舞子~大蔵谷宿

「二月の旅」の二日目。一日目は雨に降られたが、今朝はいい天気だ。「国道 2 号線」に戻り、7:57 に「歩き旅」開始。この青空の下の「明石海峡大橋」をカメラに収めておこうとまず海に向かった。

今日はすべてがくっきりと見える。淡路島も細部までよく見えている。晴れるととても美しい景色だ。空の青、海の青、山の緑、そして白い建造物。そばにある「孫文記念館(移情閣)」も美しい。公式サイトには「大正初期に中国人実業家・呉錦堂が建てた別荘を移転復元した、八角三層の印象的な楼閣です。1913 年に、中国の革命家・孫文が準国賓として来日し神戸に来た際、呉氏をはじめ財界人と歓迎会を開き、ゆかりの建物になったのです。1984(昭和 59)年からは孫文記念館として公開し、孫文と神戸の関係や呉錦堂の生涯についての資料を展示しています。本館は孫文を顕彰する日本唯一の施設であり、現存する日本最古級の木骨コンクリートブロック造の建造物でもあり、国の重要文化財に指定されています」と説明がある。

「2 号線」まで戻り、「28 号線」の高架橋を潜ると、右側にお地蔵さんがあった。「明石延命地蔵尊」という名前だが、「叩き地蔵」とも呼ばれているそうだ。その名前の通り、叩きながら願掛けすれば願いが叶うのだそうだが、今は叩かないのが流儀なのだそうだ。

左の脇道へ移動し、「旧舞子集落」に入っていく。「垂水なぎさ街道」の表示がある。右側に鳥居があった。額には「六神社」と書かれている。神社のホームページには「江戸時代前期中葉に、播州明石郡山田村の総鎮守として六社大明神の社を建て、六柱の神を祀ったのが創始であると思われる」とあり、祭神は「伊邪那岐大神」「伊邪那美大神」「天照皇大神」「素盞男大神」「月夜見大神」「蛭子大神」。「六」は祭神の数から来ているのだ。説明にあるように、このあたりは昔「山田村」と呼ばれていた。


国道に戻って進むと、途中で海が見えた。ここで「明石海峡大橋」を振り返る。昔は「山田村」の浜から「紀伊半島」も見えたという。浜まで出れば見えるかもしれないが、残念ながらこの位置からだと「舞子」すら見えない。

「明石市」に入る。

道が分岐して、直進は「国道 2 号」、左は「国道 28 号」となる。左は「大蔵海岸」沿いの道である。最初、こちらを歩いていたのだが、街道は「国道 2 号」であることに気づき移動。「朝霧川」を越えたところで、左に入る。8:48「大蔵谷宿」に入った。
大蔵谷宿
まわりを見渡しても「谷」らしい雰囲気がないのに、どうして「大蔵谷」と呼ばれるのだろうと不思議に思い、『大日本地名辞書』を見ると「市街の東にして垂見村山田の西、海に沿ひ小渓を挟む」と渓谷の存在が示されている。ではと『行程記』を見ると、図 2 の「大倉谷村」の右端、つまり宿場の東の街道の北に山が描かれていて、確かに谷になっている。ここに描かれている山は「朝霧山」だが、今は開発されて住宅地になってしまっている。だから昔の面影はないのだ。

宿場の概要はつぎの通り。旅籠屋数が 60 と比較的大きな宿場である。
- 所在地:[現]明石市大蔵天神町・大蔵本町・大蔵中町・大蔵町・大蔵八幡町
- 規模:家数 294、人口 1781、本陣 1、脇本陣 2、旅籠屋 60
- 位置:東は兵庫津宿から五里、西は加古川宿まで五・五里。
- 特徴:古くから交通の要衝で、南北朝時代には足利尊氏の大軍が駐留するなど軍事上の拠点でもあった。近世は明石城下町の東に隣接する宿場町として栄えた。西は源平合戦ゆかりの両馬川、東は朝霧川に挟まれた地域。
入ったところの様子はつぎの写真。

