旧東海道歩き旅(40)岡崎宿~池鯉鮒宿(2024.10.18)

図1 安藤広重「東海道五十三次 岡崎 矢矧之橋」

岡崎宿

「岡崎宿」の地図だが、なかなかよいものが見つからない。探し出したのは岡崎市ホームページの「おかざき風景まちづくり 5-1岡崎城下二十七曲り 城下町と宿場町からなる屈折の多い町並み」の地図。これを少し加工させていただいた(図 2)。北から南に流れる「矢作川」に東から「乙川」が流れこむ。この二つの川に挟まれたところに宿場町がある。オレンジ色で示された「旧東海道」が「岡崎城」を取り囲むように何回も何回も折れ曲がる。「岡崎城下二十七曲り」だ。江戸時代の地図「東海道分間延絵図」と比べてみると、当時のまま道路が残っていることが分かる。

 城下町で街道がクランク状に曲がることはこれまで見てきたとおりだが、それにしても激しい。誰がこんなに曲りの多い道を整備したか気になる。「岡崎」は「徳川家康」の祖父「松平清康」の入城以来、「松平氏」の居城となり「家康」もここで生まれている。「家康」は版図拡大にともない居城は東に、「浜松」「駿府」へと移っていく。そして 1990 年の「豊臣秀吉」の命による「江戸」への移封。この時、「岡崎城」に入ったのが「豊臣」方の「田中吉政」。彼は「矢作川」に橋をかけ、「菅生川(乙川)」の南にあった「東海道」を城内に引き入れるなど、関東の「徳川家康」の西上にそなえて城下の整備を行ったという。東の端に封じ込めたはずの「徳川家康」だったが、すでに絶大な力を持っていたのだ。この念入りな防御を見れば、「家康」に対する怖れがいかに大きかったか分かる。わざわざ街道を北に引き込んで、動きを監視したのだろう。大雑把に見ると「旧東海道」はほぼ直線コースであるが、「岡崎」の手前で北に向くのが不自然だった。これで氷解した。

図2 岡崎宿の地図
図3 東海道分間延絵図 岡崎(岡崎城展示パネル写真を加工)

宿場の概要はつぎのとおり。

  • 所在地:三河国額田郡(愛知県岡崎市伝馬通 1 丁目など)
  • 江戸・日本橋からの距離:80 里 23 町 45 間
  • 宿の規模:家数 1565 軒、本陣 3、脇本陣 3、旅籠屋 112
  • 宿の特徴:徳川家康の生誕地であり、東海道中三番目に規模の大きな宿場町。また岡崎城下に発展した商業地でもあった。矢作川に掛けられた矢作橋は長さ 156 間で東海道第一。

 東は「投町(現若宮町)」から西は「八町(現八帖町)」まで宿場町が続く。とても大きな宿場だ。「岡崎」で商業が盛んだったことは、『東海道名所図会』に「岡崎は当国都会の地にして、賈人(あきんど)多く万(よろず)の物、たらずということなし仙方延壽の良薬を求めあるは、岡崎女郎衆と、小唄にも諷(うた)えば、こゝに泊し不老の媒(なかだち)とするもみな旅の風流とやいうべき」という一文からも分かる。「矢作川」「乙川」による水運、街道を通じての人の往来、神君「家康公」の生地、徳川家ゆかりの城下町。これだけ条件がそろえば繁栄して当然だろう。

 前回の「若宮町」から歩き始めよう。「二十七曲り」のポイントには写真のような標柱が立っている。写真 1 は「は」であるが、「い」から始めて「いろはにほ…」と順に追っていけば「二十七曲り」を完歩できる仕掛けになっている。では全部歩いたかというと、途中横道に入ったり、省略したりで正確なトレースはできていない。

写真1 岡崎城下二十七曲り標柱

 宿場町の中心は写真 2 の「伝馬町」のあたり。「岡崎」の町は空襲を受け、約 1/3 の家屋が焼失してしまったらしい。そのため、宿場町の雰囲気はほとんど残っていない。その代わり、道路の横に標柱や石碑がいくつも置かれている。石のモニュメントはなかなか趣がある。

