西国街道・山陽道歩き旅(8)姫路宿~鵤宿~正條~片島宿~相生(2025.2.15)

 二月の「歩き旅」の最終日は「姫路宿」から西へ進み「相生」まで歩く予定。この間 24 キロ、新幹線で東京まで帰ろうと思えば可能なのだが、ここはゆっくりと「相生」に後泊することにした。この区間、「鵤(いかるが)」「正條(しょうじょう)」「片島」と三つも宿場町があったのだが、どれも小さく「鵤」「正條」は後から加わったとされる。

 7:27 に昨日ゴールした「西国街道」と「大手前通り」の交差点をスタートした。

写真 1 大手前通り

 前回、書いたように歩いているのは「新ルート」で、本陣は一つ北の「旧ルート」にある。昨日「姫路城」の帰りにそちらに寄り、続いて「西二階町」を歩いたので、まずそこから紹介することにしよう。

姫路宿(続き)

図 1 姫路宿(続き)

「旧ルート」と「大手前通り」の交点、その西側に「国府寺家本陣跡」の説明板が立っていた。

写真 2 国府寺家本陣跡

 左に町割りとともに屋敷の位置を示し、説明文は「ここの通りは旧西国街道で、この場所には大名や勅使などが宿泊する本陣がありました。本陣を勤めた国府寺氏は、播磨国造の裔で、富姫の夫となった角野明國もまたその祖先といいます。また国府寺氏は幾度となく黒田官兵衛を、援けて転戦し、羽柴秀吉にも知遇を得て、江戸時代には町家・在所の代表である大年寄となり、藩主が初めて入城する前には必ずその邸に立ち寄るしきたりになっていました。しかし廃藩置県後、国府寺氏は藩主とともに東京に移住しました」と書く。問題はこの文章だ、「播磨国造の裔」「富姫」「角野明國」とはいったいなんだろう? 帰ってから、この疑問に取り組むことになった。詳細は別のところで書くことにして、関係するところだけを書き留めておこう。

 まず、この「国府寺」という名前である。太田亮氏の『姓氏家系大辞典 第三卷』には、つぎのように書かれている。

國府寺(コクフジ) 国分寺というに同じ。播磨の名族にこの氏あり。 飾磨郡国分寺より起こる惣社記録に「国府寺政所様云々」と見ゆ。伝説によるに、光仁天皇御宇、井上内親王・他戸親王と通じて、富姫(巻尼[尾?]姫)を生む。 事露れて、親王隠岐に流されたまい、姫は播磨国飾磨郡大領角野明國の許に養わる。 後・赦されて、姫を明國に賜る。 弘仁六年薨ず。 よりて姫路丘に葬る。『国内神名帳』に「播磨富姫明神」とあるは、これにして、国府寺氏は、この姫の後なりという。中澤利一郎氏いう、国府寺家は刑部造ならん。 夙に播磨国司に任じ、嗣子無きをもって、揖保郡司矢田部乙春を養いて子となす。 乙春の本姓は韓矢田部造にて、針間鴨国造と同祖崇神天皇皇子豊城入彦命の末なり。 三世孫御諸別命針間別稲背入命の子も、また御諸別命と称す。 一説に「国府寺家は景行天皇の裔なり」といえり。 針間、鴨二国の国造は、恐らく同祖にて、景行帝の後裔ならん) の孫現古君、征韓役において、韓蘇使主らを率いて帰る。 よりて本姓を賜う (姓氏録による。 蓋しこの時、姓を韓国造を賜い、のち仁徳帝の時、矢田皇女に仕えて、復姓となれるなり)。本居は鴨国神崎郡矢田部村にして、辛矢田部久家の時、揖保郡高明山に住し、のち揖保郡大領になると。
乙春は刑部氏を嗣ぎしが、平氏隆昌のため、一時廃絶せり。 この乙春は後世の国府寺家の始祖なるも、国府寺と称するは、徳道法師 (扶桑略記などに見ゆ。 揖保郡人辛矢田部米麿か) の裔にて、国府寺に縁故ありしに由れり。源氏の世になるにおよび、刑部氏は佐用庄白旗城主赤松頼則と結び、右近太夫景厚の時、頼則の子別所刑部頼清の女婿となり、国務を執るに至れり。貞和二年(1346年)、赤松貞範・姫路丘に居館を営む国府寺家はその祖神富姫宮、刑部宮 (按ずるに、国内神名帳に「姫道刑部太神」あり、木華開耶姫を祀る。 刑部氏の祖神なり。 この宮は、古来姫路在にあり、よりて城内鎮守神として、崇敬せられ、のち元盬町に遷し、長壁と改め、今日に及べり)を祀る。徳川幕府以後、城主交替あるごとに、その受授に参与せり。 後世、大年寄の筆頭となれり。槇男の時、明治二十一年〔1888年〕、東京神田今川小路二丁目に転居し、姫路の地は、千数百年継ぎたる最旧家を失うに至れり。こは二十九世次郎左衛門正就に子無きをもって、神吉頼治を嗣とす。 赤松則村十一世の裔なるが故なりと。

太田亮『姓氏家系大辞典 第三卷』(太字・[注]は筆者)

 なんという調査能力だろう! よくもここまで調べあげたものだと思う。説明板の内容はほとんど網羅されている。「国府寺家」は天皇家に繋がる「名家」であった。藩主が替わるたびに、挨拶にいくのも当然である。太字は私がポイントと思う事項、それに沿って説明を加えてみた。

