「旧東海道歩き旅」を完了した私は、その次の日(2024 年 11 月 30 日)、「石清水八幡宮駅」に向かった。ここまでにすでに二回「京街道」を歩いている。一回目が梅の季節、二回目が桜の季節、そして今回が紅葉の季節だ。この日は「枚方宿」まで歩き、翌日、「大阪北浜」の「高麗橋」にゴールする予定。その後、友人たちとの祝宴が待っている!
8:34 に「石清水八幡宮駅」をスタート。「京街道」のコースに「石清水八幡宮」は入っていないのだが、せっかくここまで来てお詣りしない手はないだろう。気温は 8 ℃。ちょっと寒いが、いい天気になる予報。「淀川」の河川敷歩きがあるので、強風だったらどうしようと心配したが、これから二日間はお天気に恵まれそうだ。
石清水八幡宮
「石清水八幡宮」のある山を「男山」という。「八幡宮鎮座の所なるを以て八幡山(やわたやま)とも云ふ。高頂鳩之峰は八幡宮の西にして抽海〔海抜〕一四〇米突〔メートル〕あり、南方に走せて洞嶺(ほらがとうげ)神南備と為り生駒山(大和河内国堺)に連なる、北方は断絶して淀川に臨み、天王山は水を隔てて其西に在り、相対して京師〔京都〕の関門を為す」と『地名辞書』は書く。「生駒山」から北に山が連なりここで途切れる。そこを「淀川」が流れる。対岸は「天王山」、その麓が「山崎」である。「木津川」「宇治川」「桂川」の三川がここで合流して「淀川」となる。「木津川」は「伊賀」、「宇治川」は「近江」、「桂川」は「京」と結ぶ河川。そして「淀川」の南を「京街道」、北を「西国街道」が走る。ここは「京都」に入る水陸交通路のボトルネックなのである。「京都」守護の要となる地であり、さらに南西の「裏鬼門」にあたる「鬼気」を祭祀すべき地でもあったのである。
「石清水八幡宮のホームページ」によれば、「平安時代初め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神の『吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん』との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源」とある。
「八幡神」は奈良時代、「東大寺大仏」鋳造の守護神として中央に登場した。つまりこの神は「仏教」と関係が深いのである。「豊前国」でこの神を奉斎するのは「宇佐大神(うさおおが)氏」、彼らが「平安京」遷都の立役者である「和気氏」や「紀氏」出身の「行教」とつながり、京への進出を図ったものと思われる。「男山」にはもともと「石清水寺」というお寺があったが、「護国寺」と改称して、宮寺として一山を支配するようになった。祭神である「八幡神」は平安初期には「大菩薩」「大帯姫」「比売神」の三柱であり、それらが「応神天皇」、その母の「神功皇后」、「応神妃」に比定されるようになると、神社は皇室の「祖廟」とみなされ、延喜 16 年(916)には「伊勢神宮」に次ぐ第二の宗廟として尊敬を集めるようになったという。
神社のホームページはさらに「清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡大神様を氏神として尊崇し、その信奉の念は格別で全国各地に八幡大神様を勧請しました。源義家は石清水八幡宮で元服し自らを『八幡太郎義家』と名乗ったことは有名です」と書く。「旧東海道」を旅してきて、あちこちに「八幡宮」や「八幡神社」があった。日本で一番数の多い神社は「稲荷神社」だが、「八幡神宮・社」はそれに次ぐ第二位である。これは「源氏」の氏神とされることによって、全国の荘園に「八幡神」が勧請されたことによる。以来、政権を握った「武家集団」がこの神社の重要性を認識し、さまざまな支援を行ってきた。「信長」「秀吉」、その後の「徳川幕府」も例外ではない。
では、神社に行ってみよう。駅前のロータリーの先に神社の「一ノ鳥居」がある。


ここを入ると、その先に「頓宮」。「頓宮」とは仮の宮の意味、毎年 9 月 15 日に行われる「勅祭石清水祭」では「本殿」からここに御神霊が遷される「御旅所」となる。

すぐ先の右に「高良(こうら)神社」。「こうら」は「河原」から来ており、「放生(ほうじょう)川」の側を意味する。「行教」によって建立され、地域の氏神となる。現在の社殿は明治 39 年(1906)の再建。


