西国街道・山陽道歩き旅(9)相生駅~有年駅(2025.3.11)

 2025 年 3 月の最初の「歩き旅」は前回終了の「相生駅」から「岡山駅」までを四日で歩く。①「相生」~「有年宿」、②「有年宿」~「三石宿」、③「三石宿」~「備前長船駅」、④「備前長船駅」~「岡山駅」の四区間を 3 月 11 ~14 日に歩いたが順序通りではない。区間②では「播磨箱根」と呼ばれる「有年・船坂の峠越え」があり、③の「備前大橋」周辺の「国道 2 号線」に歩道がなく、また橋を越えた先で道路の付け替え工事を実施しているなど、難所の多いコースなのである。初日は雨、続けて②を実施すると、雨に濡れた山道を通ることになる。「旧東海道」の「宇津ノ谷峠」で濡れた路面で滑って手首を捻挫したイヤな経験が頭をよぎる。幸い今回は「岡山」のホテルに連泊なので、天気の具合を見ながら順番を変えることができるのだ。最終的に、① → ③ → ④ → ②の順に歩くことにした。また、危険な「備前大橋」の迂回も試みた。では「相生」~「有年宿」の行程から書き始めよう。

 天気予報では雨はすでに上がっているはずなのに、11 時に新幹線で「相生駅」に着いた時にはまだシトシト降っていた。これまでに「相生」には何回か来ているのだが、あまり晴れの時がない。「相生」は周囲を山で囲まれている。もちろん完全に囲まれている訳ではなく、南の一部は海だし、「姫路」からの街道筋は平地だが、その割合がかなり小さいのだ。このため雲ができやすい地形なのだと思う。「高取峠」を越えた先の製塩で有名な「赤穂」とはまるで天気が違うのである。「西国街道・山陽道」は京からここまでは比較的平坦な道だったが、ここから西に向かうと「峠越え」が待っている。昔の人はこれを避けるため、前回の「正條」から南に向かい、海岸線にある「室津」で船を使うのが一般的だったようだ。

 では「西国街道」の陸路ルートはどうなっているかというと、西北にある「有年」に出て、そこから「有年峠」を越え、さらに「船越峠」を越えて「備前国」の「三石宿」に抜けるというものである。この「船越峠」は一応舗装された「旧道」なのだが、「有年峠」は山道であり、高度はたいしたことないものの、人が通らないために荒れているというのが事前情報だった。そこで、ここを最終日に実施することにしたのは前述の通り。午後しか使えない初日は、まずは「山陽本線」で一駅隣の「有年駅」まで進んでおく。「有年」到達後は電車で「相生」に戻り「新幹線」でホテルのある「岡山」に向かう予定だ。だから「相生駅」でコインロッカーに荷物を預け、身軽になって11:57 に出発した。

図 1 相生駅~有年駅行程

 まず「相生」の歴史から紹介しよう。もともと「あいおい」ではなく「おう」と呼ばれていた。『国史大辞典』の「相生(おう)」には「兵庫県の西南部相生湾に臨み、北に隣接する那波浦とともに中世のころは東寺領の矢野荘に含まれていた。もと大浦と呼んでいたが、矢野荘別名の下司であった海老名盛重がこの地に下屋敷を設け、海老名氏の故国相模国にちなんで、『相生浦』の字をあてたという。江戸時代は赤穂藩に属し、村高二百四十八石余の漁村であった。明治四年(1871)飾磨県に、ついで同九年に兵庫県に編入され、同二十二年町村制の施行により野瀬村を合併して相生村とした。同四十年にこの地に播磨船渠株式会社(石川島播磨重工業株式会社の前身)が設立され、以後造船の町として発展を遂げた。大正二年(1913)に町制をしき、さらに昭和十四年(1939)那波町を編入、同四月十一日「あいおい」と改称した」とある。そもそもは「大きな浦」で「おううら」、「おう」の音に「相生」の字を当て、後には漢字の方が主になって「あいおい」に名前を変える。よくある話だ。ふと疑問が浮かぶ。「宝殿駅前の尉と姥の像」のところで謡曲「高砂」の話を書いた。主人公が「高砂」の浦で出会った老人夫婦は「相生」の松の精だった。「夫婦ともに生きる」ということなのだから、ここは「大」ではなく「相生」でなくてはならない。ということは、謡曲が作られたときにはもう名前が変わっていたはずだ。

