千葉県ぐるっとウォーキング 第27回 南流山駅~浦安駅

 今回は「南流山駅」をスタートして、一気に「江戸川」を下り、「市川」から「旧江戸川」に移って「浦安駅」まで歩こうと思う。

 2023 年 10 月 31 日 7:23 に JR 武蔵野線「南流山駅」をスタートした。10 月にウォーキングを再開して、 6 回目である。天気の日が続いたこともあるが、それにしても、よく歩いたものだ。この「南流山駅」は「つくばエキスプレス線」への乗り換えも含めて 4 回来ている。

写真 南流山駅

 駅を出て南に歩き始める。前回、訪問した「赤城神社」の辺りから南に伸びている「神明堀」に沿って南下した。町名表示を見ると「流山市」から、いつの間にか「松戸市」に変わっている。この堀は「坂川」と出会い、そこで終わる。その交点にあるのが「神明堀樋門(ひもん)」だ。「樋門」とは堤防の中にコンクリートの水路を通し、逆流防止用のゲートが付いた水門である。

 今日は雲が多い。その雲が川面に映って、これはこれできれいだ。雲を映した「逆川」の写真をパチリ。

写真2 神明堀樋門
写真3 逆川(新松戸方向)

 橋を渡って西に進んだ後、「流山街道」を南下した。さすがに交通量が多い。適当なところで「江戸川」堤防に出ようと道を探る。「まこも池」の横に階段があった。上はいつもの自転車道だ。変わらない景色だが、これまでと違って道幅が広い。東京に近づいたのだと実感する。

写真4 江戸川沿いの自転車道

 少し戻ると「主水新田 川の一里塚」の碑がある。松戸市内の江戸川堤防の 4 箇所に「川の一里塚」が設けられていると隣の説明板に書かれている。トイレもある。こうした設備は歩行者にとってうれしい限りだ。海からの距離の標識もあった。 23.5 km ! 一気に河口を狙える距離まで来ているのだ。

写真5 主水新田 川の一里塚
写真6 海からの距離の標識

 読売新聞に「江戸川松戸フラワーライン」のコスモスが満開だという記事が出ていた。是非、立ち寄ってみたいと思い、標識が出たところで河川敷へと下りた。約 2 へクタールの土地に春はポピー、秋にはコスモスが花を咲かせる。ボランティアや地元町会などの人達によって植えられたものだという。幼稚園の名前もあった。時刻は 8:45、散歩してる人の姿もだんだん増えてきた。雲が少なくなり、青い空に満開のコスモスが良く映える。

写真7 江戸川松戸フラワーライン
写真8 満開のコスモス

「松戸」は「水戸道」の「江戸川渡船場」兼「宿場町」として栄えたところである。地図を見ると堤防に近いところに「松戸神社」、さらに JR 常磐線の線路を越えると「旧徳川家住宅松戸戸定(とじょう)邸」があるようだ。土手を下りて立ち寄ってみようと思う。

「松戸神社」は 「松戸駅」の南西すぐ。県道 4 号線を南下していくと、左手に大きな「一の鳥居」がある。その先の「二の鳥居」をくぐると、赤い「潜龍橋(せんりゅうばし)」が「坂川」に掛かっている。「坂川」? さきほど「新松戸」で渡った「坂川」が、河口の手前で分岐して「松戸市」を南下していたのだ。この川は「市川市国府台」で「江戸川」に流れ込むらしい。

「松戸神社」の境内に入る。説明板によれば、「創祀は日本武尊(ヤマトタケルノミコト) 御東征砌後の常陸国より武蔵国の平定に向かわれる時の御陣営跡にご功績を讃えて祠をおまつりしたと伝えられます。寛永三年(1626 年)社殿を創建」とある。祭神は「日本武尊」、元々は「御嶽社」という名前だったが、明治 15 年(1882 年)に「松戸神社」に改称したらしい。この地域の総鎮守である。千葉をずっと歩いてきて思うのだが、「ヤマトタケル」の伝承があちこちにある。一度、整理してみると面白いだろう。日当たりのよいところにある銀杏の木が一本だけ黄葉していた。今年は暑いので黄葉が例年より遅いようだ。

