

馬入わたりて平塚の 女郎衆は
大磯小磯の客を引く
コチャ 小田原相談熱くなる(こちゃえー こちゃえー)
2024 年 1 月 31 日、「平塚宿」から「大磯宿」を経て「小田原宿」まで歩いた。その先には東海道一番の難所「箱根山」が待ち構えている。まずは大磯宿までの道中である。
平塚宿
前夜、ここで宿をとり、駅の北側のお寿司屋さんで地酒をいただきながら、おいしい肴に舌鼓をうった。歩かなければならないのでお酒は一合に抑えておいた。ホテルは駅の南側だから駅の中を通って北側へ移動して歩き旅を開始。「旧東海道」は駅の北側を通っている。「平塚宿」の概要はつぎの通り。地図を図 3 に示すが、それほど大きな宿場町ではない。
- 所在地:相模国大住 (おおすみ) 郡(神奈川県平塚市平塚など)
- 江戸・日本橋からの距離:16 里
- 宿の規模:八幡新宿を含めて2 km、家数 443 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 54
- 宿の特徴:もともとは平塚村だけだったが、慶安 4 年(1651)に「平塚八幡宮」のある八幡新宿が加宿された。八幡宮は相模国五宮の一つ。

まずは「平塚駅」から北に真っ直ぐ歩き「平塚八幡宮」を目指す。この神社は八幡町にあり、あとから「平塚宿」に「加宿」されたところである。「旧東海道」を横断し、「国道 1 号線」に向かうと神社の杜が見えてくる。「宮ノ前」の歩道橋から大きな「一ノ鳥居」が見えた。
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国道に面した鳥居をくぐり参道を進む。青銅の「二ノ鳥居」の向こうにシックな社殿があった。この社殿は昭和 3 年に再建されたもの。そもそもは仁徳天皇の御代 68 年(380)に創祀されたという。「相模國一國一社の八幡宮」と崇敬を集めるが、戦国時代に焼失したものを徳川家康が復興させたらしい。祭神は八幡宮なので「応神天皇」、ここに「神功皇后」「武内宿禰」を加えた三柱。

「旧東海道」へ戻る。「見付町」の角に「江戸見附」があった。写真 3 のように土台部分の石垣とその上の土盛り、竹矢来が再現されている。通りの様子は写真 4 で、宿場町の雰囲気はほどんどない。「脇本陣跡」は碑があるだけ、「本陣跡」は神奈川銀行になっている。




この先の北側に「平塚の塚」があるというので寄ってみることにした。「平塚の塚緑地」の様子が写真 7 で右側の石の柵で囲まれた中、木の隣に「平塚の塚」の碑がある。確かにそこだけ少し盛り上がっているので塚なのだろう。


「平塚市まちづくり政策課」の「知らなかった!? 平塚の魅力再発見!!」によれば、「平塚」という言葉がはじめて登場するのは『吾妻鏡』で、建久三年(1192)8 月 9 日、源頼朝が、妻政子の安産祈祷を行わせた社寺が『範隆寺 平塚』、神馬を奉納したのが『黒部宮 平塚』と記載されていて、鎌倉時代には「平塚」という言葉が存在していたことがわかるが、その由来は諸説あるとして、つぎの三説を紹介している。
- 桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年(857)二月この地で逝去した。その棺をこの場所に埋め墓として塚を築いた。その塚の上が平らになったので「平塚」という地名が起こったという説。この話は『新編相模国風土記稿』にも記載されているし、平塚の塚緑地には「平塚の碑」が存在している(写真 8)。しかし、『新編相模国風土記稿』の検証において「比事土人の口碑に伝ふるのみ、末考る所なし」としており、村人の伝聞であり事実として確認できないとしている。
- 『平塚小誌』によれば、先史時代の平塚にはアイヌに似た人々がいて「シラスカ」と呼んでいたのではないかという説。アイヌ語のシラリは「磯」、カは「上」の意味で、「シラルカ」「シラリイカ」で、波が磯を越えしぶきが立つ「岩磯のほとり」という意味。
- 『地名用語語源辞典』(東京出版)によると、「スカ」とは海に沿った高地、砂丘、砂地などという意味があり、「ヒラ」は傾斜地を示す。「傾斜のある砂地」という意味の「ヒラスカ」から転じたという説
図 1 の安藤広重『東海道五十三次 平塚宿』の絵を見ていただきたい。前方にある山、これは後で紹介する「高麗山(こまやま)」なのだが、それに向かって「縄手道」が続いている。その両側が水色に塗られているので、江戸時代でもここは海・潟湖あるいはそこから少し水が引いてできた湿地帯だったのだろう。つまり「旧東海道」は砂州(砂堆列)上の道だったのである。その点から考えれば、三番目の説がもっともらしい。もともと、地形から「ヒラスカ」と呼ばれていた場所で、そこに一番目の話が結びついたのではないかと思う。現在の状況はというと、先ほどの写真 4 で「縄手道」は大きな道路となり、道の両側には建物が立ち並んでいるが、正面に特徴のある「高麗山」が見えている。
高麗山と高来神社
いつの間にか「京見附」を過ぎていた。「大磯宿」に向けて歩くのだが、「平塚宿」と「大磯宿」の間の距離は 2.9 キロしかない。
「旧東海道」が「国道 1 号線」と合流する。そこに「大磯町」の標識があった。この先に「花水川」が流れているので、そこが境かと思っていたら、「大磯町」が東に出張ってきている。

