西国街道・山陽道歩き旅(11)三石宿~片上宿~伊部~長船駅(2025.3.12)

 3 月 12 日(水)、「岡山駅」7:43 発 の山陽本線が 8:30 に「三石駅」に到着した。駅から出て冷たい空気を吸い込み、振り返って駅舎をカメラに収めた。山間の小さな駅。

 こに来るのは初めてではない。20 年ほど前、何度もここに来ていた。仕事に関係する工場がここあり、そこで新製品の試作を行っていたのだ。その工場は既に姿を消しているが、ここに立つと当時のことがハッキリと思い出される。「三石」に宿は一軒しかなく、「かどや旅館」というその旅館に何日も宿泊して工場まで通っていた。この旅館が昔、本陣だったという話を聞いたことがあったし、宿の前が「西国街道筋」だとも聞いていた。しかし、自分がその街道を歩くとは夢にも思っていなかった。今回、その思い出の旅館に泊まりたかったが、すでに廃業されているようだった。

写真 1 三石駅

 駅を出て、橋を渡ったところが街道だ。8:37に 「歩き旅」を開始した。天気予報は「曇り」だが、18 ℃くらいまで気温があがるようだ。

三石宿

図 1 三石宿

すぐ右に「旧山陽道三石一里塚跡」の石柱。

写真 2 旧山陽道三石一里塚跡の石柱

 宿場町を歩き始めたが、街道歩きの人はもちろん、人通りそのものがない。時折、車が横を過ぎていく。

写真 3 三石宿の通り

「三石」の名前の由来について、『日本歴史地名体系』は「中国行程記」に基づき、「福石・基石・守石」という三つの石があったことによるとしている。また、「蝋石(ろうせき)」の産地として有名であると書かれている。

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:備前国和気郡三石村、[現]備前市三石
  • 規模:家数 137 軒、本陣 1 、脇本陣 1、宿屋 120
  • 位置:東は有年宿から三里。西は片上宿へ三里
  • 特徴:古くから山陽道第一の要害船坂峠の西側のふもとの宿場町として知られた。古代山陽道は舟坂峠を越えて坂長駅を通り北西に向かったが、中世には船坂峠・三石宿を経て南西の片上宿に向かってほぼ直進した。鎌倉末期以後、北西すぐの三石山に城郭が築かれ、当地の重要性が増した。蝋石の産地としても有名になる。

「蝋石」とは「葉ろう石を主成分とするろうのような脂肪感をもった石」(『日本大百科全書』)である。「三石」の蝋石について、『大日本地名辞書』は「国志云、三石の白石は消石に似たり、又紫色のものもあり、里民之を八木山石と云ふ。(和気絹云、八木山の鏡石は、其石面平滑にして、之に向へば、顔色をうつすこと、鏡に同じ)産業事績云、三石の蝋石は、慶長年間、八木浄慶の発見に係り、藩祖池田輝政の肖像を、此石にて彫刻したりと云ふ、其質粘輭にして、多く文房具を造る、野谷の産は稍堅硬にして色青し、寛政九年の発見とす」と書いている。

「蝋石」の用途の一つが「石筆(いしひつ)」だった。これは「蝋石」を加工して鉛筆状にしたもので、幼い頃、これでコンクリートの上に線を描いて遊んだ記憶がある。そのうちに、戦時中の原料不足から製造できなくなっていた「石膏チョーク」が大量に出回るようになって、ほとんど見かけなくなってしまった。1971 年の「岡山県三石地区のろう石鉱床の研究第 1 報」(『地質調査所月報』第 22 巻第 9 号)には、「三石地区は岡山県の東端部にあたり、本邦最大のろう石鉱床地帯として知られている。日本でろう石が初めて発見されたのもこの地区からであり、現在の採掘量は三石地区だけで年間 50 万 t 以上に達し、全国生産量の 1/3 以上(岡山県全体の生産量は、全国の約 47 %)がここから産出している。この地区のろう石鉱床は、単に規模が大きいだけでなく、その産状は複雑・多岐にわたっており、鉱石の種類も著しく多い」と書かれている。「石筆」の他に「蝋石」は耐火煉瓦、クレー工業、陶磁器等の原料として用いられる。中でも最大の用途はこの「耐火煉瓦原料」だろう。

 街道左に「三石耐火煉瓦株式会社」の工場があった。創業は明治 25 年。

写真 4 三石耐火煉瓦株式会社

「三石耐火煉瓦株式会社」のホームページによると、会社の歴史は次のようだ。

 三石耐火煉瓦は、岡山県の東端、岡山県備前市三石にあります。
 山間の小さな町・三石は、かつて 40 ~ 50 近くの「蝋石(ろうせき)」鉱山を有する鉱山町でした。国内はもちろん、海外でも例がないほど、蝋石を多量に産していました。
 明治 5 年、岡山県野谷村(備前市)で、加藤忍九郎がこの蝋石を原料に石筆(チョーク)の製造をはじめました。明治維新によって、日本の近代化が進む中、学校制度の開始を受けて、文字を勉強するための道具、石板と石筆が必要となったのです。そうして加藤忍九郎は、三石産蝋石による石筆製造事業を発展させました。
 当初、鉱山から蝋石は手堀りしていましたが、機械化が進んで露天採掘が行われるようになり蝋石の研究が進むと、蝋石は耐火物用として優れた特性をもつことが判明します。時代に耐火用途の需用を見越した加藤忍九郎は、明治 25 年に、三石煉瓦製造所を設立し、耐火煉瓦の製造を開始しました。「三石耐火煉瓦」の歴史はここから始まります。

