前回書いたように「吉井川」に架かる「備前大橋」前後の「国道 2 号線」に歩道がないので、安全を考えてひとつ南の「邑上(むらかみ)橋」を渡る「迂回路」をとることにした。2025 年 3 月 13 日、7:59 に前日ゴールした「長船駅」から「岡山駅」に向けて「歩き旅」を開始。天気は曇り、朝の気温は 10 ℃だが、お昼には 18 ℃くらいまで上昇するとの予報である。
長船駅~藤井宿


前日は電車に遅れまいと大慌て駅に駆け込んだので、駅の写真を撮っていない。今日は忘れずにとカメラに収めた。駅から南に進んで「県道 83 号線」に合流。ちゃんと歩道がついていることを確認。 ここを西に進むと「邑上橋」に出る。

橋の手前、前方に「岡山」の道路標識が出た。

結構、交通量が多い。橋には歩道がついているが、ちょっと狭い。この時間、橋を歩いている人は私だけだった。

「吉井川」を渡る。大きな川である。近世の渡し場は、東は「長船カントリークラブ」の中。そばに「福岡城跡」の碑もあるようだ。西側はというと「一日市(ひといち)」にあり、「国道 2 号線」沿いの一里塚の石柱が立つあたりとの事。街道はその先で国道から分れて、「西祖(さいそ)」を通って「浅川」に入る。ここが今回の迂回路との合流地点である。

橋を渡ると「岡山市」の表示。時刻は 8:29。「大日幡山(おおひばたやま)」(156 m)が前を塞ぐ。この山はかつて「大日幡山城(火鉢山城・火鉢ヶ城)」があったところだ。県道は南に迂回するが、私は山の北側を進む。

この迂回路、地図上では平地のように見えたのだが、結構な坂道だった。

「国道 2 号線」の高架を潜り、8:57 に街道に合流。白いガードレールの向こうは「倉安川」だ。

街道はすぐ「国道 250 号線」と交差する。歩道橋を渡って水路沿いの道を進むと、左に「和田八幡宮注連柱」。神社自体は南の「2 号線」の先にあるようだ。

いくつか水路を越えたのち、「砂川」を渡る。近世すでに橋があり、「秀吉」の「中国大返し」でもここを渡ったようだ。ここまで「一日市」から南西方向にほぼ直進である。前方の「丸山」に進路を塞がれ、街道はこの南側を迂回する。「上道(じょうとう)中学校」の前の「上道公園」でちょっと休憩。
この「上道」は古くは「かみつみち」と読み、郡の名前となっていた。『和名抄』には「加无豆美知」・「加無豆美知」と書かれている。「上道」は「下道(しもつみち)」と対比され、「上の道」のことである。この「上」は、列車の「上り・下り」と同じく「都に近い」という意味なので、「上道」は都に近い「東側の道・地域」、「下道」は「西側の道・地域」となる。「上道郡」の範囲は、「岡山市」の「吉井川西岸」から「旭川東岸」に至る南部の沖積平野を中心とする地域で、「宇治」・「幡多」・「可知」・「上道」・「財田」・「居都」・「日下」・「那紀」・「豆田」の九郷があったという。これらは明治以降、つぎつぎと「岡山市」に編入されていくのだが、最後に残った「御休村」・「角山村」・「平島村」が合併して「上道町」となり、「浮田村」もこれに加わる。そして、昭和 46 年にこの「上道町」も「岡山市」に編入合併され、「上道」の名が消えてしまうのだが、このあたりにはその名が残っているのだ。この先のにある「上道駅」(旧浮田村中尾)やその北の「上道北方」という地名も「上道町」の名残である。

山と「砂川」の間の道をしばらく進むと再び「国道 250 号」に出会う。その手前で左の脇道に入るがまた国道の前に出る。しばらく国道を西に歩き「青津池」の前で右折、「山陽本線」の踏切を越えたところで左折して山沿いに西へと進む。
その角に「旧山陽道」の標柱が立っていた。その先はいかにも街道らしい風情。「上道中学」の先からこの辺りまでが「沼」という名の地域である。名前からして、かつては沼が広がっていたのだろうと思わせる。北側の新幹線が通っているあたりに、「沼城」「亀山城」がある。そのすぐ南に「浮田小学校」があるが、この「浮田」は実は「宇喜多」である。ここは「宇喜多直家」が頭角を現すきっかけとなった土地だったのだ。
『大日本地名辞書』の「沼」の項には、「沼の城は、永禄の比、浦上宗景の臣、中村備中(一作中山)の居なりしを、浮田直家、宗景の命を以て之を謀殺し、直家移りて居る、後岡山城に移り、遂に自立して国主と為る」と説明している。「宇喜多直家」は「備前国」の戦国大名。「信長」の命を受けて、「秀吉」が中国地方に侵攻するや、「直家」は「毛利輝元」と組んでこれに対抗するが、後に離反して「信長」側につく。その後、「宇喜多」と「秀吉」の蜜月関係が続き、「直家」の死後、「秀吉」は幼少の「宇喜多秀家」を厚く保護・育成し、実子同様に重用した。「秀家」は豊臣政権下の五大老の一人となるが、その先は「岡山城」のところで述べよう。



