
土山宿(11/6)
今回の広重の絵は「春の雨」。前回の終わりに書いた「海道橋」、橋を渡るとこの絵の説明板があった。「土山を描いた『春の雨』は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。土山宿は東海道 49 番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22 町 55 間(約 2.5 km)に細長く連なっていた。東の起点である田村川板橋は、 安永 4 年(1775年)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている」とある。つまり、今渡った「海道橋」が江戸時代の「田村板橋」なのだ。
林の中を進むと右に「高札場跡」の石柱があり、説明板が二つ立っていた。ここはちょうど「田村神社」の第二鳥居の手前だ。右に曲がれば社殿、一方、「旧東海道」は左折で、参道を通って宿場へ入る。

まず「海道橋」についての説明板を見てみよう。現在の橋の竣工は平成 17 年と新しい。「江戸時代の安永四年(1775)に架けられた田村永代板橋を復元した橋です。往時の橋は、中二間一尺五寸(約四一米)、長さ二十間三尺(約三七・三米)、高さ〇・三米の低い欄干が付いた当時としては画期的な橋でした。安藤廣重の「土山宿・春の雨」は、この橋を渡る大名行列の様子を東側から描いたものてす。橋の右の方には、橋番所、橋のたもとには高札が架っていたといわれています。それ以前は、現在の国道より約五十米下流の辺りを徒歩によって渡っていたといわれています」と書かれている。現在の位置関係(図 2)と江戸時代の「東海道名所図会」(図 3)はおおよそ同じである。「名所図会」の右下に描かれている鳥居が第二鳥居。「本地堂」の場所が現在の拝殿だろう。「名所図会」の「本殿」に向かう道は橋を渡ってから尾根伝いに曲がりくねっているが、これは「授与所」の前を通る道のようだ。


もう一つの「田村神社」の説明板、「田村神社は弘仁三年(812)の創建で坂上田村麻呂公を主祭神とし、嵯峨天皇と倭姫命をも祀っている。坂上田村麻呂公(七五八年~八一一年)は平安時代の武人で延暦十六年(797)には桓武天皇より征夷大将軍に任じられ、二度にわたって蝦夷平定の遠征に出た。また鈴鹿山の悪鬼退治も伝えられ、田村麻呂公の薨去後、嵯峨天皇の勅命によりこの地に田村神社が創建され、厄除大祈祷が斎行された。本殿は鋼板葺き三間社流造で御鎮座千二百年を記念して平成二十三年に造替された。木殿の前を流れる御手洗川に年齢の数だけ節分豆を落として祈念すれば災厄から逃れられると伝えられている。年間多くの神事が行われるが、二月十七日から十九日にかけての厄除大祭と、七月二十五日から二十七日にかけての万燈祭が特に有名で、多くの参詣者が訪れる」と書かれているが、「坂上田村麻呂」がこの地を訪れ、鬼退治をしたという史実はないようだ。歴史はもう少し複雑だ。調べたものをまとめると次の様になる。
- 垂仁天皇四十五年「甲賀翁(甲可翁)」という人物が現在「田村神社」がある場所に「倭姫命」の神霊を祀った。「倭姫命」が「天照大神」を「伊勢」に祀る前に、候補地を求めて各地を回ったという「元伊勢」伝説があり、後で述べる「甲可日雲宮」もその場所の一つとされる。これにともない地元の有力者(「甲賀翁」)が「倭姫命」を祀ったのであろう。その神社を「高座大明神」といった。(前々回の「亀山」でも同じような話が出て来た)。
- 弘仁三年(812)「嵯峨天皇」の勅により「坂上田村麻呂」を祀る祭壇が「鈴鹿二子の峰」に設けられたとされる。
- 弘仁十三年(822)四月八日に「高座大明神」の傍らに一社を建てて遷宮、 「高座田村大明神」と称したとされる。
- 『東海道名所図会』では当時の祭神は「田村麿」「嵯峨天皇」「鈴鹿御前」となっていた。室町時代の謡曲・草紙に出てくる「田村丸」が「鈴鹿御前」と「鈴鹿の鬼退治」をした話の影響を受けたものと思われる。
- 社名は寛永十五年に下賜された額には「正一位田村大明神」とあり、明治二十年四月六日に「田村神社」と改称された。
『日本の神々第五巻』(白水社)には「倭姫命、田村将軍といった神格が付会される以前の『鈴鹿明神』は、おそらく鈴鹿峠の神であったにちがいない。(中略)田村神社のように峠の神と田村麻呂伝説が結合する背景について堀一郎氏は、田村麻呂伝説を持ち歩く密教者が過去にいて、各地の山神や峠の神の託宣という手段で伝説を流布したとみる(『我が国民間信仰史の研究(一)』。おそらく当社にも、そのような歴史的経緯があったのであろう」と書いている。
それでは「田村神社」にお詣りしていこう。その前に写真 2 が「鈴鹿峠」の手前、「高畑山」への分岐の側にあった「田村神社跡」の標柱だ。ここがかつて祭壇が置かれた場所だろう。

