
島田宿
歩いたコースを図 2 に示した。青い実線だ。一方、赤い点線はパスした「旧東海道」の部分だ。「島田宿」は「東枡形」から「西の枡形」までだから、歩いたのは宿場の 1/5 ほどしかなかった。

「島田宿」の概要はつぎのとおり。
- 所在地:駿河国志太郡(静岡県島田市本通など)
- 江戸・日本橋からの距離:52 里 2 町 45 間
- 宿の規模:家数 1461 軒、本陣 3、脇本陣なし、旅籠屋 48
- 宿の特徴:大井川の東岸の宿場。江戸防衛のため大井川の架橋・渡船が禁止され、人足による川越のみであった。元禄 9 年幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉管理を一元化した。増水して河止めになると「宿場」に人が溢れて収容できず、二宿も後に戻って宿泊する者もあった。

図 3 の古地図では街道の南北に運河が見える。これは元禄期に開削されたもので、「島田宿」は「大井川」上流から切り出した木材の集積地としても栄えた。
時刻は 12 時を過ぎている。前回も書いたが私はお昼ご飯を食べる店を探していた。ラーメン屋はどこにでもあるが(旧街道にはそのラーメン屋すら少ない!)、それなりの雰囲気のある店はとても少ない。「お蕎麦屋」さんはないものか? 最初に覗いた店はとても高級そうだったが満席だった。地図を見ると、これから行く「大井神社」のあたりにもお蕎麦屋さんがありそうだ。
「よし田」さんを覗いてみる。大丈夫そうだ。美味しい「天ざる」にありつけた。入った時は空いていたのだが、どんどん客が増えてすぐ満席になってしまった。いいタイミングだったようだ。
その先に「大井神社」の鳥居があった。これは東側にある鳥居で、メインの参道は「旧東海道」側にある。こちら(写真 2)は立派である。


社殿は写真 3 。祭神は「弥都波能売神社(ミツハノメノカミ)」「波邇夜須比売神(ハニヤスヒメノカミ)」そして「天照大神」の三柱。水の神、土の神、太陽の神でみんな女性だ。神社のパンフレットには「大井神社の御創建はいつのことか定かではありませんが、古くは平安時代の書物『三代実録』に貞観 7 年(865)御位階宣下の記録が見られます。言い伝えによると、昔大井川奥にあった大井神社が大井川の度重なる洪水により川下に流され、島田の地に祀られたそうです。元和元年(1615)に現在の御仮屋町の御旅所の地に遷されましたが、その御神社より上流に島田の町が広がり、生活汚水が神社の方に流れるのは申し訳ないという氏子の請願により、元禄 2 年(1689)町の最も川寄りであった現在の地に御遷座されました。そして元禄 8 年(1695)から御神輿が御旅所に里帰りする御渡りが行われるようになり、日本三奇祭『帯祭り』へと発展していきました」と説明がある。これでこの神社が「宿場町」の端に位置する理由が分かった。なんと、生活排水が原因だった。ここに書かれている「御旅所」だが、その場所を図 2 に記してビックリした。なんとその前を歩いていのだ。全く気がつかなかった。

この「三大奇祭」だが、調べると数え切れないほど候補がある。「なまはげ柴灯祭(秋田県)」・「御柱祭(長野県)」・「吉田の火祭り(山梨県)」が有名なところ、そのほかに「黒石寺蘇民祭(岩手県)」「西大寺会陽はだか祭り(岡山県)」などもあり、この「島田の帯祭り」も一つに数えられている。「帯祭り」は先のパンフレットの様に「大井神社」の神様が「御旅所」へ里帰りするというもので、10 月の第二日曜日を含む三日間、町中で大奴・大名行列・鹿島踊などが行われる。その様子が「カメラマン日記 日本三奇祭 島田の帯祭」に出ている。
「帯祭り」の様子を彫像にしたものが二体「大井神社」にあった。大奴の木太刀に帯が掛けられている。これは新婦の嫁入りの帯を安産の願いをこめて神前に捧げ、大祭の行列でこのようにして宿内に披露していたとのこと。ここから「帯祭り」の呼び名が生まれたらしい。

島田宿から大井川へ
「島田宿」を後に「大井川」に向かう。途中、「大善寺の梵鐘」を見ていこう。これは「島田宿」に2時間毎に時間を知らせる為に天明4年(1784)に設置された鐘で、日の出と日の入りの鐘の音は「大井川」の川越の開始と終了を知らせる合図にもなったらしい。