写真2 伝馬町交差点付近
写真3 道路横には石碑や石柱が設置されている
写真4 助郷のモニュメント

「西本陣跡」は現在、ミニストップ。

写真5 西本陣跡

「曲り」を繰り返しながら、最も北側の通りまで出た。ここを西に進むと「伊賀川」に架かる「柿田橋」に出る。街道はこの橋のたもとで左に折れて、つぎの「三清橋」を渡り、二本目の通りを南下するのだが、それだと「岡崎城」から離れてしまうので、お城に近づくために「伊賀川」の西側の河川敷を歩いた。

写真6 柿田橋
写真7 伊賀川の河川敷

「国道 1 号線」に出て「岡崎公園」の交差点まで戻り、道路を渡って「大手門」からお城(岡崎公園)へ入る。時刻は 10:30。「藤川宿」からここまで 3 時間弱、休憩を取らないで歩いてきたので、どこかで珈琲でも飲みながら休息しようと思ったのだが適当な店がない。地図を見ると、お城の中に「本丸茶屋」という甘味処があるではないか。まずはそこへと向かう。

写真8 岡崎城大手門

 入ってすぐに「徳川家康の像」、さすが岡崎城。

写真 9 徳川家康の像

 甘味処の前まで来て唖然。閉まっているのだ。この茶屋、オープンが 2024 年 11 月 2 日ということでまだオープン前だった。では、と向かったのが「桜茶屋」。ところが、ここも 11:00 からで開店前。仕方なく本丸へと向かう。

写真10 甘味処 本丸茶屋

「岡崎城」は明治 6 年(1873)の「廃城令」によって廃城となった。この「廃城令」というのは、明治政府が城郭の存廃や処分について定めた法令である。廃藩置県後、全国の城郭に対して存続か廃城かを迫り、陸軍が兵営地や訓練場所として価値を認めなかった城郭は廃却された。その結果、明治維新時点で日本にあった 193 もの城が壊されてしまう。「姫路城」や「名古屋城」のような例外もあるが、多くの城はここで姿を消した。極めて残念なことをしたものだ。現在の「岡崎城」の天守閣は昭和 34 年(1959)に復興されたものだ。一番上が展望台、その下は展示室になっていて、結構楽しめる。

写真11 岡崎城天守閣
写真12 岡崎城からの眺望(南側、右手の川は伊賀川、正面が乙川)

 天守閣から出てベンチで休憩していると、とうとう雨が降り出してきた。とはいっても、それほど強い雨ではない。「歩き旅」を続けようと腰をあげ、傘を広げる。「東照公産湯の井戸」の横をとおり、公園から直接「伊賀川」を越える橋を渡る。

写真13 東照公産湯の井戸
写真14 伊賀川(左が岡崎公園)

 再び「旧東海道」に出て左折、その先で右折して「松葉通り」に入る。「愛知環状鉄道線」の高架をくぐると「岡崎宿」の終点の「八帖町」だ。江戸時代は「八町」と呼ばれた。「岡崎城」の大手門からの距離が「八丁」ということから名前がつけられたらしい。明治期に「松葉町」と「八町村」が合併して「八帖町」となるが、ここにある味噌メーカー 2 社の敷地が 2022 年に「八丁町」になった。この味噌というのが有名な「八丁味噌」だ。大豆と塩のみを原料として木桶で天然醸造される豆味噌である。ここは二つの川の交点であり、湿潤な気候が味噌醸造に適していたのだろう。また舟運によって塩や大豆がこの地で荷揚げされており、江戸初期から「八丁味噌」造りが続けられてきた。

「旧東海道」は「八帖往還通り」という名になる。道の両側に八丁味噌メーカーが 2 軒ならんでいる。北側が「カクキュー」。入口がちょっと離れているので前まで歩いていないが、大きな駐車場が見えた。この前の南北の道が「きらり通り」。これは「宮崎あおい」さん主演の朝ドラ「純情きらり」にあやかった名前。このドラマの舞台が「カクキュー」だった。それにしても「朝ドラ」の力は大きい。前回「西大平藩」のところで紹介した「岡崎観光きらり百選」だが、この「きらり」も「朝ドラ」からきている。