  • 「国府寺」の読み:「コクフジ」としているが、後で述べるように同じ漢字の地名がお城の東にあり「コウデラ」と読む。「姫路」では「コウデラ」が一般的のようだ。
  • 名前の由来:「飾磨郡国分寺より起こる」とある。この辺りは昔「飾磨(しかま)郡」に属していた。その「国分寺」はというと前回歩いた「市川」の向こうの「御国野町」にある。この町は三つの村が明治に一緒になったもので、「国」が「国分寺村」である。だが、この「国府寺=国分寺」説とは異なる説もある。これについては後ほど書こう。
  • 惣社記録:「惣社」とは「播磨国総社」の「射楯兵主(いたてひょうず)神社」であろう。「播磨国」のあらゆる神がここに集まっている。
  • 富姫:『姓氏家系大辞典』によると「光仁天皇」(在位 777 ~ 781)の后である「井上内親王」の不義の子であり、「播磨国飾磨郡大領」の「角野明國」のもとで養われていたが許されてその妻となり、亡くなった後は現在「姫路城」が立っている「姫山」に葬られたようだ。「光仁天皇」は「天智天皇」の孫、「井上内親王」は「聖武天皇」の皇女である。
  • 角野明国:役職である「大領」は「郡司」の最高位。「刑部造」は「おさかべのみやつこ」と読み、「刑部」は「允恭天皇」の皇后「忍坂大中姫」の為に設けた「名代(なしろ)」(この宮を経営するための費用を貢進する部民)を指し、「造」はその統率者となる。「名代」は五世紀に設置され、七世紀まで続いた。この「刑部」は畿内の山城・河内・摂津はもとより、東山・東海・山陰・山陽の各道、さらに越前・讃岐・豊前・肥後などに広く認められているらしい。明確な記録はないが、おそらく「播磨」にもあったのだろう。
  • 富姫関連の神社:「富姫」を育てた「角野家」が「刑部造」だったため、「富姫」は「おさかべ姫」とも呼ばれる。鎌倉時代初期に編纂された『播磨国内鎮 守大小明神記』には「姫路刑部大神」と「播磨富姫明神」が見え、古代より「姫山」に祀られ、地主神とされてきたが、現在は「刑部神社」として「射楯兵主神社」の中にあるとのこと。「富姫」に関してはいろいろな伝承があるようで、「兵庫県歴史博物館」の「姫山の地主神」に詳しく説明されている。また、「泉鏡花」の戯曲「天守物語」ではこの「富姫」が主人公だ。
  • 播磨国造の裔:「国府寺本陣跡」の説明板には「国府寺氏は、播磨国造の裔」とあるのだが、『姓氏家系大辞典』では養子として迎えた「矢田部乙春」が「針間鴨国造」と同じ「豊城入彦命」(「崇神天皇」の皇子)の後裔とするのみで、「針間国造」との関係は記載されていない。この問題、深掘りしていくと簡単には終わらないことが判明。これについては別のところに書くことにしよう。
  • 前述の「国府寺」という場所は、前回、訪れた「外京口門」の辺りである。『日本歴史地名体系』の「国府寺村」「国府寺町」「播磨国府」の項をまとめると、姫路城東の外曲輪の東、東市郷村の西に位置するところに「国府寺村」があり、この辺り一帯は平安時代に「志深(しじみ)庄」とよばれていたらしい。『播州古所伝聞志(智恵袋)』(1574)にはここに「薬師寺」があり、「国府寺」と呼ばれていたことが記載されている。「国府寺」はやがて村名となった。その中の「国府寺町」が「国府寺家」の所領であったという。同家は中世には「播磨国司」となり、「志深」に政所を置いて国務を執り、さらに志深五ヵ村を領していた。邸宅は城地付近にあったが、慶長一四年に「本町」に土地を与えられたという。
  • その「播磨国府」の場所については三つの説がある。『日本歴史地名体系』では、国府ないし留守所の所在地として、(一)国府寺村のうちであった現在の姫路市城東町字高田説、(二)市川以東説、(三)姫路城付近説をあげている。(一)は前述の「国府寺村」。根拠として、「この付近には姫路城のある姫山の北から通じる中古以来の街道があり、白山神社前の空堀は国府の頃の環濠跡ではないかといわれている」ことをあげる。(二)については、「播磨国分寺付近の鴻塚(こうづか)辺りにあったが、のち国府寺村付近に移ったとする説と、現在の姫路市四郷町本郷付近にあったが、のち志深に移ったという説」をあげ、「古い山陽道が通り、近くに播磨国分寺・播磨国分尼寺・印鐸(いんたく)神社などがあったこと」を根拠とする。(三)は「姫路城東の中曲輪付近とする説で、根拠は条里の左条・右条の境界にあたることや府中その他の地名の存在、さらに寺社や城郭との関係による。なお発掘調査の結果によると、国府の所在地は姫路城天守の南東付近一帯の本町遺跡が有力視されている」と説明している。

 長くなった。先に進もう。「旧ルート」を西に少し進むと「札の辻」の説明板があった。このあたりに高札場があったようだ。

写真 3 札の辻

 その先に「お夏の生家」。「井原西鶴の描いた『お夏清十郎物語』。 この物語の主人公お夏は、この向かいのはなや酒店のある場所にあった問屋馬屋で生まれました。万治二年(一六五九)、将軍徳川家綱の頃。姫路本町に店を構える姫路本町に店を構える馬屋で雇われていた男が、主人を殺害し逃げ出すという事件が起こりました。男の名は清十郎。内密の裏には主家お夏との恋があったといいます。お城の内にある寺にはお夏と清十郎を祀った『比翼塚』があります。二人は駆け落ちしたといいます」と説明がある。西鶴はこの話を脚色したらしい。

写真 4 お夏の生家跡

 ここから新ルートに戻る。「西二階町」の商店街だ。前回書いたように「姫路宿」には脇本陣が二つあった。これらは新ルートに位置している。「西二階町」の「那波脇本陣」は写真 4 の左手先にある結納の「那波」だろう。その前に「椀箱屋三木氏脇本陣」の説明板があるのだが、脇本陣の位置はその先の角を右(北)に曲がったあたりのようだ。

写真 5 西二階町の通り(西をむいて撮影)

