旧東海道歩き旅(26)金谷宿~日坂宿(2024.5.3・4)

図1 安藤広重「東海道五十三次 金谷」

 広重の絵は「大井川」を渡ったところだった。右奥に山が描かれている。「日坂(にっさか)宿」への途中にある「小夜(さよ)の中山」だろう。手前の川は「新堀川」、橋は「八軒屋橋」だろうか。

大井川鐵道 新金谷駅

「金谷宿」を歩く前に SL で有名な「大井川鐵道」の「新金谷駅」に寄っていこう。「大井川鐵道」は大正 14 年に「大井川」上流部の電源開発と森林資源の輸送を目的として創立され、昭和 6 年に「金谷」〜「千頭(せんず)」間が開通。さらに、昭和 34 年に「南アルプスあぷとライン」の運行を開始して「井川」までつないでいる。(令和 6 年 10 月時点で令和 4 年台風 15 号とこれに伴う豪雨で、「家山」~「千頭」間が運休している)。昭和 51 年からSLの復活運転を実施し、「寸又峡」「接岨峡」などの秘境への「SLの旅」を売り物としていて、テレビでよく取り上げられている。それにしても、数々の不採算路線が切り捨てられる昨今、「大井川」の奥と結ぶ鉄道の経営が成り立っているのは驚異だ。SL と観光に焦点を絞ったのが正解だったのだろう。一度は乗ってみたいと思っている。

写真1 大井川鐵道の線路を渡る

 その「大井川鐵道」の線路を渡り、左に入ると「新金谷駅」がある。始発駅は JR 線のある「金谷駅」だが、SL はこの「新金谷駅」発のようだ。ここには「整備場」があり、それに隣接して「SL 広場」がある。

写真2 新金谷駅

 駅舎へ入って時刻表を見る。普通が一日四本、臨時便で準急や急行がある。SL も臨時便で、毎日運行というわけではなさそうだ。現在、14:35 なので残念ながら「川根温泉」行き SL 急行が出てしまった後だった。

写真3 新金谷駅時刻表

  整備場の方へ回ってみると、青い色の蒸気機関車が整備中だった。この機関車、実は「きかんしゃトーマス号」なのだ。「大井川鐵道」のホームページに「大井川第一橋梁を渡るきかんしゃトーマス号」の写真が掲載されている。青い胴体に黄色で 1 番の文字。「トーマス」のマスクと白いカウキャッチャーを取り付ければ、「きかんしゃトーマス号」だ。2024 年は 6 月から運転予定なので、今、整備の真っ最中だったようだ。

写真4 新金谷駅整備場
写真5 大井川第一橋梁を渡るきかんしゃトーマス号(大井川鐵道ホームページ
写真6 SL広場の説明板

 SL 広場の転車台には黒い SL が載っている。「C12164」の銘板がある。これは「C12 型 164 号機」の意味で、この機関車について「大井川鐵道ホームページ」には、「1937 (昭和 12)年に日本車両で製造されました。C12 形は昭和初期の不況時に簡易線用として経済性を求めて製造された SL です。大変便利に使えた SL で、15 年間で 293 両が製造されました。中央本線 木曽福島機関区で現役を退いた後、千頭駅での静態保存展示を経て、1987 (昭和 62)年 2 月に日本ナショナルトラストの保有となり、同年 7 月 25 日に営業運転を開始しました。車両の管理は大井川鐵道が行っています。2019 (令和元)年現在、休止中です」とある。なかなか美しい機関車だ。

写真7 C12型蒸気機関車

 SL 広場はそんなに混んではいなかった。SL が発車する時間帯にはかなり混雑しているのだろう。

金谷宿

「金谷宿」に入る。宿の概要ははつぎの通り。

  • 所在地:遠江国榛原 (はいばら) 郡(静岡県島田市金谷)
  • 江戸・日本橋からの距離:53 里 2 町 45 間
  • 宿の規模:家数 1004 軒、本陣 3、脇本陣 1、旅籠屋 51
  • 宿の特徴:大井川の西岸にあり、島田と同様大井川越えの宿場としてにぎわった。

「大井川」が「駿河国」と「遠江国」の境。家数は「島田宿」の 2/3 程度であるが、本陣・旅籠屋の数でみると島田宿と同規模である。図 2 に古地図、図 3 に現在の地図を載せておく。古地図には「大代川」の東に「見附土居」が描かれているので、ここが宿場の入口だろう。宿場の終わりは「金谷大橋」である。宿場の中央部に「本陣」「脇本陣」「問屋場」などが集まっている。

図2 金谷宿古地図((東海道分間延図 東京国立博物館に情報を追記)
図3 現在の金谷宿の地図

「大代川」を渡り、「志水川」を渡る。5 月なので鯉のぼりがいっぱい泳いでいた。

写真8 大代川
写真9 志水川

 通りはこんな感じで、宿場町の遺構はほとんど残っていない。

写真10 金谷宿の通り
写真11 佐塚本陣跡

「佐塚本陣跡」は「佐塚書店」になっている。説明板のおかげで、ここが本陣跡だとわかった。

写真12 柏屋本陣跡

 こちらは一番本陣の「柏屋」の跡。ちょっとそれっぽい。

写真13 一里塚跡

「旧東海道」を横断する様に線路が敷かれたため、トンネルをくぐなければならない。手前に「一里塚」の説明板があった。駅の裏側に出る。宿場町の境界の「金谷大橋」は現在「不動橋」という名前になっていた。

