旧東海道歩き旅(9)大磯宿~小田原宿(2024.1.31)

 「平塚宿」から「大磯宿」までの距離は短く、あっという間に「大磯宿」に入っていた。前回は「化粧坂(けわいざか)」に入ったところまで書いたので、今回はそこから「小田原宿」までの道中について書こう。

図1 行程

大磯宿

図2 安藤広重「東海道五十三次」大磯宿 虎が雨

 図 2 の安藤広重の「東海道五十三次 大磯宿」の絵、右手の山は前回書いた「高麗山」であろう。松並木の先には家々が続いている。まさに宿場町へ入ろうとしている光景だ。前方左手には海が見えているが、残念ながら現在の「化粧坂」からは建物が邪魔して海は臨めない。絵の説明板が立っていた。この絵のタイトルは「大磯虎ヶ雨」。この「虎」は「虎御前」からきているらしい。つぎのような説明がある。「歌舞伎で正月の吉例狂言といわれる、曽我十郎と大磯の郭の遊女・虎(虎御前)が仇討ちのため二人が別れ、仇討ちの果てに陰暦 5 月 28 日、曽我十郎が命を落とした悲恋物語の曽我之狂言でよく知られ、虎御前の流した涙が雨になったという故事から梅雨時のしとしと降る雨は『虎ヶ雨』とも呼ばれている」。だが、今この歌舞伎を知っている人はほとんどいないだろう。この少し先に「化粧坂の夜雨」の碑(写真 1)がある。「雨の夜は 静けかりけり化粧坂 松の雫の音はかりして」と書かれているのだそうだ。昭和 12 年に建てられた「大磯八景」の碑のひとつである。

写真1 化粧坂の夜雨の碑

「竹縄架道橋」で JR の線路の下を潜ると、先にも同じような松並木が続いている。道路に斜めにかかる立派な松が印象的だ。ここを抜けると大磯の町である。

写真2 大磯松並木

  大磯宿の概要はつぎの通り。

  • 所在地:相模国淘綾 (ゆるぎ) 郡(神奈川県中郡大磯町大磯など)
  • 江戸・日本橋からの距離:16 里 27 町
  • 宿の規模:家数 676 軒、本陣 3、脇本陣なし、旅籠屋 66
  • 宿の特徴:北に大磯山塊を置く丘陵地であり、古くから交通の要衝だった。『吾妻鏡 (あづまかがみ) 』に遊君を置く宿場として書かれている。鉄道が敷かれて以降は、風光明媚・温暖な土地柄から別荘地として栄えた。島崎藤村・伊藤博文・大隈重信・陸奥宗光・吉田茂ら多くの有名人の邸宅・別荘がある。
図3 大磯宿

「江戸見附跡」の看板の前を通過。道は「国道 1 号線」と合流し、もはや「旧東海道」の風情はなくなった。「大磯駅入口」の交差点を過ぎると左手に「虎御石(とらごいし)」の説明板が現れた。

写真3 虎御石の説明板


「曽我十郎の剣難を救った身代石。また虎御前の成長につれて大きくなったといわれる生石である。江戸時代の東海道名所記に『虎が石とて丸き石あり、よき男のあぐればあがり、あしき男の持つにはあがらずといふ色好みの石なり』とある。この場所におかれていた」と書かれている。「虎御前」は「化粧坂」のところで出て来た「大磯宿」の遊女である。「お江戸日本橋」の唄に「大磯小磯の客を引く」とある。ここではかつて多数の遊女が客を引いていたものと思われる。この「虎が石」は今は「延台寺」の寺宝となり、旧暦 5 月 28 日に開帳されている。延台寺のホームページに写真が出ているが、長さが 70 センチくらいのただの扁平な石である。

 この先、「小島本陣」「尾上本陣」の石碑の前を過ぎると道が右にカーブしている。その角に有名な「井上かまぼこ店」があるが、今日は水曜日でお休みだった。「照ヶ崎海岸」の標識を見かけたので海の方に入ってみようと、「鴫立庵(しぎたつあん)」の手前で左折した。「大磯町保健センター」の前の道を進む。道に沿って川が流れている。これが「鴫立沢(しぎたつさわ)」だろうか?「西湘バイパス」をくぐる。海岸沿いをこの国道 1 号線のバイパスが走っているので、せっかくの景観がだいなしだ。水の流れを越えてなんとか浜まで出た。久しぶりに見る青い海だ。前方に見える町が「小田原」だろう。そこまで砂浜が続いているようだ。そこから左にのびる山。あれが伊豆半島だろう。今日は「小田原」まで歩くのだが、だいぶ距離がありそうだ(大磯~小田原間は 4 里ある)。