 こちらは銘菓「玉椿」で有名な「伊勢屋本店」。元禄年間に創業し、姫路藩の酒井家御用菓子司だった老舗である。さらに「西二階町」には「七福座」という寄席もある。

写真 6 伊勢屋本店
写真 7 七福座

 さて、2 月 15 日の記録である。前の日に主なものを見てしまったので、さっと「福中町」まで進み、南に折れて「船場川」を渡り「備前門橋跡」の前に出た。「備前門」は「姫路城」の西側の門である。ここを出て「西国街道」で「備前」に向かうところからつけられた名前だ。現在、橋はないが、橋の礎石・延石のレプリカがあった。右手前にあるのが礎石で 15 センチメートル四方の穴には、木橋の高欄(欄干)の親柱が立っていたらしい。奥にある四つの石が延石で、木橋の橋台を構成する部材で橋桁を留める役目があり、この上まで橋面敷板が伸びていたらしい。ここで時刻は 7:39、「姫路宿」を出た。

写真 8 備前門跡の説明板
写真 9 備前門橋のレプリカ

姫路宿~鵤宿

図 2 姫路宿~鵤宿行程

 街道は北へと向かう。本当は「県道 62 号」の一本西の通りだが、今回は「船場川」に沿って北上した。「西国橋」を過ぎ、「白鷺橋(はくろばし)」を右に見て「国道 2 号線」を渡る。西に進み、すぐ右折。これで「西国街道」に戻った。

写真 10 西国橋
写真 11 白鷺橋(はくろばし)

 前回、南に折れた位置まで進み左折して「龍野町」に入る。地図を見ればちょうどお城を迂回して街道がつけられていることがわかる。すぐ左に立派な家がある。これが「初井家」、江戸末期の町家形式が残る住宅だが、歌人「初井しづ枝」の居宅だそうだ。夫の「佐一」の生家の「初井家」は「姫路」を代表する大地主で素封家(大金持ち)であったとのこと。

写真 12 初井家住宅

 少し進んで右手に真宗大谷派の「光専寺」。

写真 13 光専寺

 さらに西に進むと山にぶつかり、街道は左に曲がる。この山が「薬師山」で、前回示した『播磨国風土記』飾磨郡の段にある「十四丘」についての説話、「火明命」に追われて逃げる「大汝命」が琴を落としたところとされる「琴丘」に比定されている。進んでいくと「薬師山トンネル」の出入口の横に出るが、横断できないので国道まで進んで右折する。

「車崎」から「水尾川」を渡って「今宿」に入る。左側に「西国街道」の標柱があった。

写真 14 今宿の西国街道標柱

右手に「髙岳(たかおか)神社」の標柱があったが、神社はここよりだいぶ北のようだ。

写真 15 高岳神社の標柱

 ここで「国道 2 号線」に合流。「姫新線」の線路を越える。

写真 16 姫新線を越える

 国道から右の脇道に入ると、左に古い建物があった。「紺屋北爪悟米穀店」というお米屋さんらしい。

写真 17 紺屋北爪悟米穀店

「下手野」の道標や一里塚の説明板があったようだが、気づかず「夢前(ゆめさき)川」の前に出た。国道まで出て橋を渡るのだが、南側にトイレがあったのでちょっと休憩。8:52 に「夢前大橋」を渡る。結構、大きな川だ。

写真 18 夢前川

 北に移動して旧街道の位置まで戻ると、県道との交点(青山地区)に道標があった。「左 備前 九州 金毘羅 宮嶋往来」と読める。道標に従い左に入る。

写真 19 青山道標

 街道の左に浄土真宗大谷派の「教専寺」。右側に「播磨仙人了空翁生誕地」と書かれた石柱が立っているのだが、詳細はよくわからない。このあたりにも古い建物が残っている。

写真 20 教専寺と播磨仙人了空翁生誕地の石柱
写真 21 青山地区の街道

 右に「稲岡射目崎神社」と書かれた石の鳥居があったので入ってみる。立派な神社である。社殿の向拝には鳳凰、虹梁の中央は龍、木鼻も龍、屋根にも龍らしき彫刻がなされている。

写真 22 稲岡射目崎神社の鳥居
写真23 稲岡射目崎神社社殿
写真 24 稲岡射目崎神社社殿の彫刻

 兵庫県神社庁のホームページにはつぎのように書かれている。

「当社のご祭神は豊受姫大神と射目崎大神の二柱で稲岡射目崎神社ともいった。旧郷社である。豊受姫大神は元伊勢といわれる丹波の国比沼真名井より景行天皇の御代に『播磨風土記』に見える稲牟礼丘(稲岡山)に迎え祀った。国内鎮守大小明神社記には稲岳太神と記される。射目崎大神は、神功皇后の伝説で、3 本の試矢の内の 1 本が着地したといわれる矢落の森に鎮座されたが、応永の頃に稲岡神社に合祀する。六国史の三代実録にその神名が記載される国史現在社である。また播磨国内神名帳に小社として記される。古来武将領主の尊崇深く江戸時代二社一体併立の信仰を受ける。」

 二つの名前が並んでいるのは合祀のためらしい。『播磨風土記』に見える「稲牟礼丘」は、これも「十四丘」の説話で「稲を落としたところ」とされる場所だ。現在「青山公園」があるあたりだろう。その麓にこの神社がある。一方の「射目崎大神」が鎮座したとされる「矢落の森」は姫新線の「余部駅」のあたり。そこに「神功皇后 市川の東 麻生山よりの試みの 一矢この地におつ 故に失落の森といふ應神天皇この所に射目を立て狩をし給い郷民に社を祀り崇めしが洪水のため流れて稲岡山に止る青山の宮に今祀せり 夢前の名の起こりである」と書かれた碑が立っているらしい。この話の元は何なのか調べるのだが、よくわからない。この碑にある「應神天皇この所に射目を立て狩をし給い」という話は『播磨国風土記』にあるのだが、下記のように「市川」の東の話で場所が違う。

  • 飾磨郡「小川の里」の条に「射目前」とあるが、この場所は「市川」の東の「姫路市花田町」に比定されている。この「花田町」は「御着」と「市川」の間で「西国街道」の北に位置する。
  • つぎの「高瀬」の条に「夢前丘」が出てくるが、ここも「花田町高木」に比定。
  • その先の「英馬野(あがまの)」の条に「射目(弓を射るために様子を窺い狙いを定める所)を立てし処は、射目前と号け」と書かれている。場所は不明だが、文脈から考えると「花田町」ではないか。

