

石山~膳所~大津宿
2024 年 11 月 29 日、ついに「旧東海道歩き旅」の最終日となった。 昨日ゴールした「石山」の「松原町西交差点」を 7:30 に出発し、「三条大橋」に向けて歩き始めた。JR の線路を潜って進むと「ローム滋賀工場」の前に街道の松がある。このあたりは「粟津晴嵐」という場所、昔は松並木が続いており、「木曽義仲」戦死の地らしい。

その先の「御殿浜」、右側に「膳所城瀬田口総門跡」の石柱があった。ここで道は左に折れ曲がる。「膳所(ぜぜ)はもと粟津野陪膳浜(あわづのおものはま) なるべし」と『東海道名所図会』にある。「陪膳浜」に関しては「むかし禁裏〔御所〕に鮮魚を日次に貢げしよりいう」と書かれており、古代の「大津宮」へここから採れた魚を供給していたらしい。この北の湖岸にかつて「膳所城」があった。「関ヶ原の合戦」で東軍の将「京極高次」の守る「大津城」が落城し、合戦終了後に京・大阪に対する防御施設として「膳所」に城が築かれた。「膳所藩」は所領は少ないが「本多家」などの譜代大名が藩主となり明治まで続いた。「旧東海道」はその側を折れ曲がりながら進んでいく。

「京阪石山坂本線」を越えて右側に「若宮八幡神社」。「天智天皇」がこの地へ行幸されたとき、「紫雲がたなびき、金の鳩が付近の大木に止まる」のを見て、建立することとしたのが始まりとされる。鳥居の先に見える「表門」は 1870 年に「膳所城」が廃城となったあと移築されたものであり、元は本丸の「犬走門」と伝えられている。祭神は「仁徳天皇」で、「應神天皇」「武内宿弥」を配神とする。


この先で街道は右折、「瓦ヶ浜」の駅を過ぎて、「膳所」の城下町へと入っていく。
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左に鳥居があったので入っていくと「篠津神社」の社殿があった。祭神は「素戔嗚尊」。

この先で左折して「中ノ庄駅」の手前を右折。城下町らしいジグザグ道だ。オジサンに声を掛けられた。「街道歩きですか? どこまで?」「三条大橋です」「峠越えが二つありますが、頑張ってください!」。そう、今日は「逢坂の関」を越えなければならない。だが、もう一つの峠越えとはどこだろう?
「膳所城跡の道」を横断したのに、気づかなかった。右に行けば「膳所城跡」、左に行けば「膳所神社」があったはず…。進んで左手に「梅香山 縁心寺」、藩主「本多家」の菩提寺である。

その先、左手に「和田神社」の鳥居。

神社のホームページには、「斉明天皇、天智天皇、天武天皇のいずれの御世かとされる白鳳 4 年に、創祀されたと伝えられています。 その後、八大龍王社や正霊天王社、などと時代の移り変わりとともに呼び名も代わり、明治維新のころに膳所藩主の令達により、現在の名前、 和田神社になったと言われています。壬申の乱から間もない頃、湖に暮らす人々の安寧を願ってここに『綿津見の神』が祀られました。いつからか、祀られる祭神の名にちなんで、この地は和田浜や和田岬と呼ばれるようになりました」と由来が書かれている。「和田岬」とは現在、「近江大橋」がかかっているあたりだろう。主祭神は「高龗神(タカオカノカミ)」で「龗」は「龍」の古語だから、ここも竜神だ。

境内にある「大イチョウ」は樹齢約 650 年。「樹高約 25 メートル、県下でも例を見ないほどの巨木で、 形もよく、かつては湖上を行く船の目印になったと言われています。 関ヶ原の戦いに敗れた石田三成が京都に護送される途中、 このイチョウにつながれ小休止したという言い伝えが残っています」とのこと。黄葉しているが、色はもう一つだ。

神社の先を左折して「木下町」に入ると「響忍寺」に突き当る。右に進み、すぐ左折してお寺を迂回する。ここはもともと真っ直ぐな道だったのだろう。左側に式内の「石坐(いわい)神社」があった。