この先、右側に「穂蓼(ほたて)八幡神社」の鳥居があった。『行程記』に見える「八幡神社」がこれだろう。

右側にある説明板を読んでいて、ウーンとうなった。こう書いてある。
八幡神社
祭神 鴨部の大神(越智益躬 おちのますみ)
息長足姫の命、玉依姫命、応神天皇
推古天皇の御代に人皇第七代孝霊天皇第三の御子伊予の皇子より 十七代の嫡葉の小干の益躬が鉄人を和坂にて撃ち 益躬 伊予三嶋大明神を大蔵谷に祀る(稲爪神社)其の後 益躬の子武男 稲爪神社の辰巳の方角に一社を建て 益躬を祭る(越智神社)。
さきに 鉄人 九州を通過せし時 これを防ぐことも得さりし者の末裔此社前を通るとき 馬、籠より下り益躬に敬意を表せり 又 これをさけ 殊更 船にて上る諸侯あり 明石城主これを気の毒に思い越智神社を穂蓼八幡と改む、尚同時に神社を建て替をした。この年号は宝永二年(一七〇五)にて城主は 松平右兵衛門督直常
その後諸大名 馬又籠のまま通行した。
又 八幡神社社領に権現山あり 東西共富山で 西山の小神祠は熊野三社権現を祀る 西の登りに水を湧出る所を大蛭谷と言い人丸小学校前の家の建っている谷である。
八幡神社の東に空地あり 八幡の森と言い明石藩の大砲練習場ありたり
主祭神が「越智益躬」で、ここはもともとは「越智神社」という名前だったらしい。この人物が「鉄人を和坂にて撃ち」と書かれている。「鉄人」? 鉄人といえば「鉄人 28 号」と「料理の鉄人」くらしか思い浮かばないが、これはいったい何だろう?
『大日本地名辞書』を引いてみる。「蟹坂」の項に、「予章記云、推古天皇御宇、三韓襲来る、戎人八千人、鉄人為大将来、西国まで打立る、爰に越智益躬、夷敵退治事、家先例とて勅を承り、九州発向し見給ふに、味方一人もなし、詮方尽て俄に智謀を設けて降人となり、播州明石浦着蟹坂を越とき、鉄人も乗輿、足挙馬の上より遠見して、彼是開けるを、答体に見れば、足の裏に眼有、誠神明御示現よと喜て、袖下に隠持たる矢被投ければ、趺より頭まで徹けるほどに、馬の上より真倒落、夷賊悉切捨らる」とある。最初の「予章記」というのは、中世に「伊予国」を中心に栄えた「越智氏」一族の「河野氏」が自らの氏族の来歴を記した文書である。
どうやら「鉄人」とは「推古朝」に日本を襲撃した「夷軍」、「三韓」とあるのでそれも「朝鮮半島」からやってきた軍の大将だったようだ。「鉄人」というくらいだから、頭から足まで鉄の鎧兜に覆われていて、刀も弓矢も通用しない相手だったのだろう。ホントに「鉄人 28 号」のようだ。だが、その「鉄人」にも弱点があったのだる。討伐を命じられた「伊予」の軍人の「越智益躬」に「大山祇神」からお告げがあった。「足裏」を狙えというのだ。輿に乗った「鉄人」が足を上げている。「益躬」にはその足の裏に眼があるのが見えた。これがお告げにあった急所なのだ! ここをめがけて隠し持った矢を放つ。足裏に矢を受けて「鉄人」が倒れた。大将を失った敵はもはや脅威ではない。「夷賊」をすべて殺すことができたという話なのだ。
『日本書紀』にこの事件は書かれていない。しかし、「推古八年」に「新羅」と「任那」の間に戦があり、「任那」を助けるべく「推古天皇」が兵を送っている。「推古十年」条には、「来目皇子」を大将として「新羅攻め」の軍が組まれるが皇子が「筑紫」で亡くなったことが書かれる。翌「推古十一年」に「当摩皇子」が「新羅討伐軍」の大将となり、七月に「難波」より出発する。ところが、「赤石(明石)」で妻が亡くなったため引っ返すという話が書かれた後、「新羅討伐」の話がでてこなくなる。どうやら決着がついたようなのだ。この『書紀』の記事と「越智益躬」の話が関係があるのかどうか?「越智益躬」の活躍により「夷賊問題」が解決したので「当摩皇子」が引き返したとも読めるではないか。場所も「明石」で同じである。
その「越智益躬」の神社にお詣りする。「越智益躬」は「三島明神」を祀るので、「鴨(賀茂)氏」とも関係が深そうだと思ったら、説明板に「鴨部の大神(越智益躬)」とあるではないか! この「三島明神」を祀った「稲爪神社」はもう少し先にあるので、のちほど紹介しよう。

