今回は JR 京葉線の「新習志野駅」から JR 内房線・外房線の「蘇我駅」まで歩く。このウォーキングも詰めの段階に入っている。「姉ヶ崎駅」をスタートしてから「銚子」までは、ずっと海岸沿いを歩いてきた。一方、「銚子」から「関宿(せきやど)」までは「利根川」、「関宿」から「浦安・市川」は「江戸川」と川沿いの道である。そして、前回、再び海沿いの道に戻った。とはいうものの海岸線を歩いたわけではない。「浦安」から「習志野」に至る東京湾沿岸はすべて埋め立地で工場や倉庫が立ち並んでいる。だから少し内側を歩いた。今回も「千葉街道」や「房総往還道」など古(いにしえ)の街道を歩く内陸ルートが考えられる。しかし、幸いなことに「幕張」~「稲毛」のエリアは、海岸歩きが可能なのである。もちろん、これらの地域も埋め立てられてはいる。「浅間神社」のある国道 14 号線あたりが昔の海岸線だ。「千葉市の昔の海岸線を歩く」という「地質学雑誌」の論文には、神社の鳥居のところで潮干狩りをしている写真が掲載されている。埋め立て地ではあるが、人工海浜が作られているので浜歩きが可能なのだ。そこで、今回は現在の海岸線に沿って浜伝いに歩いた後、「千葉港」から内陸へ移動し、「房総往還道」を進んで「千葉城」や「千葉神社」を訪問しようと思う。

2023 年 11 月 14 日、7:38 に「新習志野駅」をスタートした。前回は曇り空だったが、今日は快晴だ。海を見るにはやはり青空でなければいけない。済みきった青空の下で海の青さが引き出されるのだ。駅から少し東に進み、右折して「菊田川」に沿って海を目指す。海に出たところが「茜浜海浜公園」だ。「おお、富士山が見える!」 だが護岸とかぶって写真が撮りづらい。もう少し南に歩くと富士山が綺麗に見通せるポイントがあったので写真を撮る。今年の 1 月、ウォーキングを開始したときにも、富士山がよく見えていた。また、富士山が見える東京湾に戻って来たのだ。



更に進むと砂浜になる。「豊砂の浜」である。釣りをしている人がいる。その間から富士山を臨む。すぐ隣が「幕張の浜」だが、その間には水路がある。近くに橋がないので、いったん「県道 15 号線」まで戻らなければならない。

この「県道 15 号線」は別名「海浜大通り」、北東側には「幕張メッセ」(写真 5 の左の建物)、南西には「千葉ロッテマリーンズ」の本拠地「ZOZO マリンスタジアム」がある。スタジアムの正面にあるのは 2005 年に建てられた 「6 冠達成モニュメント」で往事の選手の手形が残されている。


駐車場から東方を見ると、「幕張新都心」の高層ホテルが並んでいる。左手のノッポのビルは「アパホテル&リゾート」で、建設されたときは「幕張プリンスホテル」だった。中央が「ホテル ニュー・オータニ幕張」、その間の尖塔が「ホテル ザ・マンハッタン」だ。左側は「ワールドビジネスガーデン」のツインタワーである。向きを転じて、海の方へ行ってみる。

「幕張の浜」はさきほどの「豊砂の浜」よりはだいぶ大きい。ここでも富士山がよく見えた。


浜が終わり「花見川」に出る。昔は小川に過ぎなかったが、江戸時代に「利根川東遷」で「利根川」と繋がった「印旛沼」の増水を避ける目的で、水位上昇分を東京湾に流す疎水工事が行われた。現在は一級河川でこの辺りの川幅は 100 m もある。「美浜大橋」を渡る。橋には「カモメのオブジェ」が設置されていて、ちょうどその向こうに「富士山」が見えている。