 加藤忍九郎が耐火煉瓦を試作する際、地元の伝統産業、備前焼を焼く技術が役に立ちました。最初の耐火煉瓦は、備前焼の登り窯で焼いたという記録があります。耐火煉瓦の原料・蝋石の産地であったこと、煉瓦を焼くための窯があったこと、その二つが重なりあったことが、この地区が国内最大の耐火煉瓦の生産地となりえた大きな要因となっています。
 やがて明治政府は富国強兵を推進してくと同時に、国内の産業育成政策を政府主導で推し進め、日本各地に製鉄所を建て、鉄を溶かす反射炉を築造します。鉄を溶かす 1500 °C 以上の高温に耐える耐火煉瓦は、反射炉の内張りという工業用材料に最適、なかでも三石の蝋石は鉱量豊富で耐火煉瓦の原料として好適と評価され、三石蝋石による耐火煉瓦の需要は徐々に増加していきました。さらに戦争が始まると、軍艦のボイラーための耐火煉瓦が必要となり、三石煉瓦製造所は、海軍の指定工場になります。(以下略)

三石耐火煉瓦株式会社 HISTORY 歴史

 かくして、「三石耐火煉瓦」は明治 30 年代には「備前陶器」「品川白煉瓦」と並ぶ代表的耐火煉瓦会社に成長する。

「備前」は「やきもの」の国。それとともに「耐火煉瓦」をはじめとする「耐火物産業」が盛んな土地なのである。

 右側にレトロモダンな建物があった。表札を見ると「三石耐火煉瓦株式会社 開発」と書かれているので、開発部の事務所として使用されているのだろう。昔は倉庫だったのかもしれない。以前に来た時に、こんな美しい建物があった記憶がないので、その後に改修されたものと思われる。

写真 5 三石耐火煉瓦のレトロモダンな建物

 この先の右側にある「三石明神社」に立ち寄る。これは「三石明神」の「社(やしろ)」ということだろう。この土地の「産生神」である。

写真 6 三石明神社

 鳥居を潜り、境内に入ると山を背に祠があり、その前の鳥居には「孕岩(はらみいわ)神社」と書かれた扁額がかかっていた。「孕岩」とは何か?と隣の説明板を読む。

写真 7 孕岩神社

三石八景 三石神社
三石神社は三石明神又は孕岩神社とも言われます。 今から一千有余年の昔 神功皇后がご懐妊の御身で当地お立ち寄りの際この社にある大きな岩の上でご休息になりそれ以来境内の岩や石は皆白い小石を孕んでいるようになったと伝えられております。 今も遠近から子宝に恵まれたいと願うご夫婦の方々がよくご参詣になっておられます。

「神功皇后がご懐妊の身でここに立ち寄った」とあるが、『記紀』と話が合わない。「神功皇后」は「角賀(敦賀)」から日本海側を進んで「穴門」(下関)で「仲哀天皇」と合流し、天皇崩御の後、熊襲征伐・三韓征伐を行った後「応神天皇」を産み、瀬戸内海を西に進んで「忍熊皇子」と戦っている。つまり、懐妊中、ここにいる事はなかったのである。伝承といってしまえばそれまでだが、別人物であろうか?

「孕石」とは「石の中にまた小さい石をもっているもの。こもちいし」(『日本国語辞典』)である。祠のすぐ前には玉垣があって、その中に石がたくさん入っていた。写真の褐色の大きな石はその中に白い石が入っている。これが「孕石(岩)」だろう。

写真 8 孕岩

 境内の土は前日の雨で濡れてすべりやすそうだ。二日目に予定していた峠越えを最終日に回して正解だったと思った。

 街道を進むと、左に「本陣跡」。20 年前は「かどや」という旅館だった。なかなか立派な建物である。部屋割りなど、記憶が定かでは無い。お風呂は普通のもので、いかにも地方の旅館という雰囲気だった。朝食に小さな河豚の焼きものがついていたのはいかにも「瀬戸内」らしかった。

写真 9 本陣跡(旧かどや旅館)
写真 10 本陣の先の街道の様子

 この西に「問屋場」「高札場」、「三石明神社」との間に「脇本陣」があったようである。「金剛川」を渡る。

写真 11 金剛川を渡る

「関川交差点」を越え、その先で「山陽本線」の線路を潜る。この煉瓦を用いた「三石架道橋」は「土木遺産」に登録されている。ほかにも「土木遺産」があるようだ。「三石」は煉瓦を用いた古い土木構造物の宝庫である。

写真 12 三石架道橋(土木遺産)

 架道橋の手前右に「光明寺」。山門の右側に「明治天皇三石行在所」と書かれた石柱があるが、実はもっと立派な碑が客殿の前にあるのだそうだ。明治 18 年の行幸の際の宿泊所になっている。

写真 13 光明寺

 この先、街道は「関川城」があった山際を抜けて「国道 2 号線」に合流する。

三石宿~片上宿

図 2 三石宿~片上宿行程

 ここからつぎの「片上宿」まではほぼ一直線だが、大半が「国道 2 号線」歩きだ。「歩道」はあるが片側しかないところもあるので、国道の横断を余儀なくさせられる。またインターチェンジもあってなかなかややこしいが、先人のブログを事前検討したおかげで、問題なくクリアすることができた。基本的に右側の歩道を進むとよい。

図 3 国道 2 号線関谷~八木山までの歩き方

 次第に登り坂になる。


写真 14 次第に登り坂になり弟坂に入る

「弟坂」「兄坂」とが続くが、「弟坂」で右側の歩道がなくなってしまい、左側に移動する。

写真 15 弟坂では右の歩道がなくなるので左側に移動

「兄坂」の途中で右側に歩道が表れ、つぎのインターチェンジでの歩行を考えてそちらに移動。以降、右側を進む。

写真 16 兄坂では右側に歩道が現れるのでそちらに移動。以降、右側を進む
写真 17 鏡石神社への脇道(右)、横断歩道を進む

インターチェンジの手前で横断歩道を利用して本線側に移動。

写真 18 インターチェンジ手前、本線側に移動

 その後、右側から道が合流してくるので横断歩道を使ってそちらに移動。写真 19 の高架を潜ったところで右側に分岐が現れる。

写真 19 高架を潜ったところで右側に分岐が現れる

 脇道に入り、「鏡岩神社」の標柱の前まで進んで左に入る。

写真 20 鏡石神社の標柱

「鏡石神社」はここから 600 m ほど山道を上がった先にある。「鏡石」とは前に述べた「蝋石」のこと。「顔色をうつすこと、鏡に同じ」である。ここで、慶長年間に「八木浄慶」が蝋石を発見した。「浄慶」は「蝋石」を使って、藩主「池田輝政」の像を刻み、亡くなってからも子供に祀らせていたところ、当時の藩主の「池田光政」がこれをたたえて此の地に宮を建立したとされる。