写真4 照ヶ崎海岸

 国道まで戻ると「湘南発祥の地」の碑があった。「湘南」とは中国湖南省洞庭湖のほとり湘江の南側のことであり、江戸時代初期、 小田原の「崇雪(そうせつ)」という人が、平安末期の歌人西行法師の「心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕ぐれ(新古今和歌集)」の歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に「鴫立沢」の標石を建て、その裏に「著盡湘南清絶地」と刻んだのが始まりらしい。大磯町鴫立庵のホームページによれば、これは「清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所」という意味だという。この辺りの景色を中国の「湘南」になぞらえたのだが、「崇雪」が中国の「湘南」の景色を知っていたというわけではないだろう。その「鴫立沢」の標石は「鴫立庵」の中にあるようだが、今回は中には入らず、入り口の写真を撮るだけにした。

写真5 湘南発祥の地の碑
写真6 鴫立庵の入り口

 この先、上方見附の説明板を過ぎると、左手に「明治記念大磯邸園」の入り口があった。見るからに工事中の雰囲気だったので通り過ぎてしまったのだが、実はこの付近にある伊藤博文、大隈重信、陸奥宗光、西園寺公望の邸宅・邸園を整備して保存しようというプロジェクトが進んでいるようだ。現在は開旧大隈重信別邸・旧古河別邸と陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸の庭園のみが公開されている。

写真7 上方見附説明板
写真8 明治記念大磯邸園入り口
明治記念大磯邸園【公式】
明治記念大磯邸園公式サイト。伊藤博文、大隈重信、西園寺公望、陸奥宗光にゆかりのある邸宅や庭園などの歴史的建造物が残されています。

 この先で写真 9 の標識(写真は西から東を向いて撮影)を見つけた。「関東ふれあいの道 こゆるぎの浜 0.2 km 旧吉田茂邸 1.7 km」とある。昨年の千葉一周では何度も「関東ふれいあの道」を歩いた。横須賀三浦海岸でも「関東ふれあいの道」が海岸沿いに続いていた。ここでも美しい海を見ながら「旧吉田茂邸」まで歩けるに違いない! そう思って、私は旧東海道を離れ、海の方へ、「関東ふれあいの道」を進んだ。

写真9 関東ふれあいの道の標識

 ところが、この「関東ふれあいの道」は「西湘バイパス」に沿って走るただの自転車道だった(写真10)。期待した海は、バイパスが邪魔をしてほとんど見えない。仕方なく、この期待外れの道を「旧吉田邸」まで歩いた。

写真10 関東ふれあいの道

「旧吉田茂邸」は大磯町の西側の西小磯にある。面積は 3 ha(約 9,000 坪)、東海道を隔ててその北側には「旧三井財閥別荘跡地」7 ha(約 21,000 坪)があり、合わせて「大磯城山(じょうやま)公園」となっている。もともとは「吉田茂」の養父で実業家の「吉田健三」が、明治 17 年(1884)に土地を購入していたもので、「吉田茂」は総理大臣時代に、気分転換のため週末を大磯で過ごすことが多かったという。本邸は平成 21 年に焼失したものを再建し、平成 29 年から一般公開しているものである。

写真11 旧吉田茂邸
写真12 旧吉田茂邸庭園

 なんとも広大な邸宅である。それにしても、旧東海道「大磯宿」の話題としては、「鴫立庵」と「虎御前」くらいしか出てこないのだが、明治期にはいると漁村が一大別荘地に変貌するのである。すでに述べた吉田家、三井財閥本家、伊藤博文、大隈重信、陸奥宗光、西園寺公望のほか、後藤象二郎、林董(外交官)、山縣有朋、岩崎弥之助(三菱財閥二代目)、大倉喜八郎(大倉財閥創始者)、山内豊景(旧土佐藩主家当主)、徳川義禮(旧尾張家主家当主)など数多くの大物政治家・実業家の別荘が建てられている。なぜ、大磯が別荘地として人気になったのか? きっと仕掛人がいるはずである。調べてみると「松本良順」という人物が浮かび上がった。