今度は「検見川の浜」である。遠くに「スカイツリー」を発見。真西の方角が「浦安」だ。浜には「浜辺の情景」のオブジェが置かれている。巻き貝の上に親子が遊んでいる様子が描かれたいい彫像だと思う。ここでちょっと休憩。まわりで「ユリカモメ」たちもひなたぼっこしていた。



「検見川の浜」の先に「稲毛ヨットハーバー」があるが、今日はお休みの日で人出はない。ここはすでに「稲毛海浜公園」の中だ。海岸線から少し内側に入り、「草野水門」ところで水路を越える。この水門は昭和 50 年に作られたが、現在の設備は平成 10 年の竣工で新しい。水門を越えて海の方へ歩くとヨットハーバーが見えた。中央の三角の建物は管理棟だ。


「いなげの浜」に入る。時刻は 10 時を過ぎているので、だいぶ人出が増えた。水鳥たちが群れをなして飛行している。これだけ集まるとなかなか壮観だ。砂の色が白い。これまで歩いてきた「豊砂」「幕張」「検見川」の浜の砂は黒かった! それもそのはずで、この白い砂は実は日本のものではない。西オーストラリア州アルバニー産の山砂なのだ。石英質が多いので色が白い。白砂青松というが、白い砂浜の方が空の青、海の青、そして松の緑がよく映える。この砂浜の改修は「ウッドデッキ」の設置と共に令和元年に完了した。だが、相手は自然である、この白い砂を維持するのはなかなかたいへんだろう。



「稲毛海浜公園」を後に今度は「千葉みなと」を目指すのだが、5.5 km ある。これがなかなかたいへんだった。「新港」の倉庫や工場の中を歩くので、特に面白いものはない。近代的な「Amazon フルフィルメントセンター」の前を通る。Amazon の物流拠点である。精糖工場、製粉工場の前を過ぎ、「ケーズハーバー」に着いた。正式には「千葉中央港旅客船桟橋&旅客船ターミナル」で、観光船の発着ターミナルを中心とした複合商業施設である。ちょうど観光船「あるめにあ号」に観光客が乗り込むところだった。「千葉港めぐり」は千葉中央ふ頭を約 40 分でまわるもので、近くの「JFE スチール」の工場も外から見学できる。今、各地で工場夜景クルーズが大人気で、ここでも 4 月~ 11 月、夜景クルーズがあるらしい。時刻は 11:20、「ケーズハーバー」の中の 「PIER01」というレストランでランチをいただいた。

さあ、後半戦である。「千葉みなと」まで来たので、まず「ポートタワー」を見て、「千葉県立美術館」に立ち寄った後、千葉市街へ移動し「千葉神社」「千葉城」を訪れる予定である。
「千葉ポートタワー」は昭和 61 年(1986 年)にオープンした展望施設で建物の高さが 125.15 m、避雷針まで入れると 137.25 m ある。ちなみに、前に行った「銚子ポートタワー」が 57.7 m、「東京スカイツリー」は 634 m とそこそこ高い。時間の関係で展望台には昇らず、写真だけとなった。

ポートタワーから少し歩いたところに「千葉県立美術館」がある。ちょうど「テオ・ヤンセン展」を開催中だった。


テオ・ヤンセンとストランドビースト
芸術家、発明家、科学者の顔を持ち、「現代のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称されるテオ・ヤンセン。1948 年にオランダ ハーグのリゾート地スフェベニンゲンに生まれ、デルフト工科大学で物理学を専攻したのち、画家に転向し、その後風力で動く「ストランドビースト」の制作を開始しました。
「ストランドビースト(strand beest)」は、オランダ語で「砂浜の生命体」という意味。オランダが直面する海面上昇問題に対する意識から生まれた作品で、プラスチックチューブやペットボトル、粘着テープといった身近な材料を組み合わせ、物理学による計算に基づいて作られた、風の力で砂浜の上を歩く生命体です。
千葉県ホームページ(https://www.pref.chiba.lg.jp/bunshin/event/2023/20231006theojansen.html)
美術館の中にはいろいろな「ビースト」達が展示されていた。10メートルを超えるものもある。美術館提供の動画も載せておく。12 月 3 日の日曜日には千葉ポートパークの海岸沿いをストランドビースト《アニマリス・オルディス》が歩行するイベントも予定されているとのことだ。
「押してください」と書かれたビーストがあったので押してみると歩いた。互い違いに足を運んで上手に歩く。力もそんなにかける必要がない。骨格だけなので軽いのだ。それにしても、うまく作ってある。まるで生き物のようだ。

