旧東海道歩き旅(44)桑名宿~四日市宿(2024.11.3・4)

図1 安藤広重「東海道五十三次 桑名 七里渡口」

 2024 年 11 月 3 日(日曜日)、JR 関西本線の「桑名駅」に到着した。これから 4 日かけて三重県の「桑名宿」から滋賀県の「草津宿」まで歩く予定だ。前回はけっこう雨に降られたが、今回は天気がよさそう。時刻は 14:30、「歩き旅」の開始は明日からだが、今のうちに「七里の渡し」や「桑名城」を見学しておこうとホテルに荷物を置いて出かけた。駅から「八間通」を東に進み「江戸町」に入る。料亭「柿安」の前の南北の道が「旧東海道」だ。まずは「七里の渡し」から見ていこうと左折して街道に入った。

写真1 桑名駅

七里の渡しと桑名城、そして焼き蛤

 「七里の渡し」は街道の北の端にある。眼に入ったのが、大きな木製の鳥居とその両側の二本の松の大木。「ブラタモリ」の「伊勢街道編」でも紹介されていたが、これは「伊勢神宮」の鳥居だそうだ。「桑名」は「伊勢街道」の入口でもあるわけだ。

写真1 桑名七里の渡し公園 松と大鳥居

 階段を上って鳥居をくぐる。その先の堤に上がると目の前に「揖斐川」の青い川面が広がる。振り返って「七里の渡し」を眺める。現在は一部口は開いているというものの、すっぽりと堤で囲まれてしまっている。渡しの南側に「桑名城」の「蟠龍櫓(ばんりゅうろ)」が見えた。

写真2 揖斐川の堤
写真3 揖斐川堤から見た七里の渡し
写真4 七里の渡しの南側には桑名城の蟠龍櫓が見える

 江戸時代はどんなだったのだろう? 冒頭の広重の絵を御覧頂きたい。タイトルは「七里渡口」。「蟠龍櫓」が海に剥き出しになっているから、当時はこんな堤はなかったのだろう。海から直接鳥居が見えており、舟はそれを目印に進み、岸壁に横着けしたと思われる。

図1 桑名七里の渡し公園周辺図(出典:木曽川三川公園管理センターパンフレット)

 渡し場から少し北に歩いたところにある「住吉神社」に詣って、今回の旅の安全を祈願しておこう。

写真5 住吉神社

「桑名」は古くから伊勢湾、「木曽川」「長良川」「揖斐川」という木曽三川を利用した舟運の拠点港として栄えたところ。自由な取引ができる港町という意味の「十楽の津」と呼ばれていたという。「住吉神社」のあるこの「住吉浦」は廻船の舟溜りで、全国から多数の廻船業者が集まっていたところだそうだ。

 「七里の渡し」に戻って街道に下りた。渡し場の西側に駐車場があり、そこに「本陣跡・脇本陣跡」の標柱があった。左は「大塚本陣跡」、右は「脇本陣駿河屋跡」と書かれている。「大塚本陣」は今は「船津屋」という立派な料理屋になっている。明治 8 年の創業だという。前に「歌行燈(うたあんどん)」の句碑と説明板があったがこれについては後でのべよう。

写真6 本陣跡・脇本陣跡の標柱
写真7 大塚本陣跡の料亭船津屋

「桑名城」へ立ち寄ってみようと、再度「七里の渡し」に上がって東へ移動する。「文化の日」とあって、公園にはキッチンカーが並び、催し物の真っ最中だった。人もかなり出ている。「蟠龍櫓」も御覧のように休憩所と化してしまっている。

写真8 蟠龍櫓

「桑名城」には 56 の櫓があったそうで、ここはその一つ。「蟠龍(ばんりゅう)」というのは、天に昇る前のうずくまった龍で、それをかたどった瓦が置かれていたことから名付けられたらしい。「七里の渡し」に入る船の監視所だったのだろう。現在の建物は、平成 15 年に水門の管理棟として建てられたものだ。向かい側には「桑名」の治水の歴史を書いた説明板が立ち並んでいる。三つの川が集まっているのは舟運には好都合だが、氾濫すると被害甚大である。「桑名」は古くから川と戦い続けてきた歴史を持つ。