 右側にお地蔵様二体、その先にもお地蔵様が並んでいらっしゃる。

写真 21 お地蔵様が二体
写真 22 その先にもお地蔵様が二体

「八木山」の集落を抜けて国道と合流。国道の向こうに「明治天皇御小休所址」の碑。

写真 23 明治天皇御小休所址の碑

 右側の歩道がなくなり、いったん左に移る。

写真 24 すぐ右の歩道がなくなり、左に移る

「四軒屋」で右側の歩道に移り、脇道へと入る。

写真 25 右の脇道へ入る

八重咲きの梅が満開だった。

写真 26 八重咲きの梅が満開だった

「閑谷(しずたに)」に入り、山際を歩く。「県道 261 号」を横断し、「伊里川」を渡った左に赤い屋根の小さな祠があった。「閑谷神社」と書かれた石柱が立っている。

写真 27 閑谷神社

 左に「備前焼桂花園」、その屋敷の石垣の前に「藤ヶ棚茶屋跡」の標柱があった。ところどころで備前焼の看板を見つけた。

写真 28 藤ヶ棚茶屋跡の標柱

 再び国道に合流。その先、道路の向こう側に「片上一里塚跡」。説明板は「一本松一里塚」としている。「大池」の前を通り過ぎて、「いやしの里」の看板のところで脇道へ入る。街道は大きな道ではなく、その手前の細い道だ。

写真 29 片上一里塚跡
写真 30 いやしの里の看板のところで脇道へ入る

「山陽新幹線」の高架が近づいてくる。二手に分岐した道を左へ進んだのだが、右が正解だったかもしれない。正面のアンダーパスで「新幹線」を潜り、少し進んで間違いに気づいて引っ返した。高架の手前を右に進んでつぎのアンダーパスを通過。

写真 31 新幹線の高架の前に出る。潜らず右へ進む
写真 32 次のアンダーパスを通過

 その先でまた道が分岐。さっき間違えたので地図を確かめる。左が街道だ。「備前片上」へと入っていく。

写真 33 また道が分岐、左が街道

 家々の間の細い道を進む。道が微妙にうねっているのなぜだろう? 川を渡って左折。「天神宮」のところで「国道 2 号線」に合流。歩道橋を使って国道を渡る。橋の上から「片上」の町が見えた。手前の線路は「赤穂線」。これまで一緒だった「山陽本線」は「三石」から西へ進み、「吉永」「和気」と北側を通って「岡山」に入る。一方、「赤穂線」は「赤穂」から真西に進んで「備前片上」に達し、「香登(かがと)」で南に折れ、「長船」・「巴久(おく)」と進み、再び西に向きを変えて「岡山」へ入る。これらの二つの路線は「東岡山駅」で一緒になる。

 正面中央の煙突は「品川リフラ」という耐火物工場。明治 8 年創業の「品川白煉瓦」である。その先の「片上湾」の向こうには「九州耐火煉瓦」を祖とする「黒崎播磨」の工場もある。ここに「耐火物」関係の会社が集まっているのは、「大戦景気」と呼ばれる好景気を迎えた大正時代に「ろう石鉱山」に近く、船積みに便利な「片上」から「伊部」地区に県外から耐火物企業が進出してきたことによる。それほど「ろう石」の力が大きかったのである。

写真 34 片上の町

「赤穂線」の踏切を渡る。もう既に「片上宿」に入っている。

写真 35 赤穂線の踏切を渡る

片上宿

図 4 片上宿

「片上宿」の概要について、『日本歴史地名体系』の「東片上村」「西片上村」の両項、その他を合わせて整理するとつぎのようになる。

  • 所在地:備前国和気郡西片上村・東片上村(現 備前市西片上・東片上)
  • 規模:家数 東 176 (宿屋 129)、西 332(宿屋は 232)、本陣 1 、脇本陣 1、高札場 2
  • 位置:東は三石宿から三里、西は藤井宿へ四里八丁
  • 特徴:片上湾は古代から備前の要港。『延喜式』主税寮に「方上津」とあり、北の美作国の雑税物(雑税とは年貢諸役の一つで、検地帳に登録されていない土地や、山・川・海などの利用にかけられた雑多な税)の搬出港であった。中世、山陽道が当地を通るようになると片上は宿駅としての機能を有するようになり、江戸時代には、岡山藩家老陣屋のある周匝村(現赤磐郡吉井町)に至る片上往来を分岐する交通の要衝となる。中世の山陽道は西片上から浦伊部を通り伊部へ向かっていたが、近世山陽道(西国街道)は、葛坂を越えるように路線が変えられた。

 右側に「藤原審爾旧宅跡」と書かれた碑があった。「藤原審爾(ふじわらしんじ)」は直木賞作家、その作品の多くが映画化されている。小説は読んだことがないが、映画「秋津温泉」(吉田喜重監督)、「赤い殺意」(今村昌平監督)、「馬鹿丸出し」(山田洋次監督)は私でも知っている。「藤真利子」さんがご息女だそうだ。東京の本郷に生まれるが、早く父母を亡くし、父の郷里であるここ「片上」で祖母に育てられたらしい。藤原家は大庄屋だったとのこと。