写真9 松戸神社一の鳥居
写真10 松戸神社二ノ鳥居と潜龍橋
写真11 松戸神社拝殿
写真12 松戸神社の銀杏

 神社を出て東へ進む。JR の線路を越え、すぐに右に入って坂を上る。左手の駐車場の横を進むと「戸定邸」への入り口に出る。目の前の急坂を、おじいさんが少々苦しそうに上っている。門のところで一緒になると「今日は、とじょうの日だから、座敷から下りて庭を見られますよ」と親切に教えてくれた。きっと常連の人なんだろう。それにしても「とじょうの日」とは何だろうか? わけのわからないまま、歴史を感じさせる茅葺きの門をくぐった。

写真13 戸定邸の門

 左側に「戸定歴史館」がある。「戸定邸」の分も含めて入場料を支払って見学をする。お恥ずかしい話だが私は事前知識がゼロで、中に入ってこの施設が「徳川家」と関係が深いものであることを知った次第。確かに正式名称が「旧徳川家住宅松戸戸定邸」となっていた。ここは、最後の水戸藩藩主、「徳川昭武(あきたけ)」の別邸なのである。「昭武」は水戸藩主「徳川斉昭」の子供で、最後の将軍となった第十四代将軍「徳川慶喜」の異母弟だ。彼は慶応 3 年(1867 年)にパリ万国博覧会訪問のために使節団を率いて渡仏している。さらに、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪した後、パリで留学生活を送る。わが国最初の欧州留学生である。この間、日本では明治維新に向けて、大政奉還(1868 年旧暦 1 月)、鳥羽伏見の戦い(3 月)、上野での彰義隊の戦い(7 月)が起こっている。帰国したのは 11 月だった。維新後は水戸藩知事だったが、廃藩置県で藩知事を免じられ、向島の旧水戸藩下屋敷に暮らすが、明治 9 年(1876 年)にフィラデルフィア万国博覧会の御用掛となり訪米。その後、再びフランスに留学している。当時の日本で第一の国際通といってもいい経歴である。そして、明治 14 年(1881 年)に帰国し、3 年後に隠居。翌年、居を構えたのがこの松戸の「戸定邸」である。この「戸定(とじょう)」は地名である。「外城」から転じたもので、かつて存在した「松戸城」の外郭の辺りであることからつけらたものらしい。

写真14 戸定邸(庭から)

 邸の中に入る。さきほど門のところで会ったおじいさんがいた。常連さんではなく、ここの関係者のようだ。「とじょうの日」というのは、毎月 10、20、30 日で「戸定邸」の表座敷から庭園におりて見学できる日とのこと。その日が月曜(休館日)の場合には、つぎの日となるようで、今日 10 月 31 日火曜日は「戸定の日」にあたる。中を案内してくれるガイドさんを待つあいだ、庭に下りて邸の写真をとった。庭は珍しく芝生。西洋での経験豊富な「徳川昭武」らしい。邸の中は思いのほか質素だが、外部の人が入るところには贅沢な材料が使われている。いや「贅」というよりは、「粋」といった方がいいだろう。詳しくは「戸定歴史館」のホームページをご覧いただきたい。

 つぎに向かったのは「矢切の渡し」だ。「つれて逃げてよ ついておいでよ」で有名なこの曲は最初は「ちあきなおみ」が歌い、その後、「細川たかし」のシングルがミリオンセラーになったとのこと。「フーテンの寅さん」で有名な「柴又」と結ぶ古くからある江戸川の渡しである。映画には向こう側の土手が何度も登場している。この渡しは今も営業中で、200 円で向こう岸へ渡してくれる。この日も船を待つ人の姿があった。