その先の右に「石清水八幡宮」の案内絵図があった。

右側に「裏参道」が見えるが、そちらは帰りにして、まっすぐ進み「二ノ鳥居」を潜って「表参道」を上っていこう。


階段を上る。「七曲がり」という名の通り屈曲を繰り返すが、曲がる回数は四回。それでも汗が出て来た。ジャケットとシャツの間に着ていた保温着を脱いだ。この先、右手に「坊跡」が続く。「坊」とは僧侶の住まい。神仏混淆の宮寺である「石清水八幡宮」には多くの僧侶がいた。「男山」には 48 もの「坊」があったらしい。



ここ抜けて右に曲がると「三ノ鳥居」。

まっすぐ進むと「南総門」の向こうに朱塗りの「本殿」があった。

「八幡市役所」によれば「石清水八幡宮の本社は、国内で現存する最大かつ最古の八幡造の神社建築であり、本社を構成する10 棟の建造物と棟札 3 枚が国宝に指定されています。現在の本社は徳川3代将軍である徳川家光公の下で本殿・武内社・楼門・廻廊が修造の対象とされ、寛永 11 年(1634)に完成しました」とのこと。参拝を済ませて本殿のまわりを回る。土日祝日は 14 時に解説つきの「昇殿参拝(有料)」が可能とのこと。この日は土曜日だが、まだ 9:05 である。本殿に上がっている人を発見。「上記時間外であってもご案内できる場合があります(特に10名以上の団体様)」とあったので団体さんか?
本殿の周りを取り囲む塀。「信長塀」というらしい。説明版によればこの土塀は信長が寄進したものとのこと。

前掲の「八幡市役所」によれば、「時の権力者から崇敬を集めていたため、戦国時代の天下人がこぞって寄進を行いました。織田信長公は天正 8 年(1580)、八幡造の大屋根の間に懸かる『黄金の雨樋』を寄進し、豊臣秀吉公は天正 17 年(1589)に本社廻廊を再興しており、その子である秀頼公は慶長 11 年(1606)に本社の造替を行ったと伝わっています。『黄金の雨樋』が今なお健在であることに加え、年輪年代の調査から瑞籬(みずがき)欄間(らんま)の材などに慶長期の造営物が含まれていると指摘されており、天下人の度重なる修造が今の本社の基礎となっているといえます。初代徳川将軍の徳川家康公は、本社の修造は行っていませんが、八幡領の検地を免除し石清水八幡宮の保護を図りました」とある。
「黄金の雨樋」は見たかった! そのかわりに「本殿」の裏側で美しい紅葉を見ることができた。

拝観を終え「本殿」から少し南に戻って分岐を左へ。先にある「裏参道」への分岐点を左に進むと「展望台」に出た。ここは「ケーブルカー」の駅の裏あたり。なかなか素晴らしい眺望だった。写真一枚目は北側。隣に案内板があり、それと見比べると中央左の山が「比叡山」だろう。その左下に小さく「京都タワー」も見えている。


二枚目は北西。写真中央に橋がある。これが「御幸橋」、さらに右へ進んで「木津川」、春に歩いてきたところだ。左端に裾が見える近くの山が「秀吉」と「光秀」が戦った「天王山」だろう。

「展望台」の広場に「谷崎潤一郎」の「蘆刈の碑」があった。「わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあだかもその絵にあるようにまんまるな月を背にして鬱蒼とした木々の繁みがびろうどのようなつやを含み、まだどこかに夕ばえの色が残っている中空に暗く濃く黒ずみわたっていた」と小説「蘆刈」の一節が彫られている。名文である。主人公は「十五夜にあたっていたのでかえりに淀川べりの月を見るのも一興」と「淀川」右岸の「水無瀬」に行く。「うどん屋」で一杯飲みながら腹ごしらえをすると、対岸の「橋本」へ渡す渡船があると教えてもらう。川の中央に中洲があり船はそこで引き返し、州の向こうに「橋本」からの船が着いて乗り換えるというシステム。男は中州で下りて対岸へ向かう船には乗らず、蘆の茂る汀あたりに坐って月を見ながら酒を飲んでいると、見知らぬ男に酒を勧められ、やがてその男が身の上話を始めるというストーリー。後半は「谷崎」が頻繁に書く三角関係の男女が織りなす妖しい物語となる。『青空文庫』にあるのでご一読あれ。文章には「、」が無いので最初とっつきにくいが、不思議とスラスラ読める。
「展望台」を後にして来た道を戻り、途中で左折して「裏参道」に入る。「表参道」より狭い階段の道が続く。