美術館を後にまっすぐ北東へ歩く。京葉線、国道 14 号線、内房・外房線の線路を越え、「千葉駅」から伸びる大通りを進むと「千葉中央公園」に出る。ここから 1 本北の道路を東に進んだところに「千葉神社」がある。
神社の前は公園になっていて、そこに「千葉常胤(ちばつねたね)」の胸像があった。『日本人名辞典』には「平安後期~鎌倉時代の武将。元永元年 5 月 24 日生まれ。千葉常重(つねしげ)の長男。治承(じしょう)4 年源頼朝の挙兵に応じ、御家人の筆頭として重んじられ、鎌倉幕府の成立に貢献。その功により下総守護に任じられ、下総、上総、肥前、豊前、陸奥などに所領をあたえられた。建仁元年 3 月 24 日死去。84 歳。通称は千葉介」とある。2022 年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」では、岡本信人さんがこの役を演じていた。まさに「千葉氏」を大きく発展させた人だ。84 歳とはとても長生きだ。
「千葉氏」は桓武平氏「平高望(たいらのたかもち)」の子孫である。「平高望」は常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発して勢力を拡大、その所領を守るために武士団を形成した。さらにその三代あとの「平忠常(たいらのただつね)」は「安房」を攻めて乱を起こし、朝廷は追討使を派遣するが平定までに 3 年かかる。この「忠常」の子孫が房総半島の有力武士として残り「上総氏」「千葉氏」が出た。
「千葉」という氏の名前は、「千葉常胤」の父「常重(つねしげ)」が大治元年(1126 年)6 月 1 日に、中央区亥鼻(いのはな)付近の荘園「千葉荘」に本拠地を移し、荘官として支配した時に地名をとって名乗ったのが始まりらしい。「千葉市」はこの日を「千葉開府の日」と定めている。また、この後で行く「千葉城」別名「亥鼻城」は「千葉常重」以来 13 代(約 330 年)に亘り両総に覇を唱えた「千葉氏」の居城である。
「千葉」という言葉自体は古くから使われていたようで、『古事記』の中で、応神天皇が宇治の山に登って詠った歌「千葉の 葛野を見れば 百千足(ももちだ)る 家や庭にはも見ゆ 国のほも見ゆ」があるし、『万葉集』に下総国千葉郡の大田部足人(おおたべのたりひと)が天平勝宝 7 年(755 年)に詠んだ歌の冒頭の「知波乃奴乃(千葉の野の)」とある。しかし、前者はそもそも「宇治」の話であり、「千葉」は「葛野」にかかる草木が繁茂する様を表す枕詞にすぎない。後者も「千葉」は「野」に掛かっているので「枕詞」の可能性大である。つまり、「千葉」の地は「草木が繁茂する」野原だったということだ。
さて「千葉神社」社殿は写真 24 だが、「妙見」と書かれた額がかかっている。もともと「千葉氏」の守護神である「北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)<妙見菩薩>」を本尊とする真言宗の「北斗山金剛授寺尊光院(ほくとさんこんごうじゅじそんこういん)」として建てられたものである。「妙見菩薩」は『日本大百科全書』によれば「北斗七星を神格化した菩薩。尊星 (そんしょう) 王、妙見尊星王、北辰 (ほくしん) 菩薩ともいう。国土を守り、災難を除去し、敵を退け、または人の寿命を延ばす福徳ある尊像。古来、人間の一生は天文と関係していると考えられ、北半球では北斗七星がその中心とみなされていた。これは、北斗七星が人の善悪の行為をみて、これによって禍福を分け、死生を決めるものという、道教の思想から出たものと混交したものらしい」とある。『日本歴史地名体系』の「千葉城」の項に、「『千学集抜粋』などによれば、承平元年(931)平良文と甥の平将門が同族の国香と上野国群馬郡の染谷(そめや)川で合戦に及び、主従七騎という苦戦を強いられていたところ、童子すなわち近在の七星山息災(そくさい)寺(現群馬県群馬町)の本尊妙見大菩薩の出現で勝利に導かれたことにより、以後妙見菩薩を守り本尊として崇めたという」とあり、「良文」やその後裔の移動の度に遷座されており、先に述べた「千葉常重」が「亥鼻」へ本拠地を移した際にも「妙見菩薩」を祀る寺院が建てられたのである。