主祭神は「海津見神」だが、「天智天皇」「弘文天皇(大友皇子)」「伊賀采女宅子(大友皇子の母」、「豊玉彦命(海津見神の子)」「彦坐王命」が祀られている。
「滋賀神社庁」によれば、「創祀年代不詳であるが、社伝、社家古伝によると、当社の創始は、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連がその四代前の祖・彦坐王を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を、神体山として祀ったのに始まると考えられる。彦坐王の御事蹟は明白ではないが、治田連とその一族は、湖南地域一帯の水利治水、農・漁業の開発・発展に大きな成果をあげたため、これを尊崇した地域住民がその一族の祖・彦坐王を開発の先達として崇拝するに至ったものと考えられる。下って天智天皇の八年に旱魃があり、その時毎夜湖水から御霊殿山に竜燈が飛んでいった。里人の奏聞により派遣された勅使の前で、竜燈は小童の形に変じ、『われは海津見神の幸魂である。旱害を除いてやろう』との御託宣があった。天皇は叡感ななめならず、勅して御霊殿山上に海津見神を斎祀した。毎年九月九日に祭典を行い、旱天の時は炬火を点じて登山し雨乞いをしたが、いつも霊験があったという。前述の幸魂は、彦坐王の霊ともいわれる。壬申乱後、天下の形勢は一変し、近江朝の神霊の『天智帝・大友皇子・皇子の母宅子媛』を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀するのは禁じられていた。そこで持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建てて御霊殿山の霊祠を遷すと共に相殿を造って近江朝の三神霊をひそかに奉斎した。この時から八大龍王宮と称え、石坐神社とも称した」とあり、時代と共にいろいろな神が合祀されていったことがわかる。

ここからは西に向けて歩く。「西の庄」と「馬場」の境界に「膳所城北総門跡」の石柱があった。これで「膳所城」を抜けたことになる。

少し先の左手に「木曽義仲」と「松尾芭蕉」の墓がある「義仲寺」があった。説明板には「義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んて、木曽義仲の供養塔が立っています。『木曽殿と背中合わせの寒さかな』という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句『旅に病んで夢は枯野をかけめぐる』など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります」と書かれている。9 時に開門とのことで、まだ門がしまっていた。

この先「京阪電車」の線路を越え、「西方寺」の前を過ぎて 8:55 に「大津宿」に入った。
大津宿

宿場の概要はつぎの通り。
- 所在地:近江国滋賀郡(滋賀県大津市京町 1 丁目など)
- 江戸・日本橋からの距離:123 里 6 町 1 間
- 宿の規模:家数 3650 軒、本陣 2、脇本陣 1、旅籠屋 71
- 宿の特徴:逢坂山の北部、琵琶湖の南岸に位置する。天智天皇の大津京はここではなく、宮は北の錦織町にあった。東海道・北国海道との分岐点にあたり水陸の要害の地。京まで三里で、京からみると最初の宿場町。
宿場は「京町通」にあり、東の入口は「京町 4 丁目」あたりか。「常盤橋」を越えて進むと、左に「滋賀県庁」の立派な建物が見える。明治 21 年に現在の地に庁舎が建てられた。現在の本館は昭和 14 年に建てられたもので、設計は早稲田大学大隈講堂を設計したことで知られる「佐藤功一」氏だ。

その先の左側に「小川家住宅」。登録有形文化財のプレートが貼られている。特に古くは見えないが、「近世の小規模町家を近代に改修した歴史をよく伝える住宅」とのこと。

「中央大通り」を越えて、左に真宗大谷派の「唯泉寺」。その先、道の両側に古い建物が並んでいる。左には「大津魚忠」と言う料亭、右側にはお饅頭屋さんと仏壇屋さんがあった。



ワンブロック先の角に「此付近露国皇太子遭難」の石柱。いわゆる「大津事件」の現場である。明治 24 年に大津遊覧中の「ロシア皇太子ニコライ」を、警備の巡査「津田三蔵」が斬りつけ負傷させたという暗殺未遂事件で、大津裁判所で大審院の公判が開かれ「三蔵」は死刑を免れ無期徒刑となる。
「中央二丁目交差点」を過ぎると、また宿場町らしい雰囲気になる。左側は「北川家住宅主屋」だ。