『大日本地名辞書』を引くと、「青山」の条に「青山に夢前岡あり、其東畔を流るる河水に青山川夢前川の名あり、射目崎明神鎮座す、是は三代実録、貞観十年、射目崎授位とある官社か、然れども市川の東小川里にも射目崎ありし事、風土記に見え、名所拾録には青山の夢前なる社を稲岡神と曰へり、神社記に稲岳太神とあるもの是也、且神社記に射目崎明神を餝東とせば、此なる社は官社にあらず」とあって、神社庁の「六国史の三代実録にその神名が記載される国史現在社である」という見解を否定している。事実、姫路市飾東町塩崎に「射目崎」という地名が残っている。この場所は「花田町」の東隣の「天川」沿いで、ここに郷社の「春日野社」があり、その南地域が「塩崎字射目崎」である。

「神功皇后」が「三本の矢」を射たとされる「麻生山」には「麻生八幡社」があり、また、「姫路市西脇」には矢の一つが当たって岩が砕けたとする「破磐(はばん)神社」がある。どちらの神社の由緒にも「神功皇后伝承」が書かれている。参考に「兵庫神社庁」のホームページに記載されている文を載せておこう。それにしても「播磨」には「神功皇后」の伝承が多いのに驚く。

  • 麻生八幡社:当社は麻生山(別名播磨-小富士)南麓、奥山集落の奥に鎮座する神社で、創建時期は不詳であるが、近郷では八幡古社として知られ、八幡三神(仲哀天皇、神功皇后、応神天皇)が祀られている。麻生山は、古来修験道の山として知られ、山頂には聖武天皇勅願と伝えられる華厳寺がある。当社は明治の神仏分離令が出るまでは、この華厳寺別当の明星院が奉斎していた。麻生山については、神功皇后関係の伝説が多数残っていて、皇后が朝鮮出兵の際、この山に立ち寄られ、戦勝を祈願して弓で地を叩くと、たちまち麻が生えたので、これで弦を作ったという類の話が当社に伝わる縁起や古記録に出ている。中世以降は京都の石清水八幡宮の社領であった継荘(つぎのしょう)の鎮守となり、近世には姫路藩から社領を安堵された。
  • 破磐神社:創建は約 1800 年前と伝えられる。神功皇后が三韓より凱旋の時、忍熊主の難があったため、御船を妻鹿の湊に寄せられ、三野の荘、麻生山で朝敵退治を天神地神に祈られた。その折、皇后は天に向かって三本の矢を放たれる。第一の矢、第二の矢は共にあだ矢となつて落ちてしまったが、第三の矢は、太市郷西脇山中の大磐石を貰ぬいて三つに破った。皇后は、これは吉兆であると大層お喜びになられ、この地に矢の根を祀られ、後に仲哀天皇、応神天皇の御二柱を合せ祀り、破磐三神として崇め奉るようになった。この破れた大磐石は、当社より西南約 1.7 キロ離れた山中に現存し、この地は今も宮が谷と呼ばれている。この地は非常に狭隘で祭事に煩いがあるというところから、中世現在地に遷座される。

「国道 2 号線」と合流。右手に「青山古戦場跡」の標識があった。永禄十二年(1569)に龍野城主の「赤松政秀」が姫路に攻め込んできた時、迎え撃ったのが「黒田官兵衛」。これが彼の初陣らしい。ここは寄り道しないで先に進む。

写真 25 青山古戦場跡の案内標識

 国道から一本南の道に移って左折すると上り坂が現れた。

写真 26 青山団地の上り坂

 この先で道が分かれていて、左に進んでしまった。これは間違いで、街道は右だ。

写真 27 西国街道は右

 右側に「真言宗順海寺」の標柱。お寺は右の階段を上った先だろう。

写真 28 順海寺の標柱

 いい感じの山道になる。右側に「太子町」の標識があった。すぐ先が峠のようだ。左に「山陽道山田峠」の標柱。

写真 29 いい感じの山道
写真 30 山陽道山田峠の道標

 この先、「山田村」の集落に入っていく。右側に「明治天皇山田御小休所」の石柱。「明治十八年 山陽道御巡幸の際八月八日御小休所となりたる處にしてよく舊規模を存せり」と説明がある。「舊」は「旧」の昔の漢字だ。

写真 31 明治天皇山田御小休所

「国道 2 号線竜野バイパス」を潜り、「国道 179 号」に入る。少し進んで分岐を右に。左側の竹藪に「桜井乃清水」。「赤松義村」が定めた、播磨国内の清水(湧き水)で「播磨十水」のひとつだそうだ。

写真 32 桜井乃清水

 この先の右手に「黒岡神社」の鳥居があった。神社はかなり先の山際のようだ。この場所が「クロオカ」だが、「播磨広域連携協議会」の「はりま紀行」を見ると、「播磨国風土記に出てくる『コトアゲ』が訛って『クロオカ』になったと考えられています」とある。この話を『播磨国風土記』でみると、「言挙阜ことあげのおかと称ふ所以は、大帯日売命の時、軍行く日、此のおかに御しまして、軍中に教令して曰ひたまひしく、『此の御軍は、慇懃ゆめ事挙ことあげな為そ』といひたまひき。故、号つけて言挙前ことあげのさきと曰ひき」とある。「コトアゲ」とは「言葉にして意思表示すること」という注が『角川ソフィア文庫版風土記』にある。「コトアゲ」→「クロオカ」、ちょっとこの音の変化は考えにくい。鳥居の右側の常夜灯には「八幡宮」と書かれているように見える。「黒岡神社」の手前右に、「神功皇后・仲哀天皇」を祭神とする「八幡神社」があるようだ。