写真15 八丁味噌 カクキュー

 もう一軒は南側の「まるや」。こちらは「旧東海道」に面した側に入口がある。この先のT字路を右折、「国道 1 号線」に向かう。

写真16 八丁味噌 まるや

「矢作橋」の前に出る。さて、ここで冒頭の広重の絵だ。テーマは「矢矧之橋」である。といっても、この場所ではない。江戸時代には少し南、さきほどの「八帖往還道」の先に橋が架けられていた。『東海道名所図会』には「矢矯川に架す。長さ二百八間、高欄頭巾金物、橋杭七十柱、東海第一の長橋なり」とある。絵もでているのだが、「広重」のものとほとんど同じ構図だ。

写真17 矢作橋

 こちらは「矢作川」。『東海道名所図会』には「矢矧里の東にあり。水源岐蘇(きそ)山渓より落ちて、末は鷲塚川という。西尾に至って二流となり、海に入る。国号を三河ということは、矢矧川、男川、豊川の三大河あるゆえなり」とある。この「男川」は「乙川」に流れこんで「乙川」となるので、「三河」は「矢作川」「乙川」「豊川」ということになる。「矢作橋」の手前で「岡崎宿」が終了。時刻は 11:20 だった。

写真18 矢作川

岡崎宿~池鯉鮒宿

図4 岡崎宿~池鯉鮒宿行程

 雨はあがっていた。たいした降りでなくてよかった。ここから次の「池鯉鮒(ちりゅう)宿」を目指すのだが、その距離はなんと三里三十町(14.9 キロ)もある。3 時間以上はかかる。「矢作橋」を渡り終えたところで「旧東海道」は国道を離れて北側へ入る。すぐ浄土真宗大谷派の「勝蓮寺」、その先に「弥五騰神社」がある。この変わった名前の神社は元は「彌五郎殿(やごろでん)」と称し、神社の願い主である「堀田家五郎」の名からきているとのこと。

写真19 勝蓮寺
写真20 弥五騰神社

 更に進むと「浄瑠璃姫墓所」。「浄瑠璃姫」とは『デジタル大辞泉』によれば、「室町時代の語り物の登場人物で、三河国矢矧(やはぎ)の長者の娘。仏教の浄瑠璃世界を統率する薬師如来の申し子。牛若丸との情話が「十二段草子」などに脚色され、語り物「浄瑠璃」の起源となった」とある。『東海道名所図会』はどうかと見ると、「浄瑠璃姫塚」として次の様に書かれていた。「西矢矧左の方、圃の中にあり。むかし、矢矧の宿の長が娘、美艶の女伶なりしが、平家の盛衰を十二段に作り諷う。薬師の十二神将に比すれば、浄瑠璃御前と呼ぶ。今の世の浄瑠璃の初まりなり。またこの里に誓願寺という浄土宗の寺あり。こゝに浄るり姫の像、義経の像あり。寺説にいわく、『九郎判官東下りのとき、こゝに宿し、この姫を愛したまう』とぞ」。ここに書かれている「誓願寺」はこの墓所のすぐ北にある。

写真21 浄瑠璃姫墓所

 ここで 11:40、道が国道に合流したところで、そろそろ昼食にしようと店を探す。「東大友町」の「アオヤマ」でランチをいただいた。「歩き旅」再開。国道沿いの「薬王寺」を過ぎる。奈良時代に創建されたいう古刹だ。この先、「安城市」に入り、道はしばらく国道を離れる。

写真22 薬王寺
写真23 安城市の松並木

 松並木があった。その先、右側に「予科練の碑」がある。戦争中、ここに「岡崎海軍航空隊」の基地があったのだ。ここに第一、第二、第三と三つの海軍航空隊が置かれていた。基地の広さは約 446 ha で、下の地図のように北は「豊田市」の上郷中学校周辺、南が安城市尾崎町だからこの辺りまでと、とても広大なものだった。ここで少年兵の訓練が行われ、多くの尊い命が散っていったのである。

