旧東海道歩き旅(54)草津宿~石山(2024. 11.28)

図1 安藤広重「東海道五十三次 草津 名物立場」

 2024 年 11 月 24 日 12:07 に「草津宿」の「追分」に到着した。いよいよ「旧東海道歩き旅」のラスト、二日かけて「京三条大橋」にゴールする予定だ。「草津宿」から「大津宿」までは 14.3 キロ、「大津宿」から「三条大橋」までは 11.7 キロ。大阪に住んでいる友人が「三条大橋」で出迎えてくれることになっているので、一緒に昼食をとるためお昼頃の到着としたい。約 5 時間の歩きなら、「大津」よりもう少し手前からスタートしても大丈夫だと踏んで、「石山」に泊まることにした。「旧東海道」から少し離れた「石山寺」に立ち寄ってみたかったのだ。NHK の大河ドラマ「光る君へ」の主人公「紫式部」ゆかりの地である。

草津宿

 宿場の概要はつぎのとおり。

  • 所在地:近江国栗太 (くりもと) 郡(滋賀県草津市草津1丁目など)
  • 江戸・日本橋からの距離:119 里 18 町 1 間
  • 宿の規模:家数 586 軒、本陣 2、脇本陣 2、旅籠屋 72
  • 宿の特徴:中山道との分岐点にあたり、古くから旅客・物資の中継地として栄えた。

 吉田東伍『地名辞書』には「栗太郡の中央にして、名駅とす、今郡衙あり、敦賀美濃路と伊勢路の交会と為せり。○輿地志略云、草津は駅次にして旅舎はなはだ多く、富祐の者なきにあらず」とあり、街道の分岐点に位置し、旅客・物資輸送の中継基地として繁栄したことが記されている。さらに、「按に草津とは種々の物資の聚散せる津頭の義なるべし、此の地は水運なきも陸路の走集なれば義相通ず」と名前の由来も書かれていた。「クサツ」はもともとは「種津」と書いたようだ。

図2 草津宿地図(出典:草津宿街道交流館パンフレットより)

 図 2 の地図は上が東である。『日本歴史地名体系』によれば、「草津川(砂川)を東から渡って宿に入り、新横町(東横町)・本横町(西横町)と続き、西端で十字路となり北は中山道守山方面、西へ直行すると日光街道を通り湖岸の山田方面に至る。南に折れ南北に延びるのが宿内往還筋で、北端の一町目から六町目まで連なり、宮川を渡ると宿南端の宮町に至る。一町目の往還筋西側に七左衛門本陣、二町目の東側に九蔵本陣が位置し、往還より東側の裏通りには浄教寺・真教寺・正定寺・養専寺など七ヵ寺が並び、西側には常善寺がある」と書かれている。

「中山道」との「追分」だが、この三叉路の南の角には「脇本陣大黒屋」があったようだが、現在はマンションになっていて、鈴木典明作の「時の旅人」の彫像が立っていた。

写真1 脇本陣跡、時の旅人の彫像

 その前が国指定史跡「草津宿本陣」、上の説明の「七左衛門本陣」である。

写真2 草津宿本陣

 見学しようと左側の入口に進んだが、扉が閉まっている。門の前に「耐震工事のため、令和 7 年 3 月 31 日まで休館します」と無慈悲な表示板が立っていた。

写真3 草津宿本陣入り口

 その先の左にもう一つの本陣「田中九蔵家趾」の表示板があったようだが見過ごした。少し先の左に「草津宿街道交流館」で中に入る。「草津宿」ゆかりの品々が展示されている。

写真4 草津宿街道交流館
写真5 草津宿ゆかりの品が展示されていた

 建物の前には「石造東海道道標」。

写真6 石造東海道道標

 その先の右が「問屋場跡」、現在は呉服屋さんだ。

写真7 問屋場跡

 左の「八百久」の建物は登録文化財に指定されている。

写真8 八百久

 街道が「県道 141 号」と交わる先に「立木神社」の鳥居が見えた。手前に赤い橋、流れている川が「伯母川」で古くは「宮川」とも呼ばれた。さあ、境内に入っていこう。

写真9 県道141号との交差点と立木神社の鳥居

 立派な神門をくぐって中に進むと、三間社流造の社殿。

写真11 立木神社社殿

 神社のホームページによれば、「立木神社の創建は古く、縁起によると今から約千二百数十年前の称徳天皇(第 48 代)神護景雲元年(767 年)のこと、御祭神である武甕槌命が常陸国(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ(古来始めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着されました。そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。『この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん』すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています」とのこと。「タケミカヅチ」といえば「中臣・藤原氏」だな、と思って読んでいくと次に、「宝亀八年(777)冬より翌年 3 月にかけて大旱魃になり、琵琶湖の水が枯渇し宇治川の水が絶えそうになりました。時の天皇・光仁天皇(第 49 代)は憂慮され、中臣諸魚(なかとみのもろうお)を勅使として当社に遣わし雨乞いの祈願をさせたところ、大雨が降り万物が蘇生しました。天皇は殊の外お喜びになり社殿の造営を命ぜられ立木大明神の勅額を賜りました」と書かれていた。つまり、もともと柿の木を神木として祀った社があり、「大中臣氏」が関係の深い「タケミカヅチ」を「鹿島神宮」から勧請したものだと思う。