『デジタル大辞泉』には、「西洋医学者。江戸の人。字(あざな)は子良。号は蘭疇(らんちゅう)。佐藤泰然の次男。幕命により長崎でポンペに学び、江戸に戻ってから医学所頭取。のち明治新政府の初代陸軍軍医総監を務めた」とある。「佐藤泰然」は佐倉藩医で「順天堂」の始祖である。その次男の「松本良順」が蘭書で海水浴の効用を知り、「大磯」が適地であると各所に働きかけ、明治 19 年(1885)に「大磯」に海水浴場を開き、旅館と病院を兼ねた「祷龍館(とうりゅうかん)」を建設したのだそうだ。さらに、翌 明治 19 年(1886)東海道線の横浜-国府津間の延長が決まり、松本は「伊藤博文」に大磯に停車場を設置するように働きかける。そして「大磯駅」が明治 20 年に開設。そこから海水浴ブームが起こり、多くの人が大磯に押しかけるようになったとのこと。

 このように「松本良順」が仕掛人だが、それだけだろうか? ディベロッパーもいるはずである。「”天下別荘地”大磯の変遷」という年表を見ていて、面白いことに気づいた。「伊藤博文」ら多くが別荘を建てるのは「大磯駅」開設後だが、「吉田茂」の養父である「吉田健三」の邸が建設されるのは、駅が出来る前、海水浴場開設の明治 19 年のことなのである。先見の明があるというか、早い時期だからこんな広大な土地が手に入ったのだろう。

 この「吉田健三」は福井藩士「山本謙七」の長男として生まれる。16 才で家を捨て大阪で医学を修めた後、長崎で英語を学び、英国の軍艦に便乗して渡英、英国で二年間過ごしたという猛者である。帰国後は横浜「英一番館」(現在の山下町シルクセンターの場所)にあった「ジャーディン=マセソン商会」の支店長となる。三年後に独立して、莫大な財を築く一方、明治 5 年には仲間とともに「東京日日新聞」(今の毎日新聞の前身)を始め、自由民権運動の「板垣退助」と知り合う。この友人に土佐藩の「竹内綱」がおり、その 5 男を養子にもらうが、これが「吉田茂」である。このように「吉田健三」は横浜有数の富豪で、日本の政財界に太いパイプを持っていた。その彼がいち早く、「大磯」に眼をつけて別荘の建設を進めていたのである。そして、ここに第三の人物がいた。

上郎 幸八(こうろう こうはち)

 この珍しい名前の人物の別荘も大磯にある。そしてその場所はなんと吉田邸の隣で、土地は二人の共有地として購入されているのである。ウィキペディアによれば、彼もまた福井の出で、横浜で西洋洗濯屋の店員や人力車夫などを経て両替店を開き成功、貸金業・金融業や不動産開発で財を成したらしい。また「大磯郷土資料館ホームページ」によれば、「吉田健三」の士子(ことこ)夫人と「上郎幸八」の嘉代夫人は姉妹で、江戸の儒学者、「斎藤一斎」の孫娘なのである。「大磯今昔」にはつぎのようにある。「吉田健三氏との仲は、深く大磯の地に有り、公は横浜・湘南の地の有望性に着眼、原野、田地、沼地、とあらゆる土地を買収・開拓し道路の敷設・河川の開削(かいさく~山野を切り開いて道や川などを通ずること)等に、土地を献納し、又湘南地方の風致保安林一帯を、軍医総監でした松本順や、吉田健三両氏とはかり、時の政府の高位、高官並びに内外の貴顕紳士の為に夏季静養別荘地を約 42000 坪を保有します。明治 20 年に大磯に鉄道が曳かれてから、一気に別荘族が増えたのもそのお蔭です。今日、公が各地開墾、開拓の一大恩人として景仰されている所以です。」

彼こそがディベロッパーであろう。

小田原宿への道中、六所神社など

「大磯城山公園」に沿って歩き、「本郷橋」を越えて旧街道を進むのだが、道を間違えてタイムロスしてしまった。この先、「国府本郷の一里塚」を過ぎる。「国府本郷」は今は「こくふほんごう」と読んでいるが、古くは「こうほんごう」である。「国府津(こうづ)」や市川の「国府台(こうのだい)」と同じく、「国府」を「こう」と読む。この名は平安時代末期にこの地域に「相模国国府」が置かれたことに由来する。この先、「小田原宿」まで「国道 1 号線」を歩くことになるのだが、これがとても長かった。「大磯宿」~「小田原宿」間は 15.6 キロ、その大半が「国道 1 号線」歩きなのだ。

