2024 年 3 月 21 日 9:35、私は「小田原駅」にいた。前回の「歩き旅」が 1 月 31 日だったから、およそ 2 ヶ月ぶりである。今回は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」の唄の文句にある「箱根八里」を歩く予定だ。「小田原宿」から「三島宿」までの距離は八里、約 32 キロだが、その間に 1436 メートルの「箱根山」がそびえ立っており、昔から東海道随一の難所となっている。このコース、もっと早く歩きたかったのだが、予定を立てると雪が降ったり雨が降ったりでなかなか実行できなかった。残雪の心配がなくなった 3 月末、晴れの日を見つけてようやく実行する運びとなった。
遅い電車で「小田原宿」につき、北条氏の城下町をゆっくり見学しよう。その後で「箱根湯本」まで歩き、一泊して温泉につかる。つぎの日「箱根山」を越えて「箱根宿」まで歩き、三日目に「三島宿」に到着する。そんな二泊三日コースを計画していたのだが、直前の天気予報で最終日が雨に変わった。ほんとに春の天気は変わりやすい。急遽、予定を変更して一日目に「小田原宿」から間の宿(あいのしゅく)の「畑宿」まで歩き、バスで「箱根湯本」に戻り一泊。つぎの日バスで「畑宿」まで行って、箱根山を経て「箱根宿」へ、さらに「三島宿」まで歩けるだけ歩くことにした。二日目の距離が長いが、体調次第では途中で中断してバスでホテルを予約している[三島」まで行き、後日、再スタートしてもいいじゃないかと開き直った。
ということで、今回はこの行程の前半「小田原宿」から「畑宿」までの道中について記そう。

小田原宿
まずは「小田原宿」である。広重の東海道五十三次の絵(図 2)は前回越えた「酒匂川」の渡しである。正面右の大きな山が箱根山だろう。手前の町が「小田原宿」、その右に「小田原城」の城郭が見えている。

前回のゴールは「小田原まちしるべ 山王口」だった。「小田原駅」から約 30 分歩いて、そこまで戻り、歩き旅再開である。

「小田原宿」の概要を整理しておこう。
- 所在地:相模国足柄下 (あしがらしも) 郡(神奈川県小田原市本町 1 丁目など)
- 江戸・日本橋からの距離:20 里 27 町
- 宿の規模:家数 1542 軒、本陣 4、脇本陣 4、旅籠屋 95
- 宿の特徴:関東への出入り口として重要な拠点。北条早雲を祖とする後北条 (ごほうじょう) 氏の城下町として発展し、江戸時代においても小田原藩の藩政の中心地だった。
そう、なんといってもここは「北条早雲」を祖とする「北条氏」の城下町だったのだ。
室町時代の中後期、「伊勢新九郎(伊勢宗瑞、北条早雲)」は室町幕府に出仕していたが、長享元年(1487)以降、駿河の大名今川氏に鞍替え。明応 2 年(1493)には、現在の静岡県伊豆の国市にあった堀越御所にいた将軍足利義政の甥の茶々丸を追い出して伊豆へ進出し、伊豆一国を治める戦国大名となる。それだけで満足せず、さらに相模小田原(神奈川県小田原市)へ進出したのち、相模国も自分のものにしてしまう。まさに、下剋上の典型となる人生であった。その子の氏綱は「北条」を名乗り、「北条氏」は早雲から数えて 5 代続く。その勢力範囲は天正 14 年(1586)には伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野南半・下野西半、駿河・常陸の一部に及び、まさに関東の覇者となるが、天正 18 年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡する。
「小田原まちしるべ 山王口」のすぐそばに「江戸口見附跡」がある。その説明板には、「豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約 9 m の堀や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のとさには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていました。江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていました」とある。ここには北条軍がひかえ、すぐ東の「山王川」の向こう岸に陣取った家康軍と対峙していたのだ。

さて、「旧東海道」はその先の「新町」の交差点で「国道 1 号線」から分岐するが、この通りは「かまぼこ通り」と名付けられている。名前の通りかまぼこ屋さんが並んでいる。


小田原宿には 4 軒の本陣があったが、みなこの通りに並んでいる。「清水金左衛門本陣」と「片岡本陣」は明治天皇の宿泊所だったようで、「御在所跡」の碑が建てられているが、他は小さな碑があるだけである。
-1024x768.jpg)
道は再び「国道 1 号線」となり、「御幸ノ浜」の交差点に出る。ここで「小田原城」を見ていこうと北上した。図 4 が城址公園の地図だが、「正面入口」と書かれた場所の前の通りが「御幸ノ浜通り」から続く「お堀端通り」である。「馬出門土橋」を渡り「馬屋曲輪」「住吉橋」「銅門」と進み本丸広場から天守閣へ進んだ。郷土文化館や天守閣の中も見てみたかったが、時間の関係でパス。



