旧東海道歩き旅(3)川崎宿~神奈川宿(2024.1.17)

六郷あたりで川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ

(こちゃえー、こちゃえ-)

 2024 年 1 月 17 日、今回は「川崎宿」に前泊して「歩き旅」を始めた。ここ 2 日、北風の強い寒い日が続いたが、今朝は暖かい。天気も快晴、「歩き旅」にはもってこいの天候である。今日は「戸塚宿」まで歩く予定だが、「川崎宿」から 25kmくらいあるので、できるだけ早く行動を開始したいと思い前泊となった。まずは「神奈川宿」までの道中である。

図1 行程

川崎宿

図2 安藤広重「東海道五十三次」 川崎 

 前泊したおかげで、ゆっくり朝食をとった後、7:36 にホテルをスタートし、旧東海道を歩き始めた。昨夜の川崎宿は道路横に「川崎宿」と書かれた燈籠? が並んでいて、まさに宿場町という雰囲気だったが、今はビジネスマンが足早に駅へと向かう街に変身している。

 さて、「川崎宿」だが、『日本大百科全書』の「五街道宿駅一覧」の記載はつぎの通り。

  • 所在地:武蔵国橘樹 (たちばな) 郡(神奈川県川崎市川崎区本町 1 丁目など)
  • 江戸・日本橋からの距離:4 里 18 町
  • 宿の規模:家数 541 軒、本陣 2、脇本陣なし、旅籠屋 72
  • 宿の特徴:品川からは六郷川(多摩川)を渡ってすぐの宿場。川は初め渡舟、のちに六郷橋が架けられた。川崎大師平間 (へいけん) 寺への参詣客でにぎわった。

「品川宿」に比べて、長さが 1.4 キロと 7 割程度、家数では 3 分の 1 と規模が小さいのに対し、旅籠屋の数は「品川宿」の 93 に対して 72 と 4 分の 3 程度ある。この理由としては、「品川宿」が江戸近くのため宿泊客が少なかったこともあるが、「川崎大師」が近くにあり、その参詣客で賑わったからだろう。図 3 は私が歩いた旧東海道のコースに「川崎宿」の主なポイントを書き加えたものである。「宿駅」の範囲は江戸側にある「江戸見附」と京側の「京見附(上方見附)」の間である。「見付」とは、もともと見張りの番兵を置いた検問所で宿場の出入り口に設けられた。この見附間の距離は「品川宿」に比べてだいぶ短い。

図3 川崎宿あたりの地図と主なポイント 赤線は歩いた旧街道のコース

 安藤広重「東海土五十三次」の「品川」は「六郷の渡し」の絵。「お江戸日本橋」の二番、「六郷あたりで川崎の まんねんや」の「万年屋」は「江戸見附」を過ぎてすぐの左手だから、現在の「川崎宿」の入口にある「旧東海道の碑」(写真1)のあたりか。「NPO 法人かわさき歴史ガイド協会」によれば、「明和年間(1764~72)、一膳飯屋だった万年屋は、奈良茶飯の人気で、宿場一の茶屋となり、宿泊もまかなうようになった。江戸時代後期には大名も昼時に立ち寄るほどで、やがて本陣をもしのぐようになった」とのことで、また「安政 4 年(1857)のこと、アメリカ駐日総領事ハリスが江戸へ向かう途中、川崎宿・田中本陣に泊まる予定であったが、本陣のあまりの荒廃ぶりを見て万年屋に宿を変更したという」。「本陣」は宿泊客が限定されていたし、大名自身の食事賄いを原則としていたので儲からず、大名等の財政窮乏とともに衰退していったらしい。

写真1 川崎宿入り口の旧東海道の碑
写真2 田中本陣跡の説明板

 昔の建物は残って居らず、現在は説明板が立っているだけである。見過ごしてしまうことも多い。写真 2 は「田中本陣」の説明板である。今、旧街道でにぎやかなのは「京急川崎駅」の前のあたりだが、ここは江戸時代には「問屋場」や「高札場」のあったところ。このあたりが「品川宿」の中心だろう。

「京見附」を過ぎて更に歩くと、「京急八丁畷駅」に出る。駅の手前に「芭蕉の句碑」がある。草書体で読めない。かろうじて、真ん中が「麦の穂を」と読める。調べると右が「たよりにつかむ」、左が「わかれ」と書いてあるそうだ。右下の文字は「翁」である。元禄 7 年(1694)芭蕉が京へ旅立つ際に弟子達と別れを惜しみ作った句で、その 5 ヶ月後に帰らぬ人となった。

写真3 芭蕉句碑

「京急八丁畷駅」前で線路を越え、JR との間の道を進む。この「八丁畷」だが、「縄手道」(あぜ道)が八丁(約 870 メートル)続いていたことからつけられたものだ。