神社の前に三軒並びの「厨子二階建て町家」があったのだが、写真を撮っていない。Google Map から拝借しよう。

こちらは「大蔵町(大蔵谷町)」の通り。古い町屋が見える。

この先「大蔵中町」に入ると、右側に「大蔵会館」がある。その前に「大蔵谷本陣・脇本陣」の説明板があった。この会館は以前「脇本陣」があった場所。その向かいに「本陣」があった(図 2)。このあたりが宿場の中心だ。


次の四つ角を右折すると「稲爪神社」の前に出る。立派な神社である。旧社格は郷社で『延喜式神名帳』の「伊和都比売神社」に比定される神社のひとつである。しかし、主祭神は「大山祇神」、配神に「面足神」「惶根神」で「伊和都比売」がでてこない。『大日本地名辞書』には、「社説に推古天皇の朝に、伊予国越智益躬と云人、南蛮と此に戦ふ、その時伊予の三島明神を祈りて功ありし故に勧請す」とあり、さらに「一説稲爪は稲積とも書し、往古租税を納め置かれし所か、大蔵の地名に合せ考ふべし」とあって、これは「大蔵」の地名説明になっている。


街道に戻って、左に「大蔵院」。「赤松円心」の孫の「祐尚」が「大蔵谷」に陣を構えた居城を三木城に移すにあたり、陣屋のあとを寺院にしたといわれているところだ。

この先を右に曲がると、「国道 2 号線」の向こうに「菅原道真」が休憩したという「休天神社」があるのだが、今回は立ち寄らなかった。街道は南に折れ、すぐまた西に向かう。ここに「東経 135 度」の子午線が通っているため、「子午線通過地の標柱」が立っていた。「日本標準時」はまさに「この場所」の時刻なのだ。その横の「大蔵交番」は人呼んで「子午線交番」。


この子午線の通る南北の道が昔の「明石村」との境である。時刻は 9:08、「大蔵谷宿」を出た。
大蔵谷宿~東加古川

大蔵谷宿~明石~和坂~大久保宿
「加古川宿」までは 五・五里と距離が長いので、途中に「大久保宿」という「間宿」もある。「舞子」からだとさらに距離があるので、手前の「東加古川駅」までとし、そこから電車でホテルのある「加古川駅」まで移動することにしたのだが、それでも先は長い。まずは「明石城下」へ入る。「明石城」は 1619 年(元和 5 年)に「小笠原忠政(後の忠真)」によって築かれた城で「JR 明石駅」の北。街道から離れているので今回は立ち寄らない。
この「明石(あかし)」という地名だが、『日本書紀』には「赤石」と書かれている。名前の由来は諸説あり、「西明石」のすぐ東にある「林崎松江海岸」の沖に沈んでいる「赤石(あかいし)」という岩の呼び名から「あかし」へと変化したというものや、畿内の入り口に位置するので、夜に西の方から見ると明るい土地であり、ここから「あかし」になったとの説があるとのことだが、ちょっとうさんくさい。
南北に走る「明石市道中央 12 号線」との交差点に「柿本神社の道標」があった。神社は「国道 2 号線」や「JR 線」よりも北なのでパス。 「明石城主」だった「小笠原忠政」が「人麻呂公」を崇敬しており、1620 年の「明石城」築城の際に、この地に「柿本神社」を建立したとされている。

