旧東海道歩き旅(24)藤枝宿~島田宿(2024.5.2・3)

図1 安藤広重「東海道五十三次 藤枝 人馬継立」

 今夜の泊りは「藤枝」だが、「藤枝宿」の先である。ホテルは宿場町だったあたりには少なく、「藤枝駅」の周辺に集まっている。そして、駅は街道から南へ外れているのだ。前にも書いたように「静岡市」の西では山が海に突き出ていて、「JR 線」は山の下のトンネルを通って「焼津」に出るが、「旧東海道」は北側を回って「宇津ノ谷峠」を越える。「岡部宿」から街道は南に下って、「島田宿」の手前で「 JR 」と出会うので、「藤枝」では二つはまだ離れているのだ。図 2 に「静岡」~「金谷」までの行程と地形を示すが、実は「岡部宿」より南には「大井川」が作った広大な扇状地(デルタ)が広がっている。「旧東海道」はこの山際を通っているのである。

図2 静岡~金谷の行程(赤線)と地形

 さて、「藤枝」の名所がガイドブックに出ていなかったのも一因であるが、早く宿に着きたいという気持ちが働いて、宿場町をあっさり通り過ぎてしまった。距離を稼ごうとすると「名所探訪」が犠牲になる。「藤枝宿」もその口だった。致し方ないが、残念でもある。

藤枝宿

「藤枝宿」の概要はつぎの通り。

  • 所在地:駿河国志太郡(静岡県藤枝市藤枝 3 丁目など)
  • 江戸・日本橋からの距離:49 里 30 町 45 間
  • 宿の規模:家数 1061 軒、本陣 2、脇本陣なし、旅籠屋 37
  • 宿の特徴:鎌倉時代以来、市の立つ宿場として開け、江戸時代には田中藩の城下町としても発展した比較的大きな宿場町。

 古地図を図 3、現在の地図を図 4 に示す。これから見ると、いろいろ面白そうなところがありそうだ。

図3藤枝宿古地図(駿州の旅日本遺産 藤枝 に情報を追記)
図4 藤枝宿 現在の地図

 まず、東側にある「田中城」。「藤枝」はその城下町である。「田中城」関係のお寺が宿の東側に多い。古地図と現在の地図を見比べて大きく違うところは、「蓮華池」である。『東海道分間延図』では池はない。慶長 15 年(1610)から 3 年の歳月をかけて、「若王子村」の一部の田畑をつぶして堤を築き、「ため池」を築造したものだそうだ。『東海道分間延図』の完成は文化3年(1806)なので描かれていてもおかしくないのだが…。なお、「蓮華池」という名は明治期についたらしい。「問屋場」が宿場町の両端にあり、そのため「伝馬町」も上下に分かれて二つある。冒頭の広重の絵もこの「伝馬」の光景だ。

 宿の中央、北側に 730 年に創建されたという「若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)」がある。平安時代後期、「源義家」が東海道を東へ下った折に、この神社の松の老樹に藤の花が咲きかかっているのを見て「松に花咲く藤枝の一王子 宮居ゆたかに幾千代を経ん」との和歌を奉納したことから、「藤枝」という地名が起こったとされている。

 現在、「藤枝宿」は、東から「さわやか通り」「白子通り」「長楽寺通り」「ちとせ通り」と続く長い商店街になっている。昔はかなり賑わったようだが、現在はシャッターを閉めている店が多い。高齢化が理由のようだが、駅から遠いことも一因だろう。町の中心が駅のある南の方に移っているのだ。

写真1 さわやか通り
写真2 下伝馬町の常夜灯

「下伝馬町」から一気に「上伝馬町」まで歩く。この間、20 分である。

写真3 上伝馬問屋場跡

「本願の松」の案内板があったので「正定寺(しょうじょうじ)」に立ち寄ってみる。見事なクロマツだ。田中藩主の「土岐丹後守頼稔」が、1730 年に大坂城代に出世した折に、本願か叶った記念として寄進したものと伝えられ「本願のマツ」(別名「延命のマツ」)と呼ばれている。

