2025 年の「歩き旅」の始まりである。今回は「羅城門跡」から「神戸三宮」まで三日半かけて歩く。一日目は「高槻市」の「芥川宿」までの行程である。
羅城門跡~山崎宿

朝起きた時にはまだ雨が降っていた。気温は 7 ℃。これから晴れるようだが、不安定な天候でどこかで雨に会うかもしれない。7:44 に「羅城門跡」に到着。「芥川龍之介」の小説「羅生門」は知っているが「羅城門」とは何だろう?「京都市」が出している「都市史05」に解説があった。


「羅城(らじょう)とは、古代都市を取り囲む城壁のことで、羅城門は羅城に開かれた門です。中国では外敵防禦のため堅固な羅城が築かれましたが、日本では藤原京以来、京城の南面の羅城門の両翼のみに造られただけで、周囲には簡単な垣(土塁)と溝が設けられていたようです。平安京の羅城門は、朱雀大路(すざくおおじ)の南端に建てられた都の正門です。読み方は、呉音で『らじょうもん』、漢音では『らせいもん』となります。(中略)中世には観世信光(かんぜのぶみつ)作の謡曲『羅生門』の影響からか『らしょうもん』が一般化したようです」とあり、「羅生門」と「羅城門」がつながった。さらに門の構造と規模について解説は続く。「門は重層で入母屋造、瓦屋根に鴟尾(しび)がのっていました。規模は、幅十丈六尺(約 35 メートル)、奥行二丈六尺(約 9 メートル)、高さ約七十尺(約 21 メートル)。正面柱間が七間で、そのうち中央五間に扉が入り(七間五戸)、左右の一間は壁であったと考えられています。木部は朱塗りで、壁は白土塗り。内と外は、幅が七丈(約 24 メートル)五段の石段で通じていました。朱雀大路の南端に建つ羅城門と、約 4 キロメートル北に建つ朱雀門は同じ形と大きさであったとみられています。他の門が、五間三戸だったことを考えるとその大きさがわかります」。
この「羅城門」の模型が「京都駅北口広場」の東側に設置されているという。写真 3 がそれで、今は見る影もないこの場所に、かつて豪壮・華麗な門が建っていたわけである。

「朱雀大路」は今の「千本通」だが、地図を見ると北に「旧千本通」という細い通りがあるから、確かにここが「平安京」の中央大通りなのだ。「東寺」は確かに「朱雀大路」の東にある。こうなると、地図を見る眼も違ってきて、西側に「西寺跡」も発見した。
「羅城門」を出て、「九条通」を西に進む。このあたりでは「西国街道」は有名なのか、Google Map にも表示されている。「九条御前」の交差点で街道は通りから分かれて南西向の道となる。この先、「桂川」を越えるのだが、川の手前に「西国街道」の道標と「日向(ひむき)地蔵尊」があった。川を越えた先が「向日(むこう)町」、「日」と「向」の順序が逆だが、何か意味があるのだろうか? それとも、単に「日当たりのよいところにあるお地蔵様」なんだろうか?

少し南下して「久世橋」を渡る。


「京街道歩き旅」では「淀宿」の北を流れていた「桂川」だが、今回はこの川を越えて、その北側を歩く。「京街道」は「秀吉」が作った堤を歩く文字通りの「ハイウェイ」だが、「西国街道」は山際に通した古(いにしえ)の道である。きっと、趣もかなり違うだろう。なお、「京街道」では「京阪電車」が並行して走っていたが、「西国街道」では 「JR 京都線」と「阪急 京都線」が並行している。
橋の途中で面白い「標識」を見つけた。「羽束師」と書いてある。ローマ字で「ふりがな」がうってある。これだと「はずかし=恥ずかし」だが、本当は「はづかし」だろう。矢印に従って「桂川」を下り、「鴨川」と合流した先の右岸が「羽束師」である。ここに「羽束師坐高御産日(はづかしにますたかみむすび)神社(羽束師神社)」があり、そこにある「羽束師森」は歌枕として多くの歌に用いられているらしい。例えば『後撰集』の「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 社といふらん(読人知らず)」は完全に「恥ずかし」の意味で使われている。だから「はずかし」のふりがなは間違いという訳ではないようだ。