ここを抜け、「国道 558 号」と交叉する「京町 1 丁目交差点」に出る。ここが「大津宿札の辻」で「高札場」のあったところ。「旧東海道」はここで左に折れるが、直進すると「北国海道」。「古代北陸道」のルートを踏襲した道で「琵琶湖」の西岸を北上し、「海津」(現高島郡マキノ町)を経て「敦賀」に抜ける。私は子供の頃大阪に住んでいて、この道を通って何回か家族でスキーに行った思い出がある。一番近いのが「蓬莱山」の「びわ湖バレー」で、北へ進んで「今津」の「箱館山」、「マキノ町」の「マキノスキー場」に行った。更に北、福井県との県境近くの「国境スキー場(現 Ohana Resort)」も憶えがある。今、地図を見ると「敦賀」のそばまで行っていた。

道路の真ん中に線路がある。これは「京阪京津線」でかつては「京阪三条」から「びわ湖浜大津」までを結んでいた。現在は「地下鉄東西線」が開通したので、山科の「御陵」からになっているようだ。「京町 1 丁目」と「御成町」の境界あたりで、線路は西に曲がって国道から外れ、「上栄町駅」に入る。ちょうどその分岐あたりの左手に「大津宿本陣跡」の石柱が建っていた。二軒あった本陣のうち、ここは「大坂屋嘉右衛門」の本陣。少し先に「備前屋久左衛門本陣」があったようだが気がつかなかった。

この石柱の隣に「八町通」という標柱が見えるが、「札の辻」から南の「清水町」までを「大津八丁」と呼び、この通りに本陣・脇本陣・旅籠屋が集中していたらしい。隣に「明治天皇聖蹟碑」も建っている。
道路の向こう側に「お風呂屋さん」を発見した。「小町湯」と書かれている。この時はまだ営業していたが、2025 年 4 月末で廃業されたようだ。

「逢坂山峠」を目指して坂を上っていく。「大津宿」の京側の出口だが、「国道 1 号線」との合流地点あたりくらいとのこと。JR の線路を越えると「逢坂 1 丁目北」、道路のすぐ右に「京阪電車」の線路があり、その先に「関蝉丸神社」の鳥居があった。三つある「蝉丸神社」の最初のものだ。踏切を渡ろうとしたらちょうど電車が来たのでパチリ。


参道を進むと「神楽殿=拝殿」があり、その向こうに本殿。お詣りしたあと、横に回廊があったので進んでみる。

「蝉丸」の額がある。回廊の中心にある「本殿」が写真 28。


「関蝉丸神社のホームページ」には、「社記によると、当社の創祀は、嵯峨天皇の弘仁十三年(八二二)と伝えられている。小野岑守が旅人の守護神である猿田彦命を山上の上社に、豊玉姫命を麓の下社にお祀りしたのが始まりとされている。鎮座する逢坂山は京都と滋賀の境に当り、琵琶湖と京都・畿内を結ぶ交通の要所として栄えていた。この立地から、国境神・坂神・手向神(道祖神)、さらに逢坂の関の守護神としても崇敬されていた。また、京の都に悪病が流行らないように疫神祭が斎行されていたという。貞観十七年(八七六)には従五位下の神階が授けられ、六国史に記載がある国史見在社である。平安時代中期になると、琵琶の名手で、後撰集の歌人でもある蝉丸が鎮座地の逢坂山に住むようになり、没後に上・下両社へ合祀された。合祀は天慶九年(九四六)とも平安時代末ともいわれている。その後、蝉丸伝承は時代と共に全国各地へ広まり、天禄二年(九七一)に綸旨が下賜されると、歌舞音曲の神として信仰されるようになり、次第に音曲を始めとする諸芸に関係する人々の信仰が厚くなった」と書かれている。
ここにも「小野氏」が出て来た。「岑守」は平安前期の漢詩人で「小野小町」の曾祖父にあたるあたる。父が「永見」で陸奥守や征夷副将軍を歴任したとされる人物だが、詳しいことが分からない。「岑守」は 778 年生まれ。797 年に「征夷大将軍」に任じられる「坂上田村麻呂」が 758 年生まれなので、「岑守」の父の「永見」と年代的に重なる。ちょうど「桓武天皇」の時代。律令制度が整うとヤマト政権は蝦夷との激しい闘いを開始した。774 ~ 811 年は「三十八年戦争」とも称される戦闘が最も激しかった時期。「桓武天皇」は 794 年に 10 万、801 年に 4 万の大軍を送り込んだ。その軍を率いたのが「坂上田村麻呂」である。おそらく「小野永見」も征夷副将軍として、陸奥に派遣されていたのだろう。福島県の阿武隈山系の中部に「小野」という町がある。ここは「田村郡」の南部に位置している。「田村」と「小野」、関係がありそうではないか!「多摩市立図書館」によれは「中央貴族の小野氏は九世紀初頭から中葉に陸奥守や鎮守府将軍として奥州と関係を持ち、藤原純友の乱の追捕使となった好古を輩出するなど『累代の将家』と呼ばれるような家柄として知られる」とある。今後「奥州街道歩き旅」で、奥州の「小野氏」を追いかけるのも面白いかもしれない。
「逢坂」の交差点をすぎ、右側に「安養寺」。「蓮如上人の旧跡」という説明板とともに「逢坂」の説明が書かれた石柱があった。「『日本書紀』によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で押熊王とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され、歌などに詠まれる名所として知られました」とある。