鬱蒼とした竹林の前を過ぎて山を下り、来た道に合流した。

同じ道を帰るのも面白くないので、「放生川」の側に出てみると「やわた放生の景」の石碑とその先に「安居(あんご)橋」があった。「清和天皇の貞観 5(863)年、旧暦の 8 月 15 日に『石清水放生会』と称し、八幡大神様が男山の裾を流れる放生川のほとりにお臨みになって生ける魚鳥を放ち『生きとし生けるもの』の平安と幸福を願う祭儀として始められました。そしてこの石清水祭が勅祭として斎行されたのは、天暦 2(948)年の勅使御差遣に始まるとされています」と神社のホームページに紹介されている「放生会」の場所がここである。


枚方宿へ

「京街道」へ戻り、「歩き旅」を続けよう。「東高野街道」を北上し、「京阪電車」の踏切を越え「県道 13 号線」の一本手前で左折する。ここからが「京街道」である。時刻は 9:49、ちょうど駅の裏の道なので自転車置き場があった。

左手に「二宮忠八飛行器工作所跡」の説明板。世界で初めて有人飛行機が空を飛んだのは、1903 年アメリカの「ライト兄弟」だが、日本でも飛行機開発に情熱を傾けていた男がいた。その男の名は「二宮忠八(にのみやちゅうはち)」。説明板はこう記す。
この地に、「飛行原理」を世界の誰より早く発見した二宮忠八が「玉虫型飛行器」の製作を本格的に取りかかった二宮工作所がありました。
忠八は、慶應 2 年(1866 年)、愛媛県八幡浜市に生まれ、少年時代には、自身考案の忠八凧がよく揚がり評判でした。
明治 22 年(1889 年)鳥の翼さばきを見て「飛行原理」を発見
明治 24 年(1891 年)「烏型飛行器」の飛行実験に成功
明治 26 年(1893 年)「玉虫型飛行器」の模型を完成
明治 33 年(1900 年)石油発動機があった精米所の当地を買取り、飛行器製作を開始。この付近の木津川には広い砂原があり、飛行器の完成時に試験飛行を予定していました。
明治 36 年(1903年)アメリカのライト兄弟による有人飛行実験の成功を知り、製作を断念
その後、飛行機は急速な進歩を遂げましたが、忠八は飛行機の草創期に事故によって不慮の死を遂げた多くの人々に心を痛め、八幡土井の邸内に飛行神社を創建し、航空界の安全と航空殉難者の慰霊に奉仕しました。飛行神社に隣接する資料館には、「鳥型飛行器」「玉虫型飛行器」の模型等が展示されています。

「飛行器」と「器」の字が使われているのが面白い。彼の建てた「飛行神社」は「放生川」の東側だった。立ち寄ればよかったと思った。
この先の「橋本北ノ町」に「石清水八幡宮」の常夜灯と「道標」。


「右 八まん宮山道 これより十六丁」と書いてある。
この先、「橋本駅」のところで右に曲がり、進むと「渡し場跡」。写真を撮っていなかったので、Googe Maps ストリートビューから拝借。「大谷川」に架かる「栄橋」の右の石柱がそれだろう。「柳谷わたし場」という文字が見える。左面には「山さき あた古 わたし場」とあるようだ。

これは「道標」で、実際の「渡し場」はその先の「淀川」の岸にあったらしい。先に書いた「谷崎潤一郎」の「芦刈」に出てくる「渡船」が昭和 37 年(1962)まであったという。「橋本」という名の通り、ここには「山崎橋」という橋が架かっていた。古くは神亀 2 年(725)に行基が架けたという。その後、何回も橋が流され、豊臣時代に一時復活するが、それ以降は渡船になった。対岸の「西国街道」から「石清水八幡宮」へ行く近道として利用客も多かったようだ。そして、ここ「橋本」には「遊郭」があった。
「渡し場」へ行く手前で街道は左に曲がるのだが、ここから町の雰囲気がガラリと変わる。「遊郭」らしい造りの建物がずっと並んでいる。写真 28 の「旧三桝楼」は、現在、「橋本の香」という旅館になっていて、宿泊可能のようだ。