 街道に戻って南に進むと「草津川(放水路)」に出る。川の手前に「草津宿」の出口である「黒門」の説明板があったようだがスルーしてしまった。 12:36 「草津宿」を出て、川を渡り「矢倉」に入った。

写真12 草津川(放水路)

草津宿~石山

図3 草津宿追分~石山行程
矢倉と製鉄遺跡

「矢倉」は草津名物「うばが餅」の店がある「立場」だった。冒頭の広重の絵「草津 名物立場」の舞台である。「うばがもちや」と書かれた建物の右、軒先に道標が描かれているが、それが下の写真。

写真13 矢倉の道標

「右やばせ道」と書いてある。「やばせ」は「矢橋」と書く。「琵琶湖」のほとりの町で「大津」まで船が出ていた。この道標、現在は「瓢泉堂」という瓢箪のお店の軒下にある。

写真14 瓢泉堂

 この先の左手にいくつも連なった赤い鳥居を発見した。「矢倉稲荷神社」である。

写真15 矢倉稲荷神社の鳥居

 普段ならさっと通り過ぎてしまうところだが、谷川健一著『青銅の神の足跡』(集英社)という本を読んでいた私は、「朝日大明神」「伊吹大明神」と書かれた赤い幟に引っかかった。この本の中に、古代の製銅や製鉄、つまり「鍛冶」に関係する名前(地名・神名・氏族名)として「朝日」「伊吹」がいっぱい出てくるのだ。この神社、製鉄に関係しているのでは? そもそも「稲荷神社」ということからしてあやしい。「稲荷には鉄の神としての性格もある」と谷川氏は書いている。

  • 朝日:全国各地に「朝日長者」の伝説が分布している。『日本国語大辞典』には、「栄華をきわめた長者が没落して、その金銀財宝を埋蔵しているという伝承をもつ屋敷や城跡。また、その伝説。『朝日さす夕日かがやく樹のもとに、黄金千両漆万杯』などの歌をともなうものが多い」とある。ところがこの伝説、「鉱山」と関係が深い。谷川健一氏は、出雲国能義郡黒田、越前大野郡下穴馬村、但馬出石の朝日金山、伊勢朝明郡朝日村(通ったところだ!)、越後三島郡来迎寺村などの例をあげ、「朝日長者の伝説は諸国にわたって百をこえるほどあるというから、それをそのまま鍛冶にまつわる伝説と考えることはできないかも知れないが、しかしここにたたらと結びつく例がある」と書いている。
  • 伊吹:「不破の関のすぐ近くに伊吹という部落があり、そこに伊富岐神社がまつられている。吉田東伍の『大日本地名辞書』によると、この伊富岐神社は伊福部氏の氏神であろうとされている。そのあたりに伊福部氏がいたことが推定されるとすれば、(中略)伊吹山の猛烈な風を利用する仕事、すなわち金属の精錬以外には考えられない」と谷川氏は書く。さらに、「伊吹村金山付近には露天掘の岩鉄を採掘したあとがあって、金滓(かなくそ)やふいごの火口などをともなう古墳時代の製鉄所のあとも発見されているそうである」とし、また「滋賀県の栗太郡に式内社の意布伎神社があるが、それは同郡常盤村(現草津市内)大字志那の総社神社であるとも、おなじく志那に鎮座する志那神社であるとも言っている。(中略)この志那から銅鐸が出土している」、「草津市志那町吉田の、もと伊吹の里とよばれた場所に鎮座する三大神社は、天智四年(665)に創始されたと伝えられるが、そこに伊吹神をまつってある。また志那町志那の志那神社には、本殿ではなく社務所に伊吹神社がまつってある。おなじように志那町中村の総社神社も伊吹神をまつる」と書いている。この「志那」は「草津駅」の北西の湖畔の町。『國學院大學神名データベース』よれば、「シは、ニシ・ヒムカシ・アラシなどに同じく、風を意味する言葉と考えられる。(中略)ナを長いの意と捉え、シナを風の長いことの意とする説がある」とのこと。まさに製鉄にピッタリなのである。

 これらの神々と鍛冶との関係はこの場所でも成立するのだろうか? 神社のある場所は「矢倉城趾」とされる所だが、詳しいことは一切分かっていない。「矢倉」は氏族の名前とも考えられるが、「櫓」から来ているとも考えられる。もう少し広く周辺を調べてみると、なんとこの付近は製鉄遺跡が集まっている場所だったのである!