ここから 15 分、「大井川川越(かわごし)遺跡」に到着。川越人足たちの仕事場や江戸時代の旅人が利用した施設を再現したものだ。『東海道名所図会』は「大井川越」についてつぎのように書いている。これで概要がつかめる。また、図 1 の広重の絵も「大井川」の「川越」である。
さればこの大堰川は、東海道第一の急流の大河にして、薫風(みなみかぜ)には水嵩をまし、穴師(あなじ)〔出し抜けに吹き出す西北の季節風〕吹きぬれば水落つる。いにしえより舟なく、桴(いかだ)なく、橋無うして、ゆきゝの人は島田、金谷の川越所に立ち寄りて、何文川の定めを聞いて、その賃をわたし割符を取って渡丁(わたしもり)に越さしむ。蓮台、肩車などの両品ありて、交易の買人(あきんど)、京登り、吾妻下り、伊勢まいり、富士詣でなど八人懸りの台に乗せられ、または肩車にて渉(わた)すもあり。相撲の関取は人を雇わず、自ら丸裸になりて土俵入りのごとくわたるもあり。水勢ちからにや劣りけん、波は左右に別れける。卿相(けいしょう)の雲客(うんかく)〔三位以上の雲上人〕、列国の諸侯〔大名〕は駕(のりもの)を台に居(すえ)て、多くの役夫をもって舁(かき)渡す、水堰の傭夫は前後に囲い、急流に足を揃え声を合わせて渉す。紅葉ちり時雨する頃は水落ちて、冬川の寂しきに渡丁は弱り、みかさます夏河を質に入れ、貸し借りの沙汰、羅山子〔林羅山、1583-1657〕いえるごとく、己が草の戸は流るれども首たけの借銭を納して、五月雨の水に威をまし、下り酒の菰を解いて所々に宴す。島田、金谷の渡丁、すべて七百人なり。霖雨降り止まずして、みかさましぬれば、河止(かわどめ)とて東西の駅中、所狭くまで塞がり、一駅二宿も跡へ戻りて、水の落つるを待つもあり。
「新訂東海道名所図会(中)」ぺりかん社
図 5 は「川越遺跡」の見取り図だ。

写真 6 は遺跡の中に入ったところ。中央の「川越し街道」の両側に「宿」が並んでいる。これらは「番宿」で川越人足が詰めた建物である。



この「仲間の宿」は、各番宿の代表や年寄が集まり、相談などの会合や親睦の場として利用することや、若者達が溜まり場として使用したいわゆる「集会所」だ。通りの中央の北側に「川会所」がある。その日の川の深さなどを測り、川越しの料金を決定し、川札の販売や川留め、川開けなどの川越し業務に関わる運営をした川役人が勤めていた場所だ。この建物は安政 3 年(1856)に建てられたもので、大井川川越遺跡の中で唯一、江戸時代から残る建物なのだそうだ。