新幹線の高架を潜り、「上道(じょうとう)駅」の北側を進む。右側には「ブドウ園」が続いている。そういえば、「岡山」の名産は桃とマスカットだった。

常夜灯の前を過ぎると、四つ辻の角に碑が並んでいた。説明板には「備前の国安国寺経塔」とある。中央の長細い碑、書かれている文字が説明板にある経塔の文字と一致することから、これが「安国寺経塔」だろう。その右は「由来碑」とのことだが、文字が消えて読めない。左の祠は不明だ。「安国寺」は、「足利尊氏・直義」兄弟が、全国 66 か国と 2 島に建立した、戦没者供養と国家安穏を祈願する禅寺で、その一つ「備前国安国寺」はこの辻の北側にあったが焼失してしまったようだ。


目を引いたのが最後の「岡山市鉄町内会」という文字だ。「鉄」と書いて「くろがね」と読む。これがこの地域の名前なのだ。かつての「居都(こづ)郷」に属すのだが、『大日本地名辞書』にも取り上げられていない。ここは「鉄」の産地なのだろうか? 帰って調べたところ、『レファレンス共同データベース』に次のような説明があった。
『レファレンス共同データベース』
- 『日本歴史地名大系 第34巻 岡山県の地名』(資料①)の「鉄村」の項目には、
「廃坑跡やタタラ遺跡があり、地名は鉄生産地であったことによると伝えられる」と記載されている。なお、「慶長 10 年(1605)備前国高物成帳(備陽記)の居都庄に黒金村とあり…(後略)」という記載があり、「鉄」を「黒金」と表記している場合もある。- 資料①を元に、『備陽記』(資料②)を見ると、「黒金村」を確認できる。
- 『岡山市の地名』(資料③)の「鉄村」の項目には、「村名の由来については赤磐郡誌は古代、生活を営む上で欠くことのできない鉄について、備前国は柵原鉱山に頼っていたが、和銅 6 年(713)柵原は美作国に分国された。鉄の産地を失った備前国は住民を総動員して鉄鉱山を探し求めた結果、有望な鉱山を見つけて、喜びのあまり、この村名を鉄村と改めて盛んに鉱石を採掘したと書いている。いまも村内には明治中期ごろ採掘したとみられる廃坑跡があり、時々は村内各地から鉱さいが発見されている」と記載がある。
- 資料③を元に、『改修赤磐郡誌』(資料④)を確認すると、地名の由来及び鉄の産出と関係について、下記のとおり、記述がある。
- 第 1 篇第 4 章「地名に就いて」の、「上道郡」の「居都(こづ)郷」の項目には、「鐵」について、下記のとおり、記載がある。「今古都村大字鐵の北の山に鑛山址がある、先年試掘の際、赤煉瓦様の物を掘り出して居つたと云ふ。思ふに、和銅六年初めて美作國を置かれてより、備前では大事な柵原鐵鑛を失ひ、大いに失望してゐた時、適々此の地に鐵鑛山に發見し、其の喜びを以て、村名を鐵と改めた様に思われる」と記載がある。
- 第 3 編第 9 章「中古の文化」の「鐵鑛山」の項目中にも、上記と同様の記載がある。
- 『岡山県上道郡古都村史』(資料⑤)には、資料④を参照とした記述があるほか、「先年鉄の背後の野山を開墾のとき各所に多量の鉱滓が出たと村人は語つている」、「村の奥池の東上に金堀山廃鉱址がある。明治の中頃に掘つた時赤煉瓦の様な物が出たので『たたら』の方法で製鉄が行われていたと考えられる」と記載がある。
- 『角川日本地名大辞典 33 岡山県』(資料⑥)にも、「地名の由来は、古来鉄を産出したことによる」と記載があるが、資料④を引用したことが明示されている。
この記事の中にある「柵原(やなはら)鉱山」。これは岡山県久米郡柵原町(現・美咲町)にあった黄鉄鉱を中心とした硫化鉄鉱を主に産出した日本を代表する鉱山で、「同和鉱業」の前身の「藤田組」が経営していた。この鉱石を「片上」に運ぶ鉄道が前回書いた「片上鉄道」なのである。
なお、「鉄地区」の鉱山跡について、「古都学区連合町内会」のサイトでは「鉄の鉱山跡地」を目指して探検する「鉄(くろがね)探検隊」の活動(1,2)が紹介されている。このサイトの副題は「ぶどうの里へようこそ」。ちょっと「古都のぶどう」の欄を見てみると、「古都地区は葡萄の一大生産地として全国的に有名です。 丘陵地の多くは大規模葡萄園として開拓され、麓には温室が数多く建設され、収穫期には甘い香りが、地域一帯をつつみます。古都の葡萄は、明治 38 年にキャンベルが導入されたことに始まり、大正期の温室葡萄の開始、出荷組合結成による全国及び海外への販路拡張、昭和初めから現在まで続けられている栽培技術の改良と品種拡大など、数多くの先人の努力の積重ねにより、築き上げられたものです」とあった。
「古都」は「居都」である。この「こづ」の地名の由来だが、『岡山県通史』には「古き津の意か」とある。「津」とは『デジタル大辞泉』によれば、「1. 船が停泊する所。また、渡船場。港。2. 港をひかえて、人の多く集まる所。また一般に、人の多く集まる地域」の意味である。このあたりの南側は水位が低く、古代には海水が入り込み、多くの船が出入りする場所だったのではないだろうか?
さあ、いよいよ次の宿場「藤井宿」に入る。時刻は 10:45。
藤井宿