写真 36 藤原審爾旧邸宅跡

 その先の左側に「備前市役所」。

写真 37 備前市役所

 お店のショーウィンドウにひな人形が飾られていた。その横に「備前片上ひなめぐり」のポスター。「まちじゅうどこでもお雛さま」と書かれているではないか! これを見て、前回紹介した街道ウォーカーの山本和人さんが書かれた「西国街道歩き旅 移動にこそ旅のおもしろさがある」の一文を思い出した。

写真 38 街角で見つけたひな人形
写真 39 備前片上ひなめぐり

一方で街道を歩いていると、予期せぬ嬉しい出会いもある。三月に岡山県の備前片上を歩いていると、ひな祭りに遭遇した。「備前片上ひなめぐり」というそうだが、西片上駅近くの住宅や店舗のそこかしこにひな人形が飾られている。しかも屋内だけでなく、屋根の上や側溝脇にまで飾られていた。中でも圧巻なのは、宇佐八幡宮の「石段ひな飾り」だ。姫路で言えば男山に登るときのような急な石段があって、そこに赤い敷物を敷いてひな人形が数百体ずらっと上の方まで並んでいる。こんな光景は今まで目にしたことがない。ついつい石段を上まで上がってみたくなる。こうした道草は楽しいものだ。

山本和人「西国街道歩き旅 移動にこそ旅のおもしろさがある」(公益財団法人姫路市文化国際交流財団発行『BanCul 2022 春号』

 開催は 2 月 28 ~ 3 月 3 日とある。この日は 3 月 12 日、すでに二週間が過ぎている。この雛人形はそのときに名残りだろう。「石段ひな飾り」がある「宇佐八幡宮」はこの先の右側だ。すぐ、鳥居と長い階段が見えた。ポスターに写真があった狛犬もいる。

写真 40 宇佐八幡宮の鳥居
写真 41 備前焼狛犬(右)
写真 42 備前焼狛犬(左)

 説明板にはつぎの様に書かれている。

 この備前焼の狛犬は、胴回り約 2.5 m 高さ約 1.4 m である。右側の阿形には「文政九丙戌年九月吉日 備前釜元 森五兵衛尉正統」左側の吽形には「伊部細工人 森五兵衛正統 服部章兵尚芳」と刻銘されている。また、台座には天保五年(1834)、 前川氏が寄進したと刻まれている。
 ちなみに、宇佐八幡宮は、建武三年・延元元年 (1336)に、足利尊氏が多々良浜(福岡)の戦いで大勝し、九州制覇ができたのは、豊前の宇佐八幡宮に参籠して、武運長久を祈願したおかげだと、初請し足利の守護神にしょうとした。しかし、帰路、 おおしけに遭い、神のお告げで、湯神村(片上村現備前市)に祀ることとし、富田松山の麓に祀った。 その後、応永元年(1394)には、和鹿林山(若林山)に勧請、更に正保三年(1646)、現在地に遷宮したもので、十万石の格式が与えられていたお宮である。

 狛犬は江戸時代のものだが、そんなに古さを感じさせない。きっと手入れがよいのだろう。ひな人形が飾られる石段は 62 段ある。千葉県の「勝浦市」でもおひな様を「遠見岬神社」の階段に飾るのだが、その石段の数は 60 段。こちらの方が 2 段も多い。二週間も経っているので、もちろんおひな様は見えない。ともかく、お詣りしていこうと石段を上る。

写真 43 宇佐八幡宮の階段

 あった! 石段を上るにつれて、門のあたりにおひな様がいることに気づいた。もちろん、ポスターのようにぎっしりと並んでいるわけではない。右と左の端に数体ずつ、赤い毛氈の上に座っていらっしゃる。ちょっとさびしいが…。

写真 44 雨の当たらないところにおひな様が座っていた。
写真 45 おひな様アップ

 神社にお詣りする。「八幡宮」の総本山は「豊前(大分県)」の「宇佐神宮」。ここから多くの場所に「八幡宮」が勧請されている。通常、その土地の名前が冠せられるので、「宇佐」が残っているのは珍しい。

写真 46 宇佐八幡宮社殿

 街道に戻ると他にもひな人形を飾っているお店がいくつもあった。写真はハンコ屋さんだが、立派なひな人形が飾られている。

写真 47 印章屋さんのひな人形

 通りかかったおばさんに「二週間前はさぞかし立派だったんでしょうね」と訊くと、「それがね、天気が悪くて中止になったのよ」という答え。さすがに雨では街頭にひな人形は飾れないが、雨の当たらないところには飾っていたのだろうと合点した。

「片上鉄道路」と書かれた標柱がポツンと立っていた。横に「ローカル色豊かな鉄道は 60 数年にわたり親しまれ、平成 3 年(1991)に 68 年の歳月に幕を下ろす。現在は自転車道として復活 し、清流と緑の中をサイクリングやジョギング・ウォーキングで楽しむことができる」と書かれていた。

写真 48 片上鉄道線の標柱

 調べると、これは「同和鉱業」の鉄道線で、「片上」から「久米郡柵原町(現・美咲町)」を結んでいた。基本的には「柵原鉱山」の鉱石輸送用だが、旅客営業もしていたらしい。附近の写真を Google Maps のストリートビューから拝借したのが下の写真。中学生が自転車で走っている左の細い道路が「片上線跡」なのだ。

写真 49 中学生が自転車で走っている左の細い道路が片上線跡(出典 Google Maps のストリートビュー)

 その先の「ふくはらふれあい広場」には大量のおひな様。その前に「刀工備州祐高造之宅跡」の標柱。

写真 50 ふくはらふれいあ広場には大量のおひな様
写真 51 刀工備州祐高造之宅跡

「備前」は日本刀の鍛冶でも有名な土地である。この地域では平安時代後期から室町末期まで約 600 年にわたり、総称して「備前鍛冶」と呼ばれる日本最大の刀剣生産の流派が栄えた。特に有名なのが「長船派」で、「光忠」・「長光」・「景光」ら名工を擁し、室町時代まで最盛を極めた。鎌倉末期以降は派手さを抑えた直刃調や独自の刃文が見られ、南北朝時代には相州伝の影響を受け、湾れ刃や沸の強い作が特徴となった。室町時代には「盛光」・「康光」・「祐定」らが活躍した。しかし天正年間(1573-92)末の水害により「長船」一帯が壊滅的被害を受け、「備前鍛冶」はその後急速に衰退したという。