 この日はここまでで、裏手から駅に入ろうと思ったが入口がない。結局、さきほどの「トンネル」をくぐり、大回りして駅に入った。JR の隣に「大井川鐵道」の駅があった。15:12 に「金谷駅」にゴール。「藤枝」からの歩行距離は 19.1 キロ、「逢来橋」に足を伸ばした分、距離が増えた。時間は 6 時間 52 分だった。この後、「藤枝駅」まで戻り、駅前のホテルに宿泊した。

金谷宿~小夜の中山~日坂宿

 翌日の 5 月 4 日、7 時 30 分に「金谷駅」に戻って来た。昨日の後半、足が痛くなり、ホテルでチェックすると案の定左足の小指にマメが出来ていた。このままだと、水ぶくれが大きくなりそうなので、コンビニで針と消毒液を買ってたまっている水を抜いた。手首の腫れに続いて、足のマメにも悩まされそうだ。晴れの予報だが、一段と暑くなると予報士さんがニュースで言っていた。この日は「金谷坂」や「小夜の中山」の峠越えがあるし、さらに次の日「浜松」までたどり着くために「袋井」まで歩いておきたい。距離は 25 キロを越えるだろう。まあ、ボチボチいこう!

図4 金谷宿~日坂宿までの行程

「日坂宿」との間には「金谷坂」「菊坂」「小夜の中山」と坂が続く。「旧東海道」の難所であり、「箱根」と同じく「石畳の道」が整備されているらしい。「不動橋」を越えて「歩き旅」を開始した。すぐに坂道になる。家々の間の道を上がっていくと、次第に勾配が強くなって「県道 473 号」に出る。左を見ると、「旧東海道石畳」の標識があった。

写真14 県道473号 旧東海道石畳の標識

 右折して、さらにきつい坂道を上がると「石畳道上り口」の前に出た。ここからは車が通らない山道だ。

写真15 金谷石畳上り口
写真16 石畳

 扁平な石が並べてあるので歩きやすい。江戸時代の石畳は 30 m を残してすべて舗装化されたが、平成 3 年に町民約 600 名が参加した「平成の道普請」で延長 430 m が再現されたとのこと。この石畳の道、「手づくり郷土賞」を受賞している。

写真17 庚申堂

 右側に「庚申堂」、さらに坂を上ると赤いのぼりが両側に立っている。「すべらず地蔵尊」と書いてある。一昨日は坂道ですべって手首を捻挫した。今日は滑りませんようにと願を掛けておこう。お堂の隣には受験生の絵馬が多数かけてあった。

写真18 すべらず地蔵尊ののぼり
写真19 すべらず地蔵尊

 坂を登り切ると「牧之原台地」の上にでる。左側は茶畑。進むと右側に「諏訪原城跡」の表示が。「武田信玄」が砦を築いたところに、「武田勝頼」が家臣 「馬場美濃守信房」に命じて築いた城である。「徳川家康」に攻め落とされ、1590 年に廃城となる。見ていきたいところだが、時間の関係でパスし、左側にある下り口から「菊川坂」に入る。

写真20 菊川坂下り口
写真21 菊川坂

 途中、舗装道路を横断し「江戸時代後期の石畳」を下る。昨日、今日と晴れているので滑る心配はないが、石畳道は下りの方がたいへんだ。

写真22 江戸時代後期の石畳

 これを下りると「菊川の里」に出る。「間宿」にもなっていたところだ。「菊川」を越え、「四郡の辻」を通る予定が、工事で迂回路を通るように指示された。

写真23 菊川 道路工事で迂回

「菊川神社」の横を上がって、「旧東海道」に入る。急な坂を上っていくと、両側に茶畑が広がる。さすが静岡だ。茶畑の間を進む。

写真24 茶畑の間の道

 ずっと上り坂である。西を向いて歩いているので、朝日を後頭部に受ける。きつい日差しが苦しさを倍増させる。「日坂宿」への道標があった。もうすぐ「小夜の中山峠」だ。だが、ここからの急坂が苦しかった。上っているのは「青木坂(箭置坂)」、この急勾配が旅人を悩ませたという。