「逢坂」の由来については、『日本歴史地名体系』では、「『日本書紀』神功皇后摂政元年三月五日条によると、武内宿禰が仲哀天皇の皇子忍熊王の反乱鎮圧のために出陣、当地でこれを撃破し、『武内宿禰、精兵を出して追ふ。適逢坂に遇ひて破りつ。故、其の処を号けて逢坂と曰ふ』と記される。すなわち両軍が出会った地であることを地名由来とするが、本来は二つの坂が出会う場所=峠の語義と考えられる」と別説も加えられている。
この先、右側に「旧逢坂山隧道東口」のトンネル跡があったようだ。日本で初めて掘られた山岳トンネルで土木遺産になっているようだが、特に目立つ標識もなかったので、残念ながら見過ごしてしまった。「関蝉丸神社」からここまでずっと右側の歩道を歩いてきたのだが、ここで歩道が消滅した。仕方なく、左側に移る。ここが「逢坂一丁目」の交差点で「国道 1 号線」と合流するところ。9:28 「大津宿」を出た。

大津宿~三条大橋
しばらく左側の歩道を進むと、道路の向こうに「関蝉丸神社」が見えた。さきほど行ったのが「下社」だから、こちらは「上社」になる。信号・横断歩道はなく、「国道 1 号線」を横断するのがたいへんなので、写真だけにした。『東海道名所図会』にある「関明神祠」がこの神社であろう。「逢坂上片原町左の上方にあり。この辺りより大津清水町までの生土神とす。(中略)祭神二座 一座は猿田彦命。また道祖神、あるは幸神とも称す。一座は蝉丸の霊を祭る。」

その先、これも道の向こうに「逢坂山弘法大師堂」。

ここで道が大きく右にカーブする。この先が峠のようだ。

ここを過ぎると右に分岐が現れる。「大谷町」だ。信号のある横断歩道の先に「逢坂の関」の碑と常夜灯があった。隣が休憩スペースになっていていろいろな説明板が立っていた。それによると、「逢坂の関の初出は、平安京建都の翌年延暦 14 年(795)に逢坂の関の前身が廃止されたという 『日本紀略』の記述です。その後、逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつとして、弘仁元年(810)以降、重要な役割を果たしていましたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。 逢坂の関の位置については現在の関蝉丸神社(上社)から関寺(現在の長安寺のある辺り)の周辺にあったともいわれますが、いまだにその位置は明らかになっていません」とある。「長安寺」はずっと北の「小町湯」のあたりなので、範囲がとても広いことに驚く。吉田東伍の『大日本地名辞書』には、「按に相坂関の創置は史書に記載なし、大化二年畿内の北限を此れに定められし時、塞を建てられしにや」とある。つまり、古代、ここは畿内の外れでここから西が「関西」だったわけだ。