図4 草津市周辺の遺跡・神社

 図 4 に「草津市」周辺の遺跡・神社の地図を示す。色別の楕円は私が関係しそうな情報をまとめたものだ。まず、現在地(赤★)は赤で囲った広大な製鉄遺跡群の入口付近に位置している。このあたりから南西に「瀬田丘陵」が続き、そこに製鉄遺跡群が広がっている。もっとも近いのは 直線距離で 300 m ほどの所にある「矢倉口遺跡」で、その東の「岡田追分遺跡」とともに古代の鋳造跡が発見されている。一方、南の「野路小野山遺跡」は製鉄炉 11 基、木炭窯 6 基、 大鍛冶跡、工房跡などが発掘された大規模な製鉄遺跡で、7 世紀末から 8 世紀初頭と、8 世紀中頃の 2 時期の操業が推定されているとのこと。(この遺跡「野路の小野山」にあるのでこの名がついているのだが、この「小野山」が気になる。これについては後で述べよう。)さらに大津市にかけて、「木瓜原(8 世紀前半)」「源内峠(7 世紀後半)」などの製鉄遺跡が見つかっている。これらは「京滋バイパス」の工事や大学キャンパスの造成工事で見つかったもので、掘ればまだ発見されるかもしれない。このあたりに古代の一大製鉄コンビナートが作られていたのは確実である。さらに、これらの遺跡で行われていたのは、「吉備地方」と同じく大陸・朝鮮半島で行われてきた「鉄鉱石精練」であり、日本の各地で広く行われた「砂鉄精練」ではない。

「天智天皇」が都を「琵琶湖」の西岸にある「近江大津宮」に遷したのは天智天皇六年(667)のこと。その三年後に、『日本書紀』に「是歳、水碓を造りて冶鉄す」の記述(「水碓(みずうす」は水車によってフイゴを動かしたものか)が見えるから、「瀬田丘陵」の製鉄コンビナートは「大津宮」と無関係ではないだろう。「瀬田丘陵」で使用された鉄鉱石は「湖南」「湖北」両地方の産であることが判明しているが、「野路小野山遺跡」で用いられた鉄鉱石は極めて上質なもので湖北地域から運ばれたと考えられている。つまり、原料調達の範囲や製鉄遺跡の規模から見てかなり大がかりであり、官営事業だったと推測されるのだ。

 この事業を担ったと考えられる氏族の一つが「小槻山(おつきやま)君氏」だろう。その本拠地と考えられる関係神社が図 4 の青い円のエリアにある。この辺りの事情について、大橋信也氏は論文「野洲川下流域の古代豪族の動向」(滋賀県文化財保護協会紀要 1990.3)の中で、「注目されるのは、小槻山君が『山君』を称していることである。近江には『君』のカバネを持つ豪族が比較的多いが、その中で『山君(臣)』を称するものも、若干知られている。蒲生郡に本拠を置く佐々基山君、高島郡北部に本拠を置く都怒山君(臣)、そして小槻山君の三氏がそれで、佐々基山君が顕宗紀の所伝に山部連氏の配下とあるように、それぞれの地域において山部を管理していたことに関連するとみられている。山部の職掌については、直接的には山林生産物の貢納とみられているが、吉備や播磨の山部のように、鉄生産にかかわるものもみられる。周知のように近江は、畿内近国における唯一の鉄生産国であって、その中でも都怒山君(臣)の本拠地高島郡北部と、小槻山君の本拠栗太郡は、古代の製鉄遺跡が集中する地域である。その意味で近江の山部と鉄生産との関係も無視できない」と書いている。

 この製鉄遺跡の北には玉造りを主とする遺跡が集まっている。緑の「伊吹神」と書いたエリアは、谷川氏の書く「志那」だ。この辺りでは「東風」を「いぶう」と呼んでいるとのこと。「東風」すなわち「瀬田丘陵」の斜面を下る風だ。フイゴがまだそれほど発達していない古代、山おろしの強い風は製鉄にはなくてはならないものだったのだ。もうひとつ、この付近には新羅の王子で製鉄と強い結びつきがある「アメノヒボコ伝承」が残る場所がある。「瀬田丘陵」の製鉄には渡来人がかなり関係していたことを思わせる。

 長くなったが、この場所で「たたら製鉄の指揮者(村下)」としての「朝日長者」や、長く続く東風の神である「伊吹神」を祀る「稲荷神社」があってもまったく不思議はないのである。