この先「明石駅」に通じる「明石銀座通」に出て、街道は左に折れるが、すぐにまた西向きの道となる。

西に入ってすぐに「三白館」があった。大衆演劇の劇場で、こういうのが現存するのはかなり珍しい。

通りをまっすぐ進み、「明石川」に架かる「大観橋」の前に出る。不思議な形の親柱は「タコ壺」を表現しているのかもしれない。

橋の少し先、「南王子」の交差点で街道は北に折れ曲がる。「山陽電鉄」の高架を潜り、「国道 2 号線」を横断。このあたりは現在「西新町」と呼ばれるが、昔は「王子村」に属していたらしい。近くに「王子神社」があるとのことで、立ち寄ろうと一つ目の交差点で左折し、すぐ右に曲がって進む。左手の「西新町公園」の角に赤い鳥居が見えた。これが「白平大明神」で、その先を左折した右手に目的の「王子神社」があった。

この神社、「二十四代仁賢天皇(弘計ヲケ)」「第二十三代顕宗天皇(億計オケ)」を祀っている。とはいってもまったく馴染みのない天皇である。図 4 にその周辺の天皇家の系図を示した。「神功皇后」の子が「応神天皇」であり、その子の「仁徳天皇」から「履中」「反正」「允恭」「安康」「雄略」「清寧」「仁賢」「顕宗」「武烈」と「仁徳系」の天皇が続く。前に書いたように、この系列は「武烈」に世嗣のないことで終わり、「越国」から「継体天皇」を迎え入れる。その「継体」は「応神天皇」の五世孫とされるが、ここで王朝が断絶しているのではないかという説もある。

この時代は五世紀の中国の正史に登場する「讃」「珍」「済」「興」「武」の五人の王(倭の五王)の時代に相当する。つまり、中国側の史料から年代と存在が確認できるのである。では、どの天皇を「倭の五王」に比定するのか? これには諸説あり、確定できていない。どのような比定が考えられているかをまとめると、
- 讃(421・425・430 年):履中・仁徳・応神のいずれか
- 珍(438 年):反正・仁徳のいずれか
- 済(443・451・460 年):允恭が有力
- 興(477 年):安康が有力
- 武(478・479・502 年):雄略が有力
この「雄略」=ワカタケ(ル)については昭和 43 年に「埼玉県稲荷山古墳」から見つかった鉄剣の銘文に「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」と書かれていることから、実在が有力視されている。
さて、この「オケ」「ヲケ」の兄弟は、「履中」の子の「市辺押磐皇子(イチヘノオシワケノミコ)」の子である。系図を見ると、「履中」の死後、皇位は子供の「市辺」ではなく、弟の「反正」へと移ってしまう。これが「兄弟継承」の始まりなのだが、これには「仁徳天皇」の意向が働いたといわれている。その次も弟の「允恭」が嗣ぎ、その後は「允恭」の子の「安康」へと移る。「市辺」はその後と考えられていたようだ。ところが、その「市辺」を「雄略」がだまして殺害してしまう。
神社の説明板には「當神社は人皇第二十三代顕宗天皇・二十四代仁賢天皇並びに岩屋大神、伊弉冊大神(御分霊)を齊る宮にして、顕宗仁賢両天皇は皇位継承につき、父君が御災厄に會われ、為にご幼少の二王子は類難と慮り東播磨の地に潜入せられ、名を匿し住居を転々としてあらゆる辛苦を嘗められ給い、最後の地、王子村の細目家に奇遇せらる。第二十二代清寧天皇は皇子なく(皇紀一一四一年)二王子を探し求められ、迎へられ、嗣となす。両帝は聡明仁恕にして久しく民間に在りて、下情に通ぜられし為、民其の業に安んじ国運隆盛を極む。民其の御治蹟と御生涯を稱へ奉りて宮を建て報本反始の禮を盡す。あらゆる災難を逃れる厄除の神として一般民衆の崇敬篤く又学問の神としても尊敬せらる」と書かれている。つまり、「市辺」が殺害されたのち、「オケ」「ヲケ」の二皇子は難を逃れるため落ちのびて「王子」の地に潜んでいるところを「清寧天皇」に発見され、皇位についたという。
一方、『大日本地名辞書』は「播磨国明石郡」の「王子」の項に「今明石町に属す、明石川西畔の大字にして、蟹坂の東なり、俗説、王子とは億計弘計の二皇子の潜み居りたまへる所なればと云ふも、信ずべからず、里の北に王子宮という小祠あり」と書き、この説に否定的である。「兵庫県神社庁」によれば、「王子神社」は「元々は明石川のほとり、北王子の地にありましたが、昭和 20 年に水害で流され、現在の場所(西王子町)に移転した」とのこと。『地名辞書』がいう祠はこの移転前の「北王子」のものだろう。
街道に戻り「JR 神戸線」を越えて北上。「嘉永橋」の西の位置まで来て左折する。ここを真っ直ぐ進むと「和坂(蟹坂)」に出るのだが、「バンカル No 123 2022 春号」の「西国街道を歩く 須磨から姫路へ」に、その手前の「大道サクラ公園」に「蟹塚」があるとあったので立ち寄ってみた。