その名前の由来はなんだろうか? 吉田東伍の『大日本地名辞書』には「姓氏録に摂津国天孫羽束氏あり天佐鬼利命三世斯鬼命の後とあり此と相関る所ありや、摂州有馬郡に羽束郷あり」とあるが、由来までは書いていない。この「摂津国」にある「羽束師」は「三田市たより」によれば「関係する資料の研究からは、矢羽に用いるワシやタカなど 猛禽類に代表される大型鳥類の羽の束、そしてその羽を矢羽に加工するという技術やなりわいと関わる可能性が高いと考えられています」とのこと。これは「栄原永遠男」氏の説だ。一方、「乙訓郡」の「羽束師」は川の交わる平坦地であり、ここで大型鳥類の羽を入手するのは無理がある。先に書いた「羽束師神社」の祭神は『続日本紀』では「波津賀志神」と「波」の字を使って表記され、『日本三代実録』の貞観元年(859)9 月 8 日条に「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」とあり、風水害除けの神として崇敬を集めていたことが書かれている。場所がらからみて「川」を治める神だったようだ。ここに「ハツカシ」という氏族が住んでらしい。『日本書紀』の「垂仁紀」に、「垂仁天皇」の皇子「五十瓊敷」に与えられた 10 箇の品部の1つとして「泊橿部(はつかしべ)」が見える。さらに『養老令』の注釈書『令集解』の職員令には「土工司」に属する「泥部(ぬりべ)」が古くは「波都加此乃友造(ハツカシノトモノミヤツコ)」と言った書かれており、この二つから「ハツカシ」は「泥部」ではないかと考えられている。「土工司」は土壁を塗り、瓦を焼成し、石灰を焼くという職掌だが、この場所との関係が今ひとつピンとこない。「伏見区役所神川出張所たより」では、「羽束師神社は 1500 年を超える歴史があり、土師氏(はじし)(粘土製のうつわ土師器を作った人々)にたどり着きます。これは有力な羽束師の語源でもあります」としている。「土師(はじ)氏」は「土部(はじべ)」であり、「土器製造」はもちろん、古墳の造成や土木工事にも関わってきた。その祖は出雲系の「野見宿禰」で、彼は「垂仁天皇」の皇后、「日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)」の葬儀に際して、これまでの殉死の風習に代えて「埴輪」の案を出し、「土師臣(はじのおみ)」の姓を与えられた。彼はまた天井川である「斐伊川」の「出雲結」と呼ばれる止水方法を考案したとされることから、その後裔がこの場所で河川工事に携わったとしてもおかしくない。また「土師氏」後裔の「菅原道真」が左遷されて「太宰府」に向かう際にこの神社に立ち寄っていることから考えても、なかなか魅力的な説だと思う。
さて、川を渡って西へ、「新幹線」の高架を潜り「JR 向日町駅」に向かったが、東側から駅に入れず、『歴史地図』に記載されていた西側に出る「地下通路」もよくわからなかった。かなり大回りの後、「西口前」に到着した。「府道 207 号」に入り、「西羽束師川」にかかる「深田橋」の前に、「光明寺道大道標」があった。隣の説明板には「この大きな石碑は、粟生光明寺への参詣道を案内する道しるべです。背面に、明治三十三年 (一九〇〇)五月、豊前小倉の人々の寄付で建立されたことが記され、 左側面には『是より西三十町』(一町は約一〇九 m、約三・三 km のこと)、 右側面には石碑を造った京の石工らの名が刻まれています。この場所に移す前は、向日町駅の駅前広場の南西に立っていました。この辺りが乙訓の玄関口であることを物語るものです」と書かれていた。また、「向日町駅」は京都府下で最初の鉄道の駅なのだそうだ。開通は明治九年(一八七六)七月、区間は「大坂」~「向日町」までだった。