野路・月輪・大萱

 街道歩きに戻って、「国道 1 号線」を越えた先の「上北池公園」の中に「野路の一里塚」の石柱があった。

写真16 野路一里塚

 その先、左手に「新宮神社」の鳥居。右の石柱は「津久夫須麻神社」と書かれており、これは「長浜市」にある「竹生島神社」の境内社があることを示すものだ。

写真17 新宮神社の鳥居

 県道を越えた先の右側に「萩の玉川」の碑と説明板。『千載集』に「明日もこむ野路の玉川萩越えて色ある波に月やどりけり」という歌がある。この辺りは萩の名所として知られていた。平安から鎌倉時代には「野路」に「東海道」の宿駅があったという。写真の碑と池は当時の「玉川」の面影を残そうと住民たちが作ったものである。

写真18 野路萩の玉川の碑と小池

 しばらくして道が大きく左折するなと思ったら、正面に池が現れた。「弁天池」という名前の池で、中の小島には「浄財辨天神社」が祀られている。

写真19 弁天池

「狼川」を越えた少し先で、「大津市月輪」に入る。左手に「月輪大池」の道標。ここは『東海道名所図会』にも載っている名所だ。

写真20 月輪大池の道標

 この先、「下月輪池」の前に「東海道立場跡」の石柱があった。池に水はなく、草むらになっていた。

写真21 下月輪池の前に東海道立場跡の石柱

「JR 瀬田駅」から南東に伸びる「学園通」と交差する手前の左の角に「大萱一里塚趾の碑」。

写真22 大萱一里塚趾の碑

建部大社

「大江」に入り、旧街道は左折して南に向かう。この道をずっと進めば、古代の「近江国庁跡」に出るのだが、その手前で右折し「檜山神社」を過ぎて「神領」の交差点に出る。「旧東海道」はここを右に進み「瀬田唐橋」に向かうのだが、ちょっと寄り道して「建部大社」にお詣りしていこうと逆方向に進む。少し先に左に入る道があり、「一ノ鳥居」が立っていた。

写真23 建部大社の一ノ鳥居

 参道を進むと「二ノ鳥居」の先に「神門」、その先にご神木の「三本杉」と「拝殿」がある。

写真24 建部大社の二ノ鳥居
写真25 ご神木三本杉

「拝殿」はすこし小振りだ。

写真26 建部大社拝殿

「拝殿」の奥の左側が「日本武尊」を祀る「本殿」、右側が「大己貴命」を祀る「権殿」だ。その左にある通路を進み、「本殿・権殿」の裏にまわると「菊花石」「さざれ石」が展示してある。

写真27 建部大社本殿

「菊花石」は菊の模様が現れた自然石で菊の化石ではない。どうしてこんな模様が現れるのかは「菊花石物語」に詳しい。

写真28 菊花石

 こちらは「さざれ石」、「君が代」に出てくる「さざれ石」とは小さな石のことだが、永い年月をかけて石灰岩が溶けて凝固し、大きな巌の様になったらしい。どちらもとても珍しいものだ。

写真29 さざれ石

 さて、「建部大社」のホームページには「当社は、古くから建部大社や建部大明神と呼ばれ、延喜式内社であると同時に、近江国の一之宮として広く崇敬されてきた歴史ある神社です。当社の祭神である日本武尊は、熊襲兄弟を倒し、東夷を平定し、30歳で亡くなりました。父である景行天皇は尊の功績をたたえて建部を定め、景行天皇 46 年(西暦 116 年)に神勅により御妃 布多遅比売、御子 稲依別王が住んでおられた神前郡武部、鈴鹿郡の能褒野の郷千草嶽に社殿を創建し、日本武尊を斎祭られました。
その後、天武天皇の時代に瀬田に奉還され、大和の国の一の宮の大神神社の大己貴命を奉祀して以来、近江一宮として尊崇されてきました。歴代の皇族や武将たちの信仰を受け、特に源頼朝が平家に捕らわれた際、当社に参拝して前途を祈願したことが平治物語に記されています。頼朝は後に源氏再興の宿願を果たし、再び社前で祈願し、多くの神宝と神領を寄進しました」と由緒が述べられている。これについて検討を加えてみよう。