写真4 本願の松
写真5 本願の松 近景

 実は手前の「大慶寺(だいけいじ)」に「久遠の松」というのもあったらしい。15:20、宿場の境界の「瀬戸川」に到着。約 30 分で「藤枝宿」を抜けてしまった。

写真6 瀬戸川

「勝草橋」を渡ったところに「秋葉神社の常夜灯」と「一里塚」の石碑があった。

写真7 秋葉神社の常夜灯と一里塚の碑

 この先に「藤枝駅」に向かう分岐があり、そこの交差点でこの日の「歩き旅」を終了。ホテルはすぐ近くだ。この日の「府中宿」からの歩行距離は 24.7 キロ、所要時間 7 時間 37 分だった。

藤枝宿~島田宿

 翌日の 5 月 3 日 8:20、昨日の交差点から「歩き旅」を再開した。今日のポイントは「大井川」である。「島田宿」から「越すに越されぬ大井川」を越えて「金谷(かなや)宿」に入る予定だ。距離はガイドブックでは 12.5 キロと短い。つぎの「日坂(にっさか)宿」までだとプラス 6.5 キロでちょうどいいのだが、電車が通っていないし、泊まるところもない。「金谷宿」にもホテルはないが、「東海道本線」が通っている。そこで「金谷」まで歩いて「藤枝」へ電車で引き返し一泊することにした。距離が短いということで、出発時間もいつになくゆっくりだ。

 問題はきのう捻った手首である。あれからかなり腫れた。痛みもあって、昨夜はあまり眠れなかった。だから、ゆっくりとした朝はちょうどいい。痛みはだいぶ引いてきたが、腫れはひどくなった。捻挫の腫れは一週間は続くらしい。

 交差点からの「旧東海道」は南への道だが、次第に西向きになっていく。今日は昨日とは違っていい天気だが、その分暑くなるのだろう。「街道の松」が残っていた「瀬戸新屋」とある。

写真8 街道の松(瀬戸新屋)

「瀬戸(セト)」とは「狭戸」「狭門」とも書き「水陸の通路の狭くなっている所」の意味。とはいうものの「狭くなっている」気配はない。どうしてこんな名前がついたのだろう? 不思議に思いながら進む。

写真8 六地蔵堂

 左側に「六地蔵堂」。昔、ここにあった「鏡ヶ池」の悪竜退治の伝説にかかわる地蔵が祀られているらしい。もうちょっと進むと、「古東海道」との分岐である「追分の碑」がある。

写真9 古東海道との追分

 こちらも街道の松。電線に引っかかりそうだ。

写真10 街道の松(下青島)

 8:50、「瀬戸の立場」の説明板があった。「立場(たてば)」とは宿場と宿場の間にある旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所のこと。表示を見ると左に入ったところに「千貫堤瀬戸染飯伝承館」があるらしい。今日はたっぷり時間があるので、ちょっと入ってみようかと左折する。

写真11 千貫堤瀬戸染飯伝承館(藤枝観光協会ホームページより

 建物の周辺をウロウロしていたら、ちょうどオジサンが戸を開けるところに出くわした。開館時間前だが中に入れてもらう。詳しく説明していただいた。

 まず、「千貫堤」。「大井川」は氾濫するとこのあたりまで水没したらしい。そこで、寛永 12 年に「田中藩」の藩主「水野忠邦」が幕命を受けて堤防の築造を行った。堤の規模は全長 500 m を越え、幅 32 m、高さ 3.6 m ほどだった。千貫(一貫は一文銭が千枚)もの莫大な費用がかかったことから「千貫堤」と呼ばれた。もらったパンフレットによれば、街道の両側には小さな丘陵が島状に点在していたらしい。その様子を表したのが図 4。

図4 千貫堤周辺の地図

 街道の北側には「瀬戸山」があり、「東海道本線」の南側も山だった。これで地名の「瀬戸」の意味がわかった。狭い谷間の土地だったのだ。「大井川」の氾濫から守るため、丘陵間に堤防を造った。これが「千貫堤」なのである。『東海道分間延図』にもこの状況が描かれている(図 5)