「土山」の「田村神社」に戻る。第二鳥居から奥へ進んでいくと、正面に拝殿、左に社務所・祈祷所のある広場に出る。


拝殿にお詣りしたが、この時はよくあるように本殿がすぐ後ろだと思っていた。ところが、先ほどの地図の様に本殿はずっと奥なのだ。

「拝殿」から右に回ると「神明石鳥居」があり、ずっと進んでいくと本殿があるのだ。それと気づかず、ここで引き返し、参道を歩いて「国道 1 号線」に面した「第一鳥居」に出た。


目の前に「蟹が坂飴」を売るお店があった。国道を渡る。「道の駅 あいの土山」で珈琲でも飲もうかと思ったのだが、リニューアル工事の為、休店中。残念!

その先の「生里野(いくりの)公園」のところで道は右に折れる。ここに「土山宿」の地図と碑があった。

「現代版東海道鈴鹿峠土山宿絵地図」という詳細な地図を見つけた。掲示されていたものより詳しいので、こちらを掲載しておく。

宿場の概要はつぎの通り。
- 所在地:近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市土山町北土山・南土山)
- 江戸・日本橋からの距離:110 里 11 町 7 間
- 宿の規模:家数 351 軒、本陣 2、脇本陣なし、旅籠屋 44
- 宿の特徴:古くから近江と伊勢を結ぶ交通の要地。鈴鹿峠寄りに、坂上田村麻呂を祀る田村神社がある。
茶畑の間を抜けると家並みが始まる。『日本歴史地名大系』には「家並に入ってからは西へ生野町・一里山町・中垣外(なかがいと)町・稲荷町・中町・吉川町・大門町・愛宕町・辻町・滝町と続き松尾川(野洲川)に至る」とあるから、「生野町」にあたるのだろう。なお、「土山」はお茶の産地として有名で、日本五大銘茶のひとつに数えられている。

建物には屋号が表示されていた。これと図 4 を見比べれば現在地が分かる。右側のこの建物は「たば古屋」とあり、最初の家並みの右側の最後の家である。屋号の多くはその家が商うものから来ているので分かりやすい。この家は「煙草屋」。右側の最初の家が「要志屋」となっていたが、これは「楊枝屋」ではないか? 家の写真をあまり撮っていないのが惜しまれる。

左側に「お六櫛の碑」があった。「江戸元禄の頃、信濃の国の櫛職人が伊勢参りを終えて京都見物に行く途中、ここ土山宿の生里野で重い病気になり、生里野の民家で養生させてもらって一命をとりとめ、京へと旅立つことができました。その旅人は信濃へ帰国した後、土山で受けた恩恵に報いようと、櫛の製法を伝授すべ再度土山を訪れました。この櫛は「みねばり」などの木を材料にして作られ、土産物として大変人気がありました。最盛期には十軒余りの業者が棒に関わっていましたが、今は姿を消してしまいました」と説明がある。この「お六」とは何か? ここで職人を看病した娘の名前かと思いきや、「信濃の櫛」の名前が「お六櫛」で、木曽路・萩原の名産品として全国的に有名だったらしい。「お六」は「みねばり」の櫛を考案した娘の名前だったのだ。