ちょっと「川越」の仕組みと料金について整理しておこう。
- 大井川の普段の水位は二尺五寸(約 76 cm)で、四尺五寸(約 136 cm)を超えると川留めとなった。
- 川越のできる時間は、明六ッ(午前六時頃)から暮六ッ(午後六時頃)と決められていた。
- 料金はチケット制で、旅人は川会所で「川札」や「台札」というチケットを買い、川越人足に手渡してから、川越人足の肩や連台に乗り、大井川を越した。
- 川越人足一人に対して、川札一枚が必要。また、連台を借りるのに必要な台札は通常、川札二枚分の料金。
- 川札の料金は当日の川幅と水深によって定められ、最も水位が浅い「股通」で川札一枚が四十八文(一文 = 30 円として、約 1,440 円)、最も深い「脇通」では九十四文(約 2,820 円)だった。
- 「肩車越」の場合、川札は 1 枚だが、常水(水深約 76 cm)以上は、手張(てばり=補助者)が 1 人つくため川札 2 枚必要。
- 「連台越」の場合、連台を借りるための台札と人足分の川札が必要。連台の種類によって台札の料金と人足数が変わってくる。庶民が使う「平連台」の場合、一人乗りで川札 4 枚+台札 1 (8,640~16,920 円)、二人乗りで川札 6 枚+台札 1 枚(11,520~22,560 円)。大名や公家が利用した「大高欄連台」では、川越人足 16人 ~ 24 人と手張 4 人が必要で、川札 16 ~ 24 枚+台札 16 枚(川札 24 枚の場合で、80,640~152,280 円)。
一文を 30 円として現在のお金に換算した場合、この料金にそれほど違和感はない。この 30 円というレートだが、江戸時代と現在で「おそば」の価格が同じとするレートである。基準を何におくかでかなり異なり、大工の手間賃基準だと 75 ~100 円/文だし、お米だと 10 円/文となる。江戸時代のお米は一升(1.5 kg)で 100 文、だから 5 kg で 7,500 円もした。これに対して、賃金は今に比べてずっと安い計算になる。だから生活はかなり苦しかったと思われる。
「肩車」や「連台」での川越は以上のようだが、「馬」で越える場合はどうだったのだろうか? これについてはケンベルが『江戸参府旅行日記』に詳しく書いている。
……かの有名な大井川の岸に着いた。この川は近くの山岳地帯から矢のように早く流れ下り、ここから半里ほど下で海に注ぐ。長い間雨が降らなかったので、たっぷり四分の一里は離れている両岸を川の水は満たしていないで、四筋に分かれて流れていた。水嵩が高いときに川を渡ることは不可能である。日照り続きの天候の時でも、水の勢いが強く、また山から流れころがって来る大きな石のために、川を渡るのは大へん危険である。それゆえ川底の様子に詳しい人々が雇われ、一定の料金で人馬を渡し、絶対に誰も遭難しないように、命がけで請け合っている。その料金は深さとか水位によって決められ、岸の近くの水中から突出している柱についている目盛りで、深さを測って示してある。いまは水は深くはなくて、馬の膝の上に達するぐらいだったけれども、おのおのの馬には五人の案内者〔川越人足〕がつく。二人ずつが馬の腹の両側に付き添い、五人目の人足が手綱をとっていた。水嵩の多い時には、六人ずつが両側に二列に並んで進まねばならず、そのうちの二人が馬の横に立ち、他の者はこの二人と互いに手をとりあって体を支えるのである。大へん有名なこの大井川は、その状態や特性のために日本の作家や詩人たちに、いろいろな創作の機会を与えている。川を越えて渡るのにほとんど半時間かかった。
ケンベル「江戸参府旅行日記」(平凡社『東洋文庫』303)
「大井川」の堤の手前に「島田市博物館」がある。ここでは「大井川越」や「島田大祭」についていろいろな情報を得られるのだが、入って直ぐに「島田髷」についての展示があったので、ちょっと書いておこう。


『日本大百科全書(ニッポニカ)』(JapanKnowledge, https://japanknowledge.com) によれば、「島田髷の発生は、東海道島田宿の遊女たちが結い始めたのが、しだいに一般化したものである。しかし、島田髷の祖型はわが国の古墳時代の人物埴輪像のなかにみられる。島田髷は、髷が撥 (ばち) の形をしているのが特色で、長い下げ髪を頭上にまとめるには、一度百会 (ひゃくえ) に束ねて、その余りを後方から前に出し、毛先を中央に折り返して、全体を結び留めるという、もっとも自然的な方法である」とある。この「島田宿の遊女」として有名なのが「大磯宿」のところで出て来た「虎御前」で、彼女の考案との説もある。「島田髷」といえば、結婚式で使われる「文金高島田」だ。これは「島田髷」の根を高くしたもの。嫁入り前の若い娘たちには乙女 (おとめ) 島田が流行したらしい。結婚式で島田髷が結われるのは、この髪形が「嫁入り前の髪形」のためであるとのこと。一つ賢くなった。
大井川を越えて金谷宿へ
では、「大井川」を越えよう。現在、「川越人足」はいないので、土手を北に歩いて「大井川橋」を渡る。橋のたもとに説明板があった。昭和 3 年に架設されたトラス橋だそうだ。橋の長さは 1026 m、およそ 1 キロだ。

横には自転車橋がついているので、車を気にすることはない。

水は多くない。「金谷」側に少し幅のある流れがあった。


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渡河時間を計っていたが、ちょうど 15 分。長さ 1 キロだから妥当な数字だ。ここから土手にそって少し南下したのち、「旧東海道」に入っていく。「八軒屋橋」の左側に「金谷宿川越し場」があるが、こちらは島田側ほど整備されてはいない。


これで「金谷宿」に入った。その詳細は次回に回そう。