写真13 国府本郷の一里塚

「六所神社」の鳥居があったので、立ち寄ってみようと右折する。車 1 台と自転車がやっと通れるほどの細いトンネルで「東海道線」の線路をくぐるとその先が T 字路になっていて、正面に神社がある。「相模国総社」と書かれている。「総社」とは『日本大百科全書』によれば、「惣社とも書く。一定の地域内に鎮座している神社の祭神を勧請して、特定の一神社に合祀し、その地域の集約的な祭祀を行うものとされる神社」であり、その地域の代表神社という位置づけである。なかなか立派な神社だった。参道の両側に池が作られていて「六所ひぐるま弁天社」「六所龍神大神社」が祀られている。そこを抜けると拝殿の前に出る。祭神は「櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)」「素盞嗚尊(スサノオノミコト)」「大己貴尊(オオナムチノミコト)」で、なんと「出雲系」なのである。神社のホームページにはつぎのように説明がある。

御創建は 2100 年ほど前に遡ります。
崇神天皇甲申の歳(紀元前 97)、出雲地方より移住した氏族がこの地域を「柳田郷」と名付け、彼らの祖神である櫛稲田姫命、素盞嗚尊、大己貴尊(大国主命)を守護神として、石神台、またの名を伊勢神台 (当鎮座地北西 1 km の台地)にお祀りし、社殿を築き「柳田大神」と称しました。
大化の改新後、国の行政も次第に整い、国司の制度が始められてゆく中、元正天皇の御代養老 2 年(718)、奉遷暦勅をもって相模国八郡神祇の中心をなすべき旨が宜下され、相模国総社と定められました。場所も石神台より現在地へ遷座し、柳田大神に、一之宮寒川神社・二之宮川勾神社・三之宮比々多神社・四之宮前鳥神社・一国一社平塚八幡宮の御分霊が合祀され、六社の大神様を合わせ祀ることから「六所宮」となりました。

写真14 六所神社拝殿
写真15 六所神社本殿

「柳田」というのは移住してきた氏族の名前のようなのだが、その詳細は不明である。出雲からの移住者といえば、第 6 回で取り上げた「相模国造 弟武彦命(オトタケヒコノミコト)」のルーツが「天穂日命(アメノホヒノミコト)」であり、出雲族である。一方、大磯より西には「師長国」があって、こちらの「国造」は「茨城国造」の祖「建許呂命(タケコロノミコト)」の子の「意富鷲意弥命(オオワシオミノミコト)」。この一族は「天津彦根命(アマツヒコネノミコト)」系で出雲族ではない。「六所神社」の祭神からはこの地が「相模国造」の勢力圏に属していたと思わせる。

 もう少し探ってみよう。この「天穂日命」系一族の有力者としては「武刺・元邪志(武蔵)国造」の「兄多毛比命(エタモヒコノミコト)」がいる。この「武蔵国」の「一の宮」が埼玉県大宮市の「氷川神社」で、祭神は「須佐之男命」「稲田姫命」「大己貴命」で、順番は違うが「六所神社」の祭神と一致している。両国造の名前はよく似ている。「兄」「弟」とあるから、「武蔵国造」と「相模国造」は兄弟だと思われる。さらに武蔵の「氷川神社」の「氷川」は出雲の「肥の川(斐伊川)」からきているという説が一般的。その「斐伊川」の上流に「スサノオ」が降臨したという「船通山」があり、その麓の「鳥上」という村で八岐大蛇に差し出されようとしていた「櫛稲田姫」を助けるのである。この両国造は「斐伊川」近くの出身ではないだろうか?

 さてこの「六所神社」の祭りに「相模国府祭(さがみこうのまち)」がある。この祭りでは「六所神社」の他、相模国の一の宮から五の宮までの神輿が相対する。その様子を谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 関東編』は次の様に記している。まさにこの辺りが「相模国」と「師長国」の中間地点なのだと思わせる祭りである。

忌竹で四方をかためた場所の中央に一の宮寒川神社が虎の敷皮を敷くと、二の宮川匂神社が一メートルほど前に敷皮を敷く。次に一の宮がさらに二の宮の一メートルほど前に敷皮をずらすと、二の宮も同じようにする。その間無言。やがて三の宮比比田神社の神官が「まずは(「いずれ」と言うときもある)明年まで」と言って、この祭事は終わる。この座問答については、相模と師長の両国が合併して相模一国となったときの一の宮争いの表現だとする説が一般的であるが、ほとんど無言の神事ゆえ禅問答だとする説もある。しかし座問答が終わると稲田姫を祀る六所神社へ七度半の迎えを立てることから、婿になる神の先陣争いの表現とみるべきであろう。