「阪急電車」の線路の先の最初の分岐では、「西国街道」の道標と「常夜灯」の間の道を進んでいく。

つぎの「梅の木」の四つ角には道標が四つも並ぶ。左端の小さいものは「右〈灰方 伺地蔵/岩蔵観世音〉道」、その右は「ほうぼだい院観世音西三丁」、さらにその隣「淳和天皇御陵右へ二里/桓武天皇皇后御陵左七町」、右端「官幣中社大原野神社右へ一里」と書いてある。ここが様々な場所への分岐点だったことがわかる。

その先、「向日町競輪場」への分岐にも「西国街道」の道標。「府道 67 号」に出た「須田家住宅」の横にも道標があった。これだと道に迷う恐れがない。


街道は「府道 67 号」を南下するのだが、「向日神社」と「長岡宮跡」に立ち寄ってみようと思う。なんとこの二つの場所は、府道の左と右に分かれている。まず、神社からはじめようと「あたご道」を進み、「西ノ段公園」の先で左折したのだが、府道をこのまま進んで「大鳥居」のところで参道を進んでもよかった。いずれにしても、神社は「向日丘陵」の上にあるので坂道を上らなければならない。

この参道、両側が桜なのである。この神社は桜の名所だった。参道を上りきると正面にまず、「舞楽殿」。

その先に「拝殿」、そして奥に「本殿」。


神社のリーフレットに詳しい解説がある。面白いので引用する。
弟国の宮 向日神社
向日神社は醍醐天皇延喜年間施行の延喜式神名帳に記載された式内社であり、神名式においては「山城国乙訓郡向神社」と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社(おとくににますほのいかづちじんじゃ)を合祀して今日(向日神、火雷神、玉依姫命、神武天皇)に至っている。この両社は、同じ向津日山(向日山)に鎮座されたので、向日神社は上ノ社(五穀豊穣の神)、乙訓坐火雷神社は下ノ社(祈雨・鎮火の神)と呼ばれていた。、向日神社の創建は、大歳神(大原野灰方鎮座大歳社御祭神)の御子 御歳神(向日二所社御鎮座記によれば、「神須佐男命(かんすさのおのみこと)の児 大歳神、活須日神(いくすびのかみ)の女 須治曜姫命(すじひめのみこと)を娶りて生める神」が向日神であり、向日山に鎮座したと伝える。)がこの峰に登られた時、向日山と称されこの地に永く鎮座され、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることになったのである。
(中略)
最後に「乙訓」と書いてオトクニと読ませたのは、桓武天皇の延暦 16 年(797)完成した続日本紀が最初で、それまでは、古事記も日本書紀も「弟国」と記している。弟国の地名の謂れについては、古事記垂仁紀につぎのような伝説がある。天皇は丹波の美知能宇斯王(みちのうしおう)のむすめ日葉酢媛、乙比売、歌凝比売、円野比売の四人を召したが、あとの二人の媛はたいへん醜かったのでもとの国へ送り返された。二人はそれを恥じて、途中で深い淵に墜ちて死んだ。「故、其地を号けて墜国(おちくに)と謂ひしを、今は弟国と云ふなり」。この話は日本書紀にもほぼ同じ形で記されているが、墜ちた媛は一人で、名は竹野媛となっている。弟国はおそらく兄国(えくに)に対する小国(おくに)の意味であり、早くから開けてかつ広い葛野地方に対していまの乙訓を言ったものである。古墳の多いところから見て、あるいは隠り(こもり)国の意味に用いたかもしれない。
神社リーフレットより
「乙訓」が古くは「弟国」と書かれ、その「地名起源譚」が『記紀』にあるという。ここに書かれている天皇とは十一代天皇「垂仁(すいにん)」(イクメイリ彦イサチ)のことで、「京街道歩き旅」の「楠葉」の「地名起源譚」で書いた「タケハニヤス彦」に勝利した「崇神天皇(ミマキイリ彦)」の第三皇子である。そして、その皇后が前述の「日葉酢媛」。
神社のある「向日山」には「元稲荷古墳」がある。この古墳は「前方後方墳」という珍しい形状のものであり、大場岩雄氏の『日本古代試論』によれば、「前方後方墳は全国で約六十基以上がみとめられるが、そのうち十七基が出雲に集中している。(中略)畿内は大和、播磨、山城、伊勢を加えても出雲以下である。前方後方墳は、大和の古墳文化圏外において発生した墳型のようである。水野祐氏は、前方後方墳の出雲と北関東の集中度から、出雲で発生した前方後方墳が出雲族の北関東への進出によって北関東に普及したとみる」と書かれている。畿内で珍しい「前方後方墳」の例の一つがここにあるのである。
「垂仁天皇」に嫁いだ姫たちは「丹波」から来ていた。先ほどの写真 12 の道標に「たんばみち」がある。ここを進むと「国道 9 号線」に合流し「亀岡」に出るのである。「平安京」以前はこの道が「丹波路」だったのである。そして、その「亀岡」に「出雲大神宮」がある。なんとこの神社、「丹波国一宮」なのである。この「向日山」の裾を通る道を通って「出雲系氏族」が移動してきたのだろう。そして「向日山」に住み着いたのだと思われる。「日葉酢媛」の葬儀に出雲系氏族の「野見宿禰」が登場しても不思議はないのである。
再び「西国街道」に戻り、今度は東へ。ここに「長岡宮」の「太極殿跡」があるのである。