「明石市ホームページ」には「平安時代の初め、この深い雑木林に一匹の古狐が棲んでいて、夜な夜な蟹の面をかぶり道行く人々を襲っていたそうです。その頃、この坂の下に『二つ池』という大池があり、この中にある大きな岩に巨大な蟹が棲んでいました。大蟹は古狐の悪行に怒り、戦って勝ったのですが、今度は大蟹が驕り、この坂を行きかう人々を襲い始めたそうです。そこへ諸国を巡礼していた『弘法大師』が蟹に苦しんでいる人々のことを聞き、この大蟹の心を和らげ岩に封じ込めたそうです。この後、人々は穏やかに暮らすことができるようになり、以来、弘法大師が封じ込めた岩を『蟹塚』と呼ぶようになったそうです。現在、かつての『二つ池』は埋め立てられ、明石市の浄水場などになっています。この近くの『大道サクラ公園』の南道沿いに『蟹塚』の碑が建てられています」とある。前に「大蔵谷宿」のところででてきた「越智益躬」が「鉄人」を「和坂」で撃った話との関連で考えると、「蟹」=「鉄人」とも考えられるのだがどうだろう?
写真は「和坂(蟹坂)」の入り口、急に道が狭くなる。すぐ右に階段がある。これを上ると「坂上寺(ばんじょうじ)」に出るが今回はパス。坂を上がっていく。ここでは標識も「蟹さん」だ。



住宅の間を抜け、「和坂小学校」の前を過ぎて T 字路を左折すると「国道 2 号線」に出る。少し国道を歩いて、左の脇道に入る。このあたりで空模様が怪しくなってきた。あれっと思ったら、なんと霰が降り始めた。それほどの量ではないが、顔に当たると結構、痛いものだ。街道は「新幹線」の「西明石駅」と交差しているので、あわてて駅の中に飛び込んだ。ショッピングモールのカフェでちょっと休憩。霰が収まったところでまた歩き始めた。「西明石」は昔は「小久保村」。「山陽新幹線」の開通後、都市化が進んだという。
駅の北側を進み「国道 250 号」を横断すると右に神社があった。「三社神社」で主祭神は「皇大神」で「アマテラス」。配神が「八幡大神」と「春日大神」になる。


この先で「国道」に合流するが、すぐにまた左の脇道に入り「大久保宿」となる。
大久保宿~魚住

(出典 明石市立図書館明石郷土の記憶デジタル版 2.大久保の宿場の概要)
宿場町としての雰囲気はあまりしないが、それでも中心部の「常得寺」「安藤本陣跡」あたりにくるとそれらしい建物を見ることができた。「明石市立図書館 明石郷土の記憶デジタル版 2.大久保の宿場の概要」によれば、「大久保町に本陣が設けられたのは、播磨国の領主・池田輝政のころの慶長 5~18 年(1600~1613)で、『慶長播磨国絵図』(1596~1614)には大窪村の南に大窪新町とあり、これが大久保町のもとといわれる。江戸時代に入ると西国街道は、大名の参勤交代などで賑わい第 6 代明石藩主松平信之のころ、万治 2 年(1659)~延宝 7 年(1679)の記録には『本陣 安藤助太夫』『脇本陣 林屋与兵衛』と記されている。宿場町として栄えるにつれ、大きな旅籠十数軒が並ぶようになり、鉄屋、車大工なども軒を並べるようになった」とのこと。