前に「京街道の地図」として『歴史街道』の地図をオススメした。その地図ではこの先で左折し、「橋本駅」のすぐ南で線路を越える様になっている。その後は蛇行を繰り返す結構、時間のかかりそうなコースだった。一方、ネットから探し出してきた GIS データはこの通りを直進し、右折して「県道 13 号」を越え、「淀川」の河川敷をまっすぐ歩くようになっていた。こちらの方が楽だと思い、しばらく河川敷を歩き、途中で町の方へ戻り「くずはショッピングモール」でお昼という計画を立てた。ところがである! 歩いて行くと「くずはゴルフ場」が現れてそこから先に進めない。「じゃあ町に抜けよう」と思ったが…そちらには「大谷川」が流れていて、行く手を阻んでいる。Google Maps と睨めっこしながら渡れるところ探すのだが橋などなく、結局、来た道を戻ることになってしまった。なんと『歴史街道』の地図のコース、「橋本駅」のところまで戻らなければならなかったのだ。かなりの時間ロスである。おまけに、「歩きスマホ」のせいで躓いてケガしてしまった。教訓「急がば回れ」! 図 2 の行程図にこの苦闘の跡が残っている。
「橋本駅」の東側は都市再生の整備工事をしており、その関係で道が分かりにくい。なんとかここを抜けて「河内国(大阪府)」に入り、「京阪電車」の東側を走る道路に戻ることができた。
ここは「くずは」である。「楠葉」「樟葉」という字が使われている。
さて、ここで『古事記』である。「崇神紀」に「くずは」が登場する。こんな話だ。口語訳でどうぞ。
また、この御代に、大毘古命を北陸地方<高志道>に派遣し、その子の建沼河別命を東方の十二国に派遣して、そこの服従しない人たちを平定させた。また、日子坐王を丹波国に派遣して、玖賀耳之三笠を殺させた。さて、大毘古命が高志国に下がっていった時に、腰裳をつけた乙女が山城の幣羅坂(へらさか)に立って歌っていうには、
御眞木入日子<崇神天皇>よ、御眞木入日子よ。自分の命をこっそり奪おうとする者が、裏門から人目をさけて行き違い、表門から人目をさけて行き違いして、狙っているのも知らないで。御眞木入日子よ。
と歌った。それで大毘古命は、不思議に思い、馬を返して、その乙女に問うて、「お前が口にした言葉は、何を意味するのだ」と言った。すると、乙女は答えて、「私は何も言ったりしません。ただ、歌を歌おうとしただけなのです」と言うとすぐに、行方も知れずに、たちまち姿を消した。
そこで大毘古命は再び都に引き返して、そのことを天皇に申し上げると、天皇は答えて、「これは、山城国にいる私の異母兄建波邇安王が反逆心を起こしたしるしであるに違いない。伯父よ、軍勢を整えて討伐に行かれよ」とおっしゃって、すぐに丸邇(わに)臣の祖先である日子国夫玖命を副えて派遣した時に、早速、丸邇坂に忌(いわ)い瓶(へ)をすえて、下って行った。そうして、山城の和訶羅(わから)河<今の木津川、古代は泉川という>に着いた時に、その建波邇安王は、軍勢を整えて待ち、行く手を阻んだ。両者は間に川をはさんで向い立って、互いに戦を挑みあった。それで、その地を名付けて、「伊杼美(いどみ)」といった〔今は伊豆美という〕。そして日子国夫玖命が相手に求めて言うのに、「そちらから、まず忌い矢を放つがよかろう」と言った。そこで、その建波邇安王が矢を射たが命中させることができなかった。一方、国夫玖命が矢を放つと、まっすぐ建波邇安王を射て、死んだ。さて、建波邇安王の軍勢は、総くずれとなって逃げ散った。そしてその逃げる軍勢を追いつめて、久須婆(くすば)の渡に着いた時に、皆攻め苦しめられて、屎が出て褌にかかった。それで、その地を名付けて屎褌(くそばかま)といった〔今は久須婆(くすば)という〕。後略
小学館 新編日本古典文学全集1「古事記」現代語訳
かなりこじつけ的な地名譚になっているのだが、同じ話が『日本書紀』にも見え、ここでは「屎褌」から「樟葉」に転じている。この「久須婆渡=樟葉渡」だが、「樟葉」と対岸の「島本町高浜」を結ぶものと思われ、江戸時代まで続いていたようである。なお「和名抄」では、「葛葉郷」と「葛」の字が使用されている。
現代の「楠葉」「樟葉」の混合使用については、明治 22 年(1889)に交野郡「楠葉村」と船橋村が合併して、交野郡(のち北河内郡)「樟葉村」が発足したという事情が尾を引いているようだ。町名としては「楠葉」が使われているが、駅名などには「樟葉」が残っている。
なお、『日本書紀』では「建波邇安王」の死のあと、逃げた彼の軍兵を川の北で破り、首を切ったという。「屍骨(ほね)多(さわ)に溢(はふ)れたり。故、其の処を号づけて羽振苑(はふりのその)と曰ふ」とある。「和名抄」に「山城国相楽郡祝園<波布曾乃>」が見え、この場所は現京都市相楽郡精華町祝園の木津川の堤防付近にある「祝園神社」のあたりと考えられている。私は近くの「けいはんな学研都市」で働いていたことがあり、懐かしい名前だ。
先に進もう。街道を南に進むと左に「楠葉台場跡」があった。