この立派な家は「お六櫛の碑」から少し進んだ右側の「扇屋」だが、「本家櫛所」と大きな看板が上がっていた。その隣に旅籠「大槌屋」の標柱。


その先の右側に「一里塚跡標柱」。

宿場の中央部近くまでやってきた。左手に「旅籠屋山本屋跡」の標柱とその先に「井筒屋跡」の標柱。

「井筒屋」の方は「森白仙終焉の地」という説明板がついている。誰だろう? と説明を読むと、なんと「森鴎外」の祖父。彼は「津和野藩主亀井家」の典医で万延元年の参勤交代の際に江戸に出向し、翌年五月に戻る予定が病気のために随従できず、養生の後、十月に帰国の旅にでるが、ここで亡くなったというのだ。「森鴎外」は東京出張の折に墓参りのためこの地を訪問している。その時、「井筒屋」はすでに廃業しており、前の「平野屋」に宿泊したという。

この「井筒屋」の先に「民芸茶屋うかい屋」さんがあった。さきほど珈琲を飲めなかったので、ちょっと休憩とばかり店内に入った。この建物、「菱屋」という質屋の古民家を改築したものらしい。中に入ってびっくり、入口にはいろいろな民芸品がズラリと並んでいる。声をかけるとオジサンが奥からでてきた。

「街道歩き」の本やグッズがいろいろ並んでいる。NHKの「街道てくてく旅」の東海道編の本もあり(実はこの本、私も持っている)、サッカー選手の「岩本輝雄」さんとオジサンのツーショットもあった。東海道・中山道のガイドブックも多数。おいしい珈琲とともにオジサンとの会話で至福の時間が過ぎていった。そこで「あいの土山」の話になった。この「あい」とはどういう意味か? オジサンにもらった資料を掲載しておく。
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」
土山を紹介すると、「あ、あの鈴鹿馬子唄に出てくる土山」とそれ程全国的に知れ渡った一節である。が、その「あい」の意味合いについては諸説入り乱れて定説を持たない。今回、その諸説をご紹介し、読者の考察を乞う。
(其の一)相の土山説
坂(坂下宿)と相対する土山(土山宿)とする説・鈴鹿峠を境に伊勢側と近江側では天候ががらりと違う。川柳に「土山で濡れた雨具を坂で干し」。
(其の二)間の宿説
宿駅制度が出来、土山が本宿に設定される以前は間(あい)の宿であった事から、土山宿は、坂下宿程繁栄していないことを唄ったとする説、「照る」を「栄える」、「雨が降る」を「さびれる」と解する様だ。
(其の三)鈴鹿の坂説
峠の頂上付近に土山という土盛があったとする説
(其の四)間の土山、松尾坂説
坂を鈴鹿の坂ではなく、松尾坂とする説(今の白川橋上流辺り)
(其の五)藍の土山説
当時、土山では藍染めが盛んで藍草の栽培が行われていたとする説。(現在も紺屋と呼ばれる家がある)
(其の六)鮎の土山説
当時、土山では鮎漁が盛んで、特産物として有名であったとする説
(其の七)あいのう土山説
北勢地方では「間もなく」という意味の「あいのう」という方言がある事から、「まもなく土山へ着く」とか「まもなく雨が降ってくるだろう」と解す説。
他にも説があるかも知れない。読者諸氏のご意見やいかに……
「馬子唄」であることを考えると小難しい話はないので、説明的なものは除外。もう一つのポイントは唄に込められた「移動感」。とすると(其の七)ではないか。
前に書いたように、この日はコミュニティバスで次の「水口」まで移動して宿泊する予定。すでに 14 時になっているので、疲労感・日の短さから考えて、これから 3 時間歩きはつらい。あまり早くホテルに着いてもチェックインが始まらないので、時間つぶしできるところはないかと訊くと、「東海道伝馬館」ならかなり時間をかけて見ることができると教えてもらった。ということで「うかい屋」さんを出て、 2 軒あった本陣のひとつ、街道左手の「二階屋(堤家)本陣」の標柱の前を過ぎて、三つ角を北へと向かった。

「伝馬館」の入口に着いた。江戸後期に造られた土山の民家を改装して、平成13年にオープンした施設だ。なぜ「伝馬館」なのか? 中に入って話を聞くと、他の施設との差別化のために「宿駅伝馬制」をテーマにしたとのこと。