「総社八幡宮」の常夜灯の横に「藤井宿」の説明板があった。それを含めて整理すると、概要はつぎの通り。
- 所在地:[現]岡山市藤井
- 規模:家数 48、本陣 2
- 位置:東は片上宿から四里八町、西の岡山宿へ二里
- 特徴:山陽道の中で岡山城下町に最も近い宿駅が置かれたところ。山陽道は時代を経るにつれて度々そのルートも変遷しており、宇喜多秀家の付け替え (藤井一長岡一原尾島——森下一内山下(桜の馬場)により、 宿村(現在は岡山市古都宿)に替えて、藤井が宿駅となった。そして江戸時代となり、参勤交代制を定めるにいたり、西国の諸大名が江戸への往来の途中、岡山城下町以東最初の休泊地として、本陣(安井家)、旅籠屋等が整備され大変賑わった。後に、本陣一つでは不便があったため、さらに創設され、従来のものは西本陣、新しい本陣は東本陣と称されるようになった。
八幡宮の祭神は「仲哀天皇」「応神天皇」「神功皇后」の三柱。


通りには古い建物が残っているが、宿場町という雰囲気ではない。特に表示がないので、どこが本陣だったのかよくわからなかった。

帰って調べると「東本陣」「西本陣」に関する記述・写真をいくつか発見した。「東本陣」は写真 19 の中央に写っている。左側の二軒目の家のようだ。西は「宿場の西の端右側、素戔鳴神社の少し手前」(シングルおやじの気ままな一人旅)、「西の本陣は周囲を土塀で囲われた姿で一部が残っており、威厳を感じさせる」(藤井の郷愁風景)といった記述があり、「古都学区連合町内会」史籍紹介の写真から推測するに写真 20 の右側だと思う。ただし、土塀は現在はブロック塀に変わっており、かなり様子が変化してしまっている。決めては正面右側の山と電信柱・カーブミラーだ。

その先の右手に「これより新往来」と書かれた標識と説明板があった。左の神社が「素戔嗚神社」、そこから北西に伸びている道が「新往来」のようだ。

説明板には次のように書かれていた。
新往来
幕末ペリーの浦賀来航、尊皇攘夷運動などで、諸国の志士、浪人の往来もはげしくなり、備前藩でも岡山城の警戒を強め、山陽道を通行する人々に神経をとがらせていた。折しも、長州藩の下関砲撃事件を発端に、幕府の開国政策とこれに反対する長州藩の攘夷実行により、幕府は元治元年(1864 年)長州征伐を断行した。備前藩では長州征伐に赴く諸藩の藩士が岡山城下を通過することを回避するため、一時的に山陽道の岡山城下の通過をやめ、その北方を迂回させた。藩は藤井宿から北に山陽道をつけかえ、宿奥、奥矢津、牟佐、旭川渡りの新往来を建設し、 元治元年(1864)7 月 25 日より諸大名をはじめ、全ての山陽道通行者に新往来を通行させるようにした。
「藤井ー宿奥ー奥矢津ー牟佐ー旭川渡り」とあるから、北に進んで「県道 96」に入り、「瀬戸町宿奥」「県道 251」「県道 27」を経て「牟佐」に入るルートではないかと思われる。「牟佐」から「三野郡玉柏」間には「古代山陽道」の時代から「旭川」を越える渡し場があった。
藤井宿~岡山宿(岡山城下)

「藤井宿」から東南に進むと左に「古都コミュニティハウス」があり、その前に「古都村町役場跡」の石柱が立っていた。

「藤井宿」からここまでは、図 4 に示す南西に進む「直線道路①」である。この地図は「地理院地図 Vector」を用いて作成した地形図に歩いたコースを赤の実線で追記したもの。この地形図では「古代の海進」を想定して海抜 3m までを水色で表示してみた。こうすると直線道路が水色の低地を通っていることがわかる。街道はこの先の「宍甘(しじかい)」でいったん「山王山」の裾を走るのだが、その後「財(たから)」「乙多見(おたみ)」を経て「関」まで長い第二の「直線道路②」に入る。さらに西向きに転じ、「直線道路③」が「百間川」の前まで伸びているのだ。

これらの直線道路は山裾を通る道路より、ずっと新しいものなのではないか? そんな考えがわいてきた。調べているうちに「幡多学区電子町内会」の「南下する山陽道」という記事に出会った。時代を経るにつれて「山陽道」も南下していったというのである。その変遷をまとめると次のようになる。
- 古代山陽道:三石~和気~吉井川(渡し)~磐梨郡松木~可真(現赤磐市)~赤坂郡日古木(現赤磐市)~馬屋(現赤磐市)~牟佐(現北区)~旭川(牟佐の渡し)~三野郡玉柏(現北区)
- 中世山陽道:三石~伊里中~伊部~香登~吉井川(渡し)~上道郡吉井(現東区)~西祖(現東区)~平島~笹岡(現東区瀬戸町)~宿奥(現東区瀬戸町)~土田(現中区)~国府市場(現中区)~祇園(現中区)~八幡(現中区)~旭川(中島の釣りの渡し)~三野郡三野(現北区)
- 近世山陽道(天正 15 年頃まで):三石~片上~伊部~大内~香登~邑久郡八日市(現瀬戸内市長船町)~吉井川(渡し)~上道郡一日市(現東区)~楢原~沼~北方~鉄~藤井~財~乙多見~追分(現東区関)~藤原~原尾島~旭川(渡し)~岡山城下
- 近世山陽道(天正 15 年頃以降):藤原までは同上~藤原二本松を南下~原尾島~森下~古京~小橋~京橋~岡山城下
先ほどの地図を使って図示してみよう。

