西国街道・山陽道歩き旅(4)西宮宿~三宮駅(2025.1.23)

 昨夜は「酒造通り」の南側にある「白鹿クラッシクス」でおいしい日本酒をいただいた。友人との会話を肴に杯を重ねる至福の時間だ。「歩き旅」の機会を利用してコースの近くに住む友人と再会するのいいものである。さて、今回の旅の最終日は「三宮駅」まで歩いたのち新幹線で帰宅するのだが、途中友人と昼食を一緒に食べる約束をしている。

 7:44 に「西宮神社鳥居前」を出発。初日に少し雨にあったが、あとはずっといい天気。今日も快晴で、気温もそれほど低くなく、絶好の「歩き旅日和」だ。

図 1 西宮宿~JR三宮駅行程
写真1 西宮神社前

「国道 43 号線」の歩道を西に向けて歩く。「西宮神社」の南門を通過。その隣が「圓満寺」。「千葉県」の「成田山新勝寺」より「成田不動尊」を勧請したもので、「西宮成田山」とも呼ばれているそうだ。

写真2 西宮神社南門
写真3 圓満寺

 ここを過ぎて国道を離れ右へ。「阪神 香櫨園駅」の前を通り「夙川」を渡る。

写真 4 阪神電鉄香櫨園駅

「阪神電車」のすぐ左をしばらく歩いていたが、線路を潜って「鳴尾御影線」に移動。地名は「芦屋市春日」。住宅街だ。

写真5 芦屋市春日の通り

「香櫨園」という名前だが、明治末期に「阪神電鉄」が開発した「別荘地・高級住宅地」だったようだ。「香櫨」すなわち、櫨(はぜ)の木のように「香り高く、美しい庭園のような地」の意味を込めて作られたとのこと。ここの東に「屋敷町」という町名が残っている。

 この先の「打出駅」を過ぎたところで右折。町名表示を見てびっくり、なんと「うちでの小槌町」なのだ! 「芦屋」といえば、日本有数の高級住宅地、振れば小判がザクザクの長者様が住んでおられのかと思えば、そんな話ではないようだ。

写真6 打出小槌町

 吉田東伍の「大日本地名辞書」で関係する地名を引いてみる。まず、このあたり昔は「兎原(うばら)郡」に属していたが、ここは「武庫山の麓沿海の狭地なれど和名抄八郷に分ち戸口古より繁し。万葉集に葦屋之菟名負(うなび)とあれば原名は海辺なるべし」とある。つまり、このあたり、かつてはすぐ海岸線だったのだ。「打出」については「海に臨み打出浜の称あり」とある。京から「西国街道」を進むと、このあたりで初めて海に出るのである。「芦屋」は「葦屋」だから海辺の葦原がこのあたりの原風景なのだろう。ここに「在原業平」が住んでいた。彼の歌に「晴るる夜の 星か河辺の蛍かも わが住むかたの 海人のたく火か」(伊勢物語)がある。いかにも海辺の情景である。その「打出」という名前が、各地に伝わる「うちでの小槌」の話と結合したものと思われる。話の内容は「打ち出のこづち(新)」のサイトに詳しい。

 左手に「徳本上人名号塔」。「徳本上人」(1758~1818)は、江戸時代中期の浄土宗の僧で各地を巡り、碑を残している。「南無阿弥陀仏 徳本」と刻まれている。

写真7 徳本上人名号塔

「宮川」にかかる「西国橋」を渡る。

写真8 宮川にかかる西国橋を渡る

 この先で街道は「国道 2 号線」に合流する。国道歩いて「芦屋川」の前まで来る。ここに架かるのが「業平橋」。さきほどの「在原業平」だ。川の手前が公園になっていたので、ここで休憩。時刻は 8:30、友人と会うのは「住吉」だから、歩いて 1 時間くらいの距離。予定している店のランチタイムが 10:30 からなので、まだ早すぎるのだ。とはいっても、ここで 1 時間も過ごすのも無理があるので、30 分くらい経ったところで歩き始めた。

写真9 業平橋
写真 10 芦屋川

 神戸市に入ると、右側に赤い大きな鳥居が見えた。「森稲荷神社」の赤鳥居だ。このあたりはかつて「森村」と呼ばれていた。今は「JR神戸線 甲南山手駅」があり、さらにその北を「阪急神戸線」が走る。神社はその向こうにある。