 この標柱の「祐高」こと「横山祐高」は室町時代から続く「備前祐定派」の末流で江戸末期の慶応から、明治にかけて「片上」で刀を鍛錬していた人物。その住居がここにあったらしい。この日のゴールはその「片上」である。

「流川」に架かる「宝永橋」の手前に「前海屋(まえかいや)跡」の標柱。「前海屋は昔海を埋め立て土地を拡張した 今日の郵便局あたりまで 明治二四年遊郭(くるわ)遊女一二名」と書かれている。「前海屋」という屋号の富豪が海を埋め立てて土地を拡張したのがこのあたり。現在の郵便局あたりが明治二十四年頃は遊郭になっていて遊女が十二名いたということらしい。地図を見るとその郵便局辺りが、「片上鉄道」のゼロ起点となっているから、ちょうどそのあたりが港で賑わっていたのだろう。

写真 52 前海屋跡

 左側に「ゑびすや荒木旅館」。旅館のホームページに「備前片上は古くから瀬戸内の良港として栄え、江戸初期より回船問屋『ゑびすや』を営んでおりました。時を経て、幕末・安政三年(1856年)に料理旅館を創業致しました。先人の教えにより、法度(法律)を守り、正直な商いを旨とし、地域の文化的サロンとして多くの文人墨客に愛されてまいりました。廊下でつながれた客室は、当時の建築の贅を尽くしており、味わいのある風格を持った調度品や備前焼は、豊かなくつろぎの時間を与えてくれます」と記されていた。さらに「明治 18 年 8 月 7 日には、明治天皇が岡山行幸のおり、南天の間にてご昼食をお召し上がりになりました。北大路魯山人は、度々当館を訪れ、お気に入りの楓の間に宿泊されました。昭和 20 年代後半には、北大路魯山人とともにイサム・ノグチ、銀座久兵衛、黒田陶苑が来館されました。その際、金重陶陽をはじめ備前焼作家が一堂に会し、大広間にて銀座久兵衛が魯山人の器に江戸前握り寿司を披露しました。ちらし寿司(祭り寿司)の文化圏である備前で、江戸前握り寿司は珍しく、大いに盛り上がったようです」とエピソードも載っていた。

写真 53 ゑびすや荒木旅館

「明治天皇御幸の地」の標柱が少し先の右側にあったらしいが、見落としてしまっている。その碑のところで休憩し、「荒木旅館」で昼食をとられたようだ。その先、通りを渡った右側に脇本陣があったようだが、開発が進んでしまっていて全く面影がない。「アルファビゼン」という総合商業施設が建っていたが 2002 年に廃業、現在は「ビーテラス」という名の備前市の公民館・子育て支援センターが建っているらしい。この施設の開館は 2025 年 7 月なので、歩いた時点ではまだ工事中だから記憶に残っていないはずだ。と、ここまで書いたところで、どうして記憶がないのだろうと不思議に思った。その先を左折した右側に「本陣跡」があり、こちらは碑が残っているようなのだが、それを見た記憶もない。歩いた軌跡を調べてみると、なんと私は「脇本陣」の手前で右折して郵便局の方へ向かっていた。つまり、「脇本陣」「本陣」の前を歩いていなかったのだ!

 記憶を辿る。この時の時刻は 11:40。昼食にしようと、私は事前に調べてあった「ともみ食堂」を探していた。お菓子の「福井堂」の先の交差点の左にその食堂が目に入った。そのとき不思議に思った記憶がある。Google Maps と場所が違うのだ。地図だと「脇本陣」「本陣」を過ぎ、「片上交差点」から郵便局に向かう途中に店があることになっていた。どうやら Google Maps が間違っていたようだ。そのため勘違いした可能性がある。「ともみ食堂」で定食をいただきながらオバさんと世間話をした。そのとき、前回書いた「有年峠」の話が出た。店を出てからも、私は街道とは違うコースを歩いてしまっている。本来の街道のコースを赤で示しておこう。

 歩いたコースの中にも標柱があった。「茶屋屋敷 米蔵 蔵屋敷 在番所跡」と書かれている。

写真 54 茶屋屋敷 米蔵 蔵屋敷 在番所跡

片上宿~伊部~香登~長船駅

図 5 片上宿~長船駅行程

「中世山陽道」は「西片上」から「浦伊部」を通り「伊部」へ向かう海側を回るコースであり、一方、「近世山陽道(西国街道)」は「葛坂」を越える山側のコースである。短いが「茶臼山」の裾を通る坂道となる。

 坂を登り始めると右手に「お夏の墓」の矢印が出た。この「お夏」は「姫路」に生家のあった「お夏・清十郎」の「お夏」である(第 8 回参照)。将軍「徳川家綱」の頃、「姫路本町」に店を構える馬屋で雇われていた男が、主人を殺害し逃げ出すという事件が起こる。男の名は「清十郎」。その事件の裏には主家「お夏」との恋があった。「お夏」は「清十郎」と駆け落ちし、この辺りまで逃げてきたようだ。この先の「葛坂」に「お夏」がやっていたという茶屋がある。そして、ここは「お夏の墓」。「お夏」と「清十郎」は捕まって、「清十郎」は打ち首、「お夏」は気が狂うという悲しい物語である。

写真 55 お夏の墓の矢印

 矢印に従い、入っていくとお墓と追悼碑があった。碑には「情熱の 炎となりて 燃えつくる お夏のみたま ここに鎮まる」と書かれている。

写真 56 お夏の墓
写真 57 お夏の追悼碑

 道は上り坂。「茶臼山公園」への分岐を過ぎると「葛坂峠」。さきほど書いた「お夏茶屋跡」がここにある。説明板には「お夏は天性の美貌と知れ渡った評判の店は随分はやった」と書かれている。