  • 「父である景行天皇は尊の功績をたたえて建部を定め」:この記事は『日本書紀』の「景行四十三年」に「功名を録えむとして、武部(たけるべ)を定む」からくる。「岩波文庫版」の補註には「建部は日本武尊の功名を録すために定めたとあることから、本居宣長以来、日本武尊の名代(なしろ)と考えられて来たが、最近では、津田左右吉をはじめとして、記紀に建部を日本武尊の後裔の如く記すのは建部の名から出た付会の説で、実際は武人であるがためにつけられた名であり、軍事的職業部の一つであるとする考え方が支配的である」としている。
  • 「御妃 布多遅比売、御子 稲依別王」:これは『古事記』の記述に沿っている。『古事記』は、「ヤマトタケル」は「近江国野洲郡」を支配した「安(やす)国造」の祖「意富多牟和気(オオタムワケ)」の娘「布多遅比売(フタヂヒメ)」を娶り、生まれた「稲依別王(イナヨリワケオオ)」が「犬上氏」と「建部君」らの祖であるとする。なお、『日本書紀』では「両道入姫(フタヂイリヒメ)皇女を娶して、稲依別王を生めり」と「垂仁天皇」の皇女の名前が入っている。
  • 「住んでおられた神前郡武部、鈴鹿郡の能褒野の郷千草嶽」:この記述はややこしい。「鈴鹿郡の能褒野の郷」とされる「神前郡武部の千草嶽」の意味と解すると、現・東近江市五個荘伊野部町箕作山となる。現在、この麓に「建部神社」がある。この神社は「大和武尊死去三年後(景行四十六年)御子稲依別王命(建部君、犬上君の始祖)が神勅により、母君の生国近淡海国神前郡建部郷千草嶽(現在の箕作山)中腹宮立と称する所に父君の霊を祀り、建部大明神と崇め給ふたのが起源である」(出典:KIKUOのブログ)とあり、この場所が「稲依別王」の母親の里らしい。
  • 「天武天皇の時代に瀬田に奉還」:『日本歴史地名体系』によれば、「天武天皇四年(六七五) 建部連安麻呂らとともに湖を下り栗太郡勢多郷に到着、大野山に遷座、さらに天平勝宝七年(七五五)三月同山麓の現在地に移建したという。この移建を進めた建部公伊賀麻呂は、『続日本紀』天平神護二年(七六六)七月二六日条に近江国志賀団の大毅とみえる人物だが、日本武尊を祭神とすること、創建の地を建部郷とすることなどと併せ、大和政権が設定した軍事集団建部の居住地にその氏神のような存在として創建されたと思われる。そうした性格から政治・軍事の中枢である瀬田川東岸に移されたのであろう」となっている。

 「建部」は「吉備」「筑紫」「出雲」「美濃」など、軍事上の要地に作られていたことが、上田正明氏によって明らかにされているが、「近江瀬田」の地は畿内から陸奥国へ至る政治・軍事上の重要ルートである古代の「東山道」が通り、また「瀬田川」沿いの「田原道」で「大和」とつながるまさに交通上の重要拠点だった。「建部神」が「瀬田」に移動するのは、675 年。これは「壬申の乱」の三年後であるという点が気になる。

「壬申の乱」では近江の豪族が「近江朝側」と「大海人皇子」側に分かれ戦った。前に書いたように「大海人皇子」は「吉野」から「伊勢」「桑名」「美濃」と移動し、東国の兵を集めて、「不破の関」(関ヶ原)を越えて「近江」に向かう。近江の豪族は最初はほとんど「近江朝側」だったが、多くが「大海人皇子」側に寝返えった。北村稔氏は、乱の後これらの豪族の子孫がどのくらい高い官位についたか調べている(「壬申の乱地理新考」『史迹と美術』史迹美術同攷会)。正六位以上の数を見ると、琵琶湖東岸の豪族では北から「坂田氏」5、「息長氏」15、「犬上氏」2、「秦氏」0、「佐佐貴山氏」9、「羽田氏」19、「安氏」0、「小槻山氏」3、「建部氏」2、「近江氏」0。さらに琵琶湖西岸では北から「角氏」7、「三尾氏」0、「小野氏」19 となっており、豪族によってかなりの差が生じている。

「羽田氏」は『日本書記』に名前が見え、早い時点で「大海人」側に投降している。また、「息長氏」は緒戦の大会戦で寝返り、「大海人」側に大きな勝利をもたらした。『書紀』には豪族の名前は見えないが、「安河の戦」「栗太の軍」の記述が見えるので、「安氏」や「建部氏」は「近江朝」側にいて抵抗を続けたようだが、後の受位数を見ると「安氏」はゼロなのでずっと「近江朝」側だが、「建部氏」は途中で寝返り、最後の「瀬田川」の会戦では「大海人」側になったと思われる。この会戦は「瀬田川」を挟んで行われ、西に「近江軍」、東に「大海人軍」が陣を張った。現在の「建部大社」の位置は、この「大海人軍」の陣が置かれた場所なのである。そして後年(755 年)「建部大社」が造営される。その頃までにこの地に「建部」が作られたと考えてよいだろう。

 ここで気になるのは、琵琶湖西岸の「小野氏」の子孫が数多くの高位授位者を出していることだ。その数は五位以下で見ると「羽田氏」を上回る。しかし、『書紀』には「小野氏」の名はでてこない。かなり早くから「大海人皇子」をバックアップしていたのだろう。これについては後述する。