黒線が「古代山陽道」、青線が「中世山陽道」、赤線が私が歩いた「近世山陽道(天正 15 年以降)」だ。「備前大橋」を迂回したので、「吉井川の渡し」を使ったコースを追記した。
確かに「古代山陽道」はずいぶん北を通っている。南下の理由については特に触れられていないが、地形が関係していると思う。前に書いたとおり「古代山陽道」は中国に習って地形に関係なくほぼ直線的に道を作っている。「元寇(文永の役)」の時に、「太宰府」から京都の「六波羅探題」までの情報伝達が「古代山陽道」を使って行われたが非常に時間がかかった。その反省に立って、地形を考慮した「より現実的な道」である「筑紫大道」を作られた。これが「中世山陽道」「近世山陽道」となっていく。地形を考慮するとより起伏の少ない沖積平野部を多く通すことになり道は必然的に南側に移る。さらに時代を経るにつれ、河川からの土砂の堆積によって沖積平野が拡大していき、南側の使えるエリアが増えたことが大きな要因になっていると私は考えている。
海抜 3 m までを海とするとかなり内陸まで海が入り込んでくる。これが古代の状況である。つまり、海抜の低い土地は、治水が進んでいない古代には海の中あるいは湿地帯であり、歩くことができなかった。だから、内陸部の道を進んだのだ。「中世山陽道」も、「西祖」から東は北の山裾を回り、さら北に進んで現在の「瀬戸町」に入り、大回りして「宿」(古都宿)に入っている。地図を見ると、この「西祖」から西のエリアは青色が目立っている低地なのである。現在の「国道 2 号線」はここを直進できるが、「近世山陽道」でさえ南へ迂回している。「中世」では南側も通行困難だったのだろう。ここが「沼」という地名であることが納得できる。「近世山陽道」はその先、山際を進めたが、中世ではその歩行も難しかったのではないか。
さて、「近世山陽道」の直線道路だが、「藤井宿」の後に発生する。電子町内会「藤井村」のページに「宇喜多秀家の時代に藤井の西端から西南に新たに道をつくり岡山城下を通過する山陽道を建設した。このため従来の宿場であった『宿』に変わって『藤井』が宿場になった」とある。「宇喜多秀家」が本丸を「石山」から「岡山」に移し、「岡山城」の築城を開始したのが天正 18 年(1590)(年代は少し遡るという説もあり)。彼はこの時、城下町の整備とともに「山陽道」の付け替えを行っているのである。ここで「宿」というのは現在「古都宿」と呼ばれる「藤井」の西の山を回り込んだ場所であり、ここには「中世山陽道」が通っていた。「中世山陽道」はここから「龍之口山」の南側を「国府市場」「祇園」と進み「旭川」を渡って「三野」に入るのである。実はこの道は「古代山陽道」の支路(図の黒い点線)でもあったのである。
「岡山市 岡山歴史のまちしるべ 中世山陽道」につぎの様に書かれている。「古代、備前国の国庁は、現国府市場に建つ国庁宮辺りにあったと推定されています。一方、当時の山陽道は都と大宰府を結ぶ大動脈として最重要道路に格付けされていて、現赤磐市から牟佐で旭川を渡り津高へと通じながら、国庁への連絡道として牟佐から国庁へ迂回する支路が分岐していました。中世になり、かつての山陽道は最上格から格落ちし、ルートも度々変わりましたが、国庁への支路は残り、中世山陽道の一部となっていきました。当地を通る中世山陽道は、現在の備前大橋辺りで吉井川を西へ渡り、度々ルートを変えながらも古都宿へ至り、さらに西下して当高島公民館前を通過、三野渡し(釣渡し)で旭川を渡り、半田山南麓の福輪寺縄手へと通じていました」とある。つまり「中世山陽道」は「国府のある場所」を通したものだったのである。
このエリアは「上道郡」の中心の「上道郷」である。その郷域は、現「岡山市」域に含まれる「祇園」・「中原」・「今在家」から「脇田」・「湯迫」・「国府市場」・「雄町」・「中井」の各村。「国府市場」の名が示すように「備前国」の国府がこのあたりに置かれた。律令制期前後に「上道氏」の本拠地だったところなのである。つまり「備前国」の中心地を「中世山陽道」が通っていた。