「花水川」にかかる「花水橋」からの眺めが写真 10 。中央左の山が「高麗山(こまやま)」である。川向こうの地名は「大磯町高麗(おおいそちょうこま)」である。「高麗(こま)」とは高句麗の和名であり、「こうらい」とも読む。なにか「高句麗」と関係があるのだろうと思いながら歩いていると、右手に神社の鳥居が現れた。


「高来神社」。「たかく」と読むようだ。土地の名前から、「高麗(こま)」→「高麗(こうらい)」→「高来(こうらい)」→「高来(たかく)」と転じたものだろう。先の「二ノ鳥居」をくぐると参道があって、奥に社殿に続く階段がある。いかにも古めかしい神社である。

境内にある説明板があった。神社の由来が書かれていた。確かに「高句麗」と関係の深い神社である。説明板の情報に関連情報を加えて整理するとつぎのようになる。
古代、「高麗山」は神宿る山として住民から信仰されていたという。縄文時代には「茅ヶ崎」の岬から西は海が内側に入りこんでいて、大きな湾になっていたらしい。「寒川神社」のすぐ南まで海が来ていたという。一方、「高麗山」から西は山が海にせり出す地形だ。「高麗山」は特徴のある形をしており、「神が宿る」としても不思議はない。また、海上の舟から見るとよい目印になったはずだ。この「高麗山」に神功皇后の三韓征伐の後、「神皇産霊神(カミムスヒノカミ)」と「高麗大神和光(コマオオカミワコウ)(高麗権現)」が遷祀されたという。「カミムスヒノカミ」は『古事記』の冒頭、天地生成のところに出てくる神であるが、この「高麗権現」とは何だろう? この話は建久二年(1191)に箱根権現 19 世別当の行実が編纂した『箱根山縁起並序』に出てくる。神功皇后三韓征伐後に武内宿祢の奏聞により三韓の神を日本に勧請したというのである。百済の神は日州(宮崎県・鹿児島県の一部)、新羅の神は江州(滋賀県)、そして高麗大神和光は當州大礒、つまり相模国大磯の高麗山に勧請されたと書かれている。境内の説明板には、その後、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)・応神天皇・神功皇后が合祀され、「高麗権現」は箱根神社並び伊豆山神社に遷祀されたとなっているが、ここは 14 世紀前半の作とされる『箱根権現縁起絵巻』が高麗明神は大磯から箱根に移ったとしているのと一致している。
さて、説明板にはつぎに「高麗王若光」の話が書かれている。天智七年(668)に高句麗国が滅亡するや高句麗の王族「若光」が大磯の高麗に渡来し、その後、霊亀二年(716)に大磯を初め各地に渡来した高句麗人が「若光」を郡長として武蔵国高麗郡に移され開発を命ぜられたたとあるのだ。この話、「鶴ヶ島町史」に詳しい。ちょっと関係部分を引用しよう。
古代のある日のことである。東海道大磯の海上がにわかに騒がしくなった。遥か沖合から唐船(からふね)が漕ぎ寄せてきたのである。
抑々(そもそも)、権現丸の由来を悉(ことごと)く尋ぬれば、応神天皇の御時より、俄(にわ)かに海上騒がしく、浦の者共怪しみて、遥(はる)かに沖を見ておれば、唐船急ぎ八の帆を上げて、大磯の方へ棹(さお)をとり、走り寄るよと見るうちに、程なく汀(なぎさ)につき、浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも、翁(おきな)一人立ち出でて、櫓(やぐら)に登り声をあげ、汝等(なんじら)それにてよく聞けよ、われらは日本の者にあらず、諸越(もろこし)の高麗国の守護なるが、邪慳(じやけん)な国を逃れ来て、大日本に志し、汝等帰依(きえ)する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁昌と守るべし。あら有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上がらせ給う。御代よりも権現様を載せ奉りし船なれば、権現丸とはこれをいうなれよ。ソウリヤ、ヤン、ヤイヤン。(高麗興丸ほか『高麗神社と高麗郷』 昭和六年 所収)
「鶴ヶ島町史 通史編」https://adeac.jp/tsurugashima-lib/text-list/d100010/ht030010
この歌は、大磯町で七月一八日に行われる夏祭りの「祝い歌」である。古くから伝わり、今日もなお歌いつづけられている。高麗神社の鳥居前でも「高麗大明神を伏し拝み……」の歌があって、歌い終ると祭典が始まる。