 さて、「建部大社」を離れて先の交差点まで戻り、「瀬田唐橋」に向かった。

瀬田の唐橋とむかで退治

「唐橋東詰交差点」にあっという間に到着。『東海道名所図会』には、「小橋長二十三間、大橋長さ九十六間、中島あり。高欄葱宝珠、銘は造替ごとの年号を鐫〔刻〕す」と書いている。この「中島」だが、現在も橋の西側に「島」が存在している。さらに『名所図会』は「そもそもこの橋は帝城の要涯にして、古来騒擾の時引くことたびたびなり。保元・平治・治承・元暦の戦い、承久・元弘・応仁の乱、みなこの橋を伐って、黒津・供御の瀬に軍すること数々あり」と書く。ここは京との交通路の要となる場所で戦乱の際には橋を壊して、徒歩で渡れる浅瀬が軍事上の重要拠点となっていたのだ。より古くは「壬申の乱」において「大海人皇子」と「大友皇子」の両軍がここでぶつかり、最大の激戦地となった。「大海人」軍はここを突破し、「大津京」へと向かう。そして、「大友皇子」の自害で戦は終結する。「天武天皇」の誕生である。

写真30 瀬田唐橋

 橋の北側は「琵琶湖」。写っているのは「国道 1 号線」でその向こうを「JR 琵琶湖線」が走る。南側は「名神高速道路」が走り、その向こうに「石山寺」がある。

写真31 瀬田唐橋から北側
写真31 瀬田唐橋から南側

 橋の西詰に「俵藤太のむかで退治」の説明板があった。

写真32 瀬田唐橋 俵藤太のむかで退治の説明板

「豪傑の誉れ高い秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れた。何事かと話を聞けば、三上山に7回り半も巻き付いた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという話。しかしあまりにも凶暴な大ムカデを恐れて誰も退治できずにいる。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたと言う。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく二千年余昔から瀬田橋に住むという。漁民の暮らしや、豊かな実りある近江国をこの竜宮から見守ってきたという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから『俵藤太』の名が付けられたとされている」と書かれている。

 この話を単純化すると、「大蛇ー竜宮の住人ー竜神」と「三上山ー大ムカデ」という二つの勢力の対立があり、「秀郷」が「大蛇」側に味方して、「三上山」の勢力をやっつけるという話になる。この話の初出は 14 世紀後半成立の『太平記』巻 15 で、「三井寺」の鐘は「秀郷」が竜宮から持ち帰ったものという由来譚となっている。しかし、この話は元となるものがあり、それは 13 世紀初期に成立したと考えられる『古事談』にある「粟津冠者」の説話だと考えられている。「昔、近江国に粟津冠者という武勇の者がいて、一堂を建立し、鐘を鋳造するため、鉄を求めて海路で出雲国へ向かった。嵐にあったが童子の乗る小舟に救われて龍宮へ導かれ、大蛇を倒した御礼に龍宮寺の鐘を持ち帰った」という話で、依頼主の「竜宮の住人」と持ち帰った鐘を「三井寺」に奉納する結末は「俵藤太」の話と同じである。違うのは「粟津冠者」が「秀郷」、戦う敵が「蛇」から「三上山の大ムカデ」になっているという点である。なお「俵藤太の話」で竜宮から持ち帰った鐘は「赤銅」製だ。

 ここに出てくる「秀郷=俵藤太」とは、「平将門」の追討使だった「藤原秀郷」であり、後に下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、その後裔は武家の棟梁ととして多くの家系(「藤原北家秀郷流」)を輩出する。「秀郷」には二人の息子があり、兄の「千晴」からは「奥州藤原氏」「蒲生氏」、弟の「千常氏」からは「佐藤氏(佐藤・首藤・後藤・伊賀など)」「近藤氏(近藤・島田・大友・武藤・少弐など)」「小山氏(小山・長沼・結城など)」などが生まれている。「藤原秀郷」は関東「上野国」の住人であり、「近江」に来たという証拠はない。ただの「お話」と言ってしまえばそれまでだが、それでは済まない「きな臭さ」が漂っている。話のすり替えを行ったのは誰で、なぜすり替えを行ったのだろう? 関係しそうな事項を挙げておこう。