建物は 2 階建てで、1 階に「土山宿」の説明パネルとジオラマがあり、またビデオ「土山宿よもやま劇場」を観るスペースがあった。 2 階には現代版「東海道五十三次」ともいえる全宿場の絵と街道名物が展示されている。たとえば、「亀山」~「水口」だとこんな具合。

「土山」の絵は宿の入口にあたる「生里野」。あそこは松林だったのだ。その横は茶畑だろう。街道名物の方は「蟹が坂飴」と「土山茶」が並んでいる。

「おばあちゃん」からいろいろ話しを聞いた。この辺り、若い人がみんな外へでてしまい、老人ばかり。電車やバスの便が悪いので、一人に一台車を持っている。高齢者の免許返上、そんなことをしたら生きていけない! 90歳を越えた人も車を使っている。確かにそうだろう。ここで生きていくには車は必需品だ。お茶を入れてもらい、バスの時間までビデオをゆっくり観た。
この日はここで終了。歩行距離は 23 キロ、休憩・見学・食事を含む歩行時間は 6 時間 39 分。最高高度は「鈴鹿峠」の 397.8 m。
土山宿(11/7)
翌日、バスで土山に引き返し、7:54「伝馬館」の前に着いた。歩き旅の三日目は「水口宿」と「石部宿」の間にある「夏見」のコンテナホテルまで歩く。前日とはうって変わって寒い、そして風が強い日だった。さあ、「土山宿」の残りを歩こう。街道から外れるが、バスから見えた大きな常夜燈、「平成万人灯」にも寄ってみよう。
旧街道に戻ると「問屋場跡」だが、同じ石柱に「成道学校跡」とある。どうやら「問屋場」の跡を学校として再利用していたらしい。

同じく右側「平野家」の先に「問屋宅跡」の標柱がある。「問屋宅」は聞いたことがないので説明板を読むと、「近世の宿場で、人馬の他立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に一名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・收付・馬指・ 人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。土山宿は、東海道をはさんて北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織か存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした」とある。つまり「問屋」は役人の職名で、「問屋場」は仕事場、「問屋宅」はその自宅ということだ。

その先が「土山家本陣跡」。苗字が地名そのもだから歴史のある旧家だと思ったら、この地の土豪だったようだ。北の方に「土山城」があるが、甲賀五十三家のうち特に武名高い二十一家のうちのひとつである「土山鹿之助」が十五世紀後半に築いた城。土山城は「織田信長」の家臣「滝川一益」に攻められて落城。その後「土山氏」は「徳川家光」の時代に本陣職を命じられ、以後代々これを勤めてきたそうだ。この建物は国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。また、離れが「明治天皇」の御休泊所として使われため、「明治天皇聖蹟碑」が建っている。


この先、左に「東海道あいの土山宿お休み処」の看板。ここはコミュニティセンターらしい。

少し進むと「旧街道」は「県道 539 号線」と交差する。その北西の角に「高桑闌更」の句碑。「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」 。この隣が小さな公園になっていて、「大黒屋本陣跡」と「問屋場跡」の石柱。「問屋場」は二つあったようだ。「土山宿」に本陣は二軒で、すでに紹介済みである。この「大黒屋」はもともと旅籠屋で、本陣の一つの「堤家」が没落したのち、本陣業務も行っていたとのこと。前にも書いたが「本陣」は「旅籠屋」とは違って食事を提供しないので、実入りが少なく経営が苦しかったようだ。

ここにも「明治天皇聖蹟碑」と敷地の外れに「高札場跡」の石柱。


その先、川の手前の左側に「土山宿陣屋跡」の石柱。

国道に出る手前右側に「土山宿」の碑、ここが出口だろう。8:11 「土山宿」が終了。かなり見る物が多かった。さて、ここから「水口宿」に向かうが、その前に国道を戻って「平成万人灯」を観た。場所は「土山支所前」の交差点の北西の角。大きなものだが、戻るだけの価値があったかどうか……

