京街道歩き旅(4)枚方宿~守口宿~大阪京橋~高麗橋(2024. 12. 1)

枚方宿~守口宿

 いよいよ 2024 年の「歩き旅」の最終日だ。7:56 に「枚方宿・西見附」の四つ辻をスタートした。

図1 枚方宿~守口宿行程
写真1 枚方宿から南西に向けて歩き始めた

 南西に向けて歩き始めたが、途中で道路は西向きに転じる。Google Map を見ると、この先に「水面廻廊」と書かれた場所がある。おもしろそうな名前だ。街道からは外れるが立ち寄ってみようと、本来左折すべきところを直進した。看板のところから奥に入ると、水路があり、それに沿った長細い公園になっている。

写真2 水面回廊1
写真3 水面回廊2

 説明板があった。ここはもともと昭和初期に造られた農業用水路で、淀川の水を引き込んで約 5000 ha の田畑を潤していたらしい。平成 8 年に整備されて親水公園になったと書かれていた。朝の散歩の人もチラホラ。

 さきほどの分岐に戻り、再び南西に向けて歩く。「伊加賀西町」で南に向きが変わった。この町の名前も前回書いた「伊香色雄命(イカガシコオノミコト)」から来ているようだ。地名が「出口」に変わり、真宗大谷派の「光善寺」の前に出た。なかなか立派なお寺である。それもそのはず「京阪電車」の駅名になっているのだ。『日本歴史地名体系』には「文明七年(一四七五)八月下旬、蓮如は北陸布教の中心地越前国吉崎を去って、海路若狭の小浜に上陸、丹波路から摂津の唐崎(現高槻市)を経て、河内国茨田郡中振郷山本の出口に至り、淀川河畔の芦原を埋立てて一宇の草坊を建てた(同一一年一二月の蓮如消息)。これが光善寺の始りである」とある。門の右側の石柱に「出口御坊 光善寺」と書かれている。ちょっとここで名前について考えてみよう。まず、「枚方」、これは「ひらたい潟」、つまり「平らな入り江」から来ているという説がある。つぎにこの場所の名前「出口」、この先で「京街道」は「淀川」の堤に出る、つまり街道の出口に当たるというところからこの名がついたといわれている。「蓮如」がここに来たときはわずか 9 戸の寒村、発展したのはの布教の地となってからだ。

写真4 光善寺
写真5 光善寺本堂

 少し南に進むと「親鸞聖人・蓮如上人御田地」の石柱が立っていた。「御田地」とは説教をした場所という意味。この写真の左に説教の際に「蓮如」が腰掛けた石があったのだが、見落としてしまった。

写真6 親鸞聖人・蓮如上人御田地

 左側に「蹉跎神社(蹉跎天満宮)遥拝所」。「蹉跎(さだ)神社」はここより南東、「京阪電車」の線路の東側にある神社だ。社格は郷社、「菅原道真」を祭神とする天満宮で、ここは「京街道」を行く人に向けての遙拝所らしい。

写真7 蹉跎神社(蹉跎天満宮)遥拝所

 県道を横断し進むと前に土手が見えてくる。手前に祠があった。地図では「松ヶ鼻の地蔵尊」とある。この前を進み、8:47 に堤の上に出た。これからしばらくは「淀川の堤」が「京街道」となる。

写真8 松ヶ鼻の地蔵尊
写真9 淀川の堤を歩く

 この堤を「文禄堤」と呼ぶ。『日本歴史地名体系』には、「京街道は豊臣秀吉による淀川左岸の文禄堤の構築によって成立した。天正一一年(一五八三)に大坂城、同一六年淀城、次いで文禄三年(一五九四)に伏見城が築かれると、この大坂と伏見とを結ぶ最短路としての京街道が、諸大名を動員した淀川左岸の築堤工事に伴う堤防道として誕生したのである。伏見付近の淀川堤防は城郭の普請と並行して文禄三年から前田家・徳川家によって工事が開始され、続いて慶長元年(一五九六)にかけて毛利家・小早川家・吉川家や東国諸大名によって下流の河内・摂津へと工事が進められた。治水工事と軍用道路を兼ねた土木事業で、河内・摂津側では文禄堤とよばれ、のち国役堤として畿内諸国の農村の賦課によって維持修復された」と書かれている。土木事業好きの「秀吉」、なかなか立派なものである。そして、この道は「江戸期」に入って参勤交代用の主要道路として用いられた。「東海道五十七次」の誕生である。

