
吉田宿(その1)
「東八町」の交差点の南西の角に写真 1 の「東惣門」があった。門にしては小振りだと思ったが、これは 2002 年に作られた「モニュメント」だった。そばに説明版があり、「東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていました。門の傍らには十二畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり門外の西側に駒寄せ場十一間がありました。惣門は朝六ツ(午前六時)から夜四ツ(午後十時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました」と書かれており、古地図も載っている。しかし、この説明版、おそらく 20 年前のままなのだろう。文字や図が消えかかっていてハッキリしない。この後に訪れた「吉田城」内にあった地図に追記してみたのが図 2 だ。


中央に描かれているのが「吉田城」で東側には二重の「惣堀」があった。外側の堀と「旧東海道」の交点がこの「東八町」の交差点。ここに南向きに「東惣門」が設置されていた。この門を通らなければ先に進めない。ここを抜け、すこし南下した後、西に折れると「吉田宿」に入る。「旧東海道」は東西の「惣堀」に並行していて、東から「下町」「鍛治町」と続く。次の「曲尺手(かねんて)町」で南に折れ、「八間町」で再び西に折れて「呉服町」へ入る。道が何度も折れ曲がるのは敵の侵入を妨害するためで、城下町の特徴だ。「札木町」「本町」としばらく直進後、北に折れて「上伝馬町」。その先の「坂下町」との間に「西惣門」があって、宿場町はここまでとなる。その概要はつぎの通り。
- 所在地:三河国渥美郡(愛知県豊橋市札木町など)
- 江戸・日本橋からの距離:73 里 23 町 45 間
- 宿の規模:家数 1293 軒、本陣 2、脇本陣 1、旅籠屋 65
- 宿の特徴:吉田の町は古くは今橋と呼ばれ、東三河の拠点として戦国時代の争乱の最中に吉田に改称された。江戸時代は、吉田藩の城下町、東海道の宿場町、さらに豊川の舟運や伊勢詣での船旅の湊町としてにぎわった。東海道は吉田城の惣構えの堀に沿って道筋が通され、町屋が立ち並んだ。明治二年(1869)、吉田は豊橋に改称。戦災や戦後復興のため宿場町や城下町の景観は失われたが、町名や拡幅された道筋に街道の名残が残されている。(あいち歴史観光)
家数 1293 軒は「沼津」と同規模の大きな宿場だ。飯盛女を置く旅籠でも有名で、「滝沢馬琴」によれば、吉田の飯盛女は 100 余人と記されている。「吉田通れば二階から招くしかも鹿(か)の子の振り袖が」などと俗謡にうたわれるほどの盛況ぶりだった。続く「御油」「赤坂」の宿場にも多くの飯盛旅籠があって、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」との歌が残っており、当時の旅の目的の一つが「女遊び」だったことが分かる。これについては「赤坂宿」のところで再度述べよう。
この「吉田」という名前はどこから来ているのか? 古名とされる「今橋」の起源は? 「吉田城」と「豊橋」の起源も含めて整理するとつぎのようになるが、古い部分は記録が少なくもうひとつハッキリしないようだ。
- 伊勢神宮の神領の一覧表である『神鳳鈔』に「吉田御園」と記載があることなどから、平安時代にこの地が「吉田」と呼ばれていたことが確認できる。「吉田」は良い米が採れる良い土地という意味の一般的な地名だと思う。
- 「今橋」の初見は、応永五年(1398)11 月 22 日の『足利義満御判御教書』の「今橋御厨」である。貞応三年(1224)頃の「豊川」は「飽海(あくみ)川」と呼ばれており、そこに架けられた橋の名前が「今橋」だった。橋の名前が地名となったとわけだ。
- 明応五年(1496)に、東三河の国人「牧野古白(こはく)」がここに「今橋城」を建てた。西三河で勢力を伸ばしてきた「松平氏」に備えたのである。戦国時代、この地では激しい勢力争いが繰り広げられていた。駿河の「今川氏親」の勢力が圧倒的で、その指示を受けての城の建設だったとも言われる。豊橋周辺を支配下に収めた「今川氏親」は「牧野古白」ら東三河の諸将を率いて西三河に進出するが、松平氏の強い抵抗を受けて駿河に引き揚げる。その後、「徳川家康」の高祖父「松平長親」が東三河に侵攻、「今橋城」を攻め「古白」は討死(松平側に寝返った「古白」を「今川氏親」が攻めたという異説もある)。
- 永正十五年(1518)頃、知多郡に逃れていた「古白」の子「成三」「信成」が「今橋城」を奪い返し、大永二年(1522)頃に「今橋」から「吉田」と改名したとされる。
- 「吉田城」の支配は今川・松平・戸田と変わるが、永禄八年(1565)に松平家康が三河を統一し、「酒井忠次」が「吉田城」の城主となる。この時、「豊川」に土橋が架橋されている(現在の「国道 1 号線吉田大橋」の位置)。
- 次の城主の「池田輝政」は天正十九年(1591)に橋を下流の舟町(現在の県道 496 号線の位置)に移し、さらに木製に変えた。これがかつては「吉田大橋(吉田橋)」と呼ばれた、現在の「豊橋(とよばし)」の起源である。
- 明治となり、新政府は当時の「三河国吉田藩」の藩名が「伊予国吉田藩」に似て紛らわしいため、藩名変更の命を下した。「豊橋」「関屋」「今橋」の 3 つの候補の中から、「豊橋」が採用され、廃藩置県後もその名が使われる。
さて、まずはお城へ行ってみようと「豊橋公園」へと向かった。歩いたコースを図 4 に示した。「東八町」の交差点から、「国道 1 号線」に沿って西に進む。路面電車が走っている。「豊鉄市内線」である。その「豊橋公園前駅」から北上すると公園の中央に出る。この西側に「吉田城」の本丸跡がある。