写真15 矢切の渡し

 この先に「柳原水閘(すいこう)」という看板があったので回ってみる。この「水閘」という言葉には二つの意味があり、デジタル大辞泉によれば、一つは「灌漑などで、水の流れを調節するために設けた水門」、もう一つは「運河・河川などで、水位差のある水域を船が通行できるようにした設備」である。前に見た「関宿水閘門」はこの二番目の意味だったが、ここは一番目の意味である。明治 37 年に造られた煉瓦造りの樋門が近代産業遺産として残っている。雑草が多い茂っていて、写真を撮るのが難しかったが、背伸びしてなんとかカメラに収めた。この流れが「坂川」、ここの住所は「市川市国府台(こうのだい)」である。「坂川」はここで「江戸川」と合流するのだ。いつの間にか、「市川市」に入っていたのである。

写真16 柳原水閘

 土手の道は左に大きくカーブし、左側がこんもりした森になっている。この森が「下総台地」で、ここに「里見公園」がある。この辺りは「国府台」と呼ばれているところだ。かつて、ここに「下総国」の国府が置かれていて、政治と文化の中心地だったのである。「国府台」と書いて「こうのだい」と読む。ちょっと不思議だ。その昔は「鴻之台」と書いたそうで、「国府」が出来てこの表記となったのであろう。この「国府台」の高台は要地だったため、後北条氏、千葉氏、高城氏と里見氏、太田氏、上杉氏らの度重なる勢力争いの舞台となって争奪戦が繰り返されてきた。中でも、里見軍と北条軍が戦った 2 度の「国府台合戦」(1538,1564 年)はいずれも里見軍が大敗し、討死する者 5 千名と伝えられている。

 このブログの「館山」のところで、里見家の歴史について触れた。「16 世紀に入ると里見家内のお家騒動が起こり、分家筋だった義堯が里見家の家督を継ぐ。義堯は安房から上総へと領土を拡大。これによって下総にも力が及びつつあった小田原北条氏との対立を生み、40 年間に渡り各地で争いが繰り広げられたが、義堯の子義弘が 1577 年に北条側からの和解申請を受け入れ、長い諍いに終止符が打たれた。」まさにこの時代が「国府台合戦」に当たる。「国府台」のお城は、その後、江戸時代に「徳川家康」が関東を治めると江戸俯瞰の地であることから廃城となった。また、「国府台」は明治から終戦まで兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えたとのことである。

 さて「里見公園」だが、この「里見」は「里見氏」から来ている。ここの城は北条方の「太田道灌」が建てたものだが、「里見氏」はこの地に陣を張っただけで、城を持ったという記録はない。ちょっと不思議だが、「国府台合戦」の戦死者の霊を鎮めるために建てられた「里見諸士群亡塚」「里見諸将群霊墓」「里見広次公廟」から「里見」の名が付けられたものと推測される。公園に入って目を引くのが平成 15 年に造られた「バラ園」で、この日も秋バラが満開、かぐわしい香りが立ちこめていた。

写真17 里見公園噴水
写真18 里見公園バラ園

「里見公園」からいったん江戸川土手へと戻る。途中にあったのが「羅漢の井戸」。「里見一族が布陣の際の飲用水として使用したと思われ、高台にあって水源が乏しいにもかかわらず一年中清水が湧いています」と市川市のホームページにある。

写真19 羅漢の井戸

 この辺りはかつて、「下総台地」が南に突き出して複雑な入江を形成していたと思われる。歩いていると急に台地が現れたりして楽しい。「松戸街道」が走っているあたりはかつては海で、東側が丘になっており、そこに「真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)」がある。学生が多いと思ったらすごそばに「千葉商科大学」があった。