さきほどの「電子町内会 藤井村」にも「藤井地区の西端から山すそを通り、『宿』地区を抜けて土田地区に至る道は、昔から『赤坂往来』と呼ばれ交通量の多い道であった」とある。近世初期の「山陽道」はこの「藤井」から「宿」「土田」「国府市場」というコースだったのではないか?
先ほど「こづ(居都・古都)」を「古き津の意」する説を紹介した。この「宿(古都宿)」は「古代山陽道」「中世山陽道」「赤坂往来(近世初期山陽道?)」の三つの道が交わるところである。そして、その西は「国府」に繋がっている。さらに南は「水色のエリア」にあり、つまり海が入り込み舟での往来も可能な場所だったのである。「水陸交通の要衝」の地であり、まさに「津」だったと理解できる。
ところが「宇喜多秀家」が街道を「岡山城下」に向かう南西コースに付け替え、事情が変わった!
岡山市の「都心創生まちづくり構想 資料編2.岡山城と城下町の概要」には「秀家はまた交通路の整備にも力を注いだ。山陽道は、城のはるか北方の藤井―古都―国府市場―三野の渡し―笹が瀬―辛川を通過していたルートを、直家の代に城のすぐ南を通るように変更されていたが、秀家はこれをさらに付け替え、旭川へ新たに架橋した小橋・中橋・京橋を通り、三之曲輪の町人町を縦貫して西へ万成峠を越えるように改めた。旭川への架橋によって東西交通は円滑になり、同時に川東へ城下町が拡大していくことにもつながった」と書かれている。近世になるとかつての「国府」はすでに廃れてしまっていたのかもしれない。新たな中心都市として「岡山城」を中心とする城下町が建設される。新しい街道は当然、「岡山城下」を通過しなければならない。かくして、水が引いて歩くことができるようになった沖積平野を突っ切って「長い直線道路」が建設された。ちょうど「京街道」が「秀吉の文禄堤」上に建設されたハイウェイであったように、ここにも新道が生まれたのである。「ヒト・モノ」の流れが変わり、「岡山城下」はどんどん繁栄し、かつての「国府」はいっそうさびれていく。
実は「古都村町役場跡」から「百間川」まで、私は一枚も写真を撮っていなかった。撮影したいものがなかったのだ。この道は新田の中に作られた「新道」。だから、まわりには何もなかった。同じようなことが「播磨国」でもあった。何もない道を新幹線に沿って延々と歩き続けていた。
「歩き旅」に戻る前に、「備前国」と「吉備国」について補足しておきたい。古代の郡制以前、「吉備国」という「岡山県」から「広島県東部」にわたる巨大な国があったその中心は「吉井川」・「旭川」・「高梁川」によって形成される沖積平野だ。この国は持統天皇三年(689)の「飛鳥浄御原令」で「備前」・「備中」・「備後」に三分され、さらに和銅六年(713)には「備前国」の内陸部が「美作国」として分割されてしまう。強大な「吉備国」を分割して弱体化させようという「ヤマト王権」の意図が透けて見える。
「吉備国」の成立は古い。『記紀』の国生み神話に「吉備子洲(児島)」が登場するし、「神武天皇」は東征の途中にわざわざ「吉備」に立ち寄っている。「ヤマト王権」と並ぶ勢力がここにあったと考えられるている。しかし、「崇神天皇」の時代に「吉備津彦」が「四道将軍」の一人として「西道」に遣わされていることから、早い時期に「ヤマト王権」の支配下に入ったものと推測される。
次回また述べるが、この「吉備津彦」は『古事記』では「大吉備津日子」と書かれ、「孝霊天皇」の皇子となっている。その異母弟に「若日子建吉備津日子(紀では稚武彦)」がおり、「大吉備津日子」は「上つ道臣」、「若日子建吉備津日子」は「下つ道臣」「笠臣」の祖と記載される。一方、『日本書紀』の記載はこれとは異なる。「応神天皇」の二二年九月一〇日条に、「吉備国」を分割して、「御友別」の三人の子の封土とするという記載があり、長子の「稲速別」が「川島県」(下道臣の祖)、中子「仲彦」が「上道県」(上道臣の祖)、「弟彦」が「三野県」に封じられたとある。この「御友別」は『日本三代実録』の元慶 3 年(879)10 月 22 日条では、「日本武尊」東征の従者の一人である「吉備武彦命」の第二男となっており、『新撰姓氏録』右京皇別 吉備臣条では、「稚武彦命」の孫となっている。
古代史ファンなら「上道氏」の本貫地である「国府市場」周辺エリアは見逃せないところだ。是非、つぎの機会には訪問しよう。
「歩き旅」に戻り、「百間川」に架かる「百間川橋」を渡る。時刻は 12:41。昼食は「乙多見」で中華料理を食べた。


新しい「近世山陽道」は、「百間川」を越えて南西に折れ曲がる。「原尾島」を経て「森下町」に入るのだが、ここも単調なコースだった。「宇喜多直家」が城を築くまでは、何もなかったところなのだから。
岡山城下
岡山市の「都心創生まちづくり構想 資料編2.岡山城と城下町の概要」に「岡山城下」の地図がでていた。これによると、この「森下町」が東口に当たり、総門・会所があったらしい。西口は今回のゴール地点、「岡山駅」の北の「万町」である。こちらには岡山最大の町門があったという。「岡山藩」は江戸後期に東西の出入口にあたる「森下町」と「万町」で旅籠の営業を許可したとのこと。なお、本陣は中心部の「下之町」と「紙屋町」にあったらしい。「岡山宿」としての情報は少ないが、まとめると次の通り。
- 所在地:[現]岡山市中区森下町、古京町、中納言町、小橋町、東中島町、西中島町、北区京橋町、表町、野田屋町、富田町、岩田町
- 規模:岡山城下で家数 7,885・人数 20,173(天保 9 年)、本陣 2
- 位置:東は藤井宿から二里、西の板倉宿へ二里一二里
- 特徴:宇喜多直家の開府以来の城下町。宇喜多秀家(天正九年~慶長五年)によって城下町の原形が形成された。小早川秀秋時代を経て、池田氏によって領された岡山藩の城下町として栄えた。