「桓武天皇」が「平安京」の前に都を遷した「長岡京」。『日本大百科全書』には、「平安時代初期、山城国乙訓郡に置かれた都城。現在の京都府向日市・長岡京市付近にあたる。桓武天皇は 784 年(延暦 3)11 月 11 日に平城京からこの地に遷都し、以来 794 年 10 月 22 日に平安京に遷るまでここに都した。政治の中心である宮城は向日市に、経済の中心である東西市は長岡京市に、交通の中心であり都の玄関にあたる山崎津は大山崎町に、淀津は京都市にあった。南北は十条、東西は左右各四坊計八坊あったと考えられているが、他の意見もある(平安京は南北 9.5 条、平城京の左京は 9 条、右京は 9.5 条分あった)。長岡京が南北に長いのは、南東部の淀付近が低湿地であり、南西部が山であった関係であろう。北部の宮の一部も丘のため建物は建てられていなかった」とある。これは本格的な都である。「平城京」からの遷都理由としては、仏教勢力からの絶縁・人心一新の他に、人口増と物資の輸送問題が挙げられる。「平城京」のそばに大河はなく、水運の便を欠いた。これに対して、この地は「淀川」「桂川」「宇治川」「木津川」が交わる地点であり、水運という点ではこの上ない土地。古くは「継体天皇」も「弟国宮」を建てた場所である。「豊臣秀吉」もこの地の「水運の便」に目をつけたのはすでに見てきた通り。また、側近「藤原種継」の母や「藤原小黒麻呂」の妻の実家が山城国葛野郡や乙訓郡に居住する渡来系氏族「秦氏」であり、その支援を受けられたことも遷都理由に挙げられている。
「しかし、785 年には遷都の首唱者で造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、これに関係したとされる早良親王の廃太子事件が起きた。この時代、大規模な蝦夷征討事業も行われたが、その経済的負担も大きかった。ところが完成近かった都も洪水や政争が続き、早良親王の怨霊に悩まされた桓武天皇によって、わずか 10 年で平安京へ都を遷すこととなった」と『日本大百科全書』は書く。
ここは今、住宅街になっている。その造成で発掘が進み多くのことが明らかになったようである。公園の中に「長岡京」の地図があった。これによれば、「朱雀大路」の少し西を「西国街道」が通っている。「長岡京駅」のあたりから、次第に山の方に近づいていき「大山崎」に入るようだ。

「太極殿跡」。今は、住宅街の中の公園である。訪れる人はそんなに多くはない。時刻は 10:04。

南に進んで法性山「石塔寺」。

そのまま南下を続けて「小畑川」に架かる「一文橋」を渡る。橋の手前には「一文銭」のモニュメント。この橋、室町時代に造られ、「大雨のたびに流され、その付け替え費用のために通行人から一文取り始めたのが橋名の由来」と説明板に書いてあった。ここから「長岡京市」に入る。


