旧東海道歩き旅(27)日坂宿~掛川宿(2024.5.4)

図1 安藤広重「東海道五十三次 日坂 佐夜中山」

  今回の広重の絵はさきほど下りてきた「小夜の中山」だ。左に「富士山」らしき山が描かれているが、見えるスポット(小泉屋の東屋)があるのだそうだ。

日坂宿

「二の曲がり・沓掛」の急坂を下りて「日坂宿」に入ると、江戸時代にタイムスリップしたような錯覚におちいる。江戸時代の建物は一部だが、宿場町の再現にかなり努力されていることがよく分かる。宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:遠江国佐野 (さや) 郡(静岡県掛川市日坂)
  • 江戸・日本橋からの距離:54 里 26 町 45 間
  • 宿の規模:家数 168 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 33
  • 宿の特徴:東海道三大難所のひとつ「小夜の中山峠」の西の麓に位置する小さな宿場町。東口から西口までの距離はおよそ六町半(700 メートル)。はじめ山内氏領、のち幕府領となった。

 とてもこぢんまりとした宿場町である。街道に面する家には「屋号」が表示されていた。これは今までなかったことだ。図 2 が天保 11 年(1840)の宿場の地図だが、ほとんどそのままだ。

図2 天保11年(1840 )宿場の図(掛川市役所観光交流課)

 街道の右手に「秋葉神社の常夜灯」があった。その右隣の家には「扇屋」の屋号が掲げてある、その隣は「近江屋」だ。「扇屋」は本陣である。常夜灯の左にある広場も本陣だったところで、明治 12 年に「日坂小学校」になったらしい。

写真1 秋葉神社の常夜灯
写真2 日坂宿の案内板(この裏が本陣)

 説明板が立っていた。これを見て先に進んだのだが、背中に眼がついていないので角に門があるのを見落とした。メインの建物は道路の右側に並んでいるようだ。写真 3 が「問屋場跡」、その右が「橘屋」。図 3 では「本陣扇屋」と「橘屋」の間に「大黒屋」「玉屋」「蛭子屋」と三軒あるが、現在は道路になっている。

写真3 問屋場と橘屋

「問屋場」の左、「若富屋」「山崎屋」は普通の民家だが、続く「池田屋」は昔の風情が残る建物だった(写真 4)。その隣の「黒田屋」は「脇本陣」。

写真4 池田屋
写真5 黒田屋(脇本陣)

 少し先に「藤文」という家があった。この「藤文」は屋号であるが、「伊藤文七郎」という人物の名前に由来している。彼は万延元年から慶応三年(1860 ~ 1867)にかけて最後の問屋役を務めていたそうだ。

写真6 藤文

「萬屋」は庶民が泊まる「旅籠」で、内部が公開されていた。建物は嘉永から安政にかけて建築されたと思われるとのこと。1 階が「みせ」や「帳場」で、2 階が宿泊のための「座敷」。現在は畳が敷いてあるが、当時、1 階はすべて板間で事ある時のみ畳を敷いたらしい。

写真7 萬屋
写真8 萬屋内部

 写真 9 は高級旅籠屋の「川坂屋」。江戸時代の面影を遺す数少ない建物のひとつで、身分の高い武士や公家などが宿泊した格の高い脇本陣格だったらしい。ここも内部を公開していて、説明もしていただいた。今日は「袋井」まで歩くため先を急ぐ。だから、座敷にはあがらなかった。茶室まであったようだが、「日坂バイパス」(写真 9 に写っている)に引っかかったため移転を余儀なくされ、平成 15 年(2003)母屋の北側の地に復元されたという話を聞いた。後で調べるとこの茶室、「掛川城主太田候」の「掛川偕楽園」にあった建物を移設した立派なもの。見ておけばよかったと後悔しきり。

 人通りが少ないので、その旨をオバサンに伝えると、これから増えてくるとのこと。「昨日はいっぱいだったんですよ。この先に八幡さまがあるでしょ。そこで催しがあって」と教えてくれた。催しは今日(5/4)も続くようだ。立ち寄ってみようと思っている。

写真9 川坂屋

「川坂屋」を出て街道を進む。右側に「高札場跡」があった。これは平成 9 年に再現されたものだ。「逆川」にかかる「小宮橋」の手前に「下木戸跡」の説明板。宿場の両側に木戸があったらしい。

写真10 高札場跡
写真11 下木戸跡

日坂宿~掛川宿

図3 日坂宿~掛川宿行程

 10:10、「日坂宿」を出て「掛川」へと向った。5 分ほど歩くと右側に「事任本宮(ことのままほんぐう)」の鳥居が見えてきた。

写真12 事任本宮の鳥居

「宮」はこの階段を上った山の上にあるらしい。標識は左に進めは「本殿・拝殿」、右が「奥社」となっている。この時、私は「事任八幡宮」はこの山の上にあり、左に進むとと車が通行できる迂回路、目の前の階段は近道だと思っていた。こういうケースをこれまでいくつも見てきたからだ。すでにかなり足が痛かったが、上っている人も多いので、迂回路ではなく、ここを上って神社にお参りしようと決めた。