写真25 日坂宿への道標

 右側にお寺が現れた。「久延寺」である。天平五年(733)に行基によって建てられたという「小夜の中山峠」のそばに建つお寺である。

写真26 久延寺
写真27 久延寺本堂

『東海道名所図会』に「子育観音」として出てくる。「小夜峠にあり。久円寺という。真言の草堂なり。子育ての由縁前に見えたり。本尊正観音、行基僧正の作。長一尺八寸なり。この境内に石表〔石碑〕あり。その文にいわく、『慶長五年〔1600〕、関ヶ原の役のとき、山内対馬守一豊、この地にて茶亭を営みて、国初将軍〔徳川家康〕を饗応し奉りし遺跡なり』と鐫す。近年、天明九年〔1789〕、この石表を建つると見えたり」と書かれている。この一つ前に「夜泣石・夜哭松・妊婦塚」の説明があり、「むかし日坂に妊身の女ありて、金谷の宿の夫に通う。ある夜このさよの中山に山賊出でて恋慕し、従わざるによりて斬り殺し、衣裳を剥ぎ取り行衛(ゆくえ)なし。この婦の日頃念じ奉る観音出でて僧と現じ、亡婦の腹より赤子を出だし、あたりの賤女に預け、飴をもって養育させたまいけり。その子成人の後、『命なりけり佐夜の中山』とつねに口号(くちずさ)み、諸国にめぐりて、終に池田の宿にて、かの盗賊の敵に出合い、親の敵をやすやすと討ちしとぞ」と書かれている。この「母の霊」が石に乗り移り、毎夜、泣き声を上げる。これが「夜泣石」であり、街道中にあったが、明治十四年に東京の博覧会に出展された後、小夜の中山トンネル脇に移されている。似た形の石がここ「久延寺」にもまつられている。

写真28 夜泣石

 

 さて、「小夜の中山」とはいったいどういう意味だろうか? 「小夜の」という形容詞だが、古くは「佐夜(さや)の」とも書かれ、「さよ」「さや」の二通りのいいかたがあったが、「さよ」が一般的になったという。『掛川誌稿』には「其道両山ニ夾マレテ、左右ノ谷間甚狭シ、佐夜ハ峡谷ナルヘシ、其中間ノ山ナレハ、峡谷ノ中山ト名ツケタルヘシ」と書かれている。昼でも夜のように暗い渓谷がある山というような意味だろう。また、「小夜」は「塞(さい)」であり「中山」は「境」を表す言葉であることから、「塞の神」を祭る峠であるという解釈もあるとのこと。「古今集」などの歌集や「十六夜日記」「光行紀行」などの紀行文にもよく登場する古来から有名な場所でもある。西行法師は「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山」と詠んでいるが、この歌の碑がお寺の前の「小夜の中山公園」にある。

写真29 西行法師の歌碑

 峠を越えて道は下りに転じ、「佐夜鹿一里塚」「鐙塚」と続く。時刻は 9 時をまわった。この頃になると、「日坂」側から街道を歩いてくる人に出くわすようになる。「掛川」からのバスが「日坂」に着いたのかもしれない。それにしても、ひどく暑い。「一里塚」の日陰でちょっと休憩。靴を脱いで足を休めた。

写真30 佐夜鹿の一里塚
写真31 鐙塚

 茶畑の中の道を下っていく。途中で前から奇妙な一行が歩いてくるのに出くわした。初老の男性二人組で、同じ服で背中に旗をしょっている。すれ違うときに、旗に「東海道 お散歩中」と書いてあるのが読めた。後で調べると「東海道五十三次お散歩中」というホームページの二人組によく似ている。4/30 に「関」から「桑名」を 40 km を歩いており、それを最後にアップされていないが、「宮」から「日坂」までは、約 133 km なので、このペースで歩けば 3 日あまり。きっと、この人達だ! 暑い中、汗をいっぱいかきながら坂道を歩いていた。思わず「頑張れ」と声を掛けていた。写真をとっておくべきだった。残念!

写真32 茶畑の中の道

 この先、だらだらとした下り坂で、あちこちに歌碑などがある。「涼み松」というのがあった。道の傍らに大きな松があり、「芭蕉」がここで休んだという。「命なりけりわづかの笠の下涼み」。この句が書かれた碑が傍らにある。あまりの暑さで、大きな松の下に坐って「助かった」と言いたいところだが、今はそんな松はなく、陽がさんさんと照りつけている。

写真33 涼み松
写真34 芭蕉「命なりけりわづかの笠の下涼み」の碑

 この先に「夜泣石跡」の碑。前に述べた「博覧会」に出た石がここにあったらしい。

写真35 夜泣石跡

「日坂宿」まではあと少しなのであるが、その前に難所が待っている。ちょっと「金谷宿」から「日坂宿」までの高度をみてみよう。まず「金谷坂」で「牧之原台地」に一気に上がる。また「菊川」まで一気に下がる。それから「小夜中山峠」まできつい「青木坂」。それから比較的なだらかな斜面を下り、最後にストンと急斜面を下りるのである。「沓掛」「二の曲がり」といわれる難所にこれから入っていく。

図5 金谷宿から日坂宿までの高度推移
写真36 ここから坂が急になる

 急なヘアピンカーブが二つ続いている。ここが「二の曲がり」。手前に「二の曲がりと沓掛」の説明板が立っている。「『古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)』に見られる『二の曲り』とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの急カーブを指しています。『沓掛』の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を山の神に手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれています」と書かれていた。かなりの急坂だが、短いの救いだ。

写真37 二の曲がり

 ここを抜けて「国道 1 号線」を潜り、さらに「県道 415号」を渡れば「日坂宿」である。

写真38 国道1号線を潜る
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