「御成川」に架かる「勲橋」を渡る。


「中納言町」に入るがこの名は新しく、江戸時代は「上片上町」「下片上町」「大国町」の三つに分かれていた。「小橋町」で「中納言交差点」を右折。その角に「きび団子」で有名な「廣榮堂」があった。創業は安政 3 年(1856)。

オッ路面電車の線路がある!「岡山電気軌道」の「東山本線」だ。
この先「旭川」を渡るが、中に島が二つあるので、橋の数は三つ。東から「小橋」「中橋」「京橋」と続く。間の島は「東中島町」「西中島町」、ここにも町が形成されている。文禄年間の開発で「宇喜多秀家」の仕事である。

「小橋」から北を見ると、遠くにお城が見えた。「岡山城」だ。ズームして写真を撮る。あとで立ち寄ろう。


つぎが「中橋」。

そして「京橋」。「岡山市のホームページ」には「岡山市内を縦貫する旭川にかかる 3 橋(京橋、中橋、小橋)は、天正年間に宇喜多氏が岡山城を居城と定め、城下にまちを開いてから、おそらく多くの年月を経ないうちに架けられたもので、市中へ国土の主要幹線である山陽道を取り込むとともに、旭川が東西に隔てる市街地を結び付ける役割を果たしてきました。最長径間の京橋はとくに 3 橋を代表し、それは開府から 400 年余りにわたって岡山のまちと栄枯をともにしてきました」とある。現在の「京橋」は大正六年(1917)に架け替えられたものだ。

「京橋」を渡ってからは、「橋本町」「西大寺町」と進み、北に向きを変え「三の曲輪」へ入り、「紙屋町「「栄町」「下之町」「中之町」「上之町」と進んで、ここで西に折れる。「三之外曲輪」を「平山町」で横切り外堀を越えて、「柿屋町」で再び北へ、「山崎町」「丸亀町」を過ぎてまた西に転じ、「下市町」「富田町」の南を通り、「岩田町」を経て「万町」に入るのが「近世山陽道」のコースだ。
「京橋」を渡ると北側に面白いものがあった。「迷子志る遍」と書かれた碑である。南の面には「たづぬる方」と書かれ上には穴があいている。その反対側(北側)には「志らする方」と書いてあり、ここにもやはり穴があいている。これは明治 25 年に岡山市が建てた「迷子対策の碑」である。迷子を捜している人が「たづぬる方」の方の穴に情報を書いた紙を入れ、他方、迷子を預かっている人が「志らする方」の方に場所などを書いた紙を入れる。こうして、迷子の情報交換を行ったのだ。明治時代、「京橋」界隈では迷子がとても多かったことがこれで分かる。

左に「大手まんじゅう」の「伊部屋」さん。創業は天保八年。

その先、「西大寺町交差点」で路面電車は北に曲がるが、街道は直進し「西大寺町商店街」の中に入っていく。


北に曲がって、名前が「表町商店街」に変わる。表示がないので、どこが本陣なのかさっぱり分からなかった。

.jpg)

商店街を抜け、路面電車が走る通りに出た。本来はここを左折なのだが、「岡山城」に寄っていこうと右折する。時刻は 13:45。実はここまで私は休憩できるお店を探していた。カフェはいくつか見かけたが、もう一つ入りたい店に出会わず、「百間川」を渡ってから 1 時間経ってしまった。「烏城みち」に入ろうと信号を待っていると、向こう側に面白い建物が見えた。歴史を感じさせる建物。「禁酒会館」と書いてある!。「禁酒!」、昨晩お酒を飲んだところだが…。よく見ると、右側がお店になっていて、カフェっぽい。信号が青に変わると、私は足早にそちらに向かった。
岡山禁酒会館

「岡山観光ネット」を見ると「大正 10 年頃、景気が悪くなったり、社会不安が募ってくるとその悩みを飲酒に逃れる人が増えていったそうです。このことに愁いた禁酒運動家の成瀬才吉と河本正二氏が、当時の資産家であった綱島長次郎氏を設立委員長にし 禁酒運動の拠点「岡山禁酒会館」の建設に乗り出しました。木造 3 階建で、寄棟造・スレート葺(一部鉄板葺)の屋根は3階部分で腰折れ風に処理されています。ドイツ壁風と白タイル張を組み合わせ垂直性を強調した正面の意匠と相俟って、市街地の歴史的景観の象徴となっています。 岡山禁酒会館は岡山空襲を免れ、平成 14 年 9 月に国の登録有形文化財に指定されました」と解説されていた。
それにしても面白い建物だ。ドイツ風とあるが、三角屋根が主体だった気がする。このような台形の屋根は珍しいのではないかと調べると、半切妻破風を日本では「ドイツ破風」と呼んでいるそうなのである。ローテンブルクなどの古い街並みや農家に多く見られるとのこと。右のお店は案の定カフェだった。「珈琲屋 ラヴィアン カフヱ」。ちょうど「禁酒会館」で写真展をやっていたらしく、訪れた人が写真作家とこのカフェで話していた。奥の席に座って珈琲「クラッシックブレンド 550 円」を注文。マスターとそのお母さんらしき婦人が切り盛りしている。落ち着いた雰囲気の中でおいしい珈琲を飲んで疲れを癒やす。中の写真を撮らせてもらった。