この時代の千葉の地図を汀線の標高を 5 m として再現すると図 1 のようになる。「亥鼻城」が台地の先端にあり、そこから突き出た砂嘴の上に現在の「千葉神社」が設けられ、両者をつなぐ参道沿いに千葉の町が形成され、参道は東海道とつながっていたと考えられている。「亥鼻(猪鼻)」の名前はこの台地の様子が猪の鼻に似ていることから付けられたというが、地図をみると、そう言われれば確かにそう見える。

もともとは「寺院」だったものがどうして「神社」なったのか? その理由は明治初頭の「廃仏毀釈」にある。これによって多くの寺院が消滅した。「尊光院」も生き残るために明治 2 年に「神社」へと変身した。「千葉神社」のホームページには祭神は「北辰妙見尊星王(=天之御中主大神)」とある。この時、全国の「妙見菩薩」を祀る寺院が同様に「天之御中主大神(アメノミナカヌシオオカミ)」を祀る神社になっている。この神様は『古事記』の冒頭、天地開闢時に最初に現れた神である。

写真 25 は、門だと思ったのだが、平成 12 年に建てられた楼門型の分霊社「尊星殿」で、神社建築では類例のない楼門と社殿の複合建築物だそうだ。中央「福徳殿」・東「日天楼」・西「月天楼」・上階「開運殿」の四つに分かれている。
「千葉神社」を出て、東側の「県道 126 号線」を南下する。この道が「房総往還道」に当たる。前回「船橋大神宮」の鳥居の前を通っていた道だ。「都川」にかかる「大和橋」を渡り、左折して「本町 22 号線」に入るとすぐ「お茶の水」がある。「お茶の水」といえば東京ではないか! と思うのだが、「千葉氏ゆかりの地 お茶の水」と書かれた説明板がそばに立っており、それによると今は涸れてしまったが湧き水があり、「千葉常胤」の本拠地に足を止めた「源頼朝」に、ここの水でたてたお茶を差し上げたという説と「徳川家康」が東金方面へ鷹狩りに向かう途中で千葉に泊まり、ここの水でたてたお茶を飲んだという二説があるらしい。ちなみに、東京の「御茶ノ水」は「徳川秀忠」の茶の湯用に献上したことが由来らしい。

この先の「不動堂」から階段を上っていくと、「千葉城(猪鼻城)天守閣」の前に出る。現在あるのは 1967(昭和 42)年に建てられた模擬天守で「千葉市立郷土博物館」になっている。その前、馬上で弓を弾いているのは「千葉常胤」の銅像だ。「亥鼻公園」の南側に「千葉県文化会館」があるが、現在改修中である。何回か行ったことがあるが、結構音響の良いホールであったが、古くて使い勝手が悪かった。素晴らしいホールに生まれ変わることを期待したい。