鶴見

「鶴見市場」に入る。ここに「日本橋」から 5 里であることを示す「市場の一里塚」があった。

写真4 市場の一里塚

 この先、「鶴見川」にかかる「鶴見川橋」を渡ったところに「鶴見橋関門跡」がある。これは安政 6 年(1859)に開港された「横浜」への出入りを監視するために設けられた「関所」である。「お江戸日本橋」の唄の歌詞「鶴と亀との 米まんじゅう」だが、かつてこの橋の周辺で「米まんじゅう」を売る店が多く、中でも名高かった「鶴屋」と「亀屋」から来ているそうだ。この「米まんじゅう」は現在復活し、「御菓子司 清月」から鶴見の名物として販売されている。

写真5 鶴見橋関門跡

 このあと「旧東海道」は「JR 鶴見駅」の前で「県道 104 号」となり、「京急」の線路を越えたところで県道を横断し、「京急鶴見駅」の横を南下する。後から鉄道が敷かれたために道が分断されたのだが、ちょっとややこしい。

生麦

 道は「鶴見川」沿って進み「生麦」に入る。「魚河岸通り」という魚屋が集まった通りが有名だ。残念ながら、まだ 9:10 なので開けている店はない。

写真6 生麦魚河岸通り

 ここから先、道はゆっくりと右に曲がっていく。道の両側には住宅が建っている。江戸時代は左側は海岸だったが、今はすっかり埋め立てられて「京浜工場地帯」となっており、その上を「首都高」が走っている。「生麦」の名前の由来は 2 説あり、ひとつは貝の名産地で、生の貝をむく「生むき」が転じて生むぎとなったというもの、もうひとつは徳川 2 代将軍秀忠がこの辺りを通った時、道がぬかるんでいたので、名主が機転をきかせ、畑の生麦を刈り取って敷き、行列を無事に通過させたことによるというものである。ここは文久 2 年(1862)に起こったいわゆる「生麦事件」で一挙に有名になる。

 事件の経緯ならびにその結末はつぎの通りである。(以下の作成においては、アーネスト・メイスン・サトウ「一外交官の見た明治維新」 (講談社学術文庫) 、「特集 生麦事件」(横浜歴史さろん 20210218)、日本大百科全書「生麦事件」及びウィキペディア「生麦事件」を参考にした。)

