旧東海道歩き旅(15)原宿~吉原宿(2024.3.30)

図1 安藤広重「東海道五十三次 原 朝之富士」

前回は「原宿」に入ったところまでだった。今回はさらに「吉原宿」までの道中について記そう。

原宿

宿駅の概要はつぎの通り。

  • 所在地:駿河国駿東郡(静岡県沼津市原など)
  • 江戸・日本橋からの距離:31 里 27 町
  • 宿の規模:家数 398 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 25
  • 宿の特徴:鎌倉時代から原中 (はらなか) 宿として東海道の宿場町だった。東海道中最小規模の宿場。

 本陣が一つ、脇本陣一つの小さな宿である。『東海道名所図会』では、「委しくは浮島ヶ原なるべし。北に富士沼、南に大洋漫々たり。その中の曠原なればこの名あり」と書かれている。この「浮島ヶ原」とは何か? 以下は「沼津市商工会」の「原の歴史・地域概要」からの抜粋である。

″原″ の地名は浮島沼がつくりだした浮島ヶ原に由来します。沖積世(一万年位前)初期、海岸線は愛鷹山麓にあり、富士川・狩野川から流出される土砂は長い時の流れの中で堆積し沿岸州となり、内側は浮島潟・浮島湖と変遷。その後も愛鷹山の河川からの土砂も加わって縮小・浅くなって浮島沼となった。その周囲は沼沢地となり浮島ヶ原が出来あがりました。
鎌倉時代の「東関紀行」の中に浮島の由来を″此の原、昔は海上にうかび、蓬莱の三つの島の如くありけるによりて浮島と名づけたり″とあります。浮島沿は東寄り低湿地は富士沼、広沼、浮島沼、西寄り低湿地は柏原沼(湖)、須津沼(湖)等と呼ばれ、又富士八湖の一つに数えられました。

浮島ヶ原は往古より多くの歌人等にうたわれ、紀行文等には抒情と景色の美しさが記されています。又浮島沼を背景にした富士山の眺めは街道一といわれ、歌川広重はじめ、多くの浮世絵師、絵師等により描かれました。

 つまりこの道は砂州の上にあり、その内側には潟湖があった。この潟湖が「浮島湖」なのだ。海岸沿いの道に典型的な風景である。図 1 は広重の『東海道五十三次 原 朝之富士』であるが、北側は茫々たる荒れ野、その向こうに冠雪して真っ白になった「富士」がそびえ立つ。あまりの高さに、なんと枠をはみ出してしまっている。「富士」の手前の山は「愛鷹山」である。この位置関係をちょっと頭に入れておいてほしい。「富士山」の左裾はスッキリと伸びているが、右側は半分くらいまで「愛鷹山」で隠されているのである。

 今回、街道を歩きながらたくさんの「富士山」の写真を撮ったが、いい写真を撮るのはとても難しかった。障害物がたくさんあるのだ。広重の絵の「浮島ヶ原」、現在、ここには家屋がたくさん建っている。さらに電線が街道に沿って敷設されているので、これらが邪魔になるのだ。

写真1 富士①

 写真 1 は「原宿」に入ったところの「大塚村(現沼津市大塚)」の「富士①」である。左右の裾野がほぼ均等に「愛鷹山」に隠されている。広重が描いた地点はもっと西だろう。東だともっと「愛鷹山」に隠されてしまう。

図2 原宿

「白隠禅師誕生の地」という交差点があった。「原」は「白隠禅師」の故郷なのだ。交差点の手前左に「無量堂」というお堂があり、ここに「白隠」が産湯をつかったという井戸がある。説明板には「”駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠”と歌われ、臨済禅中興の祖と仰がれる白隠禅師は西暦 1685 年 12 月 25 日長澤宗彝(そうい)を父、妙遵(みょうじゅん)を母とし三男二女の末子として生まれる。15 才の時松陰寺の単峯祖伝和尚を師として自ら望んで出家し仏門に入る。19 才から 32 才まで修行行脚で全国を巡り 33 才で松陰寺住職となり 84 才で亡くなるまで松陰寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に秀でて達磨図や観音菩薩絵は特に有名である。現地は母妙遵(みょうじゅん)の生家屋号味噌屋(みそや)の地でのち父宗彝(そうい)が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った跡地である。禅師が生まれた時使用した『産湯の井戸』がこの奥にいまなお清水を湛えている」と書かれている。この「松陰寺」はお堂のすぐ南にある。