天守閣は写真のような端正なもので、江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和 35 年に復興されたものだ。ここまで歩いてきて、不思議に思うことがあった。「小田原城」は難攻不落とされた名城である。それがこんな平地にあるとは? 実は、この遺構は北条氏時代のものではなく、徳川家康の家臣の「大久保忠世(おおくぼただよ)」によって建てられたものだった。北条氏時代の城はというと、現在の本丸から 400 m ほど北西にある「八幡山古郭」が中心部だったようだ。ここは図 3 の地図で「城山 3 丁目」とあるあたりで小高い丘の上である。つまり難航不落の山城だったわけだ。
帰りは南入口を使ったので、有名な「ういろうや」の前を通らなかった。「国道 1 号線」に出て、「箱根板橋駅」方向に歩く。正面に「東海道本線」の架道橋が見えてきた。その向こう、二つの山の頂きが見えるが、あれが「二子山」だ。「旧東海道」はあの山の裾を通っている。

「東海道本線」の下を潜り、「新幹線」の架道橋の手前で「旧東海道」は北側に分岐していた。この分岐のあたりが「板橋口」で上方(かみがた)方面の入り口であったところ。「小田原宿」はここまでで、その先は「早川」伝いの「箱根路」となる。
小田原~箱根湯本
「早川」沿いに「国道 1 号線」が走っている。毎年、1 月 3 日の朝はテレビで「箱根駅伝復路」を見ているので見慣れた風景だ。選手達がすごい速さで走っているその道を私はゆっくり歩いている。前方に「二子山」が見える。

この「1 号線」のすぐ北側を「箱根登山鉄道」が走る。「旧東海道」はというと、多くは「国道 1 号線」と重なるが、場所によっては登山鉄道の北側を走る。「風祭(かざまつり)駅」の辺りは線路の北側だが、お昼時なので食堂を探すために「国道 1 号線」を歩くことにした。旧街道には飲食店がほとんどないからだ。「鈴廣かまぼこ」の前に出る。駅伝で見慣れた風景だ。レストランも併設しているので、ここでもいいかと思ったが、もう少し先を探索してみることにした。ところが思っていた店が休みだったりして、なかなか店が見つからない。ようやく「入生田(いりうだ)駅」を過ぎたあたりで、「箱根乃庵」というお蕎麦やさんを見つけ、天麩羅蕎麦にありついた。すでに「箱根町」に入っていた。

「箱根新道」の分岐のあと、「国道 1 号線」は「箱根湯本」「塔ノ沢」「大平台」と「早川」沿いに進んで「宮ノ下」へ入り、ここで「強羅」に向かう「国道 138 号線」と分かれて西に進み、「小涌谷」を越え「芦ノ湯」を経て「元箱根」へ入っていく。これは駅伝でおなじみのコースだ。一方、「旧東海道」はというと「箱根湯本駅」の手前の「三枚橋」を渡って「須雲川」に沿って進み、「畑宿」を経て「下二子山」の裾を通り「元箱根」に入る。「県道 732 号線」と重複部分が多いが、昔の石畳道も残っている。

「箱根路」は時代とともに変遷しているようだ。写真 10 は箱根越えの途中にで見つけた説明板だが、5 つのルートについて説明している。

- 碓氷(うすい)道:最も古いルートで箱根火山の北部外輪山を越える、国府津~関本~明神ヶ岳~碓氷峠~乙女峠~御殿場というコースで、なぜか明神ヶ岳・乙女峠という1000メートル級の山越えを含む。ヤマトタケルが東征の帰路に用いた路だという。
- 足柄道:奈良・平安時代に用いられたという大回りのコース。国府津~関本~矢倉沢~足柄峠~御殿場を通る。
- 湯坂道:鎌倉・室町時代に開かれた路。湯本~湯坂山~芦之湯~元箱根~箱根宿と湯本から尾根伝いに歩き、浅間山、鷹巣山を越えて芦之湯に入る。
- 旧東海道:江戸時代に開かれた須雲川の沿いの谷間の路で、湯本~畑宿~元箱根~箱根宿と下二子山の南の裾を通るコース。距離が最も短い。
- 国道 1 号線:明治 37 年に小涌谷~芦之湯間が開通し、宮ノ下経由で板橋~元箱根間に道路がつながった。箱根湯本、塔ノ沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯を称して「箱根七湯」と呼ぶが、国道 1 号線はこれらの温泉場をつなぐ道でもある。

図 5 に箱根周辺の地形図を示す。箱根は火山で、大観山、金時山、明神ヶ岳などはその外輪山であることがよくわかる。芦ノ湖はカルデラ湖なのである。旧街道は南西側の外輪山の裾を通っている。
箱根湯本~畑宿
時刻は 12:30、「三枚橋」を渡り「湯本」の町に入っていく。急に坂道になった。いよいよ箱根越えの始まりである。