国道を越え「くすの木通り」を抜けて、公園の中に入る。左折すると「豊橋市美術博物館」の前だ。15 時になったところ、開館時間は 9 ~ 17 時なので立ち寄ろうかとも思ったが、疲れていたので城跡を見て早くホテルに入りたいと断念、佐藤助雄作の「二つの友情」の像の前を過ぎた。


小道を北へ向かう。両側のイチョウの木が少し色づき始めていて綺麗だ。

本丸跡に出ると天守閣らしきものがある。これは天守ではなく「鉄櫓(くろがねやぐら)」だ。図 4 が本丸跡の詳細図だが、本丸は中央にあり、四隅に「櫓」が作られていた。北西の隅にあったのがこの「鉄櫓」で、天守が倒壊して以降、天守の代わりをしていたと考えられている(もともと天守はなかったという説もあり)。なお、これは本物ではなく、昭和二九年(1954)に模擬再建されたものである。


中は資料館になっているのだが、CLOSED の札がかかっていた。開館時間は 10 ~ 15 時、残念ながら遅すぎた!

櫓の右手から「豊川」を眺めた。川は城の前で大きく蛇行し、そこから「朝倉川」が分岐している。静かな水面に蛇行部の森の影が映って美しい。

西に目を転じると、橋の向こうに豊橋の町並みが見える。この橋は「国道 1 号線」の「吉田大橋」だ。

冒頭の広重の絵を見てみよう。天守らしきもの(これは「鉄櫓」だろう)の周りに足場を組んで、どうやら改修中である。その向こうに「豊川」の流れが見える。そして木製の橋。ほぼ写真 9 と同じ構図だが、視点はより高い位置にある。描かれた橋は下流にある「旧東海道」の「吉田大橋」。明日、渡る予定の「豊橋(とよばし)」である。「橋」を「ばし」と呼んでいるのは、「国道 1 号線」の「吉田大橋」が出来てからのことで、市の名前「とよはし」と区別するためだそうだ。
「吉田城」を後に「吉田宿」へと向かうのだが、宿場町の最初から見てやろうと国道を先ほどの「東八町」の交差点まで戻った。「吉田宿」の入口は普通の路地と変わらない。

「呉服町」に入る。写真は老舗の御菓子所の「絹与」さん。「江戸時代の享保年間、八代将軍徳川吉宗の殖産政策の一環として吉田藩の藩命により製糖を命ぜられました。当時の工場の棟瓦に享保十九年(1734)寅の九月甫と記されており、それから数えて今日で十代になります」とのこと。

この日はここでホテルに入る。「新居町」からここまでの歩行距離は 26.8 キロ、昼食休憩時間も含めて 7 時間 28 分だった。
吉田宿(2)
翌 10 月 18 日(木)7:16、 歩き旅三日目を開始した。昨日とはうって変わって、今日は晴天で暑くなるという予報である。「吉田宿」の中央を、現在は南北に四車線道路が通り、中央を路面電車が通っている。通りを渡るとすぐに本陣跡の標柱がある。うなぎ屋さんの前にも本陣跡の碑があった。



空襲を受けたので宿場町の面影はほとんどない。あっという間に「本町」を過ぎて、街道は北へ曲がる。「上伝馬町」を過ぎ、「国道 23 号線」との交差点の東側に「西惣門」があったのだが、見落としてしまった。「吉田宿」はここまでだ。
吉田宿~御油宿

「旧東海道」は「豊川」の手前で西に曲がる。すぐ右手に「湊町公園」があったので立ち寄ってみた。西の端に「湊神明社」、公園の真ん中の池の中央の島に「湊津島弁天社」がある。この島、茶人の「山田宗偏」が池の中央に庭園として造ったものだという。


