
庄野宿
「庄野宿」はどうも印象が薄い。「石薬師宿」には名刹「石薬師寺」があるし、「亀山宿」は河岸段丘上にあって地形的に面白い。しかし、間の「庄野宿」はこれというものがない。その思いは広重も同じだったようで、描いたのは「白雨」すなわち夕立である。別に「庄野宿」でなくてもよい絵だ。しかし、この絵は実に素晴らしい! 「東海道五十三次」の絵の中で最高傑作だと思う。急な雨に打たれて、慌てている旅人たち。躍動感たっぷりで、まさに動き出しそうだ!
「石薬師宿」同様、宿場の成立が難しかったらしく、この場所にあった 36 軒と「鈴鹿川」以東の「古庄野」から移った家を合わせて 70 軒で宿立てをしたらしい。宿場の概要はつぎの通り。
- 所在地:伊勢国鈴鹿郡(三重県鈴鹿市庄野町)
- 江戸・日本橋からの距離:102 里 23 町 7 間
- 宿の規模:家数 211 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 15
- 宿の特徴:鈴鹿川沿いの宿場町。俵入りの焼き米が名物
宿場の範囲は前回書いた「庄野西交差点」から国道に合流する少し手前の「京口の碑」まで。

入ってすぐ、通りの様子は写真 2。左の家は古く、連子格子もあった。

通りの左側に真宗高田派の「善照寺」。

その先の左側にある「庄野宿資料館(旧小林家住宅)」は鈴鹿市の指定建造物だ。江戸末期の大型町家建築物を鈴鹿市が買い取り、改修したという。

少し歩いて右側に「問屋場跡」の説明板。

「本陣跡」の標柱があった場所は現在、集会所になっている。その先、街道に直交して細い通りがあり、その角に「高札場跡」、その隣が「脇本陣」だが、いずれも説明板だけだ。


中央付近の通りの様子。人通りはほとんだない。

右側に「川俣神社」の鳥居。ここは宿場町の中央からかなり西に寄ったところ。「庄野宿」は「鈴鹿川」と「安楽川」が合流して一本となった「鈴鹿川」の川沿いにある。「川俣」とは川の股の意味。このあたり、たびたび川が氾濫しており、それを鎮めるための神社だ。この先、川の合流地点にあたる「中富田」、さらにその先「鈴鹿川」沿いと「安楽川」沿いに「川俣神社」がある。

時刻は 11:09 、20 分弱で宿場町を通り抜けて、国道の手前まで来た。「旧東海道」は国道を越えた向こう側なのだが、ここは県道も交差しているので通行方法がややこしい。写真 9 は安全に横断するための案内図だ。

庄野宿~亀山宿
「汲川原町」に入る。「安楽川」に沿って西に進むと、左に「女人堤防の碑」と「従是東神戸領」の境界石がある。「女人堤防」の碑文を写真 11 に示した。


「女人堤防」と聞いて、最初は女の人が人身御供にされたのかと思ったが、実は勇猛果敢な女性たちの話だった。この辺り、さきに述べたように水害が著しい場所。水が家々や田畑の方にやって来ないようにする強化堤防の設置を「神戸藩」に申請していたが許可されず、強いて行えば極刑とのお達しだった。「神戸藩」の中心は「鈴鹿川」の南だから、北側で川に手を加えると南側で水害が起こるような事態になりはしないか恐れたわけだ。築堤を男手で行い極刑になると村自体の存続が危うくなる。なんとかしようと女たちが立ち上がり、二百名で暗夜を選んで堤防を築いたが、藩主の知るところとなって処刑が決まる。家老が死を決して説得し、藩主を翻意させ、処刑当日に赦免が通達されたという。この堤防、説明板の図を見ると川の堤防に垂直に作られており、越水したときに東側に水が行かないようにしたもののようだ。
「中富田町」に入り、道の左側に「中富田の一里塚」があった。中央には「川俣神社の鳥居」。その右に「中富田一里塚跡の碑」と「従是西亀山領」の碑がある。いよいよ「亀山藩領」に入っていく。



右側に「富光山常念寺」。進むとその先の右に「ひろせ道」と書かれた道標があった。これはここから北の「広瀬町」に至る道を示していると思われる。「広瀬町」と「西富田町」の境にある「長者屋敷」が発掘され、ここが古代の「伊勢国府」に比定された。この道は「国府」に通じる重要な道だったのだろう。


まっすぐ進むと「安楽川」の手前に「西富田の川俣神社」があった。江戸時代にはこの先に橋があったのだろうが、今は川に沿って東に少し戻ったところにある「和泉橋」を渡る。

「安楽川」を渡って「和泉町」に入る。「旧東海道」はここで右折だ。


右側にちょっとレトロな建物があった。これは「和泉町公民館」だ。

この先「地蔵堂」のところで道が緩く右に折れ曲がる。「百八十八番供養塔」の説明板があった。江戸時代に西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番の合計百の観音霊場に加えて、四国八十八カ所の霊場巡りを達成した人達が建立したもので、ここで拝めば巡礼に行けなかった人にも同じご利益が得られること祈念しているという。
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「小田町」に入り、右側に浄土宗の「地福寺」。この手前で二手に分かれるので左の細い道をとる。その先、県道を横断して斜め右の道に入っていく。