「桑名城本丸跡」は隣の「九華公園」にあるが、そこへ行くには一度南下して「八間通」を渡らなければならい。「三之丸堀」に架かる「舟入橋」を渡ったところに「本多忠勝」の像があった。NHK 大河ドラマ「どうする家康」で山田裕貴さんが演じていた徳川四天王の一人である。「関ヶ原の戦い」に勝利した「徳川家康」は慶長 6 年(1601)、「本多忠勝」を桑名 10 万石に封じた。それからすぐに彼は「桑名城」の建造を開始しているから、まさにこの城の開祖なのである。

写真9 本多忠勝像

「桑名市民プール」の裏にある「鎮國守國神社」の奥に「天守台跡」がある。建っている塔は明治 20 年(1887)に建立された「戊辰殉難招魂碑」。「桑名藩」の江戸末期の藩主は「松平佐敬(さだあき)」で、会津藩主「松平容保(かたもり)」の弟だ。兄と共に幕府軍として戊辰戦争を戦ったが、敗走して「函館五稜郭」に逃げている。その後「桑名藩」内では開城か交戦か激しく議論されたが、結局、慶応 4 年(1868)1 月 28 日に開城。降伏の証しとして「辰巳櫓」を焼き払ったという。現在、その跡には政府軍の大砲が置かれているが、その由来は不明だという。

写真10 鎮國守國神社
写真11 桑名城天守台跡
写真12 辰巳櫓跡に設置された戊辰戦争政府軍の大砲

 時刻は 16 時、「九華公園」を出る。少し早いが夕食をとろう。さきほど、「七里の渡し」に向かう途中で気になったお店があったのだ。「歌行燈(うたあんどん)」という名前で、桑名では有名なうどん屋さんである。

写真13 歌行燈本店

 この「歌行燈」だが、泉鏡花の小説の名前である。さきほど説明をとばした料亭「船津屋」の前の説明板が写真 14 である。小説では「湊屋」という名前の旅籠とうどん屋が主な舞台となる。この「湊屋」が「船津屋」、「うどん屋」は「志摩や」がモデルで、この店は小説にちなんで「歌行燈」と名前を変える。チェーン店を持っていて、なんと関東では「新宿」「浦和」「立川」にも店がある。

写真14 歌行燈句碑

 入るとお品書きがぶら下げてあったが、これは昭和 28 年当時のものだ。昭和 28 年といえば私の生まれた年。うどんが一杯 25 円だったのだ。さあ、「桑名名物焼き蛤」を食せねばと置かれていたのメニューを見るが一個がなんと 600 円! 三個注文、それだけでは腹が満たされないので、釜揚げうどんと天麩羅のセットを注文、これにビールも加えて結構な値段となった。

写真15 昭和 28 年当時の品書き
写真16 名物焼き蛤

 蛤は大きかったが、中の身はそんなに量があるわけではない。店のオバサンに高いね、と言うと。「私ら食べないよ-」と返された。安い蛤料理もいろいろメニューに載っているが、いろいろ混ぜ物をして量を増やしている。現在では蛤は高級品なのだ。

桑名宿

 さて、翌朝の 7:30、再び「七里の渡し」に戻り、「歩き旅」をスタート。「歌行燈」の前の「旧東海道」を歩いている人は私一人だった。

写真17 歌行燈前の旧東海道
図3 桑名宿 赤線は歩いたコース、点線が本来の旧東海道

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:伊勢国桑名郡(三重県桑名市伝馬町など)
  • 江戸・日本橋からの距離:95 里 35 町 7 間
  • 宿の規模:家数 2544 軒、本陣 2、脇本陣 4、旅籠屋 120
  • 宿の特徴:七里の渡しの駅であるとともに、桑名城の城下町。水上交通の要地として、中世以来重要な港湾都市。