 現在の「淀川堤」だが、とてもよく整備されている。河川敷は公園になっていて、野球のグラウンドもたくさんあり、適当な間隔でトイレもある。冷たい北風の中を歩くことを想定していたが、この日は快晴、風もなく、歩いていると汗がにじんでくるくらいだ。川の向こうに大阪の町が見えた。

写真10 川の向こうに大阪の町が見えている
写真11 野球のグランドがたくさんある

 対岸との間に架かっている橋、最初は「高槻市柱本」と「寝屋川市太閤町」を結ぶ「淀川新橋」。「太閤町」は「豊臣秀吉」から採られた名前だ。続いて「摂津市鳥飼中」と「寝屋川市仁和寺本町」を結ぶ「鳥飼仁和寺大橋有料道路」。

写真12 鳥飼仁和寺大橋有料道路

 最後が「摂津市鳥飼西」と「守口市大日町」との間にかかる「鳥飼大橋」。国道 2 号線(大阪中央環状線)と近畿自動車道、それに大阪モノレール本線が走っている。

写真13 鳥飼大橋

 ここを潜って分岐を左へ。10:30 土手歩き終了。約 1 時間半、堤を歩いていたことになる。出たところは「守口市八雲北町」。ここから「守口宿」はすぐだ。

写真14 分岐を左へ、土手歩き終了

「八雲北公園」を過ぎて右側に浄土真宗本願寺派の「正迎寺」。その先「国道 1 号線」の手前に「守口宿一里塚跡」。「もりぐち ぶらり歩き マップ」には、ここが「上見附」とあるので、ここからが「守口宿」。10:57 、「京街道」最後の宿場町「守口宿」に入った。

写真15 正迎寺
写真16 守口宿一里塚跡

守口宿

図2 守口宿の地図(「もりぐち ぶらり歩き マップ」)

 宿場の概要はつぎのとおり。

  • 所在地:河内国茨田郡(大阪府守口市本町 1 丁目など)
  • 江戸・日本橋からの距離:135 里 4 町 1 間
  • 宿の規模:家数 177 軒、本陣 1、脇本陣なし、旅籠屋 27
  • 宿の特徴:東海道最後の宿場町で、北半分は平地、南半分は堤上にあった。大坂との距離は 2 里で泊まり客は少なかったが、農産物の集散地として栄えた。

 国道を横断して「浜町」に入ると、細い通りの左側に浄土真宗大谷派の「盛泉寺」。

写真17 盛泉寺

 お寺の前にある説明板に「幻の大阪遷都ゆかりの寺盛泉寺」とある。なんだろうと読むとこんな事が書いてある。「慶応三年十月徳川幕府大政奉還 参与大久保利通は人心を一新するため大阪遷都の急務を進言 副総裁岩倉具視は公卿が異議を唱える事は必然と考え表向きは大阪親征の行事とし密かに、遷都の意思を持った行幸なので三種の神器の一、天照大神の御霊代八咫の鏡を連なって慶応四年三月二十二日(九月明治と改元)明治天皇大阪行幸されたおり当坊本堂前に賢所を奉安された由緒が在る(四月十一日江戸無血開城が実現し大阪遷都論はまぼろしと化し一転して江戸遷都となった)」。「大久保利通」が「大阪」への遷都を建議したというのだ。この話は初めて知った。調べると「国立公文書館のホームページ」に「大久保利通の大阪遷都論」という記事を見つけた。