写真 33 黒岡神社の鳥居
写真 34 黒岡神社鳥居横の常夜灯

 その先、右側に「太田の地蔵尊」。

写真 35 太子町太田の地蔵尊

「太田」ハテ? ー記憶をたどる。そうだ、「西国街道・山陽道歩き旅(2)」の「茨木市太田」だ!「継体天皇陵」とされる「太田茶臼山古墳」、その側にある「太田神社」、そして「安威川」の手前の「太田不動尊」と「太田一里塚」。私はこう書いている。「『太田』という地名は中国の『呉』の『勝(すぐり)』一族が住む土地の名前だという」と。「ここもそうではないか?」と『播磨国風土記』を見る。「揖保郡」の段に「大田の里」があった。それも先ほど上げた「言挙阜ことあげのおか」の一つ前だった。(この位置関係なら「コトアゲ→クロサキ」が出てきても不思議はない。)その注には「太子町大田・上大田のあたり」とあり、まさしくこの場所のことである。本文にはこう書いてある。「大田という所以は、昔、呉勝くれのすぐり韓国からくによりわたり来て、始め、紀伊国名草の郡大田に村に到りき。其の後、分れ来て、摂津国三嶋賀美の郡大田の村へ移り到りき。其れ又、揖保の郡大田の村へ遷り来たりき。是に、本の紀伊国大田を以て名と為しき」。まさにその通りだった! なお、この「呉」というのは氏族名であって中国の「呉国」ではない。「韓国」とあるから「朝鮮半島」の出身だろう。もともと「茨木市太田」のところで私が「呉勝」と書いたのは谷川健一氏の『青銅の神の足跡』を読んでいたからだ。どこだったか?と本を読み返してみると「第三章 海人族の系譜」にあった。なんと『播磨国風土記』の説話も書いていあるではないか! どうも「呉勝」の話の本家本元が『播磨国風土記』のようだ。谷川氏の本から少し引用してみよう。ココ重要なのだ!

さきの阿曇連百足や枚方の漢人が技術集団であったと思われるように、この呉の勝の一党もまたそうであったかも分からない。彼らはつねに大田という地名を残しているので是沢恭三氏はこれを大田族と呼び、「大田族の活動」(『神道宗教』所収)の中でこの集団を追求している。是沢氏は、全国の大田という地名に検討を加えたあげく、第一に渡来人に関係の深いものがあること、第二に国内の主要道路に位置すること、第三に背景に鉱山を控えているものがはなはだ多いことを力説している。

 では、この三つの条件がこの地にどうあてはまるか見てみよう。まず、第二の「主要道路に位置すること」については、ここが「西国街道」沿いなのでまさに該当している。それでは(一)と(三)はどうか? ここに書かれている「阿曇連百足」や「枚方の漢人」も『播磨国風土記』に登場し、「大田族の活動条件」と関係するのだが。これについては、先に歩き進むにつれて次第に明らかになる。

 では、少し先に進んで「大津茂川」を渡る。時刻は 10:31。

写真 36 大津茂川を渡る

鵤(いかるが)宿

 この先が「鵤宿」なのだが、宿場がどこなのかはっきりしない。「姫路市文化国際交流財団」発行の『Ban Cal 2023 年春号 No127【特集】西国街道を歩く 姫路から船坂峠へ』に太子町立歴史資料館館長の田村三千夫さんが書いた「西国街道 鵤宿の盛衰」という記事があった。ここに「鵤宿」の詳細が載っている。

江戸時代、鵤宿は、斑鳩寺の南約四〇〇メートルにある西国街道(近世山陽道)やそこから龍野へ行く街道沿いに商家や旅籠などが軒を連ね、十七世紀後半に貝原益軒が「町にきれいなる家多し。富商の多く住する処なり。」(『東路記』)享和二年(一八〇二)に名古屋の商人・菱屋平七が「人家十文字に町をなして五、六百軒あり」(『筑紫紀行』)と書き記したように、宿場町として大いに栄えました。それ以前、中世の鵤宿は、今より北に約一・三キロメートル、今のたつの市誉田町福田の集落の西にありました。当時の山陽道・筑紫大道が林田川を渡る地点で、対岸の弘山庄の宿と合わせて六斎市を開く、西播磨有数の町場でした。しかし、街道が南に移動したことなどから、戦国時代末期頃、中世の鵤・弘山宿は解体され、ここにいた有徳人等が龍野城下と斑鳩寺門前に移って、それぞれ城下町と宿場町を形成したと考えられています。寛永十二年(一六三五)、武家諸法度が改訂され、参勤交代制度が確立します。それにあわせて鵤は宿場に追加指定され、斑鳩寺近く、龍野への街道沿い(現鵤新町公会堂付近)にあった五百井家が本陣を勤めました。しかし、鵤宿は、宿泊施設としての本陣は置かれましたが、人や荷物の運送をする人足や馬を手配する問屋場がなく、東の姫路と西の片町宿・正条宿から呼ばなければなりませんでした。さらに西隣の正条宿は下り(西行き)専用、片島宿は(東行き)専用、二カ所で一つの宿場の役割をする相合宿、そして正条宿からは南に室津街道が分岐して、途中、馬場宿を経て海路の要衝・室津につながる複雑な様相を呈していました。その中で鵤宿は、陸路・海路の西国大名たちが利用し、大いに繁盛しました。

 中世の「山陽道」は今歩いている近世の「西国街道・山陽道」より北を走っていたが、南に参勤交代用の街道が作られるとこれが主となり、宿場町は廃れた。そして、町の中心は「斑鳩寺」の辺りに移るが、それは「龍野」へ行く街道沿いだったようだ。「龍野」とは「龍野城」のある姫新線の「本竜野」のあたりで「揖保川」沿いである。ただし、「鵤」には本陣などの宿泊施設があっただけで、本来の宿駅業務である伝馬機能は持たなかった。位置的には西は「姫路宿」まで三里、東は「西條宿」まで一里の距離である。

『大日本地名辞書』で「鵤」を引くと、「今斑鳩村に作る、平野の間に位置し、小駅市を成す、聖徳太子の起せる法隆寺別院あり、斑鳩寺と云ふ、村名之に因る」とある。『日本歴史地名体系』では「現太子町の大部分と現龍野市の南東部の一部に比定される。大和法隆寺領。『法隆寺別当次第』の親誉の項に、法隆寺の寺主慶好を実検使として鵤庄に派遣したとあるので、親誉が別当になった長暦三年(一〇三九)以前に当庄は成立していた。天平一九年(七四七)二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(法隆寺蔵)にみえる推古天皇六年に法隆寺に施入された播磨国佐西させ地五〇万代(うち成町二一九町一段八二歩)が当庄の前身と思われる」と書いているように、ここはもともとは奈良の「法隆寺」の荘園であり、荘園消滅後も「斑鳩寺」の門前町として栄えたようだ。