写真 58 葛坂峠
写真 59 お夏茶屋跡

伊部

「国道 2 号線」と合流すると、左側に「伊部一里塚跡」の標柱。

写真 60 伊部一里塚の標柱

 つぎの交差点で右の脇道へ移動し、「伊部」の町へ入る。すぐに雰囲気が変化したのに気づいた。古い建物が増え、「備前焼」の文字が目につくのである。さすがに「備前焼」の町だ。

写真 61 伊部に入る
写真 62 衆楽館
写真 63 備前焼工房 藤田龍峰

「伊部」は「いんべ」と読む。つまり「忌部」であろう。「中臣氏」と並んで、古代に祭祀を担当した氏族である。吉田東伍氏の『大日本地名辞書』では、「蓋姓氏録、山城国、諸蕃百済伊部造、末使主とある氏族の別居か、末は即陶の仮借なり。按ずるに、延喜式『践祚大嘗祭、凡応供神御雑器者、神語曰由加物、所司具注。所須物数、申官、差宮内省史生、遣五国監造、河内和泉一人、尾張参河一人、備前一人、到国先祓、後始造作』と載せ、其器物の数も具注したり、伊部窯の由来する所久しく、且明らか也と謂ふべし、忌部氏は是等由加物の増進を司る、姓氏録に伊部造、末使主を並び掲げたるは、其忌部の陶工ならん」と説明している。現代語に訳すとつぎのようになる。

 おそらく『新撰姓氏録』の山城国諸蕃に「伊部造」「末使主」とある氏族の別居だと思う。「末」は「陶」の当て字。推量するに、『延喜式』に「践祚大嘗祭の準備において、一般に神に供える雑器は、神語(特殊な呼び名)で『由加物(ゆかもの)』といい、担当部署は必要な数(種類)を詳しく注記すること。必要とする数量を太政官に申し出、宮内省の史生(ししょう、事務官)を差して、五ヶ国、河内・和泉に一人、尾張・三河に一人、備前に一人を監督・製作のために派遣し、国に到着してまず禊・祓いを行い、その後に製作を始めさせよ」と掲載されており、その器物の数も具体的に示されていることから、伊部窯の起源は古く、かつ明白であるといえよう。忌部氏はこれら「由加物」の増進を担当していた。『姓氏録』で「伊部造」「末使主」と並べて掲載しているのは、その「忌部」の陶工であろう。

吉田東伍氏の『大日本地名辞書』より、現代語訳は筆者

 つまり『延喜式』の規定に基づき、祭祀用雑器の製作地の一つである「備前」に「忌部氏」が派遣され、陶製の雑器を製作を指揮していた。その場所がここで、地名が「忌部」から「伊部」に転化したものと考えられる。この先の右手に「天津神社」があり、その奥の「宮山展望台」のそばに「忌部神社」がある。今回、お詣りはしていないが、そこの説明板には「祭神 陶祖 天太玉命(アメノフトタマノミコト)、発祥 御鎮座年月不詳。窯元六姓【金重・森・木村・大饗・寺見・頓宮】の窯元たちがこの神社をまつった。窯元六姓たちが、備前焼の末永い繁栄を願っておまつりしていた」と書かれているらしい。この地の陶工が「忌部氏」の祖である「天太玉命」を祀るという事実も、「伊部=忌部」説を支持している。

 その「天津神社」は「備前焼」に溢れた神社だった。備前焼の狛犬、参道に敷かれたタイルも備前焼だ。「天神」の扁額がかかっている。進むと神門。屋根瓦、シャチホコ、壁、床もすべて備前焼。長い階段の先に「随神門」、その先にも階段が続いている。

写真 64 天津神社の鳥居
写真 65 天津神社神門
写真 66 天津神社随身門

 ようやく拝殿の前に出た。「天津神社は、由緒書によると、応永十八年(1412)以前の創建で、昔は浦伊部にあったが、御神託により、 天正七年(1579)に現在地に遷宮した。本殿は、棟札によると、延宝六年(1678)の建築で暮股、虹梁、木鼻の繰形が特にすばらしい流れ造りの、 堂々とした一間社で、江戸前期の一間社建築としては、 例のないすぐれた建築である。境内には、備前焼瓦で葺いた門、現代備前焼作家の陶印入り陶板をはめ込んだ塀、備前焼陶板を敷きつめた参道などが配置されていて、初夏に咲く紫陽花の花と印象的なコントラストをみせている。参道脇には万延二年(1861)の年号をもっ宮獅子が安置されている」と説明板にある。

写真 67 天津神社拝殿

 その本殿を見落としてしまっていた。たとえば、「神社探訪録」に写真がある。


 祭神は「少彦名(スクナヒコナ)命」(医、薬の守護神)で「菅原道真公」を配祀する。「岡山県神社庁のホームページ」には「当初、少彦名命を祀り、後に昔から伊部、浦伊部は菅原氏の荘園であった関係により菅原道真公を配祀した。社殿は当初、浦伊部宮前に建立されていたが、伊部に疫病が流行した時、当時の伊部村名主に神託があり、天正7年(1570)、現今の地に遷座すると疫病は平癒した。伊部村民は氏神と崇敬し病気平癒、学問の神、産業陶器の神として神徳あらたかとなっている」とある。

 祭神が「少彦名命+菅原道真」というケースは全国にたくさんある。「新全国神社検索」で検索すると、189 件がヒットした。多くの神々が並んでいるケースが多いので、「少彦名命」が主祭神のトップで、祭神数の少ないものを選ぶと 24 件が合致するが、相殿に祀られているケースを含めるともっと増える。「天神社」の名がついていることが多い。