 慶応 3 年(1867)10 月 14 日、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は大政奉還を申し出ました。12 月 9 日には、王政復古の大号令が発せられ、天皇を中心とする新政府が樹立されました。新政府は、摂政・関白・幕府を廃止し、天皇のもとに、総裁・議定・参与の三職を置きました。新政府の最高官職であり政務を統括する総裁には、有栖川宮熾仁親王が就任しました。慶応 4 年(1868)、鳥羽伏見の戦争で旧幕府軍が敗れた直後の正月 17 日、新政府の参与大久保利通は、総裁有栖川宮熾仁親王に、大坂遷都を建言しました。大久保は、「未曾有の大変革にあたり、天皇のいらっしゃる所を『雲上』、公卿を『雲上人』と呼んでいるように、ごく一部の公卿以外は天皇と接することもできずに『上下隔絶』している弊習を打開しなければならない。天皇は、西欧の君主のように、国中を視察し、民を大切に育て、広く民に敬愛される君主となられることが重要である。そのためには、遷都が必要であり、遷都の地としては、他国との外交、富国強兵、軍備増強等において、地形的に『浪華(なにわ)』、つまり、大坂が適当である。」と主張しました。このとき、大坂遷都論は採用されませんでしたが、同年 3 月には天皇の大坂行幸が実現します。

 これが実現していたらどうなっていたろう? 今の東京への一極集中状況が変わっていたかもしれない。

 さて、この先で街道は「府道 158 号線」と出会い右折するが、その角に「難宗寺守口道標」があった。左から「左 京」「すぐ守口街道」と書かれている。この右には「御假泊所」「御行在所」と二つの碑がある。「御行在所」が「明治天皇」が慶応 4 年(1868 年)に宿泊された時の碑、「御假泊所」が明治 43 年に大正天皇が皇太子の時に宿泊された記念碑である。

写真18 難宗寺守口道標

 この「難宗寺」は銀杏の名所だ。通りから鮮やかに黄葉した大銀杏が見えた。

写真19 難宗寺の銀杏

 街道は「国道 1 号線」と合流する交差点で南西に進む細い道となる。その入り口のところに「文禄堤」の説明板があった。「昔の姿を現しています」と書かれた地図を見ると、ここから先は、なんと「文禄堤」の上なのだ。何の変哲もない道だったが、先に進んでいくと堤の上にいることを実感できる。

写真20 文禄堤の説明板
写真21 説明板の一部を拡大
写真22 文禄堤の入り口

 写真屋さんの古い建物があった。ここも堤の上ということになる。

写真23 みよし写真館

 説明板があった。なんと「守口」ではこの堤の上に人々が暮らしていたとある。「堤ノ町」という町が形成されていたのだ。

写真24 堤防道の説明板

 正面に「本町橋」が見えてきた。橋の下は川ではなく陸地。橋の左側は「京阪電車守口市駅」、かつては河川敷だった右側にもビルが建ち並んでいる。かなりの高低差がある。通常の歩道橋よりずっと高いのだ。

写真18 正面に本町橋
写真19 左側は京阪電車守口市駅
写真20 右側もビルが建ち並ぶ

 つぎは「守居橋」。ここも同じような感じだ。

写真21 守居橋
写真22 守居橋から下を覗く

「守居橋」の少し先で宿場町が終わる。特に写真を撮っていないので、ここで宿場を出たことにしよう。時刻は 11:16。

守口宿~大阪高麗橋

図3 守口宿~高麗橋行程

「国道 1 号線」を進む。「国道 479 号線」を横断すると地下鉄「太子橋今市駅」。ここから「大阪市旭区」に入る。「太子橋」という名前は、「聖徳太子」が寺院建立のため、このあたりに視察に来られ、近くの大庄屋の家で休息されたことからきているという。

写真23 太子橋今市、大阪市に入る

 この先、いったん「城北公園通」に入り、すぐ左折して国道を横断して南下する。この場所は「今市」、この名前、新しくできた「市」という意味だが、以前に「市」があった場所が「古市」ということになる。実はこのあたり一帯の古来からの地名が「古市」で、これは郷名にもなっていた。つまり「古市」の地区に「京街道」が敷かれ、その沿線に物資の集積場(市場町)ができたので、そこを「今市」と呼んだらしい。