右折して「関西本線」の線路を越え、左へ進むと「井田川」の駅前である。「亀山駅」の一つ東側の駅だ。ここに「日本武尊像」が設置されていた。



なぜここに「日本武尊」の像があるのだろう? 疑問は隣にあった説明板を読んで氷解。ここは「日本武尊」の墓とされる「能褒野(のぼの)」の最寄りの駅なのである。「能褒野」については既に「杖衝坂」のところで書いた。位置関係は図 2 を御覧頂きたい。ここには「内部」から「亀山」までの「旧東海道」(赤線)を示しているが、同時に地形と古墳(赤丸)の情報も加えてみた。「内部」は海抜 10 ~ 30 m だが、「杖衝坂」で海抜 30 ~ 50 m の台地に上り、「石薬師」まで台地上を歩いてきた。「旧東海道」は「鈴鹿川」が削った低地へ下りて「庄野宿」となり、今度は「安楽川」沿いに進む。ここで北側の台地を見ると、その裾の位置に赤丸で示す古墳が並んでいることがわかる。恐らく古代には低地は湿地帯で、道は台地上あるいはその裾を通っていたと思われる。そして、「日本武尊」の進んだ道もここを通ったのだろう。現在、「日本武尊」の墓とする「能褒野王塚古墳(旧名 丁字塚)」もこの位置にある。ここが「日本武尊」の墓とされるのは明治に入ってからで、もっと北にある「武備塚」「双子塚」や東の「白鳥塚」といった古墳も候補に挙げられていた。明治 9 年に「白鳥塚」が「日本武尊陵」とされるが、12 年に翻って今の「丁字塚」に決定されたらしい。この経緯については「亀山市史 通史編」に詳しい。
駅前の説明板からはもう一つ大きな情報があった。「日本武尊」一行が横須賀から上総国へ船で渡ろうとした時に暴風雨に会い、それを鎮めようと妃「オトタチバナヒメ」が入水するが、この「オトタチバナヒメ」が「亀山」の「忍山神社」の祀官「オシヤマノスクネ」の娘とする伝承があるというのだ。『日本書紀』には「穂積氏忍山宿禰の女(むすめ)なり」と書かれている。一方、『古事記』には「オトタチバナヒメ」の出自についての記述はなく、「日本武尊」の弟の「成務天皇」のところに、「穂積臣等の祖、建忍山垂根の女、名は弟財郎女(オトタカラノイラツメ)を娶して」とある。なお、『日本書紀』には「成務天皇」の后の話はない。この二つの記述はよく似ているので、混同しているのではかという見解がある。

この「穂積氏」だが、「大和国山辺郡穂積郷を本拠地とした氏族。天武 13 年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、宇麻志麻遅命(邇芸速日命の子)の後裔氏族として、物部連・婇臣とともに掲げられている」と『國學院大學氏族データベース』にあり、「物部氏」と同じ祖先を持つ氏族なのである。その大和の有力豪族が「亀山」の「忍山神社」の神主職を続けてきたのだろうか? 『亀山市史通史編第 6 章』に詳しい考察がある。江戸時代初期に「忍山神社」の神主だった「穂積𠮷倉」は「忍山神社記」をまとめている。これは十六世先祖の「穂積朝臣倶春」が古記を元に社史を作成していたが、父の代に焼失してしまい、父から受けた口頭説明をまとめあげたものだという。社記の最後には、「大水口宿禰の子である鈴鹿国造・忍山宿禰に対し、忍山明神および神宮の神事を掌るよう勅裁があって、それ以降、後胤の穂積朝臣の者が神主職を世襲してきたことが強調されている」とのことだ。「鈴鹿国造」というのがあったのか不明だが、「穂積氏」は「鈴鹿」の有力豪族だったのだろう。なお、この記述に出てくる「大水口宿禰」だが、二日後に行く「水口宿」と関係している。「水口」を開拓した人物だというのである。これについては「水口」で取り上げよう。
この後「関西本線」に沿って少し歩き、国道を横断して「川合町」に入る。道が二手に分かれるので左の道をとる(東海道の表示板がある)。「椋川」を越え国道」を潜ると入ったところが「和田町」。ここで昼食休憩のためちょっと寄り道した。
「旧東海道」に戻る。進む方向が南から西向きに変わった。ゆるい上り坂をまっすぐ進めば「亀山宿」だ。右側に「那智山松寿院石上寺(せきじょうじ)」。階段を上がってみると端正な本堂。その左手は小さな丘になっており、その上に「仁王護国般若経石塚」、周囲には「三重八十八箇所霊場石仏」があり、八十八カ所巡りができるようになっている。



「石上寺」の先には「和田一里塚」。かつてはエノキが植えられていたという。現在のものは模式復元だそうだが、この樹木はエノキなのだろうか?

この先、「国道 308 号」と交差する地点に「カメヤマローソク」の看板があった。隣が工場のようだ。ここを過ぎると「本町」に入っていくが、急に街道らしい雰囲気に変わった。この辺りは、昔「茶屋町」と呼ばれたところで、「亀山藩」の城下町はこの辺りから始まっていたらしい。正確には「宿場」はこの先の「江戸口門」を抜けた「東町」から始まるのだが、今回はここまでということにしよう。時刻は 13:36 だ。