ここで時刻は 11:30。「JR 大久保駅」を過ぎると街道はふたたび国道に合流。コカコーラの工場の角で北の脇道に入るのだが、そこに「古代山陽道の歴史」という説明板があった。どうやら、街道が工場の敷地内を通っているらしい。

コカコーラを迂回した後、北西へ進む。しばらく行くと「金崎宮」と書かれた額がかかった鳥居があった。この鳥居はその先の山の端にある「金ケ崎神社」のものだ。街道は直進だが、神社を回っていこうとここで右折し、山際まで進む。

この場所にもともとあったのは「黒岩神社」でご神体は黒い石。「昔、東国からの旅人が持ってきた石を安置したもので、年々太って大きくなるという言い伝えがあります」と説明がある。 明治 40 年(1907)に西約 400 m のところにあった「金ヶ崎村住吉神社」を合祀して、「金ヶ崎神社」と改称したらしい。祭神は磐長媛命(イワナガヒメノミコト)、住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)、気長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)の五柱で、イワナガヒメが「黒岩神社」の関連だろう。

鳥居まで戻らず、神社の前を左折。ちょうど台地の斜面の真ん中を進んでいるようで、左側は谷になっている。ここを抜けると浄土真宗「正覚寺」の前に出た。


このあたりは「魚住町」。それにしても「ため池」が多い。「明石市」によれば、全国一ため池が多い都道府県は「兵庫県」で、その数なんと約 4 万 3000 か所、2 位の「広島県」の倍以上とのこと。そのうち 107 か所が「明石市」内にあるらしい。もともと雨の少ない場所であり、農業用水の確保のために作られたものだ。「大道池」を過ぎた先に「古代山陽道」の「邑美(おうみ)駅家」の跡ではないかと言われている「長坂寺遺跡」の標柱があったらしいのだが、まったく気づかずに通りすぎてしまった。古代、「播磨国」には九つの駅家があったらしい。「明石」と「賀古(加古)」の間の駅家の名称については文献が残っておらず「幻の駅家」と呼ばれていたのだが、平成 22 ~ 23 年に行われた発掘調査でここで溝や瓦が見つかったらしいのだ。
「魚住駅」に至る県道を横断し進むと左に小さな地蔵堂。その先の「魚住小学校」の前に「西国街道の説明板」があった。


「魚住」という地名は「行基」が播磨・摂津国に開いた五泊(つまり五つの港)のひとつ「魚住泊」に由来し、名前は「魚掬(す)き」つまり魚を掬(すく)うとことから転じたとされる。「泊」といい「魚掬き」といい海に面しているイメージなのだが街道が通っている場所は北の「いなみ台地」の上である。もともとこのあたりは「清水村」と呼ばれていたところで、明治になって「金ヶ崎村」「長坂寺村」「清水村」「中尾村」「西岡村」が合併して「魚住村」となった結果、「魚住」の名前が台地部分にまで広がったのだ。もう一つややこしいのだが、「行基」の「魚住泊」の位置は「魚住村」ではなく、もっと東の「赤根川」河口の「大久保町西島」と推定されている。
この先の右側に「清水神社」の鳥居。もともとは「王子権現宮」という名で、明暦二年(1658)に「王子村」の権現、つまり先に書いた「王子神社」を勧請した神社だったが、明治にこの地にあった「帝釈天」を合祀して「清水神社」となったようだ。従って、祭神は「顕宗天皇」「仁賢天皇」だが、これらを「配神」とし、主祭神は「大己貴命」になっている。