 しかし、これらの情報は後から得たもので、私は近世の「西国街道・山陽道」を歩き続け、残念なことにこの「斑鳩寺」やその側にある「本陣跡」には立ち寄っていない。前述の『Ban Cal』によれば、本陣は「五百井家」で東西約 45 m、南北約 25 m の規模を誇り、幕末の安政年間まであったらしい。

 街道は「国道 179 号線」と合流し、しばらく進んだあと、北に曲がる国道から離れて直進する道となる。「太子町鵤」あたりは車もあまり通らず、いかにも街道らしい雰囲気だ。

写真 37 太子町鵤付近の街道の様子

 この先の四つ角の手前の左の角に標柱が立っていた。左に行けば「太子公園」、そのまま進めば「北向き地蔵」とある。

写真 38 太子町鵤の標柱

 進むと、右手に常夜灯があった。「聖徳皇太子」と書かれている。これが「斑鳩寺」の常夜灯で、この先を進むとお寺の前に出るのだろう。

写真 39 斑鳩寺の常夜灯

 反対側にあったのが「大師堂」(左)と「北向地蔵」(右)で、その裏にあるのが「太子公園」のある「太子山」となる。

写真 40 大師堂と北向き地蔵尊

「北向き地蔵」は大きなお地蔵様の足元に、小さなお地蔵様が四つ並んでいる。江戸時代の中期のものらしい。

写真 41 北向き地蔵尊

 さらに進むと右手に近代的な建物が現れた。「太子町地域交流館」でこの裏が「太子町役場」となっている。

写真 42 太子町地域交流館

 この先、特に見るものがない。どうなっているのだろうと思っていると、右手に「阿宗神社」の道標があった。「式内」とある。地図を見るとかなり北の方で「揖保川」の支流の「林田川」を越えたところだ。

写真 43 阿宗神社の道標

「西国街道」は基本的に参勤交代用の街道であり、町の中心からは離れているのだ。だから、何もないのは当たり前。「斑鳩寺」から「龍野」(本竜野)へ向かう街道の方がメインルートのようで、本陣や「阿宗神社」もこのライン上にある。

 この「阿宗神社」の道標のある場所の地名は「阿曽」である。「阿宗神社」のホームページには「欽明天皇の時代、大伴狭手彦が宇佐八幡宮の分霊を立岡の岡ノ峯に祀ったのが始まりです」とある。この「立岡山」は先ほどの「太子町地域交流館」の南にある。写真を撮っていないので Google Map から拝借したのが下の写真だ。

写真 44 立岡山(出典 Google Maps ストリートビュー)

「西国街道」の北が「阿曽」、街道の南で「立岡山」の西側が「下阿曽」。「阿曽」はかなり広い地域である。後で調べるとこの「阿宗神社」の主祭神は「神功皇后」、配神が「応神天皇」「玉依姫命」「息長日子王」の三柱で、この「息長日子王」が「阿宗親王」となっているから、この「阿曽」の地の支配者だろう。

『播磨国風土記』の揖保郡の段に「麻打の里」という条がある。

  • 麻打の里。昔、但馬の国の人、伊頭志君麻良比、此の山に家居しき。二の女、夜麻を打ちしに、麻を己が胸に置きて死にき。故、麻打山と号けき。今に、此の辺に居る者、夜に至れば麻を打たず。

 前掲の谷川健一氏の『青銅の神の足跡』にもこの話が出てくる。

夜、麻を打った女二人が、麻を自分の胸に置いたまま死んでいったというのはなんとも不気味な話だ。炉の炎だけが家族の姿をおぼろげに、萱や土の壁に描き出す播州平野の暗い夜の片隅にこの挿話はめばえる。夜、麻を打つというのは、折から月夜ででもあったのだろうか。しかし、農作業がどうしてとつぜんの死につながるのか、そこには何の説明もない。ただ推察されるのは、麻を打ったことが神の怒りに触れたのではないかということだ。その神とはその麻打山に住んでいた伊頭志君麻良比神であろう。彼にとって麻はなぜ禁忌とされるか。

 この疑問に対して、谷川氏は「たたら製鉄」で「麻」が禁忌されると書く。

また『鉄山必要記事』の中には金屋子神が麻苧の乱れに足をとられて転んで死んだので、タタラ師は麻苧を禁忌するという伝承が記されている。吉野裕氏は麻(アサ・サ)は砂鉄の意味であるとしている。サまたはソが古代朝鮮語で鉄を指すことからしても吉野説には賛成できる。(中略)麻のするどい葉先が神の目を傷つけたという伝承があり、それが目一つの神の由来を物語る説話となっていたことから、鉱山やたたら炉の付近で麻を打つのは禁忌とされていた。それは麻でなく、竹でも栗のイガでも胡麻の葉でもよいのだが、とくに麻がここで問題にされたということは、麻が鉄を意味していたためであると思われる。

 このように「麻」と「鉄」の深い関係について記した後、

ところで、この麻打山は斑鳩村の大字阿曽(現在兵庫県揖保郡太子町)であると井上通泰の『播磨国風土記新考』(以下『新考』と略す)は述べている。また『新考』は、『古事記』開化天皇の段に、息長日子王は針間の阿宗君の祖とあるを引いて、この息長日子王は、神功皇后の同母弟であり、その母は葛城之高額比売といって、伊頭志君麻良比と同族であることを指摘している。揖保郡には阿宗神社がある。こうしたことから麻打山のアサと阿曽また阿宗のアサが関連を持っていることが分かる。