写真2白隠禅師産湯の井戸
写真3 白隠禅師の碑

 交差点を過ぎると右に「浅間神社」の鳥居。その左に「原宿」の地図とともに「高札場」と書かれた碑があった。

写真4 原浅間神社の鳥居

 そこから少し歩くと「原駅入口」の交差点、その先に「高嶋酒造」がある。江戸時代(文化元年)からある酒蔵で、明治に「白隠禅師」に朝廷から「正宗国師」の諡号を与えることになった際に、ブランド名を「白隠正宗」としたのだそうだ。蔵の横に富士の雪解け水が湧いていて自由に飲める。これは有り難かった。冷たい水で渇いた喉を潤すと疲れが飛んで行った気がした。この水で造るお酒はきっと格別の味だろう。

 この先で撮った「富士②」。左の裾野が伸びたが、まだまだだ。

写真5 富士②

「新田大橋」を渡る。左手、民家の庭先に「一本松一里塚」の説明板があった。「原宿」もこの辺りまで。その先で富士の写真を撮る(写真 6)。これはかなり広重の絵に近いゾ。「愛鷹山」の小さな尖りが「富士」の右側に見える。「広重」はこれをかなり誇張して描いている。「箱根」と同じだ!

写真6 富士③

原宿~元吉原宿

図3 行程

 この道、つまり「旧東海道」を歩いている酔狂な人間はいないと思っていたのだが、今日は土曜日とあってお仲間がいるようだ。発見したのは「女忍者軍団」四名。日焼けを避けるためか、黒装束なのだ。腕は勿論、顔の辺りも黒いマスクで覆われている。見るからに「くノ一」! 年の頃は、そんな恰好なので不明だが、かなり若いと見た。道路の左側の家屋の階段のところに坐って休憩中だったところを発見した。「旧東海道」なかなか休憩するところがないのである。まだ 3 月だというのに、今日は太陽が燦々と照りつけ、とても暑い。日陰で休憩する場所が欲しい。休憩中だと分かったのは、揃って腰を上げるところだったからだ。みんなリュックを背負っている。前を通り過ぎると、彼女たちも歩行を開始した。すぐ後についてくる。女性軍に追いかけられるのは変な気持ちだ。右側に神社を見つけたので、そちらに移動。

「愛鷹浅間神社」。その隣に碑がある。「桃里(ももざと)開闢四百年、改称百年記念碑」とある。沼津市によれば「桃里は江戸時代初期の浮島沼開発新田村の一つで、幕府の奨励策により、遠州の浪人だった鈴木助兵衛によって開かれたため、助兵衛新田と称されてきた。しかし、明治 41 年(1908 年)助兵衛新田という土地名が、風紀上好ましくないということで、その当時この辺りでは桃をよく作っていたので桃里と改めた。この碑は、桃里改名の経緯を記し、助兵衛の功績をたたえている。愛鷹浅間神社の前に建てられている 」とのこと。なるほど、「すけべ」は風紀上好ましくないか! 小学生ではあるまいし。変えた名前が「ももざと」、これもちょっと艶っぽいが…。写真を撮っている間に、「女忍者集団」は先に進んでいる。さて、ここから見えたのが「富士④」。これだとちょっと行き過ぎたようだ。「愛鷹山」の線が連続し、③のような尖りが見えないからだ。どうも「広重」は「一本松」あたりの富士を描いたようだ。

写真7 桃里開闢四百年、改称百年記念碑
写真8 愛鷹浅間神社
写真9 富士④

 次第に「東海道本線」が近づいてきて「旧東海道」と交差する。踏切を越えた先で「富士市」に入る。その後、道は「県道 380 号線(千本街道)」と合流する。直線道路の先に「女忍者軍団」を発見。右側にはずっと富士の山が見えている。

 駅があった。「東田子の浦」だ。ここで「女忍者軍団」に追いついた。「さあ富士山だ」といきたいのだが、障害物が多くていい写真にならない。駅の壁に「富士山」と「愛鷹山」が描かれていたが、だいぶ実際と違う。この絵、かなり広重の影響を受けている。駅前に「東田子の浦駅 開駅 70 周年」の碑が建てられていた。

写真10 東田子の浦駅
写真11 東田子の浦駅 開駅70 周年記念碑

 このあと「女忍者軍団」とは抜きつ抜かれつで進む。同じ一本道である。見るところも同じである。「柏原」という「間宿(あいのしゅく)」に入る。「立圓寺」に「望嶽の碑」があるというので立ち寄ってみる。これは文化五年(1808)に尾張藩藩医の柴田景浩が建立したもので、ここから眺望する「富士」の素晴らしさを讃えたもの。

写真12 望嶽の碑

 ところが、この碑のあたりからではお寺の壁が邪魔をして「富士」がまったく見えないのだ。仕方がないので寺を出て先に進むと、「広沼橋」から「富士⑤」を見ることができた。

写真13 富士⑤

「愛鷹山」が右に外れて、両側の稜線が裾まで見えている。ため息が出るほど美しい山だ。ゆっくりと眺めていたいが、そうすると宿につかないので、しぶしぶ先に進む。すると面白いものを発見した。字が刻まれた石だが、「春耕道しるべ」と表示がある。側面の字は「須津村役場へ一里、吉永村役場へ三十一町」と読める。