説明板には「楠葉台場は、慶応元年(1865)に江戸幕府が築造した砲台場(大砲を備えた要塞)で、設計の総責任者は勝海舟でした。台場の設計図から、西洋の築城様式である『稜堡式』が採用され、3 基の砲台や高い土塁、 深い堀が設けられていたことがわかります。台場築造の目的は、開国を求める異国船が突如、大阪湾に現れたことから、大阪湾に近い京都(朝廷)の警備強化の一環で、淀川を溯ろうとする異国船からの防備とされています。しかし、京街道のルートを曲げて台場内部を通過させていることから、実際は関所(関門)として尊皇攘夷派浪士らの京都侵入を取り締まることにありました。慶応 4 年(1868)1 月、大坂城から京都へ向けて進軍した旧幕府軍は鳥羽・伏見で新政府軍と衝突し、戦闘が始まりましたが、旧幕府軍は後退を続け、戦線を立て直すために橋本陣屋(八幡市)と楠葉台場に集結します。そこへ新政府軍に寝返った津藩(藤堂家)が淀川対岸の高浜から砲撃を加えたため、旧幕府軍は応戦したものの、退路を断たれることを恐れ、大坂へ落ち延びて行きました。その後、台場は新政府軍が接収、跡地は民間へ売り渡され、明治末ごろには姿を消したようです」と書かれている。
「京街道」はここでいったん東に曲り、また川沿いの道に戻るのだが、その理由が関所通過であることがこの説明板で分かった。さらに進んで「町楠葉」に入る。「町」が最初につくのが面白い。住宅街を歩き「町楠葉 1 丁目」に入り、街道が右に曲がる角に「京街道の道標」があった。

その先を左に曲がって進むと「くずはショッピングモール」の前に出た。ここで昼食。さきほど転んだときのケガの手当をする。ズボンの膝を破いてしまっていた。12:18に「歩き旅」再開。「京阪電車」の高架を潜り、「淀川」の土手際を走る「県道 13 号線」に入る。左に「京阪電車」が走っている。

「西船橋」に入り街道は県道から外れるが、「船橋川」を渡るためにいったん県道に出て川を越し、また街道の位置まで戻るといういつものパターン。その先で「京阪電車」と合流し、「牧野駅」の手前まで並行して進む。この「牧野」という名前、昔「牧」があった所だろうと考えていたら正解。平安時代「樟葉牧(くずはのまき)」と呼ばれる朝廷の牧場があったらしい。