「木犀の陣屋跡」と書かれた説明板があった。「古市村大字森小路字森の淺田邸の庭園に、みごとな木犀が三本あり、季節には蒲生や関目まで香りを漂わせ、それを愛でた十四代将軍徳川家茂が淺田家に宿泊、多くの大名も守口宿を淺田家に替元宿泊したと言われている。当時、淺田家は森小路の庄屋で、木犀の陣屋、木犀の庄屋として江戸時代まで有名だったと言うが、陣屋の建物は現存していない」とある。不思議に思ったのは、ここは「千林」なのにどうして「森小路」なのか?「京街道」のそばを走る「京阪電車」の駅でいうと、「守口」から南へ「土居」「滝井」「千林」「森小路」「関目」「野江」と続き、そして「京橋」となる。「千林」はどうしちゃったんだろう? 実は江戸時代の「千林村」はもっと東で京阪電車の「千林駅」の近く、「京街道」沿いは「森小路村」だったのだ(図4)。

写真24 木犀の陣屋跡の説明板

旭区の地名の由来」によれば、「森小路」は「古来からこの地域一帯に榎樹などが繁茂し森を成していて、そこには小路が通っていたとの伝承に由来する」、「千林」は「森小路や森口(守口)に隣接する樹林地帯であったようで、瀬林から転訛したとも伝えられている」とある。どうやら、昔このあたりには木がいっぱい茂っていたようだ。

図4 明治18年頃の村の位置と京街道、現在の千林商店街

 さあ、有名な「千林商店街」だ。

写真25 千林商店街入り口

「大阪市」が公開している pdf「千林商店街」にはつぎの様に書かれている。「北河内地方に接する東成郡北東部の古市地区で、京街道と野崎街道の交差したところが古くから賑わっていたが、明治 43 年 (1910) に京阪電車が開通したことにより、明治 45 年頃に北河内地方の生活必需品などの商品を扱う店が多くなり、千林商店街として位置付けられた。大正後期から昭和初期にかけて、大阪市の都市計画により国道1号の整備と、市電の守口までの延長、京阪電車の軌道移設などにより古市地区の道路が整備され、現在の千林商店街が形成された。更に今市商店街、大宮商店街、そして森小路商店街の連携により、集客力の大きい商店街へと発展した。戦後、戦災を免れた千林商店街は商業活動の再開が早く、娯楽施設(映画館、ゲーム館)が乱立して賑わった。商店では『品物の豊富さ』と『安さ』で、更に全天候型のアーケードをいち早く設けるなどで人気を得て、京阪沿線や旭区外からの買い物客を引き寄せる魅力と吸引力を発揮した。この頃に日本で初めて『主婦の店ダイエー』の1号店が誕生し、より商店街を活気付けた。レジャーの多様化とテレビの普及にともない映画館が衰退すると、これに変わってスーパーやパチンコ店の進出し、大型店と小売店が共存共栄する商店街となった。その後、量販店の流通の変化で大型店が撤収し、『商品の豊富さ』と『安さ』の商店街として活発に発展し、現在に至っている。」

 私は中学~大学まで「京阪電車」の沿線に住んでいたので、「千林商店街」は何回も訪れたことがある。とても活気のある商店街で、商品の「安さ」はピカイチだった。当時は「京街道」が商店街の中を通っているとは思ってもみなかった。第一、「京街道」という名前さえ知らなかったのだから。時刻は 11:55、お昼時である。実は歩き始めた時からお昼は「千林」でと思っていた。スマホを片手に店を探しながら商店街を歩く。足下に注意しながら…

写真26 千林商店街

 今日は洋食を食べよう! 一軒、候補に挙がった店の前には行列。あきらめて先に進む。結局、「千林商店街」を抜けたところにあったレストランに飛び込んだ。ミックス定食、すごいボリュームだった。

写真27 ミックス定食

 歩き旅再開。左の「森小路東公園」に「京街道の説明板」。その先、「城北運河」のところに、「古市橋」の説明板。

写真28 城北運河にあった古市橋の説明板

 地下鉄「関目高殿駅」の交差点で右折、大通りから一本北側の小道に遷るが、すぐ「都島通」に戻ってしまう。「野江 4 丁目」で脇道に入り、「城北筋」に出て南下し、再び「都島通」を西へ。「野江 3 丁目西」の交差点で左、これで道が定まり南下を続ける。「リブ・ストリート」と書かれたアーケード街の前に出た。