「スクナヒコナ」(少彦名、少名毘古那)は、小柄でわんぱくな特徴を持つ神として『古事記』『日本書紀』『風土記』など多くの文献に登場する。「大国主神」とも呼ばれる「オオナムチ」(大汝牟遅、大己貴神)と協力し、日本の国造りを行い、その後、常世国へ渡ったとされる。穀物神や医療・温泉開発の神、薬種の守護神としても知られており、薬問屋が立ち並ぶ大阪道修町では少彦名神社を祀っている。また、小人譚の元祖として、かぐや姫や一寸法師などの説話にも影響を与えている。

 おそらく多くの土地で「疫神」として「少彦名」が祀られていたのだろう。「少彦名」は「カミムスビ」(産巣日神・神皇産霊尊)の子とされる。「カミムスビ」は天地が初めて開けたとき、高天原に「天御中主(アメノミナカヌシ)」・「高皇産霊(タカミムスビ)」とともに生まれた神、つまり「天津神」すなわち「天神」である。一方の「菅原道真」は太宰府に左遷されて現地で没し、怨霊となって清涼殿落雷事件などを起こしたとして恐れられ、「天満天神」(天満大自在天神)として信仰の対象となる。この二つの「天神」が融合し、災厄から逃れるための信仰対象となっていったものと推測される。

 ここで一つの考えが頭をよぎった。「菅原道真」は「菅原氏」、そのもとは「野見宿禰」を祖と仰ぐ「土師氏」である。これについては「西国街道・山陽道歩き旅(1)」の「羽束師」のところで書いた。「土師氏」といえば「埴輪」であり、「土師器」という焼き物である。「備前焼」の町である「伊部」にはピッタリなのだ。この地で祭祀具を管轄する「忌部氏」の下で実際に焼き物を製作したのは「土師氏」ではないのだろうか? この考えを確かめるべく、「菅原氏」の荘園について調べてみたがよく分からない。『大日本地名辞書』にも出ていないのである。ところが、すこしページをめくると、「邑久郡」のところに「土師郷」とあるのが目についた。これは現在の「岡山県瀬戸内市長船町土師」を中心とした地域である。これについて吉田東伍氏はつぎのように記している。「和名抄、邑久郡土師(ハシ)郷、(中略)土師は古代造陶を職とせる部民の住地なるべし、後和気郡伊部に移りしにや、伊部には今日も尚陶窯在り、之を備前焼と称す」。私の推測もあながち間違いとはいえないようだ。

「天津神社」の前の道先案内板に「ハルカの陶×備前市」というパネルが取り付けられていた。

写真 68 ハルカの陶×備前市

「ハルカの陶」は陶芸展で備前焼作家の大皿に一目ぼれした主人公が陶芸作家を目指す姿を描く原作:ディスク・ふらい、作画:西崎泰正さんの漫画で、2019 年に末次成人監督・脚本、奈緒主演で実写映画化された。「天津神社」もロケ地の一つだったようだ。

 街道筋には多くの備前焼の店が立ち並んでいる。焼き物好きの人なら一日楽しめるだろうな、と思いながらウィンドウを眺める。

写真 70 備前焼を陳列した店が並ぶ

「伊部つながり西休憩所」で休憩。

写真 70 伊部つながり西休憩所

「不老川」に架かる「伊部橋」を渡る。橋の先の茅葺きの家も備前焼のギャラリーだ。

写真 71 不老川に架かる伊部橋を渡る

伊部~香登

「伊部」を出て「新幹線」の高架を潜ると左手に池が現れる。これが「大ヶ池」でその上を「新幹線」が走っている。走る電車をカメラに収めようとすると、やって来る時間まで待機しなければならないのだが、ここでは歩いている間に何台も「新幹線」がやってきた。改めてその頻度に驚く。

写真 72 大ヶ池の上を走る新幹線

 池の終わりに竣工の碑が立っていた。

写真 73 大ヶ池竣工の碑

 その先、街道の右側には山が連なっている。手前は「大滝道古墳群」、奥の「熊山」には奈良時代の仏教遺跡があるようだ。

写真 74 街道の右側には山が連なる

「大内神社」の鳥居の横に「香登(かがと)一里塚」の説明板。「大内神社」は弘安八年(1825)の「備前国百廿八社神位付神名帳」に正二位大内大明神と和気郡九社の中にあり、応永三一年(1424)の「古社取調書」や明応四年(1495) の「神名記」に「大内大明神」と記されていることから、元禄十六年(1703)以前の創建であることがわかるとのこと。

写真 75 香登一里塚説明板
写真 76 大内神社神門前

 古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅している平安時代の辞書『和名類聚抄(和名抄)』に「香登」は「加之止」・「加々止」と記されている。『続日本紀』に、備前国の人で侏儒の「秦大兄」に「香登臣」を賜姓した記事があり、先ほどの「大内神社」の社記にも「香登臣秦大兄」が修繕をした旨が記されているらしい。平安時代末期には「香登庄」があり、現在も古い街並みが残る地域である。

写真 77 香登本地区の街並み

「鷹取醤油」は 1905 年創業のお醤油屋さんだ。岡山県で広く愛されている甘口だそうだ。

写真 78 鷹取醤油

 そのすぐ先の左手に「地蔵堂」。

写真 79 地蔵堂

 右側に石の鳥居があった。「石長姫(イワナガ)神社」と書かれた額がかかっている。國學院大學の神名データベースに次のような説明がある。「石長姫は大山津見神の娘で、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の姉。邇々芸命(ニニギノミコト)が木花之佐久夜毘売を見初め、大山津見神に婚姻の許可を求めたところ、父神は大いに喜び、姉である石長比売を添えて多くの結納品と共に差し出した。しかし、邇々芸命は石長比売が非常に醜いことを理由に送り返し、木花之佐久夜毘売とのみ一夜の交わりを持った。父神はこれを恥じて、娘を二人とも差し上げたのには理由があったと明かす。父神は、『二人の娘を献上する際、石長比売を召し使えば、天つ神である御子の命は岩の如く不動となり、木花之佐久夜毘売を召し使えば、木の花の如く栄える、とうけい(誓約)をしていたので、木花之佐久夜毘売だけを留めたということは、天つ神である御子の命は桜の花のように短くなるだろう』と告げた。これが、今に至るまで天皇たちの寿命が長くない理由であると伝える」。「コノハナサクヤヒメ」を祀る神社は「浅間神社」をはじめ無数にあるが、「イワナガヒメ」を祀る神社は珍しい。興味を覚えて鳥居を潜った。