 と「阿曽」「阿宗神社」の関係を示し、ここが「神功皇后」の奉拝する「息長氏」が住む地であり、その「神功皇后」が「伊頭志君麻良比」と同族関係があることを紹介する。そして、この「伊頭志」が「天日槍(アメノヒボコ)」の本拠地である但馬の「出石(いずし)」にほからないと明かすのである。「アメノヒボコ」は『古事記』『日本書紀』に見える「新羅」の王子で日本に渡来したとされる。『日本書紀』の「垂仁紀」では「一に云はく」とし、最初は「播磨国」に入り、「宍粟邑」に居たところ、天皇から「播磨国の宍粟邑と、淡路島の出淺邑と、この二つの邑は、汝任意に居れ」と言われるが、「諸国をめぐり視て、即ち臣が心に合へるところを給はらむとおもふ」と断り、近江・若狭を巡って「但馬国」に入り、ここで妻を娶って定住する話を書いている。『播磨国風土記』における「アメノヒボコ」の出現回数を調べてみると、下記のように「宍粟郡」に集中しており、『日本書紀』の記述を裏付けている。

アメノヒボコ:賀古郡 0、印南郡 0、飾磨郡 0、揖保郡 1、讃容郡 0、宍粟郡 6、神前郡 2、託賀郡 0、賀毛郡 0、美嚢郡 0

 なお「揖保郡」で書かれている一件は「粒丘(いぼおか)」の説話で「アメノヒボコ」が韓国から渡ってきて、「宇頭川」の下流に到ったとするものである。

 このようにして、「阿曽」の地と「息長氏」・但馬の「出石氏」・「アメノヒボコ」との関係が明らかとなった。「アメノヒボコ」の説話は「金属精錬の技術者が日本に渡来したという事実を説話風に物語っているにすぎない」と谷川健一氏は言う。また「伊頭志君麻良比」は「但馬の出石に麻良比という鍛冶技術者がいて、物部氏の配下に組み入れられていたと考えてよかろう」とする。そして「息長氏」も「オキナガ」が「ふいごから送られる風」からつけられた「鍛冶族」であると考える説が有力である。これで「太田」のところで述べた「呉の勝」が住む条件の第一の「渡来人に関係の深いものがあること」に合致し、また第三の「背景に鉱山を控えている」を「鍛冶に関係深い」と読めば、これにも合致しているのである。

 加えて『播磨国風土記』の「麻打の里」に続くつぎの四つの条はさらに上記を補強する。

  1. 意比川[たつの市を流れる林田川] 品太ほむた天皇の世、出雲の御蔭大神みかげおほかみ、枚方の里神尾山かむおやまに坐して、毎に行く人をへ、半ば死に半ば生く。その時、伯耆の人小保弖こほて、因幡の布久漏ふくろ、出雲の都の都伎也つきやの三人、相憂へて、朝庭に申しき。是に、額田部連久等々くととを遣りて、ましたまひき、時に、屋形を屋形田やかただに作り、酒屋を佐々山に作りて祭りき。宴遊うたげして甚くえらぎ、櫟山いちひやまの柏を帯に掛け子氏にさしはさみて、此の川を下りて相厭おそひひき。故、おひ川と号けき。
  2. 枚方の里[太子町の佐用岡のあたり] 枚方と名づけし所以は、河内の国茨田まむたの郡枚方の里の漢人、来到りて、始めて此の村に居りき。故、枚方の里と曰ひき。
  3. 佐比さひ岡[太子町の佐用岡のあたり] 佐比と名づけし所以は、出雲の大神、神尾山に在しき。此の神、出雲の国人、此処を経過れば、十人の中に五人を留め、五人の中三人を留めたまひき。故、出雲の国人等、佐比[鋤の類]を作りて此の岡に祭りしに、遂にあまなひ受けたまはざりき。然る所以は、比古神ひこがみ先に来まして、比売神ひめがみ後に来ましき。此の男神鎮まること能はずして、行き去りたまひぬ。所以に、女神怨み怒りますなり。然して後に、河内の国茨田の郡枚方の里の漢人、来至りて此の山の辺に居りて、敬ひ祭りき。僅かに和を鎮むることを得たり。此の神在すによりて、名づけて神尾山と曰ひき。又、佐比を作りて祭りし処を、佐比岡と号けき。
  4. 佐岡[佐用岡の西北の佐岡山] 佐岡と名づけし所以は、難波津宮天皇[仁徳天皇]の世、筑紫の田部たべを召して、此の地を墾らしめたまひし時、常に五月を以て此の岡に集い聚り、飲酒み宴しき。故、佐岡と曰ひき。

 この四つは関係しており、もともと一つの話だったと思われるが、『播磨国風土記』が「地名起源譚」の体裁をとっているため、分解されたと思われる。まとめると、「出雲の神」が「神尾山」にあり、通行を妨げて、何人もの人が亡くなった。1 には伯耆・因幡・出雲の人が訴えたとあるが、このあたりにこれらの地域と結ぶ「道」があったことを示唆する。3 では「出雲」の人が「佐比」(鋤の類)を作って岡の上で祭るがうまくいかない。この後に、「枚方の里の漢人」がやってきて祭るとその神の怒りを鎮めることができたという話である。おそらくこの話を広めたのはその「漢人」の末裔で、「出雲人がうまくやれないのに、わしらはうまくいった」という自慢話なのであろう。さらに言えば、「出雲人の鋤より、漢人の鋤がよく切れた」ということであり、より高度な技術を誇る自慢話が隠されているようだ。では、1 にある「額田部連久等々」を「枚方の里の漢人」は同一なのか?また「息長氏」との関係はどうなのか? という疑問が残る。これについては、また別のところで考察してみたい。

「阿宗神社」の道標から1 キロほど南に「石海小学校」があるが、このあたりが『風土記』の「石海の里」だろうと思われる。ここに前述の「阿曇連百足」が登場する。「近江」でもでてきた「海人族」の「阿曇氏」がここに居た。そして、彼らもまた「鍛冶技術」を持っていた。「西播磨」には多くの製鉄遺跡が残る。それらは播磨北西部の「佐用郡佐用町」と「宍粟郡」に集中するらしい。その「宍粟郡」に「安積」という地名が残る。現在の「宍粟市一宮町安積・西安積」である。ここに操業年代が古代の範疇に入る「安積野遺跡」という製鉄遺跡がある。「阿曇氏」との関係がうかがえる。また、先の「佐比岡」は現在「佐用岡」と呼ばれる。「因幡」に向かう途中の製鉄遺跡が集中する「佐用」とも関係がありそうだ。