写真にも写っているが、店から石垣が見える。マスターから「外にでると櫓がよく見えますよ」と教えてもらい、店の裏に出てみる。なるほど! すぐそこに石垣があり、その上には櫓がそびえている。そばにあった説明板を見る。「岡山城西丸西手櫓」。


西の丸は慶長八年(一六〇三)に岡山藩主となった池田忠継が幼少であったため、代わりに岡山城に入った兄の池田利隆によって整備された曲輪で、櫓もその頃に建てられたものとみられます。西の丸はその後、広大な御殿が整備され、寛文十二年(一六七二)に隠居した池田光政をはじめ、後の歴代藩主と家族が住みました。
櫓の構造は塗り籠造り、二階建て。部屋は入母屋造、本瓦葺で大棟両端に一幅の鯱をのせ、鬼瓦は池田家の家紋である揚羽蝶文で飾り、 一階の西面には唐破風が設けられています。一・二階とも桁行(南北)五間(一〇・三六㍍)、梁間(東西)三間半)(七・二七㍍)、の平面は長方形で、棟高三五尺(一〇・六〇㍍)の規模です。(後略)
岡山城にはかつて天守閣のほか三十四基の櫓がありましたが、現在では本丸の月見櫓と西丸西手櫓を残すのみです。
帰りに撮った写真だが、「西手櫓」と「禁酒会館」は隣通しの位置にあったのである。図 7 の地図で見ると、「禁酒会館」は内堀の中だった。

岡山城と後楽園

「烏城みち」を通り「石山公園」から「旭川」沿い進む。枝垂れ梅が咲いていた。

左手の「後楽園」とは橋で結ばれている。川沿いに進むと「岡山城」入口に出た。石垣の上に「烏城」と呼ばれている黒い城がそびえ立っている。白亜の「姫路城」と対照的だ。

説明板に地図が出ていた。その右に「岡山はじまりの地 岡山城」とあり、解説が続く。

岡山はじまりの地 岡山城
岡山の地は、宇喜多直家が本拠としたことにより、戦国の表舞台に登場します。 岡山城が天守や高石垣を持つ近世城郭として巨大な姿を見せるのは、直家の子・ 宇喜多秀家の時代で、慶長2年(1597)の完成といわれます。岡山と呼ばれる丘の上に本丸を移し、旧河道を利用して流れを変えた旭川を背後の守りとしました。同時に商人や職人を集めて立ち上げた城下町が、今の岡山の礎となりました。
慶長 5 年(1600)、秀家は天下分け目の関ヶ原合戦で西軍の主力として戦い、敗れて八丈島に流されます。その後、小早川秀秋、次いで池田家が城主となり明治維新まで続きました。
天守は外壁の下見板が黒塗りであったことから「鳥城」の名で親しまれ、また他に例のない不等辺五角形の天守台を持っています。昭和 20 年(1945)の空襲で焼失し、昭和 41 年(1966)に再建(外観復元)されました。
現在、本丸は史跡に指定され、歴代城主によって整備された様々な積み方の石垣を見ることができます。
「岡山城」の建設、城下町の形成、「旭川」の流路変更、「山陽道」の付け替え、「京橋」等の架橋……いやいや「宇喜多秀家」立派なものである。彼は「関ヶ原」で西軍の副将だったが、島津・前田からの助命嘆願で死罪を逃れ「八丈島」へ「島流し」となった。それにしても、後釜が「姫路城」の「池田輝政」の後裔とは! 豊臣家臣で「関ヶ原」で徳川方につき大躍進して「姫路城」の主となったことは「姫路」のところで書いたとおり。その子「光政」は「姫路」(42 万石)から「鳥取」(32 万 5000 石)に減封になり、寛永 9 年(1632)に「岡山」(31 万 5000 石)の藩主になって瀬戸内海に戻ってくる。以降、「光政」の家系が明治まで「岡山藩」を治めることになった。
「不明(あかずの)門」の前に出る。ここが本丸の一番高いところである「本段」への入口にある。江戸時代、藩主の移動は天守近くにあった渡り廊下で行われており、この門は普段閉ざされていたらしい。それで「あかずの門」と呼ばれていたとのこと。この門は明治時代に取り壊されたが、昭和 41 年(1966)に外観が再現された。

右側の石垣の一番大きな石に「岡山中学の杜」とあった。昭和 28 年に刻まれたものだ。明治の「廃城令」の際に、天守は残ったがこの門は取り壊された。その後、本丸跡は「旧制岡山第一中学校」として利用されていたという。昭和 20 年の「岡山空襲」で天守とともに「岡山中学」の多くの校舎も焼失したが、その後も本丸跡は学校用地として使われ続け、完全に移転が完了したのは昭和 28 年(1953)のことだったという。このような事情から、「岡山中学」を偲んで、石垣のうちのもっとも大きな石に碑文を刻んだものと考えられる。