図5 千貫堤古地図(駿州の旅日本遺産 藤枝 に情報を追記)

 ところが、明治以降、東海道線の敷設や田畑開墾、戦後の宅地化によって「千貫堤」はもちろんのこと、丘陵も姿を消した。山を崩して「東名高速」の造成用に土砂を採取したようだ。実は、これらの場所には古墳時代後期の古墳が数多くあった(瀬戸古墳群)が同時に消え失せてしまった。そして、ほんの少しだけ「千貫堤」が残った。

写真12 千貫堤

「染飯(そめいい)」について『東海道名所図会』は「瀬戸村の茶店に売るなり。強飯(こわいい)を山梔子(クチナシ)に染めて、それを摺りつぶし、小判形に薄く干して乾かしてうるなり」と記している。クチナシは消炎・解熱・鎮痛・利尿などの薬効がある漢方薬として知られ、旅人にとって足腰の疲れをとる食べ物として評判が良かったらしい。クチナシを焼酎にいれると旨いらしく、オジサンからその作り方を教わった。さらに、今日最初の客ということで「クチナシの実」を無料で分けてもらった。備え付けの来訪ノートに氏名を記入する。「旧東海道」を歩いている客の名が一日に数件ある。今日は「日坂宿」まで歩くとの記載もあった。宿泊はどうするのだろう? 「掛川」までバスで出て泊まるという手もあるなと思った。

「旧東海道」に戻ると正面に、昔は「染飯」を売る茶店があったという。そこには「染飯茶屋跡」の碑が作られていた。

写真13 染飯茶屋跡の碑

「伝承館」では、もう一つ情報を仕入れた。オジサンが「逢来橋には行かれますか?」と訊いたのだ。そんな名前の橋は知らなかった。訊くと、「島田」の南にある「大井川」にかかる橋らしい。「世界で一番長い木製の橋」だという。「予定を変更して、そちらに回るべきだ」と心が叫んでいた。

 暑い! 長袖シャツを脱いで半袖 T シャツになるが、それでも暑い。歩いているのは「県道 222 号」で、ところどころで「街道の松」は見かけるものの単調だ。「東光寺谷川」を越え、「上青島の一里塚」を過ぎる。「逢来橋」の場所を地図で確認すると「六合駅」のまだ先である。「県道 381 号線」に入る。「島田市」に入った。何も見るものがないので暑さがこたえる。どこかで休憩しようと店を探す。ラーメン屋の先にハンバーガーショップを見つけた。時刻は 10 時、ここでちょっと休憩だ。

 人心地ついたところで「逢来橋」に向けて歩き始める。「栃山橋」を渡ったところで、Googleマップで「逢来橋」までの最短経路を探索する。それに従って左折。「逢来橋」のそばがショッピングモールになっていて、ここを抜けるのがややこしい。11 時に橋に到着。人気スポットのようで結構混んでいる。橋の全長は 897.4 m、木製歩道橋としては世界最長。橋は明治 12 年に完成、主に農業用に使用され、開墾関係者は無料、関係者以外は 5 厘を徴収していた。昭和 40 年に橋脚をコンクリート製に変え現在に至るとのことである。通行料 100 円を支払って、渡り始める。

写真14 蓬莱橋(島田側)
写真15 蓬莱橋正面(島田側)

 15 分で金谷側にに到着。木札などを売るお店があった。

写真16 金谷側

 島田側へ戻るため再び橋を渡る。

写真17 逢来橋中央(金谷側からの戻り)

 茶店でアイスクリームをいただいた後、「歩き旅」を再開し、「島田宿」に向かう。どこかでお昼を食べようと思い店を物色しながら進む。駅の側を通って、12:20 に「本通り二丁目」から「島田宿」に入った。しかし、これだと本陣の西側であり、宿場町の大半が過ぎてしまっていたのだ。

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