「穂谷川(ほたにがわ)」を南下、橋を渡って左岸の道を南下。

「牧野阪二丁目」で右側に入り進むと左手に「阪今池公園」。この公園、ここより北東にある「片埜(かたの)神社」の境内の池の跡だそうだ。神社までは直線距離で 400 メートルくらいあるから、かなり大きな神社だったようだ。

公園から出て左側に常夜灯がある。これも「片埜神社」のものだろう。かつてこの辺りは「交野(かたの)郡」に属していた。『日本歴史地名体系』には、「河内国の最北部に位置した郡。『和名抄』にみえ、訓は高山寺本に『カタノ』、東急本に『加多乃』とあり、異訓はない。北は淀川を隔てて摂津国島上郡と山城国乙訓郡、東は山城国綴喜郡と大和国添下郡、南は讃良郡、西は茨田郡に接するので、河内国と摂津・山城・大和の諸国との接触地帯を占めていたことになる。(中略)現在では、郡域は交野市の全域、枚方市の大部分、寝屋川市の東部にあたる」とある。

この先、街道は「京阪電車」を越え、さらに「県道 13 号線」も越えるのだが、すぐまた県道に合流して「御殿山」に向かう。左手、川を越えた先には「惟喬親王」(844 ~ 897)の別荘であったとされる「渚院」の跡があるのだが、少し外れているので立ち寄らない。「御殿山駅」を過ぎて、「磯島」で県道から外れて南に進むが、「天野川」の手前で橋を渡るために右折して県道に進む。「かささぎ橋」を渡り、また街道の位置まで戻る。


そこに「東見附跡」の説明板があった。ということは、ここからが「枚方宿」だ。13:49 「枚方宿」に入った。

枚方宿

「枚方宿」の概要はつぎのとおり。
- 所在地:河内国茨田郡(大阪府枚方市枚方元町など)
- 江戸・日本橋からの距離:132 里 4 町 1 間
- 宿の規模:家数 378 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 69
- 宿の特徴:東海道 56 番目の宿場町。淀川の舟運と競合しており、大坂方面から京に上る旅客がほとんどという片宿だった。
図 3 は「枚方宿」の地図で丸数字は写真と対応している。入ってすぐ左に宿場町らしい建物があった。「旧枚方宿問屋役人 小野平右衛門家(屋号八幡屋)」と説明が書かれていた。

進んでいくと「枚方橋跡」。現在は暗渠となっている「安居川」にかかる橋だった。「枚方宿」には南北二つの橋があり、北は渡ってきた「鵲(かささぎ)橋」、そして南がこの「枚方橋」だ。

道は南に向き「宗佐の辻」に出る。ここは「京街道」と「磐船街道」の合流点だった。「磐船街道」は「生駒市」の「南田原」から「磐船」「私市」を経て「枚方」に抜ける道で現在の「県道 168 号線」だ。このあたりには、かつて製油業を営んでいた商人「角野宗左」の屋敷があったことから「宗左の辻」と呼ばれているとのこと。「京阪枚方市駅」のすぐ南側だ。ここ、「すきや」の前を右折する。

県道を横断し進むと左に「岡本町公園」。ここに「枚方宿」の説明板がある。「第2日曜日は五六市」と書いてあるが、この「五六」は「ブラタモリ」でもやっていたが、「東海道」の 56 番目の宿場町からきているらしい。

右側に「妙見宮常夜灯」。近くに「妙見宮」があるという訳ではなく、「大阪能勢妙見宮」への祈願をこめ、地域の安全を願って建立されたものらしい。

この先左側に「高札場跡」の石柱があったのだが気づかず。線路の南側に「式内 意賀美(おかみ)神社」があったようだ。このあたりに「物部氏」の遠祖である「伊香色雄(イカガシコオノミコト」の邸宅があったという。
右側に「くらわんかギャラリー」。もとは享保年間から続いている瀬戸物を売っていた「塩熊商店」だ。

その先の右側「三矢公園」に「本陣」があったらしい。気づかずに前を通り過ぎた。「浄念寺」の前が「枡形」になっている。

その先で堤防の方に進むのだが、間違って一本内側を歩いたため「船番所跡」は見逃した。「鍵屋」の案内板があったのでそちらへ進む。目の前にいかにも街道筋の旅籠らしき建物が現れた。