 結構、険しい山道で急階段が続いた。登り切ると、頭の中で思い描いていた「駐車場があって大きな拝殿がある」という予想とはだいぶ違う。駐車場などはなく、小さな社があるだけだった。「事任本宮」とある。つまり最初に神様が鎮座された場所だ。お詣りを済ませた後、私は「拝殿」への道を探す。このそばに「八幡宮の拝殿」があるものだと思い込んでいるのだ。そばにいたオジサンに訊いてみる。「あのぅ、拝殿へはどういったらいいのですか?」。オジサンはきょとんとした顔になって、「ここは本宮ですけど」と答える。「このそばに拝殿はないんですか?」と訊くと、「ありません」とにべもない。これで私は勘違いに気づいた。

 来た道を下りる。急階段なので、すれ違う人は皆ゆっくりだ。半ばまで下りてくると、後で若い声がした。足音が次第に近づいてくる。かなりペースが速い。道は狭く、追い抜くスペースはない。後から追いかけられているようで、私は必死に階段を下りた。鳥居のところまで来て、健康そうな二十代の男女が四名、横を通り過ぎて行った。私と違って息が切れたという気配はまったくない。一番、後の女の子に訊いてみた。「拝殿に行くにはどういったいいのかな?」「この先に陸橋があるでしょう。渡ったところが拝殿です」との答え。拝殿は山の上ではなく、道路の左側にあったのだ。

写真13 事任八幡宮の鳥居

 境内案内図があった。これで位置関係が理解できた。多くの人は車で来て、まずこちらの「八幡宮」にお詣りする。一部の人は「本宮」まで足を延ばすというわけだ。

写真14 境内案内図

 主祭神は「己等乃麻知比売命(コトノマチヒメノミコト)」。神社のホームページにはつぎのような説明がある。

忌部の神である玉主命(たまぬしのみこと)の娘神様で、中臣の祖である興台産命(こことむすびのみこと)の后神様です。また、枚岡神社や、春日大社にお祭りされている天児屋根命(あめのこやねのみこと)の母神様です。
ことのまちの「こと」は「事」でもあり「言」でもあります。また「まち」は「麻知」でも「真知」でもあります。真を知る神、言の葉で事を取り結ぶ働きをもたれる神様として、また、言の葉を通して世の人々に加護を賜う「ことよさし」の神として敬われています。天と地と人を結ぶ、とても大切なお働きをなさる神様です。

「忌部氏」の神だが、「言の葉で事を取り結ぶ働きをもたれる神様」つまり「願い事が意のままにかなう」とてもありがたい神様なのだ。そのため昔から有名な神社だったようで、『枕草子』にも「ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言われたまはんと思ふぞ、いとをかしき」と出てくる。

 武家の世の中になると主祭神として「八幡大神(応神天皇・神功皇后・玉依姫命」の名が加わり、江戸時代には「誉田八幡宮」と呼ばれ、「ことのまま」が忘れさられていた。昭和 22 年に由緒ある古来の社号「ことのままの社」に基づいて、「事任八幡宮」と改称できたが、神社本庁に認められていたのは「八幡大神」のみ。平成に入って元々の御祭神である「己等乃麻知比売命」を再度里宮にお迎えする「ことのままおこし」をしたのだそうだ。

 催しは「平安の雅とことのまま」というもので、境内はかなり賑わっていた。まずは「二ノ鳥居」を潜り階段を上って拝殿にお詣りする。

写真15 事任八幡宮拝殿前の鳥居
写真16 事任八幡宮拝殿

 右に回ると杉のご神木があり、その隣が「神楽殿」になっている。

写真17 事任八幡宮のご神木(右側の建物は神楽殿)

 お詣りを一通り終え、階段を下りると左手に社務所があった。催しはどうやらここで行われているようようだ。入口にイベントのスケジュールが掲示されていた。ちょうど「薩摩琵琶の演奏」をやっている。聞いてみたいところだが、中に入るとかなり時間がとられそうなので断念。前でジュースをいただく。山上りの後なので、生きがえった心地だ。オネエサンの話では、昨日は十二単の着付けがあってとても混雑していたようだ。

 一息ついたところで「歩き旅」の再開。今日は 30 キロ近く歩くことになるので先を急ごう。「国道 1 号線」の高架を潜ると左に「塩井神社」、ここは「事任八幡宮」の外社だ。この付近、「旧東海道」は「県道 415 号」だが、ところどころわき道に入る。その、わき道に「伊達方一里塚」があった。この「伊達方」は地名だが、仙台伊達氏の庶流の駿河伊達氏に由来している。

写真18 伊達方一里塚

 特に見るものもなく、つぎの「葛川一里塚」に到着。ここまで来るともうすぐ「掛川宿」だ。「掛川」は城下町なので入口の道は鉤状に何度も折れ曲がる。12:32 にこの「掛川七曲がり」の最初の道に入った。

写真19 掛川七曲りに入る
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