門から入って右側に「天守の礎石」。天守は焼失し、もとの位置に再建されたが、礎石がこの場所に元のように並べられたとのこと。

正面に再建された天守。面白い形をしている。「都心創生まちづくり構想 資料編2.岡山城と城下町の概要」にあった解説を掲げておこう。説明にあるように「1階と最上階である6階の面積が大きく異なる」ことが他の城とは違う風変わりな印象をあたえているようだ。

岡山城天守閣は、大入母屋造りの基部に、高楼を重ねた、「望楼型」と呼ばれる様式をしている。この様式は、犬山城・丸岡城など初期の天守によく見られる。外観を見ると、外壁に黒塗りの下見板を張っているため全体的に黒色が目立ち、それに金箔瓦が彩を添えていた。「烏城」「金烏城」という異称はこれに由来する。この下見板も、豊臣秀吉の大坂城はじめ、初期の天守によく用いられた手法である。
岡山市「都心創生まちづくり構想 資料編2.岡山城と城下町の概要」
このほかにも、「何層何階」という構造が一見して分かりづらいこと、南北と東西の幅が極端に異なること、1階と最上階である6階の面積が大きく異なり、1階から6階まで、各階平面の形状・面積が全て異なっていること、天守内に「城主の間」と呼ばれる書院造の居間が設けられていること、天守台が五角形であることなど、他の天守閣に見られない特徴は数多い。なかでも五角形の天守台は全国唯一のものであり、四角形以外の天守台も、岡山城の他には織田信長が築いた安土城の八角形天守台以外にはその例が見当たらない。
また、岡山城天守閣は明治の破却を免れ、昭和まで存続した全国 20 の天守閣のひとつで、惜しくも戦災で焼失したが、焼失前に撮影された数多くの写真や、実測図が残されているため、往時の天守の姿を正確に復元できることも大きな特徴のひとつといえるだろう。
来た道を戻り、「月見橋」を渡って「後楽園」に入った。水戸の「偕楽園」、金沢の「兼六園」と並ぶ「日本三大名園」の一つである。岡山藩主「池田綱政」が家臣の「津田永忠」に命じて、1687 年に着工、1700 年に一応の完成をみるが、その後も藩主の好みで手が加えられてきたという。
南門から入り、反時計回りに進んだ。まず、右手に「 廉池軒(れんちけん)」、 点在する亭舎の
中で、「池田綱政」が最も好んで利用していたものだという。

左手に「流店」が見える。亭舎の中央に水路を通し、中に美しい色の石を配した、全国でも珍しい
建物。かつては、藩主の庭廻りの時に休憩所として使われていたらしい。

池の周りをまわって、梅林へとはいっていく。白梅・紅梅・枝垂れ梅、満開だった。





「池田綱政」が藩内の平安と池田家の安泰を願って建立した観音堂である「慈現堂」の境内には、巨岩の「烏帽子岩」がある。重くて運べないので、36 個に分割してここに設置したらしい。

中央の「沢の池」の前から「岡山城」が真正面に見える。左の築山は「唯心山」で池田綱政の子の「継政」が作らせたもの。高さ約 6 m。

藩主が後楽園を訪れた時の居間として使われた「延養亭」。


「花交の池」の橋の向こうに「大立石」が見える。高さは約 7.5 m と「烏帽子岩」より大きく、90 数個に割って運び、組み立てたらしい。このあと南門から退出。
後楽園~岩田町交差点(岡山駅北)
商店街出口にもどり、街道歩きの再開。路面電車の「柳川駅」を過ぎたところで右折。「旧山崎町(現野田屋町一丁目)」に入る。右側に「金比羅神社」。「主祭神 大穴牟遅命(大国主命)、相殿神 加具土命(火災除け・土地の守護)、品田別命(教育、家運隆昌)」と書かれている。由緒は「岡山は天正元年(西暦1573年)浮田直家が築城以来栄えた。築城時岡山城及び岡山の城下町を護り繁栄するために高原信国に祈祷を命じたのが金刀比羅神社の始まりである。藩主が池田家になってからも歴代当神社への崇敬厚く、また神社前は西国街道であり西国諸大名が参勤交代で江戸に赴く道筋であり神社前通過の諸大名ひとしく拝礼した。この地は岡山の入口であり、博労町と言っていたが金刀比羅神社の崇敬ひろまるとともに丸亀町と改め昭和に及んだ市域拡大の為、町名整理により野田屋町二丁目と改めた」とある。

鳥居の左に「旧丸亀町」の説明板も立っている。

街道はこの先の「後楽園通」で左折。西川に架かる「青柳橋」を渡る。川の両側は親水公園になっている。


この先、直進すると「岩田町交差点」に出るが、写真を撮っていない。Google Maps から拝借。前方の高架が新幹線、その先が山陽本線。その線路の辺りがかつての「万町」になる。

時刻は 15:42、ここでゴールである。「長船駅」からの歩行距離は 27.4 キロ、時間にして 7 時間 43 分だった。これで「岡山駅」まで来たので、つぎの 4 月の旅で「広島県」に入り「尾道」を目指す。