「逢坂関」に関する歌碑が三つ建てられていた。最初は「清少納言」(小倉百人一首 62 番)『後拾遺集』雑・940 の「夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも よに逢坂の 関は許さじ」

つぎが「三条右大臣」(小倉百人一首 25 番)『後撰集』恋・701 の「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」

最後が「蝉丸」(小倉百人一首 10 番)『後撰集』雑一・1089 の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」である。

別の説明板では「車石」「大津絵」「大津針」「大津算盤」について解説していた。「車石」の所に書いているように、この「逢坂山」の道は「大津」から「京」へ米を運ぶ重要なルートだったようだ。『日本歴史地名大系』には、「江戸時代の逢坂越は東海道を往来する旅人で賑ったが、その一方、北陸・若狭などからの大津湊への着米が京都への為登米として輸送される主要ルートでもあった。江戸中期頃より大津湊へ着岸すべき物資が下坂本や唐崎などで陸揚げされ、白鳥越や山中越などを経由して京都・大坂へ輸送されるという新規商人の企てが頻発する。これに対して大津町の諸株仲間商人や米会所は、大津を迂回する商品流通の禁止をしばしば幕府に訴え、天保八年(一八三七)一〇月には老中水野忠邦によって逢坂越以外の間道の使用が禁止された。これによって瀬田川沿いの南郷村・関津村と小関越入口および湖西岸の赤塚村・高畑村・唐崎浜辺・下坂本村若宮浜辺の七ヵ所に、間道使用禁止の制札が立てられた(大津御用米会所要用帳)。道の整備も進められ、文化二年(一八〇五)には京都の心学者脇坂義堂が一万両を投じ、大津札の辻から京都三条大橋までの車両通路に限って車石(轍を刻んだ花崗岩)を敷設している」と書かれている。この「車石」についての説明板はこの後、何回も目にすることになる。

「大谷町」へ入る。すぐ左にウナギの看板。「かねよ」という鰻の有名店がここにあるのだ。ここから「追分」にかけての街道の南側に「走井茶屋」があったらしい。この様子は冒頭の広重の絵「大津 走井茶屋」に描かれている。『東海道名所図会』には「走井」として「逢坂大谷町、茶店の軒端にあり。後ろの山水ここに走り下って湧き出すこと、瀝々として寒暑に増減なく甘味なり。夏日往来の人渇を凌ぐの便とす」と書かれている。

右側に「蝉丸神社」があった。三つある「蝉丸神社」の最後だ。『東海道名所図会』では「蝉丸明神祠」とある。


再び「国道 1 号線」に合流するが、右側に歩道はないので、歩道橋を使って国道を横断する。国道の右側は「近鉄線」、その向こうを「名神高速」が走る。まさに交通上の重要拠点なのだ。しばらく下り坂を進むと「名神高速」が左に曲がり、それを潜った先の左側にわき道が現れる。ここは「大津市追分町」。10:21 に「逢坂山」を越えた。

道は高台を通っている。右側の国道が走るあたりが一段低くなっているのだ。実はこの高台の道、真ん中に県境があり、右が滋賀県大津市、左が京都市山科区なのである。京都側は「八軒屋敷町」「髭茶屋屋敷町」と続く。その「髭茶屋」に「追分」がある。「ブラタモリ」の「京街道篇」で有名になったこの場所、「髭茶屋追分」という。正面の石柱には「みきハ京みち」「ひだりハふしミみち」「柳緑花紅」と書かれている。右は「旧東海道」、左は「伏見」と結び、そこで「大阪」と結ぶ「京街道」と「奈良」と結ぶ「大和街道(奈良街道)」に分かれる。ちなみに「髭茶屋」だが、このあたりに髭をたくわえた老人がやっている茶店があったことからくるらしい。