写真 80 石長姫神社の鳥居

 社殿の鬼紋はなんと「岩」である。軒瓦にも「岩」の紋章。向拝の縣魚は鶴、唐破風の下には龍の彫り物が施されている。

写真 81 石長姫神社社殿
写真 82 石長姫神社社殿の向拝部分

 由緒を書いた説明板が見当たらない。仕方が無いので「岡山県神社庁のホームページ」を探すと、「創建年代不詳。寛和二年の再興。元大将軍と奉称したが、明治二年三月官許を得て、石長姫神社と改称した」と簡単な記載があった。この「元大将軍を奉称した」とはどいうことだろうか?

「大将軍(だいしょうぐん)」を辞書で引くと、いろいろな意味が並ぶが、最後に「暦注の八将神の一。金星(太白)の精で、この神のいる方角は、三年塞(ふさ)がりといって、万事に忌まれた」(『デジタル大辞典』)とでてくる。そもそも「大将軍神社」はこの「方位除け神社」だったと思われる。近畿を中心に西日本に点在しており、岡山県では倉敷市、玉野市に「大将軍神社」が存在する。陰陽道の星神を祀る神社であり、仏教・道教の色彩が強かったため、明治の「神仏分離令」に引っかかり、多くが神仏分離と名称変更を余儀なくされた。その結果、「石長姫神社」や「素戔嗚神社」が誕生する。では、なぜ「イワナガヒメ」なのか? その理由の一つに、江戸時代に出版された『神社啓蒙』に「大将軍がイワナガヒメである」と書かれていることが理由とされるが、もうひとつハッキリしない。

長船駅へ

 このあと「香登駅」にゴールする手もあったのだが、「赤穂線」の一つ先の「長船駅」まで足を伸ばすことにした。このコースは「西国街道・山陽道」を外れている。街道はこの先「国道 2 号線」に合流して、「吉井川」に架かる「備前大橋」を渡り、「岡山市」に入るのだが、この区間が片側一車線で歩道がないという「難所」なのである。交通量の多い「国道 2 号線」である。大型トレーラーも頻繁に通っている。先人はこの区間でかなり手こずっていた。「備前大橋」には歩道橋がついているので問題ないのだが、渡った先にも歩道がない。さらに改修工事中で状況が読めない(なお、この工事はすでに完了しているが、Google Maps で確認したところ、やはり歩道はないようだ)。ということで、「君子危うきに近寄らず」で一つ南の「邑上(むらかみ)橋」を渡り、「浅川」で街道に合流することにしたのだが、「国道 2 号線」からこの橋に向かう「県道 464 号線」にも歩道がないので、結局、「長船駅」まで出て、その南の「県道 83 号」を西に進むという、大回りルートとなったのである。

「瀬戸内市」に入る。平成の市町村合併で「牛窓町」「邑久町」「長船町」が合併してできた市である。「吉井川」から農地等に水を引く水路が川の左右に伸びている。西側は「倉西川用水」、東側は「大用水」という。今回はこの「大用水」に沿って南下することにした。この道は車も通らないのでとても快適なウォークだった。恐怖に怯えながら「2 号線」を歩くのとは雲泥の差だ。

写真 83 大用水に沿って西側を歩く

 左に「靭負神社(ゆきえじんじゃ)」が見えてきた。古くから眼病に霊験ありとされ、長船の刀鍛冶が目を守っていただくために信奉したといわれる。立ち寄ってみたかったのだが、水路に橋がないので向こう側に行けないので断念した。この神社の「備前長船刀剣発祥の地」の碑があり、そこから 400 m ほど南に「備前長船刀剣博物館」がある。

写真 84 左に靭負神社

 しばらく進むと用水が二手に分かれ、右側の道は小さな用水に沿う形になる。「長船駅」へは手前で橋を渡って「大用水」の東側に移った方がよかったのだが、いちおう街道に沿って歩いておこうかと妙にこだわって直進した。その結果、「福岡」まで歩いて、東に折れた。途中の「八日市」で古い「消防機庫」を見つけた。昭和初期のものらしく、近代化産業遺産に指定されている。

写真 85 消防機庫(近代化産業遺産)

「福岡」の交差点に地図があった。このあたりは、中世、吉井川の水運に支えられて大いに栄えたらしい。また、山陽道の周辺に市場が発展し、「福岡市」と呼ばれて西国一の賑わいであったといわれている。この繁栄は江戸時代まで続いたという。地図に描かれている「仲崎邸」は明治から大正にかけて建てられた、築約100年の大地主の邸宅で、「商都」の繁栄を彷彿とさせる名建築だという。行ってみたかったのだが、ここで時刻は 15:03、赤穂線の岡山行きは 15:30、すでにかなり歩いているので疲れており、早く岡山に戻りたかった。とういことで、見学はパスして駅に向けて歩き始めた。

写真 86 備前福岡の地図

 ここで一つ失敗をする。踏切の手前を右折して駅に西から入ろうとしたのだが、入口がなかったのだ。「長船駅」の入口は東側にしかないのである。大急ぎで来た道を戻り、踏切を渡って、駅に駆け込む。時刻は 15:24、 6 分残して無事ゴールできた。この日の「三石」からの歩行距離は 26.4 キロ、時間にして 6 時間 47 分だった。

タイトルとURLをコピーしました