 ブラタモリでも紹介していたが、宿の規模、旅籠屋 120 は「熱田(宮)」248 に次ぐが、一番目と二番目との間には倍の開きがある。続いて、「岡崎」 112、「四日市」 98、「浜松」 94 となる。「熱田」「桑名」は「七里の渡し」の駅であり、舟待ちの客が宿泊するので旅籠が多いのだろう。舟の欠航もあるから宿泊能力を大きくしておく必要があるのだ。

 宿場の範囲は「渡し」から南西の「福江町」まで。本陣は前述の「大塚本陣」と川口町の「丹羽善九右衛門本陣」の2つで、ともに「渡し」の側。脇本陣は「渡し」の側の「駿河屋」と「八間通」側の「江戸町」に 3 軒。「渡し」から近いところに宿が広がっていったと想像できる。

「八間通」を渡ると右側に「桑名宗社」の鳥居が現れる。この鳥居はなんと青銅製で三重県の指定文化財になっている。「宗社」という耳慣れない名前がついているが「式内桑名神社(三崎明神)」と「式内中臣神社(春日明神)」を合わせたものだという。「三崎」とは「桑名」の市街地の呼び名である。

写真18 桑名宗社の鳥居

 鳥居を潜ると立派な「楼門」がある。天保 4 年(1833)に建立されたが空襲で焼けてしまい、平成 7 年(1995)に再現されたものらしい。

写真19 桑名宗社楼門

 その先「二ノ鳥居」の向こうに「拝殿」。右側の「三」と書かれた紋が「桑名神社」、左側の「大」と書かれた紋が「中臣神社」だ。「三」は「三崎明神」から来ているのだろうが、「大」はなんだろう? この「拝殿」をはじめ「本殿」「幣殿」も空襲の被害を受け、再建されたものだ。昭和 29 年(1954)に拝殿、昭和 59 年(1984)には本殿・幣殿が建てられた。

写真19 桑名宗社拝殿

「桑名神社」の祭神は「天津彦根命(アマツヒコネノミコト)」とその子の「天久久斯比乃命(アメノククシビノミコト)」、一方、「中臣神社」は「天日別命(アメノヒワケノミコト)」である。

 歴史は「桑名神社」の方が古い。祭神「アメノククシビ」は「天目一箇命(アメノマヒトツカミノミコト)」と同一神と考えられており、「桑名郡」を開発した「桑名首(クワナノオビト)」の祖神とされている。また、ここより「揖斐川」を遡ったところにある「多度山」の麓の「多度大社」の本宮は「天津彦根命」、別宮は「天目一箇命」を祀る。つまり、古代この一帯は「天津彦根系」の豪族が支配する土地だったのである。

「桑名」は「天武天皇」と深い関係にある。「桑名」の名前が初めて歴史に登場するのは、「壬申の乱」が起きた 672 年に「大海人皇子(のちの天武天皇)」らが「桑名郡家」に泊まられたという『日本書紀』の記述だ。「壬申の乱」は「天智天皇」の弟「大海人皇子」と天皇の長子「大友皇子」が皇位継承をめぐって起こした一か月に及ぶ内乱で、「大海人」が勝利して「天武天皇」となる。

「大海人」はその実力から朝廷内部で後継者とみなされていたが、「天智天皇」は後継者を息子の「大友」とすることに傾く。争いを避けるため、「大海人」は近江朝廷を去り吉野に退くが、天皇の死後、6 月 22 日に挙兵する。挙兵後の「大海人」の動きは迅速だ。「大海人」の私領は美濃にあったので、その責任者「多臣品治」に兵を出し、東国の兵を集め、近江と美濃の国境の「不破関(関ヶ原)」をふさぐよう指示。自らは後に「持統天皇」となる后や皇子、舎人・侍女ら三十余人を率いて吉野から美濃へ移動。吉野ー大宇陀ー榛原ー室生大野ー名張ー伊賀上野ー柘植ー加太ー鈴鹿ー四日市ー桑名を夜を徹して 2 日で進んでいる。そして、「桑名郡家」に后と皇子を預け、翌日「不破」の陣に入る。この間、「鈴鹿の関」を確保するとともに、伊賀、伊勢の兵を集める。こうして、数日のうちに都のあった近江と東国との二つの通路を遮断し、伊賀、伊勢、尾張、美濃、それ以東の諸国から集めた兵により、大和、近江の 2 方面に進攻を開始した。「大友」側は大和・河内で一時優勢となるが、結局敗退し「大友」は自死して終結する。「大海人」の妻子が「桑名」に滞在した期間は約二か月間。よっぽど信頼がおけるところでなければこんなことはできないだろう。この「桑名」の豪族は「大海人」の身内のような存在だったのだ。なお、「壬申の乱」の当時は海がもっと内陸に入りこんでいたと考えられており、「桑名郡家」ももっと北(蛎塚新田の「縣神社」付近、多度町戸津付近との説あり)だったと考えられている。