この海上に突如として出現した翁は、高句麗から渡来した高麗若光である。伝承によると、大化の頃、高麗若光は高句麗(こうくり)滅亡後、安住の地を求めて黄海に船出し、対馬あたりから黒潮にのって東行し、遠州灘から伊豆半島を迂回して、相模湾にはいり、当時、入江になっていた大磯に錨(いかり)をおろしたという。そして、唐(もろこし)ケ原に上陸して、居(きょ)を化粧坂(けはいざか)にかまえ、花水川(はなみずがわ)の下流地域を開拓したのであった。
これは真実か? 「鶴ヶ島町史」では「この伝承や歌そのものを史実とすることは無理であろうが、しかし、無視することもできない」としている。実は日本の国史に「若光」の名が見えるのである。『日本書紀』天智天皇五年十月条には「高麗」から遣わされた使節の中に「玄武若光」の名がある。さらに『続日本紀』には、文武天皇の大宝三年(703)に従五位下高麗若光に王の姓を賜ふとの記述がある。「若光」という高麗人が同時期に日本にいたのは事実だが、大磯に渡来した話とは違っている。この当時の日本と朝鮮との関係について「多摩市史」に説明があった。「七世紀にはいると中国には隋・唐の統一帝国が出現し、東アジアの政治的緊張はにわかに高まった。朝鮮では 660 年に百済、668 年に高句麗が唐によって滅ぼされ、朝鮮は新羅によって統一された。日本は百済再建のために朝鮮に兵を送ったが、663 年、白村江の戦いで唐に敗れ、退いた。白村江の戦いののち、百済からは多数の王族・貴族が難を避けて日本に渡来した。高句麗からの使者で帰国できずに日本に帰化した者もあり、この時期、日本は多数の渡来人を迎えることになった。(中略)八世紀に入ると、中部・関東の各地に分散して居住している新羅人や高句麗人を集住させ、新しい郡をつくることが行われる。(中略)霊亀二年(716)、武蔵国に高麗(こま)郡が建てられた。もともと武蔵国には、高句麗の滅亡にあたって渡来した高句麗の王族が居住していたが、この年、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国に住む高句麗人 1799 人を武蔵国に移し、郡を建てたのである。現在の埼玉県日高市高麗本郷を中心とした高麗川流域の地がそれである。」これが、説明板の記述の後半の部分である。「若光」が武蔵国に住んだ確証はないが、『高麗氏古系図』(東京大学史料編纂所蔵)には武蔵高麗氏の祖とされている。
説明板の記述に戻ろう。その後、養老元年(717)僧行基がこの地を尋ね大磯の照ヶ崎の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し本地佛と定められ「高麗寺」を創建。かくして神仏習合の聖地となり鶏足山高麗寺を別当寺とし長く信仰されてきた。(つまり高麗神社と高麗寺の両方が存在していたことになる。)鎌倉時代には幕府の厚い信仰を受け相模の大寺社に列せられた。室町時代には高麗山は重なる戦いの被害を受け白山社・毘沙門三重塔など多くの伽藍、寺宝が焼失。江戸期に入る。天正十九年(1591)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、寛永十一年(1634)東照権現(徳川家康)を勧請。その後、明治になると、神仏分離政策により「高麗寺」は廃寺、明治三十年に(「高麗神社」から)今の「高来神社」に改称した。
このようにして、大磯の神社からは「高麗」の名が消されたが、地名は「高麗(こま)」のまま残っている。「高来神社」の祭神は「神皇産霊神」「瓊瓊杵尊」「応神天皇」「神功皇后」である。一方、高麗人が集められた武蔵国高麗郡には「高麗(こま)神社」(埼玉県日高市)があり、「高麗王若光(こまのきじゃっこう)」「猿田彦命」「武内宿禰」を祭神としている。
大磯宿へ
「高来神社」から少し歩くと松林が現れる。そこに「化粧井戸」の看板が。「『化粧』については、高来神社との関係も考えられるが、伝説に よると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。当時の 大磯の代表的女性『虎御前』もこの近くに住み朝な夕なこの 井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれている」と説明がある。「虎御前」について次回触れよう。

そして、すぐ「化粧坂(けわいざか)」に入る。ここが「大磯宿」の起点だったらしい。坂とあるが、そんなに勾配は大きくない。以降は次回。