川口謙二 寒川神社 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 関東編』

「六所神社」を後に、さらに西に歩く。そろそろお昼にしようと「二の宮駅」を過ぎたところで店を物色すると「増田屋」というおそば屋さんを見つけた。天丼とそばのセットをいただく。先客で、男性の老人達 4 名のはしゃいだ声が聞こえた。山の話をしているようだ。店を出て「小田原」に向けて歩き始めると、初老の女性二人組と出合った。見ると登山靴を履いている。ハイキング帰りという恰好だった。あれっと思いながら進むと「吾妻山(あずまやま)入口」の標識。さらにその先に「吾妻神社」の鳥居がある。ここで地図を見ると、「国道 1 号線」の北側が山になっており、「二宮吾妻山公園」があり、その中に「吾妻神社」があるようだ。さきほどの皆さんは、きっと「吾妻山」にハイキングに行かれたのだろう。

「吾妻神社」は「ヤマトタケルノミコト」の妻「弟橘媛(オトタチバナヒメ)」を祀る神社である。東征において、「ヤマトタケル」一行が三浦半島の「走水」から海を渡って「上総」へ渡ろうとしたとき暴風雨に遭う。船もろとも海中に沈むかと思われた時、妻の「弟橘媛」が海に身を投じて海を沈めたという伝承がある。古事記では「七日の後、その后の御櫛海辺に依りき。すなわちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき」とある。この櫛を埋めた場所が「吾妻神社」だという。ところが、この「吾妻神社」は各地にあるのである。神奈川県二宮町、横浜市、横須賀市、厚木市、千葉県木更津市、富津市、袖ケ浦市、鴨川市、群馬県吾妻郡中之条町など。木更津の「吾妻神社」には「千葉県一周歩き旅」で立ち寄っている。群馬県は意外だった。山の中になぜ「弟橘媛」と思ったのだが、これは『日本書紀景行紀』の「時に日本武尊、毎(つね)に弟橘媛を顧びたまふ情(みこころ)有(ま)します。故、碓日嶺(うすひのみね)に登りて、東南を望りて三たび歎きて曰はく、『吾妻はや』のたまふ」の段から来ているのだそうだ。

写真16 吾妻山入口の交差点
写真17 吾妻神社の鳥居

「吾妻神社」に立ち寄ろうかとも思ったが、時間がかかりそうなので今回はパスして先を急ぐ。「小田原市」に入る。なかなか海が見えなかったが、「史跡車坂」の碑の手前で視界が開けた。この先が「国府津」の町である。「西湘バイパス」との距離が近い。「森戸川」を越える。この手前が「国府津海岸」だ。「車坂」から歩くこと 1 時間、やっと「酒匂川(さかわがわ)」に到着。ここを越えたら「小田原宿」といいたいところだが、もう一つ「山王川」を渡らなければいけない。

写真18 車坂から駿河湾を臨む
写真19 酒匂川(1)

「山王橋」を渡った右側に神社があった。「山王神社」で「少彦名命(スクナヒコノミコト)」「大山祇命(オオヤマツミノミコト)」「大山咋命(オオヤマクイノミコト)」を祀る。説明板には「星月夜の社」とある。明応 4 年(1495)2 月、北條早雲は小田原城を手中に治め相模の国を平定するが、その頃の山王神社は海辺の方にあった。暴浪のためにその地が崩壊したので、慶長 18 年にここに移したとき、 旧社地にあった「星月夜ノ井戸」も一緒に移したらしい。境内にその井戸があったらしいのだが、見逃してしまった。

写真20 山王神社

「山王神社」を過ぎると、「小田原宿」の「江戸見附跡」である。ちょうど「小田原まちしるべ 山王口」という碑が立っていた。時刻は14:16、ここで「大磯宿」からの長い歩き旅は終了、「小田原駅」へと向かった。「小田原駅」到着が14:53。旧東海道と JR はこのあたりではちょっと距離がある。「平塚」を出発してから「小田原駅」までの歩行距離は 26.7 キロ、所要時間 7 時間 27 分だった。つぎは「小田原宿」から「箱根湯本」を経て、いよいよ「箱根越え」だ。

写真21 小田原まちしるべ 山王口の碑
写真22 小田原駅


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