少し府道を進み、左の細い道に入る。進むと「神足商店街」の看板があった。この先、左に「JR 長岡京駅」。

こんな道標が! 「神足(こうたり)」というJR の駅があるわけではない。この名前は「神(かむ)至り」から来ているという。

右に「旧石田家住宅」の「神足ふれあい町家」。江戸時代末期の商家だそうだ。

その先、右に「なかの邸」。ここも江戸時代末期に建てられた住宅で、今は「おばんざいとお酒の店」。

「調子八角」で「名神高速道路」を潜り、「小泉川」を渡ると「大山崎町」だ。「天下分け目の山崎合戦の町」と書いてある。時刻は 11:16。


山崎宿

「山崎宿」の概要は次のようになる。
- 所在地:現 島本町山崎・山崎一~三丁目、京都府乙訓郡大山崎町大山崎
- 位置:江戸へ一二九里余、伏見宿へ二里一四町、芥川宿(現高槻市)へ二里
- 規模:家数 261、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 8
- 特徴:山崎通(古代の山陽道のルートにほぼ合致し、西国街道ともよぶが、江戸幕府道中奉行の公称は山崎通)の山城国と摂津国の国境にある宿駅。京都・伏見宿からの行程からみて、次の本宿の芥川宿までの中間にあたる間宿であった。山崎合戦の舞台。荏胡麻油発祥の地。
中世、ここに「大山崎荘」という荘園があり、それで「大山崎」という名になった。さらに古くは「河陽(かや)」と呼ばれた。これは「河」の「北」という意味で、嵯峨天皇の離宮があったという。後述する摂津郡島本町の「水無瀬宮」も近くだ。このあたり北は山、南は川に面し、その川には多くの浅瀬があって水鳥が行き交う風光明媚な場所であったのである。
JR 線の線路をくぐり、さらに「名神高速」の高架下を進むと左が「大山崎町役場」。

その先の右に「黒門跡」と「高瀬川清兵衛石碑」がある。大きな石碑の「高瀬川清兵衛」はこの地出身のお相撲さんだったらしい。そばの説明板は「黒門」について詳しく記す。「江戸時代後期までの大山崎は、西国街道(現在の府道六七号線)に沿って屋敷地が長細く続く集落でした。かつて大山崎の住民は集落の東西の先端に、東黒門、西黒門を設け、治安の維持をはかっていました。この地点は、そのうち東黒門の場所で、門の前で道が屈曲していました。江戸時代には周辺に数多くの旅籠があり、黒門に接した高槻屋は、大名も宿泊できる大山崎随一の宿屋として知られていました。かつての黒門の様子は江戸時代の古絵図に描かれています。天正一〇年(一五八二)六月の有名な山崎合戦では、羽柴秀吉軍の先陣高山右近が、東黒門を利用して、この地に陣取りました。門を開けるよう求めた明智光秀の軍と小競り合いとなり、合戦が始まったと言われています」とある。

説明板にあった道の屈曲を示す図。屈曲させて道を絞り、門がつけられていたようだ。

さて「山崎の合戦」である。天正十年(1582)6 月 2 日「本能寺の変」で「織田信長」を討った「明智光秀」。そこへ、「備中高松城」を攻めていたはずの「豊臣秀吉」が軍勢を率いて京に向かっているとの通報が入る。「秀吉」の動きは速く、6 月 4 日には「毛利」と和睦を結び、「中国路(西国街道)」を京に向けて進軍、9 日には「姫路」を出発、「明石」を経て「兵庫」へ、ここで休養をとった後、12 日には「摂津富田(高槻)」に着陣(これを「中国大返し」という)。軍勢は約 2 万。一方の「光秀」はこの間、味方を増やそうと奔走するがなかなか集まらず、「秀吉軍」の半数の軍勢で 「下鳥羽」に陣を敷き、「勝竜寺城」(京都府長岡京市)にも兵を入れた。これが 10 日から 11 日にかけてのこと。この両者が「山崎」の地でぶつかる。以前は「天下分け目の天王山」と呼ばれたのだが、「天王山」で実際に戦闘が行われることはなく、戦場となったのは先ほど通ってきた「小泉川」のあたり。数の上で分のない「光秀」は、「山崎宿」の狭隘な街道筋を戦闘の場としたかったのだろう。狭い場所だと戦陣を広げられないため「数」の効果が出にくいからだ。ところが、説明板にあるとおり、「山崎宿」は「秀吉」側となり、「光秀軍」は中には入れなかった。「小泉川」を挟んでの戦いは 1 時間ほどで決着したという。もちろん、数の多い「秀吉軍」が勝利したのだ。そのあとはご存じの通り、「光秀」は 6 月 13 日、「勝竜寺城」より「坂本城」へ向かう途中、落ち武者狩りにあい死んで「秀吉」の天下がくる。
「山崎宿」の情報を得ようと、この先の「大山崎歴史資料館」に行ったが、この日は休館日だった。