  • 三上山の大ムカデ:「近江富士」と称される「三上山」。この山を御神体とする「三上神社(御上神社」は「天津彦根命」の御子の「天之御影命」を祭神とするが、それは「鍛冶の祖神」として崇敬を受けている「天目一箇神」の別名であることが社伝に記されている。「三上山」のふもとの「大岩山遺跡」からは 24 枚の銅鐸が出土しており、「三上山」周辺を本拠とする「安国造」と同族の「三上(御上祝)氏」が鋳造を行っていた可能性が示唆されている。さらに、橋本鉄男氏によれば、「三上山は古くから鉄、銅などの鉱脈がはしる所とされ、山師の間では鉄の鉱脈を黒百足、銅の鉱脈を赤百足とよんだそうである」(リファレンス協同データベースの記事)。つまり「ムカデ」とは鉱脈のことなのだ。
  • 大蛇:「瀬田川」に住む龍王の化身とされている。『歴史人』「鬼滅の戦史54」の中で藤井勝彦氏は「ここで思い起こされるのが、大蛇が川あるいは水を象徴する龍神であったという点。蛇を神と仰ぐのは海人族である。彼らは、同時に製鉄にも長けた民族であった」とする。「海人」とは『世界百科事典』によれば、「古文献に海人、海部、蜑、白水郎などと記す。海を主なる生業の舞台とし、河川、湖沼で素潜りする漁民をはじめ、釣漁、網漁、塩焼き、水上輸送・航海にたずさわる人々を、今日いう男あま(海士)、女あま(海女)の区別なく〈あま〉と総称する」とあり、南方からの渡来系氏族で、インド・中国系とインドネシア系に大別され、前者が福岡の志賀島から各地に広がった「阿曇氏」に代表される北九州に入った「住吉系渡来民」、後者が「隼人」に代表される「宗像系海人」であり、「彼らの定住地の跡にはその記念碑というべき関連地名が残されている」とのこと。琵琶湖東岸には、南から「小野」「和邇」「安曇川」という駅があるが、それぞれ「小野氏」「和珥氏」「安曇氏」という「住吉系渡来民」が住んでいた場所であり、「和珥氏」と「小野氏」は同族である。それぞれの居住地の近くには「和邇製鉄遺跡群」「比良山製鉄遺跡群」(ともに志賀郡)、「伊香製鉄遺跡群」(伊香郡)があり、彼らが「鍛冶技術」にも長けていたことがわかる。そして、これらの「海人族」には「龍神信仰」が見られるのである。つまり、「大蛇ー竜宮の住人ー竜神」は琵琶湖東岸の「海人族」ではないか。
  • 前述の「壬申の乱」において、「大海人」側につき、後裔が高位の叙位を受けている氏族の一つが海人族の「小野氏」である。そもそも「大海人皇子」という名前に「海人」が含まれているではないか! これは幼少期より皇子を養育した「大海人(凡海)氏」に由来するという説が有力で、この氏族は「住吉大社」の境内に鎮座するを「大海神社」を氏神とした一族だ。つまり「大海人」は「住吉系海人族」(その中の一つが「小野氏」)と縁が深い。一方、「三上山」周辺を含む「野洲川」流域を支配していた「安氏」は敗者である「近江朝」側についていた。ここに「海人族=竜神(=小野氏)」が勝利者、「三上山=ムカデ(=安氏)」が敗者という構図が現れる。
  • 朝廷に対する「ムカデ」とも言える「平将門」を討ち取った「秀郷」は英雄と崇められただろう。その名前がすり替えに使われてもおかしくない。さらに、「秀郷」の後裔は主に「上野」「下野」「奥州」など東国で活躍するが、「近江」にも一族がいたのである。「蒲生氏郷」で有名な「蒲生氏」は「千晴」の子孫であり、蒲生郡を中心に勢力を築いた。秀郷 5 世の「藤原頼行」は近江に住み、下野守や安房守になっている。彼らがこのすり替えに関与した可能性もある。
  • 「俵藤太の話」と同じような伝承が日光にある。昔、有宇中将が奥州に下って朝日長者の娘を妻として、その間に生んだ子が馬主である。また馬主が成長して侍女に子を生ませた。陸奥小野に住んだので小野猿麻呂という。この猿麻呂の祖父母は死んで二荒の神となった。二荒の神は上野国の赤城の神と湖水をあらそった。二荒の神は猿麻呂に加勢を頼み、二荒の神は蛇、赤城の神はムカデの姿となってたたかったが、猿麻呂はムカデの左の目に矢を射てこれを走らせたという話(柳田国男「神を助けた話」)である。「日光戦場ヶ原」の名前の由来譚ともいえるこの話、「俵藤太の話」と同じく「蛇」と「ムカデ」が登場し、加勢者(小野猿麻呂)がムカデの目を矢で射て「蛇」側が勝つのも同じである。谷川健一氏は『製銅の神の足跡』に「秩父は古代の銅の産地である」とし、「日光二荒山の頂から百三十一個の鉄鐸が出土した」と書いていることから考えると、「二荒の神ー蛇ー鉄」「赤城の神ームカデー銅」という構図が頭の中にあるように思われる。興味深いのはここに「小野」が登場することである。さらに「朝日」まで出てくるのには恐れ入る。「小野」は「日光」の神主。「朝日」は「日光二荒山」の「女体山」を「朝日山」というのである。谷川氏は「小野氏は鉱脈水脈をさがしながら全国を歩いた氏族で、そのためにはある種の託宣が必要なので巫女も同伴した。それがのちに伝承をもちあるく朝日とよばれる女たちであった。ということから、朝日長者の伝説が鉱山やたたらの場とからみ合うことになったと推論できる」と結論づけている。

