図に従い参道を進み、壮麗な「楼門」を過ぎると右側に「本殿」がある。参道から外れているので、うっかりすると通り過ぎてしまいそうだ。


あいにく、本殿の前にある拝殿・幣殿は「令和の大改修」で工事中だった。お詣りを済ませて右側に回ると、本殿とその後ろのご神木を見ることができた。この社殿は、元和 5 年(1619)に二代将軍、徳川秀忠が寄進したものだそうである。神紋の「左尾長三つ巴」が見える。ご神木は巨大な杉の木で、まさに本殿に覆いかぶさらんばかりだった。

神社の本殿は通常、南向きか東向きであるが、ここは珍しく北を向いている。一方、中のご神体は東を向いているという。つまりお詣りしても、ご神体にそっぽを向かれているわけだ。この配置は「出雲大社」とまったく逆なのだそうだ。「出雲大社」では本殿が南向き・ご神体が西向きになっている。北向きの本殿は「北方の敵」をにらんだもの、東向きのご神体は「日の出」の方向と関係するといわれているが、何か深い意味がありそうだ。
「本殿」から杉などの樹木がうっそうと茂る奥の参道を進むと左手に「鹿苑」があり、その先の右側に「奥宮」がある。そこで道が分岐し、南に進めば「要石(かなめいし)」、北は「御手洗池(みたらしいけ)」に出る。さすがに「常陸国一之宮」にふさわしく、壮大で霊気に満ちた神社である。




この「奥宮」は「慶長 10 年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その 14 年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきたもの」とある。ちなみに「楼門」は寛永 11 年(1634)に水戸徳川初代藩主の頼房卿により奉納されたものである。つまり、現在の建物は江戸時代に作られている。その前はというと、「神宮の門前町が形成される中世以前には、大船津の津東西(つとうざい)社から溺谷(かつて宮下川が流れていたが、現在は暗渠)を舟で『御手洗池』まで進み、そこで潔斎して参宮したと考えられる」(平凡社「日本地名体系」)とのことなので、古くは「御手洗池」から上がって来たところにある「奥宮」が中心だったのではないか。「津東西社」のあった位置を下の地図に示す。「西の鳥居」ももっと東側だったろう。また、この地図では、「御手洗池」まで海が入り込んでいないが、ここを流れていた「宮下川」を暗渠にしたせいであろう。

この地の様子について「常陸国風土記」(713 年頃成立)はつぎのように書いている。いかにも、山の高みにある神仙郷のイメージである。
地勢は高く見晴らしはよく、東と西とは海に面し、峰と谷とが犬の牙のように、村里と交互に入りまじっている。山の木と野の草とは、(生い茂って)内庭をかこむ垣となって隠し、谷川の流れと岸の泉とは、朝夕の汲み水を湧き出しているように豊かである。嶺の頂に家を構えれば、松と竹とは垣の外を守り、谷間の中腹に井戸を掘れば、薛(つた)と蘿(ひかげ)が崖の上を覆ってくれる。春にその村を通れば、さまざまな草に□のように美しい花が咲き、秋にその路を過ぎれば、いろいろな木々に錦のようにきらびやかな黄葉(もみじば)がある。神仙が世を避けて住む所、霊異が姿を変えて生まれてくる地とでもいうべきであろう。
常陸国風土記 小学館「日本古典文学全集 5」口語訳
この神社が建てられたのはいつ頃だろうか?
鹿島神宮の由緒によれば、「鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります」とあるが、「常陸国風土記」によれば、
淡海(あふみ)の大津の御世(天智朝)に、初めて使いを遣わして、神の宮を造らせた。それ以来、修築を続けている。
常陸国風土記 小学館「日本古典文学全集 5」口語訳
とあるので、宮の建物は天智朝(662 ~ 671)に出来たようである。それから遡る「乙巳の変(いっしのへん)」から 4 年後の大化 5 年(649)に
大乙上中臣□子・大乙下中臣部兎子等が、総領高向の大夫(まえつぎみ)に願い出て、下総の国の海上(うなかみ)の国の造(みやつこ)の所轄である軽野から南にある一つの里と那賀の国の造の所轄である寒田より北にある五つの里を割いて、別に香島の大神の鎮座する郡(こほり)を設けた。その所にいらっしゃる天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社の三社を合わせて香島の天の大神という。これによって郡に香島と名をつけた。
常陸国風土記 小学館「日本古典文学全集 5」口語訳
と、「神郡(かみのこほり」が設置されたことが記されているので、それに合わせて、以前からあった「社」を本格的な「神宮」へ変化させていったものと思われる。「常陸国風土記」はさらに
神戸(かんべ)は、六十五戸である。〔本は八戸であった。難波の天皇(孝徳天皇)のみ世に五十戸を加え奉り、飛鳥の浄見原の大御世(天武朝)に、九戸を加へ奉り、合わせて六十七戸である、庚寅の年(六九〇)に、編戸二戸を減らし六十五戸に定めるようお命じになった。
常陸国風土記 小学館「日本古典文学全集 5」口語訳
と記している。つまり、祭祀を維持するために神社に付属した民戸である「神戸」が孝徳天皇の御代である「大化」の時代に 8 戸から 50 戸へ一気に増えている。
この「神宮」が建設されたのは「乙巳の変」の後である。「乙巳の変」といえば、中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターであり、それに続いて「大化の改新」と呼ばれる政治改革が断行される。中臣鎌足は「藤原氏」を名乗り、その子孫が政権の中枢を担うことになる。藤原氏一強の時代は平安時代まで続く。鹿島において「神郡」設置を願いを出たのは、その「鎌足」と同族の「中臣氏」だった。これはどういうことか? もう少し掘り下げて考えて見よう。
(2023/07/31)