写真24 予科練の碑
図5 岡崎海軍航空隊位置図(安城歴史研究第24号抜粋

「予科練の碑」の隣が「熊野神社」、そしてその先に「安城の一里塚」があった。

写真25 安城の一里塚

「浜屋町北屋敷」に入る。右側に「永安寺」。説明板には「雲龍の松」とある。中に入ってビックリ。これは見事な松である。高さ 1.5 m のところで 3 つに分岐した枝が北西、南、東に這うように横に伸びているのだ。まるで雲のよう。「雲龍の松」とやよく名付けたものだ。

写真26 永安寺
写真 雲龍の松(南側から見る)
写真28 雲龍の松(東側から見る)

 この先の左に「明治川神社」の鳥居。この神社はこの辺りに作られた「明治用水」に関係していて、用水守護の三柱の神を中心に、開削の功労者四人を祀っている。この「明治用水」については、「東海農政局」のホームページに詳しい。もともとこの辺りはやせ地で水がなく、水争いが頻繁に起きていたが、江戸時代末期に「矢作川」上流、現在の「豊田市」から水を引く、30 キロメートルにも及ぶ水路の開削が計画され、紆余曲折ののち明治 13 年に完成。約 2,000 ヘクタールだった水田面積が明治 40 年には 8,000 ヘクタールを超す一大穀倉地帯へ変化、日本のデンマークと呼ばれるまでになったとのこと。ここはその記念となる神社だったのだ。

写真29 明治川神社の鳥居
写真30 明治川神社社殿

「新安城」に入る。「池鯉鮒」がだいぶ近づいてきた。これは「ちりゅう」の江戸時代の表記だが、より古い表記は現在と同じ「知立」である。さきほどから松並木が続いている。時刻は 13:50、そろそろ休憩しようかと店を探す。道の右側にカフェがある。「お酒も楽しめるカフェ」という幟が立っている。引き寄せられるようにそのカフェ「ろくえん」に入り、ビールをいただく。曇りだが結構暑いので、冷えた生ビールがとてもうまかった。

写真31 安城の松並木

 さあ、もう少しだ。「猿渡川」を越えて「知立市」に入った。「来迎寺公園」の手前に「案内板」があった。これによればすぐ「来迎寺」とその前に「一里塚」、そこを過ぎると「衣浦豊田道路」があり、その先が松並木、そしてそこに「馬市の碑」があり、「池鯉鮒宿」に入っていくことになる。

写真32 東海道見て歩きマップ 知立

「来迎寺の一里塚」、「安城の一里塚」から一時間歩いたわけだ。その先の「来迎寺」は『日本地名体系』によれば、「紫雲山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊如意輪観世音菩薩。承平元年(931)山城国宇治平等院の来迎院法印が一宇を建てたのが始まりという。慶長(1596~1615)の頃美濃の愚堂国師に参禅した休心が、熱田竜珠寺の密堂禅師を請じて中興の開山とし、臨済宗に転じた」と説明がある。面白いのはこの寺の住所で「知立市来迎寺町古城」。お寺の境内に「今﨑城趾」の碑が立っている。その説明文は「今﨑城に関する文献は見当たらないが、来迎寺町の地名には古城、足軽等があり、往昔の俤をとどめている。八橋町の葦香城と同時代にあった城のようで、古刹来迎寺の守護に任じていたと思われる」ともうひとつはっきりしない。平安時代にこの地を支配していた「村上兼房」の居城ではないかという説もある。

写真33 来迎寺の一里塚
写真34 来迎寺
写真35 今﨑城の碑

「牛田町」を過ぎて「衣浦豊田道路」の前に出る。横断歩道はなく、陸橋を渡らねばならない。その代わり、高い所から「知立の松並木」がよく見えた。時刻は 15:11、まだ「池鯉鮒宿」には入っていないが、ここでいったん筆をおこう。次回の最初にこの先の「馬市」の碑がある辺りの景色と、広重の「池鯉鮒 首夏馬市」の絵を比較してみたい。

写真36 知立の松並木
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