土山宿~水口宿

バス停「土山西口」の辺りを昔は「追分」と呼んだ。往時の「東海道」は「松尾川」を越える渡し場に向かっていた。「追分」と呼ぶのはここから「御代参街道」が分かれていたからだ。国道の北側に道標が建っている。1本(写真左側)は「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれ、天明8年(1807)のもので「永源寺」の「世継観音」への案内道標。もう1本は「右 北国たが街道 ひの八まんみち」という文化 4 年のもの。この道は脇往還で「中山道」とつなぐ。「たが」とは「多賀大社」のことだ。

さて、この先で「旧東海道」は国道から右に分岐するのだが、ここを「松尾川の渡し」まで進んでも橋がなく、また国道まで戻らねばならない。そこでこのまま国道を歩くことにした。途中、気温が表示されていたが、なんと 10 ℃、風も強い。さすがにシャツの上にパーカーといういでたちでは寒くなって、間に防寒着を着こむ。寒波が来ているという予報なのである。
「松尾川」とは「野洲川」のことである。「田村川」もここに注ぎ、大河となって「琵琶湖」に注ぐ。これからずっとこの川と並行して歩いて行く。「野洲川」を「国道 1 号線」の「白川橋」で越えた。すこし手前で南に入り「歌声橋」という歩道橋を渡るという手もあるようだ。

川を渡ってから、国道を横断して南の歩道を歩く。左手に茶畑があった。その先に「伊勢大路」の碑があり、その横の細い道が「旧東海道」だ。「松尾の渡し」から「甲可日南宮(こうかひくものみや)」を経て南下する道がここに結ばれる。「甲可日南宮」は前述の「倭姫」が滞在したとされる「元伊勢」の宮だが、甲賀市内には他にも候補地があるそうだ。


「歌声橋」からの道と合流。ここに「垂水斎王頓宮跡」の説明板があったので、掲載しておこう。斎王が通った「阿知波道」が「旧東海道」の原型だろう。
国道北側の高台にみえる森は、古代から中世にかけて、 斎王の宿所にあてられた頓宮の跡である。斎王とは歴代天皇が即位するごとに、天皇の名代として、伊勢神宮の祭祀に奉仕するために遣わされた、未婚の内親王または女王のことで、天武天皇より後醍醐天皇までの約六六〇年間に七十四人(異説あり)の斎王が任命された。
伊勢に赴く斎王の行列(斎王群行)は平安時代の仁和二年(八八六)に鈴鹿峠を越える新道(阿知波道)が開通したことで土山を通ることになり、京から伊勢までの五泊六日の行程で、勢多・甲賀・垂水・鈴鹿・壱志の五か所に頓宮が設置された。 昭和十九年(一九四四)、地元で言い伝えられてきた土地が、垂水頓宮として国の史跡に指定された。斎王の制度が途絶えてからも地元住民は、「貴い所」または「御古趾」と呼び、この地を大切に守ってきた。
なお、『倭姫命世記』には、倭姫命が伊勢神宮を開く前に、甲可日雲宮を設けて四年間滞在したとあり、その折に甲可翁が高樋を設けて水を宮に引いて日々の飲料水にあて、この高樋から垂れる水から「垂水」という地名がつけられたと言い伝えている。
「甲賀」は「こうが」と濁るのではなく「こうか」である。そのことは「甲可」という昔の字から明らかである。私はずっと「こうが」だと思っていた。子供時代、忍者ブームが到来して、「伊賀」と「甲賀」の忍者が跋扈した。その時は「甲賀」は「こうが」と発音していた。実は市名として「こうか」が正式に決定されたのは 2004 年、それも決戦投票によって清音の「こうか」が採用されたらしい。その名前の由来だが、『甲賀市ホームページ 甲賀市の概要』によれば、「甲賀の地名は古く、『日本書紀』の中に百済系豪族『鹿深臣(かふかのおみ』の記述があり、すでに 6 世紀末には、この地が『かふか』あるいは『かうか』と呼ばれていたと考えられている。奈良時代には、『かうか』に縁起の良い漢字をあてて『甲可』や『甲賀』と記していたが、やがて『甲賀』に定着し、近江東南部に広大な面積を占め、『甲賀郡』と呼ばれる近江の国を構成する一部であった」と書かれている。
左手に鳥居が見えた。街道にも「瀧樹神社」の石柱が建っていて説明板もついている。「たぎじんじゃ」と読むようだ。「天満宮」も祀られているようだが、「瀧樹神社」の方は「速秋津(ハヤアキツ)彦命」「速秋津比咩」が祭神で、水害から守る水門の神とのこと。大昔から水害に苦しめられた場所のようだ。