この先、左側に道標。「是より はり満名所道/左 別府手まくら松 をのへのまつ 高砂相生まつ 道/右 あかしみ〔ち〕」と書かれている。
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「瀬戸川」に続いて「清水川」を渡ると右側に「清水新田 宝篋印塔」がある。江戸時代後期のもので街道で行き倒れた旅人の供養塔らしい。塔の左に台座が残っている。この上に塔が乗っかるとかなりの高さになる。地震による倒壊を防ぐために二つに分けたらしいのだが、説明板には元の写真が掲載されている。

土山~東加古川
ここで時刻は 13:10。「西明石駅」で休憩したのが 11時前だったので、約 2 時間歩いてきた。先の休憩の際に軽食ととったので、お腹はさほどすいてはいないが、さすがに疲れてきた。どこかで休もうと思うのだが、ここまでの間、街道沿いで「店」というものを全く見かけなかったのだ。その周囲の様子が「土山」に近づくにつれて変化した。特に「県道 514 号」を越えると、左手は大きな駐車場、前方右にはイオンの看板も見えている。そしてすぐ右にその建物があった。

「赤坂銘食街」と赤い字で書かれた看板が出ている。時代を感じさせるバラック様の建物の壁には「スナックきらら」「カラオケ喫茶セシカ」「スナックめぐり逢い」「カラオケ居酒屋みか」などの看板が出ている。「銘食街」というより「飲み屋」の集まったビルなのだ。果たして営業しているのだろうか? 2020 年の記事では写真の左下にプロパンガスのボンベが並んでいたのだが、今は見えない。だから、おそらく営業していないと思う。
住宅街を抜けると右手に「イオン土山店」があり、その先が商店街となっている。そして右側に「土山綜合市場」。ここも十分レトロだ。しかも、2025 年 2 月の時点でまだ現役である。

その先、左手の「珈琲さくら」が開いていたので入ってみる。グーグルマップの評価が高い店だ。ここでケーキセットをいただく。おしゃべりにも付き合ってくれた。私が街道歩きをしていると話すと、時々、街道歩きの集団が前を通るとのこと。「ずっと明石市を歩いてきたんですが、とても広いですね」と感想を言うと、「ここは明石市と加古川市の境で、店のあるところは明石市なんですが、すぐ西は加古川市なんですよ」とのこと。確かに地図で見るとこのあたりだけ「国道 2 号線」に沿うように「加古川市」が南東に突き出ているのだ。
ちょっと長居をしたのち、14 時に歩き旅再開。すぐに「加古川市」に入る。街道らしい雰囲気の細い通りを過ぎて進んでいくと、右側に「土山薬師堂」。このあたりに高札場があったという。


「平岡公民館」の先で「JR 神戸線」の踏切を渡ると、その先の右に「五社大神社」。地図を見ると同じ名前の神社がこの周辺にたくさんあるこを発見。主祭神は「大山咋命」、配神に「品陀別命」「須佐男命」「速玉男命」「天伊佐々比古命」「大年神」「大山祇神」と合計六柱。ムムム…計算が合わない。どうしてこの付近に「五社大神社」がたくさんあるかについては不明だ。


さらに進んで右手に曹洞宗の「長松寺」。その先で「国道 2 号線」に合流する。

少し国道を歩いて、再び街道は右に分かれて、その右側に「西谷八幡神社」。

「西谷」を過ぎると次第に現代的な建物が増えてくる。四叉路に出て、左から二つ目の道が街道。この先で大きな道と交差する。これが「東加古川駅」の前に出る道路、ここでゴールだ。時刻は 14:53。

朝、「舞子」を出発したときはいい天気だったのだが、次第に雲が増え「西明石」の手前では霰が降り出した。その後も雨雲が何回も通り過ぎ、小雨がぱらつく変な天気だった。強い雨ではなかったが、傘をさすこともたびたび。歩いた距離は 25.8 キロ。「西明石」以降、見るものが少なかったので結構疲れた。このあとは、電車で「加古川駅」に移動しホテルに入った。