すぐ北条氏の氏寺「金湯山 早雲寺」の前に出る。「後柏原院の大永〔1521 – 28〕の初めつかた、北条の氏綱のぬし、特に賜う正宗大隆禅師をむかえて、この地に早雲寺をたて、この温泉のとこしなえに春のけしきのあることを愛して、浴室をそのほとりに開けり。よりて金湯山という」と『東海道名所図会』に記されている。秀吉の小田原攻めの時に焼失するが、江戸時代以降に再建されたものという。中門は平成 31 年の再建。中の本堂の屋根がとても美しい。


その先の左手には、曾我兄弟の墓所がある「正眼寺」がある。ここで眼を引くのが大きな「石地蔵」で、これは北条早雲が入る以前の小田原城主「稲葉氏」の菩薩寺である「長興山紹太寺」にあったものを移したのだそうだ。


「箱根湯本」は「須雲川」沿いの町で温泉街は主に川が刻んだ谷間の「湯場滝通り」にある。「旧東海道」はそこより南、やや高いところを通っている。「台の茶屋」のバス停の先に右に下りていく道があり、「石畳入り口」の標識が立っていた。

「江戸幕府は、延宝八年(1680)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をした。この先から 255 メートルはその面影を残しており、国の史跡に指定されている」と箱根町教育委員会の説明板が立っていた。右の建物の前に「馬の飲み水桶」の跡がある。その先に最初の石畳があった。「さるはし」を渡ると、石畳の道は細くなり、「箱根観音 福寿院」の上で県道と合流する。



「ホテル南風荘」「天山温泉郷」などの標識が現れる。「星野リゾート界箱根」の分岐をすぎる。上りがきつくなってきたと思ったら「葛原坂」の看板。「上り一丁ばかり」とあるから約 100 m ほどの上りだ。

「箱根新道」へ入る分岐を過ぎ、しばらく上ると左手に「鎖雲寺」、その手前に「温泉山鎖雲寺」の碑がある。

その先「須雲川」を渡る橋の手前に「須雲川自然探勝歩道」の看板があった。入り口に「女轉シ坂登一町餘」と書かれた碑があり、「畑宿 1.7 km」と書かれた標識も出ている。さて、この探勝歩道をすすむべきか? 図 6 が案内板にあった地図(抜粋)である。道はしばらく「須雲川」に並行して走り、川を渡ってもとの県道に出るが回り道になるようだ。時刻は13:45。「畑宿」では 15:18 のバスに乗りたい。探勝道を行っても間に合いそうだが、どんな道なのだろう。結局、ここはパスして県道を歩くことにした。


「箱根大天狗山神社」の真っ赤な鳥居をすぎ(途中にも「天聖院」という派手な神社があった)、杉林の中に入っていく。さきほどから急な坂道になっている。左側に「女転ばし坂」の説明板があった。箱根の難所の一つで馬に乗った婦人がこのあたりで落馬して死んでしまったとある。写真 24 が県道の様子だが、坂はもちろん「旧東海道」の話である。


この先、「箱根天聖稲荷大権現」の鳥居をすぎ、東京電力三枚橋発電所への降り口(たぶん先ほどの探勝道の出口だろう)の向かい側に「割石坂」の階段があった。今度は探勝歩道へ入ってみる。ここには江戸時代の石畳が残っていた。


探勝歩道は短く、すぐに県道に戻る。その先、左側のガードレールの間に「大澤坂」への入口があるのだが、ここも今回はパス。県道を上って 14:19 に「畑宿」に入った。「湯本」からずっと坂道をのぼり続けたので、ずいぶん疲れていた。つぎのバスの時間を見ると 14:48、まだ少しあるので寄木細工の店に入り、作品を見せてもらった。寄木細工はここ「畑宿」が発祥の地、様々な色合いの木を組み合わせて種板を作り、かんなで薄く削ってシート状にしたものを貼っていく「ヅク貼り」と、種板そのものをろくろでくり抜いて加工する「ムクづくり」の二種類があるらしい。幾何学模様が美しい。お盆や器が一般的だが、秘密の箱というのもある。昔、お土産にもらったことがあるが、板を正しく順に動かしていかないと蓋が開かない仕掛けだ。家のどこかにあるはずだとおもうが、もう久しくその姿を見ていない。作品を楽しんでいるうちにバスの時刻が来てバス停へ。これで「湯本」までバスで戻り、温泉につかる。そして、明日の朝またここへ戻り、芦ノ湖をめざして歩き旅再開だ。ひょっとしたら「三島」まで行けるかも。

小田原からここまでの歩行距離は 14 キロだが、約 400 メートル登っていた。