写真20 松戸街道から真間山に抜ける道

 さて、この「真間」であるが、「日本歴史地名体系」にはつぎのようにある。

「現在の市川市の中央西部真間・市川の一帯は古くは『真間の磯辺』(『万葉集』巻一四)といわれたように、かつては東京湾が深く湾入していて、江戸川(往時は太日川といった)左岸河口の入江(海浜)であったと考えられる。この入江には真間川(現在は江戸川の支流)が注ぎ、また当地の北に続く国府台の台地上には古代下総国府が、その東の国分台には下総国分寺・同尼寺が置かれていた。こうした背景から、古代東海道下総国井上(いかみ)駅の有力な比定地ともされている。水陸交通の結接点として重きをなした当地は真間手児奈の伝承や歌名所真間継橋(ままのつぎばし)の所在地として古くから都人にも知られていた。また空海開基を伝える古刹真間山弘法寺は一三世紀末には日蓮宗に改宗、やがて同宗の有力寺院に発展、一五世紀になるとその門前には真間宿とよばれるような町場も形成されるようになっていた。」

「弘法寺」であるが、広い敷地の中に本堂、客殿、祖師堂、鐘楼堂、仁王門などが建てられている。確かに日蓮宗の有力寺院であるのがよくわかる。建物は新しい。明治 21 年に火災があり諸堂が焼失、明治 23 年に建て直したものとのこと。本堂は鉄筋コンクリート建でこれは昭和 47 年の改築らしい。

写真21 真間山弘法寺 祖師堂
写真22 真間山弘法寺 鐘楼堂
写真23 真間山弘法寺 仁王門

「仁王門」を出て長い階段を下りる。ちょうどこのお寺のある辺りが台地の南端に当たる。地名の「真間(まま)」は崖を意味する言葉で、この崖に階段がつけらているわけだ。すぐ左に入る道があり、その先に「手児奈霊神堂(てこなれいしんどう)」がある。この「手児奈」は、万葉集に歌われた美女。多くの男性に慕われていたが、「真間(まま)」の入り江に身を投げた。その墓の辺りに建てられたのがこの霊神堂とのこと。

写真24 手児奈霊神堂
写真25 手児奈霊神堂拝殿

勝鹿の真間の娘子が墓を過れる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
  古に ありけむ人の 
  倭文幡(しつはた)の 帯解き交へて 臥屋建て 妻問しけむ 
  勝鹿の 真間の手兒名が 奥津城を こことは聞けど 
  真木の葉や 茂みたるらむ 松が根や 遠く久しき 
  言のみも 名のみも我は 忘らえなくに
反歌
  我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ
  勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ

万葉集 巻三

 この「勝鹿」は「葛飾」、「奥津城(おくつき)」は「墓」である。現在は住宅街だが、山辺赤人が訪れたときには、墓の辺りにはすでに草木が生い茂っていたらしい。直ぐ南に「真間の継橋」がある。市川市のホームページには「万葉集に『足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の、真間の継ぎ橋止まず通はむ』の歌が載せられています。当時、真間の入江の入口付近には沢山の洲がつくられており、その洲から洲へとかけ渡された橋が、継ぎ橋だったと考えられています。亀井院と手児奈霊堂の入口、それにつぎ橋の袂に、それぞれの所在を示す碑が建てられています(市有形文化財「真間万葉顕彰碑」)」とある。下の写真が「継橋」だが、写真を撮っていたら、前から歩いてきたおじさんに変な顔をされた。写真を撮る人が珍しかったのかもしれない。

写真26 真間の継橋

 さらに進むと「真間川」、そして京成電鉄の線路を越える。

写真27 真間川
写真28 京成電鉄の線路

 時刻は 13 時を過ぎた。かなりお腹が空いている。左手にお寿司屋さんがあった。「蛇の目寿司」。中に入ると、時刻が遅いからか客は私だけ。ゆっくりと「にぎりのランチセット」をいただいた。とても美味しかった。

 店の人に 「JR 市川駅」までの道を聞いて、そのとおり進んで駅に到着。中を通り抜けて南口へ移動。さて、ここから再び「江戸川」沿いに出て、橋を渡って「旧江戸川」に移り、「行徳」「浦安」まで歩くのである。