ここを過ぎると「豊橋(とよばし)」の前。そこから右手、「豊川」の先に「吉田城」を探したがはっきりとは分からなかった。


橋を渡り、「豊川」に沿って街道を下流側に歩いて行く。すぐに「豊川稲荷遙拝所」があったのでお詣りしておく。「豊川稲荷」はここから 6.5 キロ北の「豊川」にある。愛知県には「豊」のつく地名が多いが、その最古のものがこの「豊川」で律令制の「宝飯郡豊川郷」にあたる。川の方の「豊川」は『東海道名所図会』によれば、「三州三大河のその一なり。(中略)水源は信州の山渓より滴りて、長篠の裾を流れ、豊川の里に至りて豊川という」とあるから、里の地名の方が先なのだろう。
「聖眼寺」の前を過ぎ、三叉路をまっすぐ進むと、細い通りとなる。時刻は 8 時になったところだが、すでにかなり暑い。昨日とは大違いだ。北西に向いて歩いているので背後に太陽の熱を感じる。地図を見ると「瓜郷遺跡」という名前が眼に入った。休憩がてら立ち寄ってみようと、「横須賀町」の次の三叉路を右折すると、左手に竪穴式住居らしきものが見えてきた。ここは弥生時代~古墳時代初期の大規模な集落跡。「豊川」の沖積地の湿地に水田を開いたらしい。ベンチがあったのでしばらく休憩。

今日は「岡崎」を目指して北西の道をひたすら歩くのである。ただし「岡崎」まで歩くと 30 キロ超になるので途中の「藤川宿」までの予定だ。宿は「東岡崎」に取ってある。そこまで電車で行って、明日また「藤川」まで引き返す。「吉田宿」から次の「御油宿」までの距離は二里半四町だから、三時間くらいはかかるだろう。問題はこの暑さだ。今日は夏並みの暑さなのでかなりこたえる。
気を取り直して「歩き旅」再開。「豊橋魚市場」の前を過ぎる。そこでビックリ! この先で「豊川放水路」を越える橋があるのだが歩道がない。道は細く、交通量がかなり多い。ここを渡るのはかなり危険だと地図を見る。すぐ東に「国道 1 号線」の「小坂井大橋」があった。そこまでいけば歩道があるのではないか? 迂回しようと決め、もう一度、「魚市場」まで戻り左折して国道に向かった。橋の手前で「豊川市」に入った。


案の定「小坂井大橋」には歩道がついていた。これで大丈夫。ただし迂回した分、距離が伸びた。

「旧街道」は「国道 1 号線」のすぐ隣を走っている。しばらく、このまま国道を歩き、適当なところで街道へ移ることにする。この先、「御油宿」まではほぼ真っ直ぐな道である。
「小坂井町」で「兎足(うたり)神社」の横を過ぎた。7 世紀後半ごろに建てられたといわれ、当時の国造(くにのみやつこ)「菟上足尼命(ウナカミスクネノミコト)」が祀られているとのこと。社内のいろいろなところに「隠れミッキー」ならぬ「隠れウサギ」がいるのだそうだ。面白そうだが今回はパス。

「JR 飯田線」を越えたところで街道に戻る。「伊奈町」に入ると「立場茶屋跡」があった。「立場」は街道に設置された休憩所である。ここは貞享 4 年(1687)に建てられた最初の茶屋があった場所で身分の高い人をもてなす格調高い茶屋だったようだ。「吉田宿」とつぎの「御油宿」の間は少し距離があるので、その中間の「伊奈」周辺には数軒の茶屋があったらしい。

時刻は 9 時を回った。「瓜郷遺跡」から約 1 時間である。とても暑いので疲れる。立場茶屋を過ぎたこともあり、そろそろ休憩したいところだ。ということで、現在の茶屋であるカフェを探す。なかなかこれといった店が見つからず「小田渕」まで来た。地図で調べると街道に面して「わたなべ珈琲店」というのがある。これ幸いとここで小休止。「本日のスペシャル珈琲」というのがあったので豆はなにかと聞くと「ゲイシャ」とのこと。「ゲイシャ」は「芸者」とは関係なく、豆の種類。高価な豆で、豊かで独特の風味に特徴がある。この特別な珈琲を味わいながらしばし至福の時間を過ごした。
街道の西側には名鉄名古屋本線が走っていて。「伊奈」「小田渕」と駅がある。この先が「国府(こう)」そしてその次が宿場町がある「御油」である。もう少しだと重い腰を上げて街道歩きを再開。「国府」はその名の通り「三河国」の「国府」があったところである。ところが、街道筋にそれらしきものは見つけられず、発見したのは「国府駅」の手前の「秋葉山常夜灯」と駅をすぎての「大社(おおやしろ)神社」の二つ。この神社は「出雲大社」の分社らしい。社殿はなかなか立派だ。



その少し先に「御油の一里塚跡」の標柱。そして「浜名湖」の北を通り「御油宿」と遠江の「見附宿」を結ぶ「姫街道」との分岐を過ぎると、道は「音羽川」にかかる「御油橋」に差し掛かる。時刻は 10:51 。この橋を渡れば「御油宿」だ。