右の「旧東海道」を進むが、こちらはまだしばらく「大津市」だ。右側に「閑栖寺」、この前に「東海道の道標」と「車石」があった。


「国道 1 号線」を越えた左側にも車石の展示。絵があるのでよくわかる。荷車は「牛車」のようだ。

この先でやっと「京都市」に入った。「山科区四ノ宮町」だ。

「四宮駅」を過ぎ、右に「山科地蔵」とも呼ばれる「徳林庵」。「京都観光 Navi」によれば「山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により 852 年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157 年、街道の出入口 6 箇所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年 8 月 22日、23 日の六地蔵巡りが伝統行事となった。徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康(さねやす)親王の末葉、南禅寺第 260 世雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が 1550 年に開創した」とのこと。「四ノ宮」という地名はこの「四之宮人康親王」からきている。この寺の西の角に「十禅寺」と書かれた石柱が建っている。そこを入ったところに「人康親王」の邸宅があったらしい、後年改修されてお寺になっている。

11:03「山科駅前」に出た。「山科」の「シナ」は坂・傾斜地を表すことば。東西、北を山で囲まれた盆地であることからこの名が来ている。

駅前をすぎると、「五条別れ道標」があった。北面に「右ハ三条通」、東面に「左ハ五条橋 ひがし にし 六条大仏 今ぐまきよ水 道」と書かれている。「ひがし にし」は「東本願寺」「西本願寺」のこと、「六条大仏」は「方広寺」、「今ぐま」は「今熊野観音寺」、「きょみず」は「清水寺」のことで、「京」への最短コースである「渋谷街道」への道を指示している。現在「国道 1 号線」が通っているあたりである。

「右ハ三条通」、「えっ、なぜここが三条通?」と引っかかったのだが、調べると「三条通」は東は「四ノ宮」から西は「嵐山(渡月橋)」に至る主要道路らしい。この先で「旧東海道」は「県道 143 号線」に合流するが、そこにも「三条通」の表示が出ていた。

JR の線路を潜って右手に「天智天皇陵」の入口がある。中に入りかけたが、かなり奥が深そうで、「三条大橋」での待ち合わせもあるためパスすることとした。この辺り、地名も「御陵(みささぎ)」である。

ここで「旧東海道」は「三条通」を横断し西に進むのだが、少し行き過ぎたのに気づいて戻る。南北に走る「大石道」と交叉するところから、道が細くなって山の中に入っていきそうな雰囲気。この時、「膳所」でオジサンが言っていた「二つ目の峠」がここだと悟った。

住宅の間の細い坂道を上っていく。左手は山。「光照寺」の駐車場を過ぎると道幅が狭くなる。両側に民家。少し進むと下り坂に転じる。峠は越えたようだ。右側に「県道 143 号線(三条通り)」が見え始める。右の空き地の先に「旧東海道」の道標と「日ノ岡の峠道」の説明板があった。

「この道は、江戸時代には東海道と呼ばれ、日本を代表する街道の一つであった。江戸幕府を開いた徳川家康が整備したものである。東海道では幕末まで車の往来が禁止されていたが、都に近い大津・京都間だけは例外であった。人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分けて、車道には鋪石が並べられ車石と呼ばれていた。当初、この辺りの日ノ岡の峠道は、大津から京都への難所の一つで、牛車の通る車道は深くえぐられて、人馬が通る道との段差が生じ、雨が降るとぬかるんで牛車を立ち往生させていた。そこで木食正禅上人が享保一九年(一七三四)頃から道路の改修に取り組み、車道に土砂を入れ人馬が通る道との段差を無くしたり、峠の頂上を掘り下げ、その土砂を坂道に敷いてゆるやかな勾配にするなど工夫し、元文三年(一七三八))に改修を完成させた。こうして峠道は大きく改善されたのである。またその後、木食正禅上人は、峠道近くに「梅香庵」を建て峠道の維持管理をすると共に、井戸を掘り、水を亀の口より落として量救水と名付け、旅人や牛馬の乾きを潤したり、石の道を設けて湯茶の接待をしたりした」と書かれている。坂はそれほどたいしたことはないが狭い道である。こんなところを米を積んだ牛車が通ったのかと驚いた。
「三条通り」に合流し、左の歩道を歩く。すぐに「車石」の展示場があった。「平成九年十月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い、廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し、三条通の四車線化及び歩道の整備事業を実施した。本事業の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し往年の牛車道を模した広場を設置する」と京都市の説明があった。米俵を載せた台車が二台展示してある。こんなのを牛が引いていたらしい。