 以上から、私は「小野氏」が、この話の仕掛け人ではないかと考えている。日光の話も「小野氏」が近江から持ち込んだのではないか。もう一つ、「瀬田丘陵」の「野路小野山遺跡」、この「小野」も「小野氏」ではないか。「壬申の乱」以降、勢力をつけた「小野氏」が中心となって、「天武天皇」の意を受けて「瀬田丘陵」の「製鉄コンビナート」を作り上げたのではないだろうか。

石山寺~石山駅

 時刻は 14:30、秋の夕暮れは早いので「旧東海道」を離れて「石山寺」へ急ごう。「瀬田唐橋」の西詰め交差点を左折する。この角に「橋姫竜神」の祠があったのだが通りすぎてしまった。ここから「石山寺」までは 1.7 キロ、約 20 分かかる。「新幹線」や「名神高速」の高架を潜るのだが、その手前に「京大ボート部」の合宿所があった。「われはうみの子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧さぎりや さざなみの 志賀の都よ いざさらば」、ご存知「琵琶湖周航の唄」は「第三高等学校(後の京都大学)」の寮歌であるが、そもそもはボート部の唄である。

写真33 京大ボート部合宿所

 先に進むと右側に「京阪電車」の「石山寺」の駅が見えてくる。料亭やカフェが立ち並ぶ前の道を進み「石光山石山寺」の「東大門」の前に到着。公式ホームページに境内図があるので参考にしてほしい。

写真34 石山寺東大門

 門から参道を進み、料金を支払って境内に入る。大河ドラマ「光る君へ」とのコラボ企画として、「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」「源氏物語 恋するもののあはれ展」が開催されていたこともあって、インバウンドより日本人観光客が多い。このお寺、とても大きい。細かいところまで全部見ようと思えば半日くらいはかかるだろう。時刻は 15 時を回っているので駆け足で回る。残念ながら「大河ドラマ館」パスとなった。

 右手にある本堂へ続く階段(大坂)を上る。紅葉はしているが、残念ながら今ひとつ鮮やかさにかける。階段の途中、左に「龍蔵権現社」。『東海道名所図会』には「当山の鎮守なり。熊野権現の別社なり」とある。ここにも龍がいた。

写真35 龍蔵権現社

 階段を上りきると広場に出て、正面に「多宝塔」が見えるのだが、その間には大きな石の壁がある。これが天然記念物の「珪灰石」だ。「石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものですが、石山寺のような雄大な珪灰石となっているものは大変珍しく、国の天然記念物に指定されています。『石山寺』という寺名はこの珪灰石に由来します」と説明がある。アップするとかなり迫力がある。

写真36 天然記念物 珪灰石
写真37 珪灰石アップ

「石山寺」は文字通り「珪灰石」の山に創られた寺院である。「本堂」の下方に「石切場」が発見されており、「新近江名所図解」には「採石時期は本堂の建立年代よりも古いと考えられます。石山寺は 761 ~ 762 年ころの大増改築で本格的に堂舎が整備されますが、石が切り出されたのはこれ以前に遡ることになります。また、採石方法は、奈良県と大阪府の境にある二上山周辺の凝灰岩を 6 ~ 7 世紀に石棺材として切り出した方法と似ていることから、石山寺の石切場の年代は 6 ~ 8 世紀の間に求められるとのことです」とあり、石切場は「天智天皇の石切場」と名付けられている。また、境内の別の場所から白鳳期の瓦も発掘されており、「石山寺」の創建年とされる天平 19 年(747)以前にすでに寺院が存在していたものと思われる。

「珪灰石」の前を左に進み「本堂」に入る。中をざっと見る。「紫式部」が「源氏物語」を書いたという部屋があった。

写真38 石山寺本堂への道を進む

「本堂」を抜けて階段を上がると「多宝塔」である。この辺りが一番高いところなのだろう。瀬田川がよく見えた。

写真39 石山寺多宝塔
写真40 石山寺から見た瀬田川

「紫式部の像」を見ようと「多宝塔」の裏を歩いて「光堂」の前から階段を下りる。途中に像があった。みんな記念撮影をしているので、順番待ちだ。この途中、鮮やかな紅葉があった。

写真41 紫式部像
写真42 鮮やかな紅葉

「石山寺」の山を下り、「石山寺駅」から「京阪線」に沿ってまっすぐ北に上がる。「唐橋前駅」を過ぎて左折、すぐまた右折して北へ進む。これが「旧東海道」。このまま進んで「松原町西」の交差点がこの日のゴール。「旧街道」はこのまま北上するが、「JR 石山駅」はこのすぐ左だ。時刻は 16 時、「草津宿追分」から歩行距離は 15.2 キロ、時間にして 3 時間 48 分だった。次回はいよいよ「三条大橋」である。

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