 一方の「中臣神社」だが、神護景雲三年(769)に「常陸国鹿島社」(茨城県の鹿島神宮)より「建御雷神霊(タケミカヅチノミタマ)」が御通過になった基址(上野町山上)に「中臣神社」が祀られていたが、鎌倉時代の正応二年(1289)に「桑名神社」の境内に遷され、永仁四年(1296)に奈良の「春日大社」から「春日明神(中臣神社)」が勧請されたとされている。不思議なのは、なぜ祭神が「天日別命」なのかということだ。「鹿島神宮」との縁で考えれば「タケミカズチ」だろうし、「中臣氏」の線なら始祖「アメノコヤネ」のはずだ。では「天日別命」とはどういう神様か? 実は彼は「伊勢」の神様なのである。『伊勢国風土記』逸文には、神武天皇が「天日別命」を伊勢に遣わし、この地の豪族だった「伊勢津彦」を追放したとある。その後裔が「伊勢国造」となり、「中臣伊勢氏」となった。つまり、「伊勢」を支配した「中臣伊勢氏」が「桑名」の「上野町」に祀ったのがこの神社なのだろう。「中臣伊勢氏」の本拠地は「鈴鹿」だが、この辺りまで勢力範囲が伸びていたのかもしれない。それにしても、鎌倉時代に何があったのだろう? 「春日明神」を勧請した結果、「春日さん」と呼ばれ、「桑名神社」より親しまれる神社となっている。

「桑名宗社」で有名なのが江戸時代に始まった「石取祭」という賑やかな祭り。「町家川」の石を神社に奉納することから始まったものだが、「ユネスコの無形文化遺産」に登録されている。詳しくはこちら

「旧東海道」に戻り、南に進む。左には「堀川」、その向こうに「桑名城」の城壁が見える。堀が終わったとこで城下町特有のクランク。道は西に折れる。その先に「石取会館」。大正 14 年に建てられた四日市銀行桑名支店の建物だ。

写真20 石取会館

「京町」で県道を渡り、その先の通りを左折する。「鍛治町」に入り、「県道 504 号」と交差する少し手前の左側に「道標」。その先、「吉津屋見附跡」という番所跡で、この先の道路は枡形で西に四角く飛び出している。

写真21 鍛治町の道標
写真22 吉津屋見附跡

 東向きの道に変わり、「新町」で県道の一本手前を右折するところを、二本手前を曲がってしまった。道を間違えていることに気づいて街道に戻る。右側に「泡洲﨑(あわのすざき)八幡宮」、その隣が浄土宗の「光徳寺」。ともに『東海道名所図会』に記載がある。

写真23 泡洲﨑八幡宮
写真24 光徳寺

「伝馬町」に入り、「日進小学校南」の交差点を右折すると「鍋屋町」。右側に「天武天皇社」。前述の「大海人皇子」が「桑名」に駐泊されたことにちなんで創建されたものだ。江戸時代に「新屋敷」付近からここに移されたとのことで、『東海道名所図会』に記載がある。

写真25 天武天皇社鳥居
写真26 天武天皇社社殿

 その先の右側に「天目一箇命」を祀る「一目連神社」。ここは『東海道名所図会』にないので新しい。実は「桑名」は鋳物の町としても知られている。そして、「天目一箇命」は片目の神様で鍛冶と深い関係がある。片目を閉じて鉄の温度を測っていたため、片方が見えなくなったといわれる。