写真29 リブ・ストリートに入る

 これが「京橋中央商店街」の別称。「新京橋商店街」につながるリブ商店街という意味だ。「新京橋商店街」も行ったことがあるが、この通りは初めて。人数は少ない。「京橋」特有の雑多な臭いがあまりしない。

写真30 リブ・ストリートを歩く

 進んでいくと「新京橋商店街」に入った。おお、これぞ「京橋」! ここを抜けると「国道 1 号線」。

写真31 新京橋商店街
写真25 国道 1 号線に出る

「京街道」はここを直進して、京阪電車「京橋駅」に向かう。一方、写真 25 の正面に見えるのは JR 線の高架だが、その線路に並行して進むと「京橋一番街」という商店街があり。その先に「JR 京橋駅」がある。「京橋一番街」からはさらに「京橋さくら通り」が分かれている。余談だが、「京阪電車」の「京橋駅」が現在の場所に移転したのが昭和 44 年(1969)、私が中学生の頃だ。移転前の「京阪電車」の駅はこの商店街のど真ん中にあったのである。今回は「京街道」を歩いているので、そちらには足を踏み入れないが、ここはとても「大阪らしい?」商店街なのだ。高名なかの「グランシャトー」がここにあるといえば雰囲気はわかるだろう。その「グランシャトー」のある場所にかつての「京阪京橋駅」があったのだ。当時、私は 「国鉄環状線」沿いの学校に通っており、ここで「京阪電車」と「国鉄」とを乗り換えた。「国鉄京橋駅」で降り、その商店街の中を通って「京阪電車」に乗り換えるのである。商店街はゴチャゴチャしていてケバケバしく刺激が強かった。まるで「魔界」という雰囲気だった。大人になってからでも、ここを歩くのはちょっと勇気がいるので、思春期の少年には刺激が強すぎた。新しい「京阪京橋駅」ができて流れが変わった。商店街を通らずに乗り換えができるのである。そして、駅にはショッピングモールができ、周辺も整備されてガラリと雰囲気が変わった。だが、昭和の雰囲気が残る商店街は今も健在なのだ。

写真26 新京橋商店街入り口

 横断歩道を渡り、「新京橋商店街」を振り返る。入り口に大きな「真実の口」? 映画「ローマの休日」で「アン王女」が手を入れたもののパクリだが、大きすぎて背伸びしないと口に手がいれられないぞ。

「京阪電車京橋駅」の前を過ぎる。「京街道」の起点(終点)は最初に街道が制定されたときは「京橋」、のちに延伸されて「高麗橋」となった。では、その「京橋」はここかというと、そうではない。もう少し西の「大阪城」の「京橋口」なのである。では、まずそこを目指して歩いて行こう。

写真27 京阪電車京橋駅

 駅の北側を歩いていたが、「大阪城」は南側なのでそちらに移動しておいたほうが良さそう。北側は人通りが多かったが、南側を歩いている人はほとんどいない。

写真28 京阪電車線路の南側を歩く

 ここを進むと南に向きが変わって「国道 168 号」の前に出る。これを横断し「寝屋川」にかかる橋を渡るのだが、この橋が「京橋」。ここにも歩道はあるのだが、その隣に歩道橋がついている。写真を撮っていないので、Google Map ストリートビューで見ると写真 29。そして、この歩道橋の名前がなんと「大坂橋」なのだ。

写真29 寝屋川を渡る橋
写真30 大坂橋

 で、私は「京橋」ではなく「大坂橋」を進んだ。なぜか? 次の写真だ。

写真31 大坂橋から見た大阪城

 ここからだと障害物に邪魔されることなく「大阪城」を見ることができるのだ。アップ写真はつぎ。

写真32 大阪城アップ

「大坂橋」を下りたところが、「大阪城」の「京橋口」だ。時刻は 14:37。 ここからは「大川」と並行して西に進む。「大川」は昔の「淀川」で、「新淀川」から「毛馬閘門」を通って南に流れている。ここで「寝屋川」「第二寝屋川」と合流して「中之島」まで流れ、二手に分かれて北は「堂島川」、南は「土佐堀川」となり、再び合流して「安治川」「木津川」「岩崎運河」「尻無川」へと続く。ゴールの「高麗橋」はこの「土佐堀川」から南に引いた運河「東横堀川」に架かる橋である。もう少し西だ。