  • 薩摩藩 12 代藩主「島津忠義」の父「島津三郎久光」は公武合体の必要性を感じ、文久 2 年(1862) 4 月 16 日朝幕改革の意見書を朝廷に提出。同 6 月 7 日、「久光」は薩摩兵 1000 人を引き連れ、勅使「大原重徳」を奉じて江戸に入り幕政改革の交渉を開始する。目的を達し、「久光」は「大原」より 1 日早い 8 月 21 日に軍勢は 400 人あまりを引き連れ、京にむけ江戸を出発。「東海道」を進み、午後 2 時頃、「生麦村」に差し掛かる。
  • この日は日曜日だったので、横浜の生糸商人ウィリアム・マーシャルは、ちょうど香港から遊びに来ていた義理の妹マーガレット・ボロデール夫人を連れて、川崎大師へ出かけることにした。マーシャルは友人で横浜で生糸を扱うハード商会のウッドソープ・クラークを誘い、彼は上海から遊びに来ていた友人チャールズ・リチャードソンを誘った。4 人は横浜から小舟で神奈川に渡り、そこから馬で東海道を川崎へ向かった。当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウによれば、横浜の居留民は日曜日になると、みなこぞって東海道を下って川崎まで馬に乗って散歩し、昼食を食べてから夜までに戻るということをしたものだったらしい。ときには金沢、鎌倉、江ノ島まで足を延ばすこともあったが、条約で保障されている遊歩区域はそこまでだった。そして、この英国人 4 人も「東海道」を進み、「生麦村」に差し掛かると前方から行列が近づいてくる。
  • 前方にいた薩摩藩士たちは馬上の英国人に対して、「下馬して道を譲るよう」身振り手振りで説明するが、英国人は「脇へ寄れ」といっているものと解釈し、馬に乗ったまま街道の脇を進んだ。しかし、道幅が狭く行列が道一杯に広がっていたので、4 人は行列の中を進む恰好となった。そして「久光」の乗る駕籠とそれを警護する一団と遭遇する。先行するリチャードソンとボロデール夫人が大男に制止されるが、彼らはそれを「引き返せ」と命じられたものと取り、馬を旋回させようとする。その最中に薩摩藩士数人が抜刀し斬りかかった。リチャードソンは瀕死の状態で神奈川に向け走るが落馬、他の 2 人も重傷を負いながら夫人に「逃げよ」と叫ぶ。リチャードソンは追いかけて来た数人の藩士に畑の中へ引きこまれ、とどめを刺された。
  • ボロデール夫人は馬で横浜居留地に駆け込み、起こったことを伝える。イギリス領事のヴァイス中佐はニール公使の命に反し、公使館の兵を連れて現場に赴き、街道上の木陰でリチャードソンの遺体を発見。遺体は神奈川宿本覚寺のアメリカ領事館に運ばれたが、そこでは負傷したマーシャルとクラークもヘボン博士の治療を受けていた。
  • 「島津久光」の一行は予定を変更して「保土ケ谷宿」に直行。神奈川奉行所の引き留めに応じず、翌日「保土ケ谷」を出発する。横浜在留の外国人たちは激昂して実力報復を主張したが、イギリス代理公使ニールは外交交渉による事件解決を図った。しかし、幕府を通じての犯人引き渡し要求に対して、薩摩藩は浪人「岡野新助」が犯人だが行方不明との届けで押し通した。そこでイギリスは軍艦 12 隻を横浜に入港させて、武力を背景に交渉を開始した。同公使は、翌年 2 月、幕府に対して正式謝罪状の提出と償金 10 万ポンドの支払い、薩摩藩に 2 万 5000 ポンドの支払いと犯人処罰を要求した。5 月幕府はこれに応じた。老中小笠原長行の独断であったとも、一橋慶喜との黙契があったとも言われている。
  • 一方、6 月イギリスは艦隊を引き連れて鹿児島へ。薩摩藩と直接交渉するが、薩摩側があくまで拒否したため、7 月 2 日薩英戦争の開戦となった。まず、イギリスは薩摩が交渉に応じること期待して、鹿児島湾内にある薩摩藩の所有船 3 隻を拿捕する。ところが、予想に反して薩摩側が砲撃を開始したことから戦争が開始される。イギリス側は薩摩の砲台を砲撃・破壊した後、ロケット弾で鹿児島市街を焼き払う。一方、イギリス側も旗艦ユーリアラス号の艦長・副艦長を失うなど大きな損害を受け、4 日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘が終結した。戦争後、近代兵器の威力を目の当たりにした薩摩藩では、攘夷の声は下火になり、一気に和睦に向けて動き出す。
  • 10 月 5 日、イギリスと薩摩藩は横浜で講和に至る。薩摩藩は賠償金を支払い、その金は幕府からの借金でまかなった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。なお、この幕府からの借金は返済されないまま幕府は倒れた。これで、1 年以上かかって「生麦事件」は解決をみた。この後、薩摩とイギリスの関係は親密になり、イギリスの支援を受けながら薩摩は長州とともに明治維新を推進していくことになる。

「生麦事件」に関連して、「生麦」では 2 カ所に説明板が立っている。ひとつは「事件の発生現場」、もうひとつは「生麦事件の碑」である。前者は「神奈川」に向けての道の右側の住宅の前、後者は道の左手「キリンビール横浜工場」の前にある。私は前者を完全に見落としてしまった。東海道は幅が 6 間(10.8 m)と定められていた。2 車線道路だが、あまり広くない。さらに橋の横幅は「川崎宿」から「保土ケ谷宿」間で 3 間(5.4 m)と狭い。ここを大名行列が通るのである。「久光」の一行は 400 名あまり、さぞかし大変だったろうと推測する。

写真7 生麦事件の碑
写真8 キリンビール横浜工場

 ここで道は再び「第一京浜国道」と合流する。江戸時代には左側は海、さぞかし風光明媚な道だったのだろうが、今はその面影もないビルに囲まれた単調な自動車道である。

写真9 第一京浜に合流
写真10 東子安一里塚

神奈川宿

「東子安一里塚跡」を過ぎて時刻は 9:50、「新子安駅」近くでちょっと休憩。元気になったところで再開、道路の右側の歩道に移動した。だいぶ日が射してきて、暑くなってきた。「子安」を過ぎたところで、さすがに暑いので下に着ている保温着を脱ごうかと場所を探す。ふと右手を見ると路地の向こうに公園が見えた。保育園の子供達が遊んでいる。公園の角に説明板が立っていた。「長延寺跡(オランダ領事館跡)」「土塁跡」。たまたま入ったこの公園が「神奈川宿」の江戸側の入り口だったようだ。そして、ここにかつて「オランダ領事館」になった「長延寺」があった。公園の中に入ると、果たして中程の南の端に「オランダ領事館跡の碑」があった。

写真11 神奈川通り東公園
写真12 長延寺・土塁跡
写真13 オランダ領事館跡の碑

 この先の「神奈川宿」の詳細と「保土ケ谷宿」への道中は次回にしよう。

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