2024 年 4 月 1 日。「三島」をスタートした旅の三日目は「興津宿」から「江尻宿」を経て、「府中宿」(静岡市)へと進む。まず、「興津宿」~「江尻宿」までの道中である。

図 1 の広重の絵の舞台は「興津川」である。川は左に曲がり海に注いでいるように見える。川の左手は「薩埵山」の裾だろう。正面は洲となって松林。川を旅人が渡っている。『東海道分限延図』によれば、「歩行渡」となっているのでこの絵の通りだ。古地図ではすぐそばに「水神」の祠が描かれているが、現在も「国道 1 号線」の南に「水神社」がある。
宿を 7 時に出発。左足が痛い。昨夜、調べると小指にマメができていた。テーピングしたが、やはり痛い。小指をつけないようにして歩く。今日はどうなるか心配だ。
「興津宿」は「興津川」からちょっと離れている。「国道 1 号線」に合流したのち、右手に「宗像神社」の鳥居が現れる。「女体の森」と書いてある。これは、なんとしても立ち寄らねばなるまい!

「一ノ鳥居」から 200 m ほど北に「二ノ鳥居」がある。そこ入ると社殿がある。境内はそれほど広くない。まだ早いので誰もいない。いつものように社殿のまわりを一回りする。どこが女体の森なのだろう? 神社はこんもりと木が茂っているが、森というほどではない。


説明板があった。祭神は「奥津島比売命(オクツシマヒメノミコト)」「狭依姫命(サヨリヒメノミコト)」「多岐都比売命(タギツヒメノミコト)」、つまり『古事記』に書かれる「宗像三女神」である。説明はつぎのように続いていく。
創建年代は不詳。一説に筑前(福岡県)より勧請したとも言う。
昔よりの国碑に盧原(よばら)神社、俚俗(ぎくぞく)に宗像神社とも言はれていた。
当社は興津川の西にあり女体の森と言って舟人達の灯台代わりとされていた。興津川の水源は高瀬・西河内からでた名を浦田川と言っていたが、後に興津川というようになった。
これは当社の祭神である奥津島比売命の名によって興津川になったとも伝えられている。
また興津川の名の起こりも、大昔にこの祭神が八木に乗って大海原を渡り、この地に住居を定めたことから興津と言われるようになったとも言われている。
古くは境内も広く、今の小学校進運動場一帯も社域であった。現在地は字宮の後と言うから昔の神社は東海道沿いにあったと思われ、多分高波を恐れて今の地に遷座したのであろう。
当社もと弁才天宮・宗形弁才天・興津三女の宮・宗形大明神などと称していたが、明治元年より現社名に改称している。
祠官は代々宮川家が受け継いで明治元年に及んでいる。
当社の記録類は明治 13 年中宿町の大火により消失している。
「宗形三女神」だから九州がルーツである。古代に北九州から海人族が舟で移動してきたのだろう。「薩埵山」があり、その手前に川が切り開いた平野がある。上陸するにはもってこいのところだ。目印は「女体のような森」、そこに舟を着け、生活を始めた。先祖来の神として「三女神」を祀る祠をこの森に作る。主祭神は「奥津島比売命」。そこからこの地は「奥津」と呼ばれるようになる。十分あり得る話である。この特徴ある森は海からよい目印となった。その後、江戸期に入ると、弁天信仰が広まり、この神社も「女体の森弁天」と呼ばれるようになる。この名前は『東海道名所図会』にも書かれている。

桜が咲いていた。二分咲きくらいだろうか。神社を出てふたたび「旧東海道」に戻る。
少し歩くと四つ辻の右手に「身延道入口」の碑。「身延道」は「甲府相生」へ続く道である。「旧東海道」からの分岐としては、すでに書いた「岩淵」や「由比」とともに、ここ「興津」からの道があった。三本とも「甲州 万沢」(現山梨県富沢町)に繋がっている。

興津宿
道路の左側に「一里塚」の石柱があったようだが、まったく気づかなかった。「興津駅前」の交差点を過ぎ、「理源寺」の前を通って、川を渡るとそこが「興津宿」の東町である。「興津宿公園」があった。「伝馬所」の跡らしい。ここまで歩き始めて 30 分である。

「興津宿」の概要はつぎの通り。また図 2 に周辺を含めた古地図を示す。
- 所在地:駿河国庵原郡(静岡県静岡市清水区興津本町)
- 江戸・日本橋からの距離:40 里 33 町 45 間
- 宿の規模:家数 316 軒、本陣 2、脇本陣 2、旅籠屋 34
- 宿の特徴:甲州と結ぶ身延道の起点でもあり交通の要所だった。西に古代の東海道の関所「清見関」があり、その北に「清見寺」がある。

宿場の始まりと終わりははっきりしないが、古地図では東町・西町から構成される小さな町だ。「東本陣」や「西本陣」は現在、場所を示す石柱があるのみ。一方、脇本陣の「水口屋」は明治以降は西園寺公望や伊藤博文など、日本の政治経済の大物たちが数多く宿泊した有名旅館となった。昭和 60 年に旅館をやめ、現在は敷地内に「水口屋ギャラリー」を開放している。

興津宿~江尻宿

「興津宿」を出るとすぐに右手が小高くなり、城郭の様なものが現れる。これが「清見寺(せいけんじ)」である。「巨鼇山清見興国禅寺求玉院 (こごうざんせいけんこうこくぜんじきゅうぎょくいん)。宇度郡興津清見寺村にあり。俗に清見寺(きよみでら)という。禅宗済家、京都妙心寺の末寺なり」と『東海道名所図会』に書かれる。開創は七世紀後半。もともとは天台宗だった。古代、このあたりは海岸線で歌に詠まれる「清見浦」が広がっていた。寺の前に「古東海道」の関所「清見関」があったという。右手には、明治の元老「西園寺公望」が建てた別荘「坐漁荘」がある。

「波多打川(はたうちがわ)」に出る。名前からして昔は波が多数打ち寄せる場所だったのだろう。今は、「静清バイパス」「東海道本線」「国道 1 号線」が複雑に交差している。ここを越えると「横砂」だ。

ずっと「国道 1 号線」を歩いているので、あまり面白いものはない。「庵原(いおばら)川」を越える。二十年くらい前には松並木が残っていたらしい。その名残を発見。

道が急に広がって、二手に分かれる。細い右側の道が「旧東海道」である。その角のところに松が一本植えられている。説明板があって「細井の松原」と書かれている。ここには松原があったらしい。「元禄 16 年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数 110 戸、松原の全長 199 間 2 尺(約 360 m)松の本数 206 本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶屋があったと伝えられている。当時の細井の松原は太平洋戦争で松根油(航空機燃料)として伐採されてしまった。現在は、植樹されたものである」(「旧街道ウォーキング 人力」)とのこと。「辻」とはこの先の村の名前である。現在も静岡市清水区辻で地名が残っている。さあ、「江尻宿」はもうすぐだ。

「辻の一里塚」は説明板だけ、その先の「本郷八丁目」に入った交差点に「東木戸」があったらしい。 8:40 に「江尻宿」に入った。その詳細については次回述べよう。