写真 11 森稲荷神社の赤鳥居

「住吉」でひさしぶりに友人と会い、時間をかけてランチを楽しむ。さて「歩き旅」の再開だ。今年は「阪神淡路大震災」から 30 年。発生したのは 1 月 17 日朝の 5 時 46 分。私は駅に向かう車の中、ラジオでこのニュースを聞いた。会社につくと被害の状況が次第に明らかに。その激しさに「たいへんなことが起こった」と感じた。節目の年にあたる今年は、それに関係した行事がいろいろ行われているようだ。NHK の連続テレビ小説「おむすび」も地震に関係しているし、友人たちとの話の中にも当時の話が出てくる。ここ「東灘」は激震地の一つだった。さきほど通った「赤鳥居」の南にある「深江地区」では 635 mにわたり「阪神高速道路」の橋脚 17 基が倒壊した。この様子はニュースに流れ、そのショッキングな画像に唖然としたものだ。友人は地震当時ここに住んでいた。なかなか連絡が取れないので気をもんだが、幸い無事だった。彼の話によれば、被害の激しいところとそうでないところが、同じ地域でもまだら状に分布しているのだそうだ。幸い彼のところは被害が少なかったらしい。その南側では前述のように「阪神高速道路」が倒壊している。別の知り合いが山手側に住んでいた。朝二階から食堂に下りてきたら揺れたので、すぐテーブルの下に入ったのだそうだ。家は倒壊し、他の場所にいたら死んでいたかもしれないと語っていたのを思い出す。まさに生死を分けた瞬間だ。これから歩く先は地震の被災地が続く。

「本住吉神社」にお詣りしておこうと、国道を渡った。前回、かなり長く「神功皇后」の話を書いたが、皇后が祀った「住吉神社」の比定地候補の一つである。「本居宣長」はここを「神功皇后」の「住吉」だと主張した。一方、「大日本地名辞書」は「本居氏の説誤れりと為すべし」として「難波の住吉説」を採っている。いずれにしても、この神社は古くから「本住吉」と呼ばれていたのだろうと思われる。

写真 12 本住吉神社の鳥居
写真 13 本住吉神社拝殿
写真 14 本住吉神社本殿

 主祭神は「住吉三神」の中の「底筒男神」、配神に残りの「中筒男神」「表筒男神」と「神功皇后」、さらに「天児屋根命」と「大山津見命」。

「御影中学校」の先で左折し国道から離れると見事な「街道松」。

写真 15 御影の街道松

 二つ目の通りで右折するのだが、すぐまた右折。「御影小学校」を迂回して元の位置に戻った。その前にあるのが「石屋川」。右側に「石屋川公園」、ここに「火垂るの墓記念碑」があるようだ。「野坂昭如」の小説「火垂るの墓」は「西宮」が舞台なのだ。

写真 16 石屋川公園

「石屋川」を渡る。この名は周辺に石材加工職人が多く住んでいたことから来ているらしい。「御影」は石の産地、「六甲山地」で採れる花崗岩がそもそも高級石材の「御影石」なのだ。

写真 17 石屋川を渡る

「新在家」を過ぎ、「都賀川」を渡る。その先で右折して再び国道に戻るが、その手前の右に「厄除東向八幡宮」の道標。これはすぐ南、「阪神電車」のそばにある「船寺神社」のことらしい。

写真 18 厄除東向八幡宮道標

 少し「国道 2 号線」を歩くが、「摩耶駅」の前で国道は右に曲がるのに対し、街道は直進する。少し歩いて「阪神 岩屋駅」の前に出た。このあたり石関係の名前が多い。

写真 19 阪神電車 岩屋駅

 「阪神 春日野道駅」につながる商店街を横断。その左側に「西国街道」の説明板を見つけた。

写真 20 春日野道駅に通じる商店街を横断

 これによると、今歩いている「本街道」は大名行列のための道で、南の「国道 2 号線」の向こうに「浜街道」と呼ばれる庶民のための道があったようである。

写真 21 旧西国街道説明板(春日野道)

 さらに街道を進むと「コミスタ神戸」の角にまた説明板があった。前に書いた「行程記」の絵を載せている。また「吾妻地区エリア情報」として、次のように書かれていた。「現在の旭通四丁目付近には、明治時代にできた『大安亭』という名の人気の高い浪花節の寄席小屋があり、その周辺にできた商店街が大安亭と呼ばれて栄えていました。明治時代後期には、新生田川をはさんで東側にも大安亭に似た商店街ができ始め、その後どんどん栄えて新大安亭と呼ばれるようになりました。第二次世界大戦後には三宮東地域の環境が変わり、本家の大安亭にいた商売人が現在の大安亭に移転していったようです。この頃の大安亭は、每日が縁日かと勘違いされるほどの人出で、神戸有数の市場として発展しました。なお、寄席小屋の大安亭は、昭和十五年ごろになくなったといわれています。」

写真 22 西国街道説明板(コミスタ神戸)

 右を見ると「大安亭市場」の看板。この商店街、いかにも安そうだ。

写真 23 大安亭市場

「生田川」の前に出る。右を見ると六甲山、その手前が「新神戸」。尖塔は「ANA クラウンプラザ」だ。

写真 24 生田川から北を見る
写真 25 生田川を渡る

「生田川」を渡り直進し、「三宮東あじさい商店街」を抜けると、すぐ「JR三宮駅」だ。駅の東側の交差点を横断し、JRの線路を潜る。

写真 26 JR 三宮駅東交差点

 駅の北側に出て西へ。ここも「西国街道」だ。中央口の前の横断歩道前が今回のゴール。左手に「阪急三宮駅」が見えている。時刻は 13:50。今日の歩行距離は 15.2 キロ。3 時間 40 分だった。

写真 27 JR 三宮駅中央口北側横断歩道前(ゴール)
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