 ずいぶん時間をとってしまったが、「街道歩き」に戻ろう。「阿宗神社の道標」から先に進むと「茶屋垣内地蔵尊」があったので、ここで休憩。時刻は 11:57、そろそろお昼ご飯なのだが、まわりを見回してもなにもない。「竜野駅」のあたりまで行けばなにかあるだろうと「歩き旅」を再開。

写真 45 茶屋垣内地蔵尊

 目の前にさきほど出てきた「意比川」、現在は「林田川」が立ち塞がる。川を渡るために北にある県道まで進む。川を渡れば「たつの市」だ。

写真 46 林田川を渡るために県道まで進む

鵤宿~正條(しょうじょう)宿~片島宿~相生

図 3 鵤宿~正條宿~片島宿~相生行程

 県道から元の位置まで戻る。地図を見るとお醤油さんが多い。それもそのはず「たつの」は「ヒガシマル醤油」をはじめとする「うすくち醤油」で有名な土地だ。右手に真宗大谷派の「乗願寺」、その先に「皇神社」。「国底立神」を主祭神とするこの神社は明治以前には「荒神社」と呼ばれたそうだ。

写真 47 乗願寺
写真 48 皇神社

 このあたりのマンホールは赤とんぼ。「たつの」は童謡「赤とんぼ」の作詩者「三木露風」の生誕地なのである。

写真 49 赤とんぼのマンホール

「播州手延べそうめん」の工場があった。これも「たつの」の名産品。「揖保乃糸」が有名だ。

写真 50 播州手延べそうめんの工場

 左手には新幹線、このあと「相生」までほぼ「新幹線」に沿って歩くことになる。

写真 51 左手は山陽新幹線

  この先、「揖保川」を渡るため「国道 2 号線」まで北上。「揖保川大橋」を渡る。時刻は 12:53。

写真 52 揖保川大橋
写真 53 揖保川 手前の線路が山陽本線、奥が新幹線

 川を渡って左に進むと「正條の渡し跡」があった。

写真 54 西條の渡し跡

 土手から坂を下り、「正條」の町に入る。

写真 55 揖保川の土手から坂を下り正條の町に入る

 少し大きな通りとの交点に道標。「右 飛免ぢかうべ /左 た津の山さき 道」と書いてあるらしい。歩いてきたのは写真の右奥の道だが、この道標からすると「大きな道」の方が街道で、来た道は脇道だったようだ。

写真 56 正條の道標

 進むと右手に「明治天皇御駐駕址」の大きな碑と小さな「本陣井口家」の標柱があった。ここが「正條宿」の中心らしい。それにしてもすごい松だ。『日本歴史地名体系』によれば「古来家数は一八〇軒前後と伝えられ、東・北・西・中の四組に分けられていた。宿の本陣は井口市兵衛家が勤め、ほかに脇本陣(丸屋五郎右衛門家)・問屋(梶右衛門家)・船庄屋(七郎兵衛家)があった(揖保川町史・神部村誌)」らしいが、今はこの本陣以外はあまり見るものがない。ここから次の「片島宿」まではわずか 2 キロ。こんな近接して二つの宿場があるのは、二つで宿駅機能を分けた「相合宿」だからだ。

写真 57 井口本陣跡

「竜野駅」まで進む。駅は工事中のようだ。

写真 58 竜野駅

 食堂らしきものも見当たらない。さて、どうしようかと思って Google Map を見ると、この先に「トラットリア・ダ・ルカ」というイタリア料理店があるではないか。やっていれば、そこに入ろうと先へ進む。三叉路のところにその店があった。左は山で右は田圃、そんな中にあるとてもオシャレなお店。パスタランチをいただく。ワインも飲みたいと思ったが、まだ相生まで距離があると断念。お店の人に「街道を歩いているが何もない」というと、「もっと北の山の方へ行くといろいろありますよ」と教えてくれた。昔、「赤穂」に仕事でよく行っていたのだが、そのときに「竜野」から来ている人がいて、いいところなので是非、来てくださいと言っていた。だから、いろいろ名所があると思っていたのだが、それは「本竜野」の方なのだ。やはり「西国街道」は「参勤交代用の道」だ。今度来るときには、「太子町」から「本竜野」へ向かう道を歩いてみたい。

 街道に戻って右側にお地蔵様。赤い服を着てかわいい。

写真 59 原地蔵尊

 集落に入り、左に「片島本陣跡」の石柱を見つけたがその後ろは荒れている。「JR山陽本線竜野駅周辺 紹介」のページでは立派な家が写っているのに。ここは『行程記』に「山本半右衛門本陣」と書かれる。宿場町の雰囲気がまったくしないと思ったら、その先の左手に立派な家を発見。

写真 60 片島本陣跡の石柱
写真 61 片島宿、揖保川町原の町並み

「相生市」に入った。この先で街道は新幹線の線路を潜り、線路に並行してその南を進む。線路を潜ったところに神社があるようだ。『行程記』に描かれる「子守荒神」である。進むと道の左側に石垣と鳥居が現れた。鳥居には額がない。

写真 62 相生市那波野の神社の鳥居

 階段を上がると、さらに階段がありその上に社殿、階段の右に神社記を記した説明板、「社名 神戸若宮神社 祭神 大巳貴大神、小名彦大神」と書かれている。階段を上ると、左に「子守荒神」。

写真 63 神戸若宮神社
写真 64 子守荒神の説明板
写真 65 子守荒神の祠
写真 66 子守荒神の前のアレ

 街道に戻ると正面にウロコ雲。いい雰囲気なので写真を撮る。

写真 67 ウロコ雲の下を歩く

「善光沢川」を渡ると「相生駅」はもうすぐだ。

写真 68 相生市大石町

「大石町 20」の交差点のモニュメントのところで「二月の歩き旅」の終了。この日の歩行距離は 26 キロ、時間にして 7 時間 24 分だった。

写真 69 モニュメント

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