「阪急電車」の線路をくぐる。左に「阪急大山崎駅」。「天王山」への登り口が右手にある。

この先、右手に「離宮八旛宮」の東門がある。すぐ西が「JR 山崎駅」だ。


神社の中へ入ってみよう。進むと右側に鳥居があり、その奥に社殿がある。主祭神 は「八幡大神(応神天皇、神功皇后)」、相殿は 「 酒解大神(さかとけのおおかみ、別称として大山祇神ともいう)、比売三神(ひめさんしん)」。

鳥居の先の右側にある碑。手前が「河陽宮故址」とある。先に述べた「嵯峨天皇」の離宮だが、ここがその跡とされる。それで「離宮八旛宮」と呼ぶのだ。奥の碑には「本邦製油発祥地」と書かれている。

写真 37 は神社の手前の街道筋にあった説明板。「荏胡麻油の発祥の地」と書かれている。ここでは荏胡麻を絞って灯明用の油を作っており、ずいぶん売れたようだ。先の「山崎合戦」の際、この地の「油座」が「秀吉」側についたことが勝利の一因という説(「サライ」)もある。

「離宮八旛宮」の先で、街道はカギの字に折れ曲がる。そこが「山城国」と「摂津国」の国境。現在は、ここから「大阪府三島郡島本町山崎」になる。県境に「是従東山城国」の碑と街道左手に「関大明神」。



西に進むと JR の線路伝いの道となり、その向こうに「サントリー山崎蒸留所」があった。「サントリー」の前身の「寿屋」の創業者「鳥井信治郎」がここに日本初のモルトウイスキーの蒸留所を建設したのが大正 13 年(1924)、必要な設備はのちに「ニッカウヰスキー」を創業する「竹鶴政孝」の指揮のもと揃えられた。「山崎」のな湿潤な気候がウィスキーの製造に適していた。工場見学もできるしレストランもあるが、今回は「街道歩き」が主なので写真をとるだけとした。

とはいってもお腹がすいたので、この近くの「ウラロジ食堂」で昼食。線路際のおもしろいお店だった。

店を出ると空模様が怪しい。時折、ポツリポツリとくる。「水無瀬川」の手前で「島本町東大寺」に入る。12:45 に「山崎宿」を出た。
山崎宿~芥川宿

「水無瀬橋」を渡る。「水無瀬川」は「島本町大沢」の「釈迦岳」が源、蛇行を繰り返して淀川に流れ込む。『日本国語大辞典』によれば「水無瀬川」はそもそも「水の流れていない川。川床だけあって、水は伏流となって地下にもぐってしまうような川。また、水の非常に少ない川」を表す一般名詞で、「水は地下を流れるところから、『下(した)』にかかる」枕言葉になる。数々の歌が詠まれているが、この場所を詠んだ歌としては「見渡せば 山本霞む水無瀬河 夕(ゆうべ)は秋と 何思ひけむ〈後鳥羽院『新古今和歌集』〉」がある。


「後鳥羽上皇」がここに離宮を造ったのが正治元年(1199)頃。場所は「水無瀬川」が「淀川」に合流する地の右岸、これから行く「水無瀬神宮」があったところだ。ところが、建保四年(1216)に大雨で殿舎が流失してしまい、西側に再建された。この場所は JR 線によって二分されてしまい、現在、線路の西側に碑が建っている。
「水無瀬神宮」は街道の左手、川のそばにある。雨がぱらつく中、神宮の鳥居前に到着。わりと人が多い。参詣客かと思いきや、鳥居から入った左側に「水汲み場」があり、その水を求めて人が集まっているのだ。「水無瀬川」の伏流水、きっとよい味がするのだろう、大人気だ。