この先にも「瀧樹神社」の参道があった。こちらの説明板はつぎ様に「倭姫」の話を書いている。「この神社の由来は、約二千年前からの神聖なる地として、知られている神社である。 倭姫命が、巡行された時、この場所に朝夕の調膳の殿舎を建立された所であり、さらには斎王群行の斎王が禊をされた川が近くにある。平安時代の仁和元年(八八五年)に伊勢国、瀧原宮の長由介の宮の御祭神、速秋津比古之命·速秋津比咩之命の御分霊を勧請して本社の主祭神としている神社である」。まさに「元伊勢」の地なのである。

先ほどからいくつも茶畑があり、眺めていると何やら白いものに気がついた。近づいてみたのが写真 38。お茶の木に花が咲いているのである。お茶の花は初めて見た。ツバキ科ツバキ族。そういえばツバキの花によく似ている。

右側に「地安寺」。右側に「不許葷酒入山門」の石柱、「くんしゅ(葷酒)山門に入るを許さず」と読む。「葷酒」は臭いの強い野菜や酒、修行の邪魔になるのでこういうものは持ち込むなとの禅寺の結戒である。

少し先、左側に「垂水頓宮御殿跡」の石柱。この辺りに「頓宮」の殿舎があったらしい。「斎王群行」には多数の従者が随行しているので、その宿舎があちこちにあっても不思議はない。

その先、左に「諏訪神社」の鳥居。右に浄土宗「長泉寺」。前のパンダが可愛い。「鈴鹿」を越えると、あれだけたくさんあった浄土真宗のお寺を見かけなくなった。


「土山町市場」に入って、右側に「市場一里塚跡」。一つ前の「一里塚」は「土山宿」の中だった。

「大野」に入って「東海道松並木」。「反野畷(たんのなわて)」という道標があった。この辺りに来ると左手近くに「野洲川」が見える。

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右側に「花枝神社」の鳥居。

街道の様子が違ってきた。「宿場」の雰囲気なのだ。左に「丸屋」の石柱、右側は「井筒屋」、左に「中屋」と次々に旅籠の標柱が立っていた。



ここ「大野」は「土山宿」と「水口宿」の「間宿」だった。通りも写真 49 の通り、宿場町の雰囲気を残している。

「明治天皇聖蹟碑」もあった。
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「安井酒造場」、ブランド名「初桜」。

国道を横断して「今宿」を過ぎ、再び国道に戻ると「甲賀市水口町」の標識。「水口」には入ったが、ここから宿場まではまだ一時間くらいある。「県道 549 号」に入るが、すぐ右のわき道へと移る。

上り坂となり、その上に「今郷」の道標が出る。ここは「今在家」とも呼ばれている場所だ。「在家」とは荘園である。「今」が着くので新しく開かれたところなのだろう。古民家が並んでおり、それを利用したカフェもあった。左手に「一里塚」があった。

右側に「龍王山宝善寺」、左端に鳥居が写っている「八坂神社」の参道になっているようだ。

県道に出たところに「岩神のいわれ」という碑があった。「かつてこの地は野洲川に面して巨岩、奇岩が多く、景勝の地として知られていました 寛政九年(一七九七)に刊行された「伊勢参宮名所図会」には、この地のことが絵入りで紹介され、名所であったことがわかります。それによると、やしろは無く岩を祭るとあり、村人は子供が生まれるとこの岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣のあったことを記しています」とある。見ると階段が続いている。この上に「岩神社」があるらしい。階段を上ると社があった。そばの説明板によるここに移転されたものらしい。したがって奇岩も確認できなかった。


いったん県道に出るが、すぐ右に入る。右側に「八幡神社」の鳥居。

そのままずっと進んでいくと橋に出た。「山川橋」とある。そこを渡った右手に「田町」の標柱。「水口宿」の「東見附跡」はもうちょっと先だが、ここで宿場に入ったとしよう。時刻は 11:04。