写真27 一目連神社

 この先「東矢田町」を通り、「国道 1 号線」を横断して「西矢田町」で左折。その角が「矢田(やだ)立場跡」で火の見櫓と説明板が立っている。この先の「福江町」で宿場町が終わる。

写真28 矢田立場跡

 その先の浄土真宗「了順寺」の立派な山門は「桑名城」の門の一つを移築したものとされる。

写真29 了順寺

桑名宿~四日市宿

図4 桑名宿~四日市宿行程

 時刻は 8:27、これから「四日市宿」に向かうが、宿場間距離は三里八町で 12.7 キロとちょっと遠い。最初の「江場」から「安永」にかけて、昔は松並木だったらしいが今はその面影はない。「町家川(員弁川)」を渡るために国道に合流。その手前に「伊勢両宮常夜灯」があった。

写真30 伊勢両宮常夜灯
写真31 町家橋

「町家橋」の先は「朝日町縄生(なお)」。ここに「縄生一里塚跡」の標柱がある。

写真32 縄生の一里塚跡

「近鉄朝日駅」の前が広場になっていたので一休み。説明板によると、この辺りで昔は「焼き蛤」を売っていたらしい。

写真33 近鉄朝日駅
写真34 近鉄朝日駅横の公園

 この「朝日町」は明治に四つの村が合併したものだが、朝日町ホームページによれば、名前をつける際に「坂部(現四日市市)の国学者に相談したところ、天武天皇が迹保(とほ)川を越て、縄生、小向のあたりで朝日を拝まれたという故事にあやかり『朝日村』が誕生しました」との事である。『日本書紀』では、「迹保川」の川辺での朝日の望拝の後、「大海人皇子」一行は「朝明郡家」に到着している。朝日町命名の基となる説は、「迹保川」をこの先の「朝明(あさけ)川」、「朝明郡家」を「縄生廃寺」に比定する。これは昔の通説なのだが、四日市市大矢知町での「国道 1 号北勢バイパス」の建設時に「久留倍(くるべ)遺跡」が発掘されて以来、この遺跡が「朝明郡家」だと考えられるようになった。そうなると「迹保川」は官家の南となり、北の「朝明川」では無理がある。そこで「三滝川」「海蔵川」などが候補にあがるが、すぐ南を流れる「米洗(よない)川」とする説が有力とのこと(三重県埋蔵文化センター紀要)。

「朝明川」に架かる「朝明橋」を渡る。川の直ぐ北側を「国道 1 号線」と「近畿自動車道名古屋神戸線」が走る。国道の方はすぐ先で「北勢バイパス」が分岐している。

写真35 朝明橋
写真36 朝明川 右は国道 1 号線と近畿自動車道名古屋神戸線

「四日市市」に入った。すぐ左側が「いこいの広場」になっていて、「力石」と説明板が設置されていた。説明板ではこの先すぐの所にある「松寺の立場」が紹介されていた。

写真37 松寺いこいの広場の力石

 350 m ほど南に進んだ左側に「松寺の立場跡」があった。写真 38 の立派な碑は「輝子頌徳記念碑」、その左にある説明板がそれである。「松寺」という地名はこの先の「松栄山蓮證寺」を「松のお寺」と呼んだところから来ているらしい。

写真38 松寺の立場跡

「蒔田」に入り。「御厨神明神社」とその左の小路の先が「龍王山宝性寺」。

写真39 御厨神明神社と龍王山宝性寺

「西富田町」で左折、「近鉄線」の線路を潜ったところに「富田の一里塚跡」。その先に「八幡神社」と「力石」。

写真40 富田の一里塚跡
写真41 八幡神社と力石

「旧東海道」は「JR富田駅」と「近鉄富田駅」の間を走っている。「富田」で左折して「近鉄富田駅」の南側を進む。「十四川」に架かる「十四橋」を渡ると「南富田町」、すぐに「常夜灯」がある。これは「伊勢神宮」への道を照らしていると説明板に書かれている。

写真42 十四橋
写真43 南富田町の常夜灯

「茂福町」の「光明山常照寺」。OTERA YOGA の札が架かっていた。

写真44 光明山常照寺

 その先で左折するのだが、正面に「力石」と「新設用水路碑」。今回、あちこちで「力石」を見るのだが、理由があるのだろうか? もしかして、「力比べ」がこのあたりの娯楽だったりして?