右側に入り口があり、説明板につぎの様に書かれていた。「鍵屋は、江戸時代には大坂と伏見を結ぶ三十石船に乗降する人のための船宿として賑わい、『淀川三十石船唄』に『鍵屋浦には碇が要らぬ三味や太鼓で船止める』と歌われるほど、淀川筋ではよく知られた名所でした。大正・昭和期には料亭鍵屋として名を馳せました。主屋は、文化八年(1811)の建築で枚方宿を代表する町家です。表玄関は京街道に、裏口は淀川に面しており、船への乗降に最適な構造となっていました。枚方宿の面影を留める貴重な建物として、主屋を平成九年(1997)に枚方市有形文化財に指定しています。また、鍵屋敷地は枚方宿と淀川との密接な関わりを示すことから、平成一〇年(1998)に市の史跡に指定しました。主屋は解体復原を行い、別棟とともに『市立枚方宿鍵屋資料館』として平成一三年(2001)に開館しました。訪れた人々に、枚方宿の町家や船宿の様子を伝えています」。では、中へ入ってみよう。奥の方に玄関があった。

入館料 200 円を支払う。「ブラタモリに出てましたね」というと、「TVで紹介されてから客が絶えないんです」との答え。確かに私以外にも客が数組いた。「左に主屋(おもや)があります。いろいろ展示してあるので、あとでご覧になってください」とのこと。どうやら入ったところは「別棟」で、左手に「主屋」があるようだ。もらった資料によれば、別棟は昭和の初めの建物、主屋は江戸時代の建物らしい。事務室の隣に「くらわんか舟」を展示してあった。『世界大百科事典』には「伏見と大坂を結ぶ淀川の乗合船を相手に独特の商売をしたのが枚方の〈くらわんか舟〉であった。船の船員や乗客に対して酒食を売った煮売舟は各所に見られたが、枚方のそれは《東海道中膝栗毛》が描くように〈めしくらはんかい、酒のまんかい〉と、乱暴な物言いをするのが名物で、〈くらわんか舟〉と呼ばれていた」とある。

その『東海道中膝栗毛』の一節はこんな具合。こんなので商売になるかというやりとりだが、この掛け合いが面白くて人気があったらしい。
喜多八「いかさま、はらがへった。あたたへもめしをたのみます」
あきん人「われもめしくふうか。ソレくらへ。そつちやのわろはどふじゃいやい、ひもじそふな頬してけつかるが、銭ないかい」
弥次「イヤ、このべらぼうめら、何をふざきやアがる」
のり合「この汁は、もむないかはり、ねからぬるふていかんわい」
あきん人「ぬるかア水まはしてくらひおれ」
のり合「何ぬかすぞい。そして、此芋も牛蒡もくさつてけつかる」
あきん人「そのはづじや。ゑい所はみなうちで焚いてくてしもたわい」
展示の中に「江戸時代の枚方宿」の地図があった。これを見ると本陣のすぐ西からは「淀川」の土手のへりに家が建てられていた。つまり家の裏手に鍵屋の裏手に淀川が流れて、船着場になっていたのだ。

ブラタモリで紹介された江戸時代の様子を示す絵が「鍵屋資料館のホームページ」で公開されている。二階の座敷は川に張り出していて、舟から宴会の様子がよくわかる。これだと確かに「鍵屋浦には碇が要らぬ三味や太鼓で船止める」となるだろう。

隣の「主屋」を見学する。江戸時代の様子が再現されている。とても立派な建物である。「東棟と西棟からなり、資料館として開館する前の解体復元工事の際に発見された文化八年(1811)の墨書銘から十九世紀初頭の町家建築であることがわかり、当時の様子を再現するかたちで復元工事が行われました」という。枚方市の有形文化財に指定されているそうだ。


「鍵屋」を出て西に進むと、すぐの四つ辻に「西見附」の説明板が立っていた。時刻は 14:42、これでこの日の歩き旅は終了。歩行距離 21.8 キロ、時間にして 6 時間 2 分だった。この場所は「京阪電車 枚方公園駅」のそば。子供の頃よく行った「ひらかたパーク」が近い。でも、遊園地には行かず駅から電車に乗ってまっすぐホテルに向かった。