「鮎帰(あゆかえり)川」にかかる「陸(くが)橋」を渡る。この川を「鮎」が通るのかと思いきや、どうも違うようだ。

写真 1 鮎帰川にかかる陸(くが)橋

「相生市立図書館」のホームページにこんな話が出ていたのだ。

平清盛の弟・平経盛(たいらのつねもり)は、那波浦(なばのうら)の東口に那波城を築きました。那波山城内には、真澄という年若い侍女がいました。彼女の許嫁は、光明山城にいました。2人は城を抜け出して、鮎帰川のほとりにある長持(ながもち)石で出会いを楽しんでいました。寿永3(1184)年、源頼朝の弟・源義経は、那波城を攻撃しました。やむなく、平経盛は、那波浦の西口に築いていた雨乞山城に籠り必死に抵抗しました。しかし、那波浦の北口に築いていた光明山城が落城したので、平経盛は、城を捨てて佐方(さがた)にのがれようとしました。源義経は、雨乞山城が容易に落城しないので、佐々木高綱・弁慶らと軍議をおこないました。そんな時に、佐方村から来た老婆が、源義経に、この城に通ずる間道(かんどう=ぬけみち)の出入口を教えしました。源義経は、軍兵を間道より攻め入らせました。雨乞山城は落城し、平経盛は自害したといいます。その結果、那波山城の真澄と光明山城の許嫁は、離れ離れとなりました。村人は、2人が出会っていた場所を「逢帰(あいかへり)谷」と呼び、鮎帰(あいかへり)川の語源になったといいます。

 内側に入り込んだ「相生湾」がかつての「那波浦」だが、海はもう少し奥まできていたようだ。「山陽本線」の北の「相生市汐見台」に「那波山城址」があり、そこから 4 キロほど北に行った「光明山」の山頂に「光明山城址」もある。「雨乞城」の場所は不明だが、「佐方」とあるので「山陽自動車道」が通っている山の中だ。1184 年というと「一ノ谷の合戦」の年なので、その前は「平氏」の絶頂期、「播磨」一円は「平氏」の支配下にあった。「平経盛」が「相生」周辺に城を築いたとしてもおかしくはない。

「駅南公園」の角に「西国街道の道標」。「是より右 さいこくみち」と読める。

写真 2 相生駅南第公園の西国街道道標

 西に進んで「山陽本線」の線路を潜る。「青葉台交差点」で「国道 2 号線」を渡り、細い道へ移るが、それはつかの間でまた国道に合流。ここからはしばらく「国道 2 号線」の歩道を歩くことになる。

写真 3 山陽本線の線路を潜る
写真 4 青葉台交差点で国道を横断
写真 5 国道 2 号線の歩道を歩く

「山陽自動車道」の高架を潜った先、「竜泉町」の交差点を越えて右の脇道に入るとそこは「若狭野町上松」の集落。さきほど、中世に「東寺」の荘園があったことを『国史事典』から引用したが、この「矢野荘」は範囲がとても広く、北にある「矢野町」とここ「若狭野」 、さらに「那波浦」「佐方浦」などの港湾をも含んでいたらしい。「若狭野」は「千種川」に流れ込む「矢野川」と「三田川」によって作られた細長い平地、ここをかつては「西国街道」が走り、現在は「国道 2 号線」とさらに「山陽本線」が走る。しかし、「街道」と「国道」はずっと並行しているわけではなく、時には交差し合うからめんどくさい。「若狭野町入野」で国道の向こう側に「明治天皇駐蹕處」の碑があったのだが、向こうに回るのがやっかいなのでパスした。

写真 6 若狭野町の街道の様子

「上松」に入ると街道は国道の向こう側に移る。国道の下のトンネルを抜けて右に進む。国道のすぐ脇を進んだのだが、一本南が街道だったようだ。左手に浄土真宗本願寺派の「圓立寺」があったので中に入ってみた。

写真 7 圓立寺の門
写真 8 圓立寺本堂

 その先、街道はまた国道の北側へ移る。畑に梅が咲いていた。この場所は「若狭野町野々」。名前の通り山裾の野原である。

写真 9 若狭野町野々

 右側に神社の常夜灯と鳥居があった。「若狭野天満神社」とある。地図を見ると、神社はすこし先のようだ。坂道を登らなければならない!ちょっと迷ったが、せっかく来たので行ってみようと坂を上る。