写真29 JR 市川駅

「大和田 5 丁目」で「江戸川」の土手に出た。国道 14 号線の「江戸川大橋」を越えて更に南下。向こうにこれから渡る予定の「行徳橋」が見えてきた。海からの距離の標識があった。なんと 3.5 km、松戸で 23.5 km だったから、そこから 20 km 以上歩いたことになる。

写真30 行徳橋手前の海からの距離の標識

「行徳橋」は交通量が多い。幸いかなり広い歩道・自転車道がついている。これなら安全だ。空は雲で覆われてしまっている。午後からは曇りの予報だったので、当たりである。恐るべし気象庁! 時刻は14:24。さあ、ラストスパートだ。「浦安駅」まで一気に歩いてしまおう。

写真31 行徳橋

「行徳街道」を歩いていたが、「旧江戸川」の土手に出ようと途中で右折した。後で分かったのだが、このまま進めば左手にたくさんのお寺があったようだ。「行徳千軒寺百軒」と言われるように「行徳」はお寺が多い場所だ。「行徳」は戦国時代には江戸湾岸最大の塩の産地であり、製塩は多くの人出を必要としたために人が増え、さらに江戸から「成田山新勝寺」への街道の宿場町でもあったことから、非常に栄えたらしい。その結果、お寺も増えたとのこと。前回、「野田」で醤油の原料の塩は「行徳」から入ったという話を聞いたのを思い出した。

「旧江戸川」の堤防の道を進むと、「常夜灯公園」に出る。堤防のへりに「日本橋」と書かれた「常夜灯」が建っている。市川市のホームページによれば、「江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは、寛永 9 年(1632)のことです。航路の独占権を得た本行徳村は、この地に河岸を設置し、船は毎日明け六ツ(午前 6 時)から暮れ六ツ(午後 6 時)まで運航されていました。この船は一般に『行徳船(ぎょうとくぶね)』と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由して、日本橋小網町まで、約 12.6 キロメートルを就航していました。現在の常夜灯周辺は、新河岸(しんかし)と呼ばれ、『葛飾誌略』によると、元禄 3 年(1690)に景観整備されたと推察されます。本行徳村では天明 6 年(1786)の時点で、53 艘の乗合船が所持されており、新河岸は船を利用して成田山を参詣する旅人など、行徳経由の道を往来する人々で賑わっていたようです」とある。常に灯りをともして、航路安全を祈願したのだろう。この「常夜灯」だが、もとからこの位置にあったものではない。江戸川の拡張工事で設置場所が変わり、平成 21 年に「常夜灯公園」ができて今の位置になったらしい。

写真32 常夜灯公園の常夜灯

 少し南下すると「行徳河岸」の跡に出る。「常夜灯公園」の辺りが「新河岸」で客船の舟付場、こちらの「行徳河岸」は「祭礼河岸」とも呼ばれ、鎌倉、室町時代からの物資の集積所だったとのこと。河岸の前には「湊水神社」が祀られている。河岸の跡は現在は写真のような状態で、これというものはない。

写真33 行徳河岸 湊水神社
写真34 行徳河岸(祭礼河岸)の跡

 時刻は 14:57、ここで「旧江戸川の堤防」を離れ「浦安駅」を目指して歩く。駅は県道 6 号線沿いにあるので、もっぱらこの県道を歩いた。3 キロ余りだが、疲れた足には結構こたえた。途中「欠真間(かけまま)」のファミマでちょっと休憩。コーヒーを飲む。それにしても、おもしろい地名だ。さきほど通ってきた「真間(ママ)」は「崖」という意味だった。この「崖」が欠けてできた土地という説と戦国時代に「国府台」近くの「真間」の住民が、分かれてここに住んだという説があるらしい。

 ようやく「浦安市」に入った。いろいろ見所があるところだが、それは次回にして駅へと急ぐ。15:46 に地下鉄東西線の「浦安駅」にゴール。歩行距離は 29.6 km、時間にして 8 時間 22 分だった。

写真35 浦安市に入る
写真36 浦安駅にゴール
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