写真14 春耕道しるべ第1号

 Google Maps で「須津」を調べると、「岳南鉄道」の駅がある。ここから北へ約 4 km のところである。「吉永」は現在の「富士市比奈」で「須津駅」の北東すぐのところ。どうやらこの標識は北に伸びる道を示す道しるべのようだ。帰って調べると、「春耕」というのは明治時代に「吉永村」に住んでいた「仁藤春耕」さんのこと。「旧東海道」から「吉永村」を通って、十里木(裾野市)、印野、須走(ともに御殿場市)を経て山中湖に至る道に五年がかりで石の道しるべを建てたとのこと。「自分の歩幅で距離を測っては石を探し、のみとつちを使ってたった一人で 128 基の道しるべを作って設置した」(富士市資料)らしい。日清・日露戦争に召集されなかったので、自らもなにか役立ちたいと思ったのがその理由。その記念すべき第 1 号がこの道しるべなのである。

 分岐に差し掛かる。「旧東海道」は左だ。進んでいくと道が細くなる。それまであった道路中央の黄色線もなくなってしまう。古い町の中に入りこんだ雰囲気だ。「元吉原」に入ったのだ。元の[吉原」だから、前に「吉原宿」があったところだ。「旧東海道」が制定された頃の宿駅がここだった。高波で被害を受けた為、もっと内陸部の現在の八代町付近へ宿駅が移された。ところがそこもまた高潮の被害を受け、現在の「吉原本町」に移されたのである。かの「女忍者集団」だが、忍者らしく忽然と姿を消した。先ほどの分岐のあたりまでは目撃したのだが。

写真15 元吉原の通り

元吉原宿~吉原宿

 写真 15 は「元吉原」に入ったところだが、前方左手に木が茂っている場所がある。近づいていくと階段の上に鳥居があった。地図には「妙法寺」とある。お寺なのになぜ鳥居が? 不思議に思い、階段を上がる。

写真16 妙法寺の鳥居

 鳥居の先に拝殿らしき建物が見えている。さらに進むとまた階段がある。その先には!

写真17 妙法寺境内

 目の前に香炉堂があり、その奥が社殿。その右にあるインド風の建物は何だろう?

写真18 龍神香炉堂

 この香炉堂はなんだ! 極彩色の中国風の建築物である。その奥にあるのは純和風の建築物、これが本殿。千木や鰹木はないが神社風だ。それに前にあるのは狛犬ではないか! この右にあるインド風の塔を持つ建物は「錬成道場」となっている。

写真19 妙法寺本殿

 お寺のホームページを見ると、「今を去る千年余、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水ごりを取り、海抜ゼロメートルから富士山に登った、 その禊ぎの道場が当山の起こりです。三万八千坪の寺領は戦国時代に武田氏の東海道進出の砦となり、又これを受けて徳川頼宣公 (徳川家康側室お万様の御長子即ち徳川御三家紀州公)が長く駐留されたこともあいまって 「出世本懐の地」と呼ばれています。主神毘沙門天像は聖徳太子の御親作と伝わり「太子両肩上湧現の尊像」と言って聖徳太子の肩の上に立たれた像で 実に珍しい様式です。普通の像が悪鬼をふんまえているのに対し、この像は聖徳太子すなわち我々人間の上に毘沙門天王が立って常に 護ってくださるという開運の「守護神像」であります」と書かれている。『東海道名所図会』にも「香久山妙法寺という日蓮宗の寺あり。また毘沙門堂なり。この尊像は聖徳太子の御作にして、長八尺、肩上に聖徳王の尊像立ちたまふ」とある。古くからあるお寺であるが、最初からこの日中印の複合的な建築だったかはわからない。

写真20 元吉原の通り2

 再び、元吉原の通りを歩く。写真 20 で右側に煙突が見えているが、これは製紙会社の煙突である。このあたりには製紙会社の工場が集中している。「田子の浦」付近には 150 もの製紙工場がある。1970 年頃には深刻なヘドロ公害が起きていた。富士市によく出張で来ていたという友達からニオイがひどいと教えられたが、今日は(あるいは 今は)、それほどでもない。「旧東海道」は「東海道本線」を越え、製紙会社の横を通って北へ向かう。「吉原駅」が左に見える。「沼川」にかかる「河合橋」を越えると道が二手に分かれる。「旧東海道」は左だが、右側の道の正面に大きな「富士山」が見えた。ここまで来ると「愛鷹山」は右に外れて、完全な裾野が現れる。

写真21 富士⑥

 さあ、もうすぐ「吉原宿」である。この先「左富士」に入っていくのだが、広重はここを「吉原宿」として書いているので次回にまわそう。

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