祭神は「後鳥羽天皇」「土御門天皇」「順徳天皇」。拝殿でお詣りしていると、雨が強くなってきた。しばし、雨宿りをかねてここで休憩。
街道に戻り、進んでいく「JR 島本駅」の手前の分岐に道標があった。「右 柳谷 / 左 西能宮(西宮) 楚うし寺(総持寺) 道 」と書いてあるらしい。「柳谷」とは「柳谷観音(楊谷寺)」(長岡京市土谷堂ノ谷)のこと。このあたりの街道の様子は写真 50、「京街道」を歩いていたときとはかなり雰囲気が違う。


「島本駅」のすぐ手前に大きな公園があった。「櫻井驛址」という石柱が立っている。ここは和銅 4 年(711)に「嶋上郡」に置かれた「大原駅家」に比定されるというのだが、これがどのような街道のものなのかもう一つはっきりしない。その後、宿場町が形成されていたらしく、「楠公親子桜井の別れ」の伝承で一挙に有名になったらしい。この話、『大日本地名辞書』には「太平記云、楠正成公兵庫へ下ける、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを思う様ありとて、桜井の宿より河内に還し遣わす」とある。「太平記」が書くこの「訣れ」の後、「楠正成」は「湊川の戦い」で敗れて自害する。

公園は広く、「明治天皇御製碑」や「楠公父子訣別の碑」「楠公父子の像」があったが、この像ちょっとマンガチックだ。


その先の「島本町立歴史文化資料館」は昭和 16 年(1941)に「桜井駅跡」の記念館として建てられたもの。当時、大阪財界の重鎮「一瀬粂吉(いちのせくめきち)」氏が当地を訪れた際に、「楠公父子」の忠孝に感激し、有志と共同で記念館を建設したらしい。

トンネルを潜り、街道は JR 線の西側に移る。「上牧(かんまき)」では線路のすぐそばを街道が通り、「梶原」に入る。ここで街道は山側へ入り、「梶原一里塚跡の地蔵堂」前を通るのだが、先程から「通行止め」「迂回」の看板が気になっている。まあ車が通れないだけだろうと思い先に進む。

すると「工事中」の看板が完全に行く手を遮った。これでは進めないと迂回。その工事現場を見てビックリ。ビルのような「高架橋」を建設しているのだ。これは「新名神高速道路」の工事、対岸の「八幡市京田辺」とを結ぶ計画らしい。


工事箇所を迂回して「梶原」の街道に戻る。

右手に「畑山神社」、高槻市内最古の寺院の一つとされる「梶原寺」の跡らしい。

「檜尾川」を渡る。

直進を続ける。「古曽部町」に入り、右手に「能因法師陵道標」。「能因法師」は平安時代の歌人、ここから北にその墓があるようだ。

正面左に高層ビル、急に都会になった感じだ。「JR 高槻駅」が近い。

駅に通じる十字路の南東の角に「本山寺の石碑」、北側には「上宮天満宮」の鳥居。「西国街道」は直進(西進)する。

その先で通りが細くなる。「芥川町」に入る。この左が今夜の宿である「旅館かめや」。現在も営業を続けている旅館だ。


表口は商店街に面している。

時刻は 15 時、これで「西国街道・山陽道歩き旅」の第一日目が終了。「羅城門跡」からの歩行距離は 26.8 キロ、時間にして 7 時間だった。この後、「芥川宿」はこの先の「一里塚」と「芥川」との間なので、正式にはまだ「芥川宿」に入っていない。「かめや」のホームページによると「300 年ほど前に描かれた芥川宿の宿場地図には、一里塚横に亀屋旅館が記されております。
今の場所に移ったのが 200 年ほど前のこと」と書かれている。この旅館、確かに「芥川宿」内にあったようだ。

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