写真 10 若狭野天満神社の鳥居

かなり古めかしい社殿が現れた。「天満神社」と右から左に書かれた扁額が架かっている。

写真 11 若狭野天満神社社殿

 前にあった説明板には「若狭野天満神社は、『あじさい神社』の愛称で親しまれており、菅原道真公(文武両道の神)と天忍穂耳命(天照大神の御子)の二神を祭神としてお祀りする神社である。当神社に咲くあじさいの花が有する魔除け・厄除けの御神霊力により、魔除けの神社『魔除け天神』としても知られている。 創立年月日不詳ではあるが、約六八〇年前(曆応四年一三四一年)には現在の神社の前身が存在していたことが分かっている。また、『往古、山城の国北野天満宮の分霊を勧請して、相殿に天忍地耳命を併祀せり。慶応四年(一八六七年)に本殿を再建し、明治一三一年(一八七九年)郷社に列せられた。古来霊験多く、領主の崇敬篤く、一般庶民の尊信深く、旧幕時代には矢野庄十八カ村産土神として崇敬し来れり。而して往古赤松以下付近領主の崇敬甚だ篤し。(兵庫県神社誌より)』とあるように、少なくとも中世以降、矢野荘一帯の重要な地位を占めていたことは確かである。拝殿前の絵馬堂には、赤穂浪士(四十七上)や神功皇后馬上絵図など、文化財的に重要な古い額絵馬が多数奉納されている。境内にある鳥居は享保十七年(一七三二年)に奉納されたものである。境内や周囲の山林には、青・紫・赤・白色等の色鮮やかな紫陽花が毎年その花を咲かせる。関かな山中の神社に咲く紫陽花の風情に惹かれ、遠方からも参拝者が訪れる。あじさいの季節以外にも、一人静かに自分と向き合い、 心の魔を祓うべく、魔除け参りに訪れる人が多い」と書かれている。

 すると、江戸時代の建物ということになる。お詣りしようと階段を上ると、天井にたくさんの絵馬が飾られていた。かなり古い。これも江戸時代のものか? 写真の上は「神功皇后」だろう。扁額の両側が「赤穂浪士」。横側にもずっと並んでいるので「四十七士」が揃っているのかもしれない。この土地の人々が奉納してきたものだろう。これらの多数の絵馬が、この神社がこの土地にとってと無くてはならない存在であることを物語っている。

写真 12 若狭野天満神社絵馬堂の絵馬群(1)
写真 13 若狭野天満神社絵馬堂の絵馬群(2)

 神社を後に坂道を下ると正面に田圃とその向こうの山々が見えた。山と山の間の細長く連なる田畑、日本の原風景ともいえる「若狭野」である。

写真 14 若狭野天満神社からの下り道

 街道に戻ると周辺の地図があった。この先で「三田川」が「矢野川」と合流し、さらに「千種川」へ流れこむ。その手前の山あいの町が「有年」である。

写真 15 若狭野地区史跡案内図

 街道は再び「国道 2 号線」に合流し、山の方へ向かう。実はこの先が難所なのだ。今は道路は四車線だが、この先でぐっと狭まって二車線となり上り坂となる。ここに歩道がないのだ。右は川、左は山でその間に「山陽本線」の線路がある。歩道を作るスペースがなかったのだろう。やがて「山陽本線」は国道の下を潜るのだがここが最も高いところ。国道は交通量の多い「2 号線」である。大型トラックもどんどんくる。そのすぐ横を歩くのには決死の覚悟がいる。ということで、私は迂回を決めた。

写真 16 再び国道に合流

 この先の右側に「ファミリーマート相生若狭野店」がある。そこで右折して「矢野川」を渡ったのち、川に沿って西に歩き、つぎの橋で国道の方へ戻ろうという作戦だ。離れる前に、前方の国道の様子が見えた。つぎつぎと大型トラックがやってくる。これはとても無理だ。

写真 17 大型トラックが押し寄せてくる

「矢野川」にかかる「西橋」を渡り、川沿いの道を歩く。静かだ。雨の後の里山のしっとりとした風景を見ながら歩くのも楽しい。

写真 18 西橋を渡る
写真 19 矢野川沿いの道

 すぐにつぎの橋が現れた。「中島橋」と書かれている。ここを進むともうひとつ橋が現れる。その手前を左折すれば「山陽本線」の踏切の前に出るはずだ。途中、道路工事をしていて道が変わっていたが、通らせてもらった。

写真 20 中島橋
写真 21 山陽本線の踏切の前に出る

 線路の先は「西国街道」である。このあたり街道が国道から離れている。「有年牟礼」の集落を抜けて、「国道 2 号線」に出た。ここで左手方向を見ると、案の定、歩道がない。一方、進行方向には歩道が伸びている。ヤッタ!

写真 22 国道 2 号線東側、歩道なし
写真 23 国道 2 号線西側、歩道あり

 ほくそ笑みながら、右の歩道を進む。街道は左手の脇道に入るため、この先で国道を横断するのだが、そこにはチャンと「横断歩道」がついていた。

写真 24 脇道に入る

「村境の石柱」と書かれた標柱が立っていた。どこかに「石柱」があるはずと探したがよくわからなかった。

写真 25 村境の石柱の標柱

 進むと広い道路に出た。これが「有年駅」に至る道路で、ここで初日の「歩き旅」を終了。時刻はちょうど 14 時。歩行距離は 9.2 キロ、 2 時間 2 分だった。「相生」行きの電車が 14:12 なので「有年駅」に急ぐ。これを逃すと一時間待たなければならないのだ。

写真 26 有年駅に至る道路に出たところでゴール
写真 27 有年駅
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