車石を組あげると写真 53 のようになる。轍の跡が残っている。

このあたり、「日ノ岡の峠」の北側を「九条山」という。「四条」くらいの位置なのになぜ「九条」なのか不思議に思って調べると、この辺りはかつて「九条家」の所有地だったようで、名前はそこから来ているようだ。「京都」の入口である「粟田口」を過ぎる。ここには江戸時代より前から「刑場」があった。急坂を下っていくと、「京都市蹴上浄水場」の道標が見えた。

「蹴上」という名前は『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 』には、「源義経が金売吉次と奥州に向かった際、美濃の武士の一人が湧水を蹴り上げたことが原因で争いになったことに由来する」とある。「粟田口刑場」に向かう罪人を蹴り上げたところから来るという説もあるようだ。
左手が「京都市蹴上浄水場」、右手には「琵琶湖疏水」がある。この疏水について、『世界大百科事典』には「琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路。第 1 疎水(8.7 km)は滋賀県大津市三保ヶ崎で取水し、長等山をトンネルで抜け、山科盆地北部の山麓を通り、日ノ岡を再びトンネルでくぐって京都市東山区蹴上に出る。第 2 疎水(7.4 km)はその北側をほぼ全線トンネルで通じ、蹴上で第 1 疎水と合流している。蹴上からは西に向かい、鴨川東岸を南流して伏見に至り、支線は蹴上から東山山麓を北上し、下鴨を西流して堀川に至る。前者を鴨川運河とも呼び、ふつうこれら全体を含めて琵琶湖疎水と称する」と解説している。
「琵琶湖」と「京都」を水路で結び舟運に利用する計画は古くからあったようだが、明治中期に実現。当初は「大阪湾」と「琵琶湖」間に船を通すことが目的だったが、水力発電の方が有利なことが確認され、蹴上発電所の建設が行われた。1895 年にはこの電力によって日本最初の市電が走るなど京都の産業復興に大きく寄与した。発電と舟運を両立させるため、蹴上には舟をレールに乗せて急勾配の斜面を引きあげるインクラインが設置された。現在では上水道水源としての重要性が高いという。この舟運だが、2024 年から「びわ湖疏水船」が運航され、「琵琶湖」から「蹴上」まで船で行くことができるようだ。

この先、地下鉄東西線の「蹴上駅」を過ぎると、右手に「ねじりまんぽ」が見える。「まんぽ」は前にも出て来たがトンネルの事で、この上を「疏水」が流れている。立ち寄ってみたいところだが、先を急ごう。
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ここで「旧東海道」は西に折れる。次第に外国人観光客の姿が増えてきた。さすがに「京都」だ。もう「三条大橋」は近い。「ウエスティン都ホテル」の前を過ぎ、左に「粟田神社」の鳥居。さらにその先、右に「平安神宮」の鳥居。


「白川」にかかる「三条白川橋」。ここに道標がある。「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」

12:23「東山三条交差点」。

12:32 信号を渡れば「三条大橋」だ。友人の姿も見えている。

友人と合流。橋のたもとで記念撮影。ゴールは橋を渡った左側の「弥次喜多の像」の前と決めている。12:34 橋を渡り始める。豊臣秀吉の命により天正一八年(1590)に架設されたという「三条大橋」。現在の橋は昭和二五年(1950)の架設。「東海道五十三次」の終点。

渡った右の角に高札場の説明板と「旧三条大橋の石柱」。

橋の左側に移動する。あった!「 弥次喜多の像」だ。2024 年 11 月 29 日 12:38 「東海道歩き旅」の完了だ。
「石山」からの歩行距離は 18.8 キロ、時間にして 5 時間。「日本橋」を出たのが 1 月 4 日だった。「旧東海道」492 キロを 25 日で歩いた。雨やら雪やらで「箱根」の手前でしばらく停止したが、あとは順調だった。この日は出迎えてくれた友人と祝杯をあげ、翌日、続いて「京街道」を「大阪」に向けて歩き始めた。

(旧東海道歩き旅 おわり)>>>「京街道歩き旅」につづく