「房総往還道」は千葉城の前で西に曲がり、「本千葉駅」の北を通って JR の西側へと移動し、再び南下して「寒川(さむがわ)」へと入る。「寒川」は『日本歴史地名体系』によれば、「江戸湾に注ぐ都川河口部にあった湊。漁港でもあったが、佐倉藩の年貢米などを津出しする河岸が置かれ、とくに同藩の文政四年(一八二一)の改革に伴い、それまで領内年貢米を佐倉城下の椎木(しいのき)蔵と寒川蔵の双方に納入し津出ししていたのをほぼ寒川に統一することにしたため、重要な津出湊となった」とある。現在は「都川」から南の海岸線には「JFE スチール」の製鉄所が広がっており、往時の面影はない。
「JFE スチール」は「川崎製鉄」と「日本鋼管」が 2003 年に合併してできた会社で、もともとここは「川崎製鉄」の千葉製鉄所だった。戦後作られた日本初の「臨海型銑鋼一貫製鉄所」である。千葉 1 号高炉の火入れは昭和 28 年(1953年) 6 月で、私の誕生年・月と同じ。「川崎重工」の製鉄部門が独立して「川崎製鉄」となったのが 1950 年、初代社長の「西山弥太郎」が発表した製鉄所建設計画はその壮大さに暴挙であると国から大反対に合い、当時の日銀の一万田総裁の言葉が誇張されて「製鉄所にペンペン草を生やしてやる」となった話は有名である。しかし製鉄所の建設は後の高度成長を牽引することになる。詳細は「PHP人材開発」の「西山彌太郎の決断~日銀総裁の反対を押し切って実行した巨大工場建設」に詳しい。
さて話は戻って「寒川」である。ここに『延喜式神名帳』にみえる千葉郡二座の一つ寒川社に比定される説がある「寒川神社」がある。説明板によれば、「寒川地区の総鎮守で、古く神明神社または伊勢明神と呼ばれていました、天照大神を主神に寒川比古命、寒川比賣命を脇神にまつり、天正 19 年(1591)德川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868) に社号を寒川神社に改めました」とある。


「寒川神社」からは「房総往還道」を歩くが、古い街道はどこもそうだが、道幅が狭く歩道がないので歩きにくい。途中のコンビニでコーヒーで休憩したのち、「京葉線」の高架の下をくぐって「稲荷町」に入ったところに「稲荷神社」があった。先ほどの「寒川神社」はすぐ民家が迫っていてせせこましい印象だったが、こちらはのびのびしている。



境内の説明板によれば、この場所は「日本武尊」が東夷征伐のため上総国へ赴く際、当地に駒(馬)を放ち、夷賊退治の無事達成を祈り誓いを立てた事から「駒ヶ原」と呼ばれ、神社は「駒原神社」として五穀を司る女神「豊宇受大神(トヨウケオオカミ)」を祀ったとあり、ここも「ヤマトタケル」伝承と関係する神社であった。その後、千葉常重が猪鼻に館を構えて以来、千葉氏の守護神として「御達報 稲荷」と称し、また治承四(1180)年源頼朝が太刀一振を献上し祈願以後社殿の修繕などは代々千葉氏が執り行ってきたという。現在、神社は「五田保稲荷(ごたっぽいなり)」と呼ばれるが、これは「御達報」から来ている。神社の拝殿には立派な彫刻が施されている。上部は鳳凰、中央は龍、左右は狛犬だろうか。

「稲荷神社」から歩くこと約 20 分、14:52 に JR「蘇我駅」に到着した。「JEF ユナイテッド」の看板があるのは、「JFE スチール」の元敷地だった場所に「福田電子アリーナ」というサッカー場ができ、そこが「JEF ユナイテッド」の本拠地だからだ。ちなみに「JEF」は母体となったチームである「JR東日本」と「古河電工」を合わせたもので製鉄所の「JFE」とは全く関係が無い。今回の歩行距離は 25.7 km、時間は昼食・休憩・見学合わせて 7 時間 13 分だった。

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