「国道 168 号線」を西へ。「天満橋」の交差点にやってきた。ここで、川沿いの道へと移動する。

写真33 天満橋交差点

「大川」に面した船着場があるのだ。名前は「八軒家浜」。『日本歴史地名体系』には「大川南岸の天満橋と天神橋の中間にあった船着場。八軒屋・八間屋と記す場合もある(明暦元年大坂三郷町絵図・難波雀など)。(略)地名の由来については八軒の旅籠があったためとも(摂津名所図会)、豊臣氏の大坂築城頃八軒家があったことによる(浪華奇談)などともされる。(中略)淀川の貨客輸送にあたった過書船は、江戸時代初期には山城伏見から大坂、伝法(現此花区)、尼崎(現兵庫県尼崎市)を就航したが、のちには八軒家までとなっていた。『淀川両岸一覧』に『京師への通船は浪花市中所々にありといへども当舳岸を第一とす』とあるように、過書船のほか野崎参などの川筋小廻り船の発着で昼夜賑った。三十石船乗場や伏見船大坂船番所があり、京街道筋にもあたる浜通には旅籠屋を中心に諸商問屋が軒を連ね、高札場も設けられた(手鑑)」とある。

写真34 八軒家浜船着場

 また、「明治三年(一八七〇)、伏見―八軒家間に淀川蒸気汽船が就航、従来の三十石船はしだいに衰退したが、淀川水運そのものも同一〇年鉄道が大阪―京都間に開通し、同四三年に京阪電気鉄道が天満橋―京都市東山区五条間に開通するに及んで貨物船のみとなって衰退し、八軒家もその役目を終えた」とある。ここで思い出すのが、「石清水八幡宮」のところででてきた「谷崎潤一郎」の「芦刈」。中州で会った男が「月見につれて行ってやろうといわれて明るいうちから家を出ましてまだ電車のない時分でござりましたから八軒屋から蒸汽船に乗ってこの川すじをさかのぼったことをおぼえております」と思い出を語っている。さて、現在も船着場があるが、蒸気船などはもちろん走っておらず、「大川さくらクルーズ」や「ひまわり納涼ビアクルーズ」などのクルーズ船の発着場になっている。写真 35 は西を見たところで、「大川」の真ん中に島が現れる。これが「中之島」。右が「堂島川」、左が「土佐堀川」になる。

写真35 八軒家浜から西を見たところ

 国道に戻り西へ、「天神橋」の手前、「北浜東郵便局」の前に「紀州邸跡」の碑があった。

写真36 紀州邸跡の碑

 その先「天神橋」の交差点で左折して「高麗橋通」に入り西に進むと、あった!

写真37 高麗橋

 高速道路の高架下なのは東京の「日本橋」と同じだが、幹線道路ではないので車や人通りが少ない。右の方に「里程元標跡」の碑も建っている。

写真39 高麗橋説明板

 そばの説明板には、「東横堀川は大阪城築城のとき外堀として改修されたといわれる。 高麗橋はそのころにかけられたらしく現在大阪城天守閣に保存されている慶長九年(一六〇四)の銘のある鉄製擬宝珠(ぎぼし)はこの橋のものと伝えられている。江戸時代の高麗橋は幕府管理の十二公儀橋の中でも格式高く、西詰に幕府の御触書を掲示する制札場があったほか諸方への距離をはかる起点にもなっていた。明治三年(一八七〇)九月大阪最初の鉄橋にかけかえられ、さらに昭和四年(一九二九)六月に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかわった欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敦(やぐらやしき)を模した柱は昔の面影をしのぶよすがとなっている」と書かれているのだが、「高麗」の由来が書かれていない。「大阪市」によれば「高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである」とのこと。

 時刻は 15:01、「枚方宿」からここまでの歩行距離は 25.3 キロ、所要時間 7 時間 4 分だった。これで四日間に及ぶ「京街道歩き旅」は終了。2014 年の「歩き旅」も終了である。この日の宵は旧友と忘年会。場所はさっき立ち寄った「八軒家浜」なのだ。

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