写真45 力石と新設用水路碑

 道なりに右へ曲がったところに「東海道道標」があった。「左 四日市」はわかるが「右 いかるが」というのはなんだろう? 実はここから北西の山あいにかつて「鵤御厨(いかるがのみくりや)」があったらしい。「御厨」とは神社やお寺の「神饌」を準備する領地のことで、奈良の「法隆寺」と関連するという説もあるようだが、はっきりとはしない。現在、ここに「斑鳩山浄恩寺」があり、その南は「南いかるが町」という地名で昔の名残を留めている。

写真46 東海道道標

 その先で「米洗川」を渡るが、手前に「八幡の常夜灯」。これは明治 35 年に建てられたという刻印がある。川の写真を撮り忘れたので Googleマップのストリートビューから拝借。とても小さな川である。

写真47 米洗川 (Google Maps ストリートビュー)

 前述のように、この川を「大海人皇子」の朝日望拝の地「迹保川」とする説がある。「米」を「洗う」という名前もなにか意味がありそうである。「久志本鉄也」氏は『壬申記「迹保川」小考』の中で、「米洗川」を「迹保川」とする理由をいろいろ挙げておられるが、その中に「聖なる川」という理由がある。少し長いが引用しておこう。

「米洗」という呼称がいつ頃生じたのか不明だが、「米洗」という当て字も何らかの祭祀を喚起させないこともない。というのは、祭祀にかかわって「洗米」を供物として捧げたのではないか、というように考えることもできるからだ。藤堂元甫も、『三国地誌』の中で、「是洗米して以て神を祭り玉ふ処歟」(略)と述べている。しかし実際は、往時は 40 軒を数えたという垂坂(米洗川上流域)の麹製造業と関係があろう。この麹造りについて次のような伝承がある。「垂坂の里は皇子が神宮(筆者註:伊勢神宮)を望拝のため御酒を供えるのに住民に麹を作ることをお教えになった。この麹の米をといでから、川の名を米洗川とも称え、以来垂坂においては毎年神宮への御贄として麹を調達し、また一般住民にも麹を作ることが許されたと伝えられている」(昭和 36 年版「四日市市史」、42~43頁)。無論、こうした伝承の常として、神宮への麹調達がまず事実としてあり、その起源譚として、迹保川辺での天照太神望拝の故事が採用されたのであろう。実際の由来は不明だが、米洗川上流域の垂坂が、神宮との特別な関係を意識していたことは確かであろう。

久志本鉄也『壬申記「迹保川」小考』(三重県埋蔵文化センター研究紀第22号)

 川を渡ると「八幡神社」の碑。かつてこの場所に神社があったらしい。先ほどの常夜灯はこの神社のものだった。現在は地蔵堂が建っている。

写真48 八幡神社の碑
写真49 八幡地蔵堂

 その先の左側に大きな松が一本ある。「かわらづの松」という説明があった。「かわらづ」とはこの場所の古名「川原津」である。

写真50 かわらづの松

「志氏神社」の鳥居の前を過ぎ、右側に「初野山摂護殿光明寺」の門。

写真51 志氏神社の鳥居
写真52 初野山摂護殿光明寺

 この先で「旧東海道」は「国道 1 号線」に合流。左側の歩道に移動。「海蔵川」の手前で左の小道に入る。「海蔵川」の河川敷が公園になっていて、ここに「三ツ谷の一里塚跡」の碑があった。

写真53 三ツ谷の一里塚跡の碑

「海蔵川」を越える。「旧東海道」は川に沿って左に進み、右の小道に入る。特にどうということのない道路である。「橋北通り」に出て、道路を横断した先が「川原町」である。少し進んだ右側に「宝来軒」という御菓子屋があるが、この辺りから「四日市宿」が始まっていたらしい。時刻は 11:40、「四日市宿」に入った。

写真54 海蔵川
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