千葉県ぐるっとウォーキング 第25回 御老公の湯(境町)~関宿~川間駅

 2023 年 10 月 18 日 7:45 に茨城県境町の「御老公の湯」を出発、「境大橋」のたもとから「利根川」の下流を眺める。「銚子」を出てから 6 日間、この流れに沿ってよく歩いてきたものだ。橋を渡り、千葉県に戻って県道 26 号線をくぐると川沿いの自転車道に出た。「関宿城」正確にいうと「関宿城博物館」は目と鼻の先だ。このお城は昔からあるものではない。かつての城を模して平成 7 年に「利根川」と「江戸川」を結ぶスーパー堤防上に造られた博物館なのだ。

図25-1 行程
写真1 御老公の湯を出発
写真2 境大橋から利根川を臨む
写真3 関宿城博物館

 開館時間は 9:00 なので、それまでの間、「江戸川流頭部」や「関宿水閘門(せきやどすいこうもん)」へ行ってみよう。江戸時代に行われた「利根川東遷」以降、「関宿」は利根川対岸の「境」とともに「河岸」として賑わった。自転車道を進むと川の向こう側に「河岸跡」らしきものが見えてきた。岸まで道が伸びており、周囲に杭らしきものも立っている。あれが「境河岸」だろう。こちら側にもこんもりとした林が見える。

写真6 対岸の境河岸
写真5 河川敷の林(関宿河岸跡?)

 河川敷へ下りる階段があったので川岸まで行ってみた。舟付場の跡に出た。ちょうど真向かいが「境河岸」だ。ここが「関宿河岸」なのだろうか?

写真6 川岸の舟付場跡

 帰ってから調べると「千葉の県立博物館」のサイトに情報があった。

「境河岸」については、「利根川左岸の現在の茨城県境町にありました。南北に貫く街道(日光東往還)に小松原・青木家の両河岸問屋をはじめ、各種問屋や商店、旅籠、茶店などが軒を連ね、その前を行商人や旅人、荷馬などが往来しました。天明5年(1785)「石高家数人別書上帳」(小松原家文書)によれば総人口 1,851 人のうち、交通運輸関係者が 57 パーセントを占めており、物資の移動が盛んである河岸の特色を物語ることができます。境町の商店街を歩くと、河岸として賑わった当時の面影が各所に残されています」と書かれている。

 一方、「関宿河岸」は「内河岸・向河岸・向下河岸を総称して関宿三河岸(以後「三河岸」と略す)といいます。三河岸は江戸川流頭部に当たる関宿城下の江戸町にありました。このうち、内河岸は関宿城大手門にほど近い江戸川の左岸、向河岸は対岸の現在の埼玉県幸手市に、向下河岸はその南隣にありました。(中略)明治後期の江戸川の大規模な改修工事により河岸のあったところが河川敷や堤防に変わり、現在では往時の面影をしのぶことはできません」となっている。つまり「関宿河岸」は「江戸川沿い」であり、ここは「河岸跡」ではなくただの船着場の跡だったのだ。

 自転車道に戻る。「関宿にこにこ水辺公園」に入る手前に「海からの距離」の標識があった。121 km! 銚子の河口からの距離だ。お城の先まで進むと谷になっていて、左に曲がる道を歩いて行くと、前方に橋が見えた。これを渡れば「関宿水閘門」のある「中の島公園」に出られるようだ。その手前にまた「海からの距離」の標識が立っていた。 59.5 km?! 数字が急に半分になった。いったいどういことか? ちょっと考えて、事情が理解できた。最初の数字が「利根川」、あとの数字が「江戸川」の海からの距離なのだ。つまり「利根川沿い」から「江戸川沿い」に移ったのである。

写真7 関宿城公園横にある海からの距離の標識
写真8 中の島公園への橋の手前の海からの距離の標識

「中の島公園」への橋を渡る。橋の途中で千葉県から茨城県へ変わる。「関宿城」付近の詳細行程図を図 25-2 に示すが、「関宿水閘門」や「江戸川流頭部」は茨城県にあるのだ。

写真9 中の島公園への橋

 橋を渡って右に進むと「関宿水閘門」が見えてくる。かなり頑丈な造りである。その場所まで行くと、上を歩けることが分かった。「水閘門」の上から、「江戸川」の下流・上流の写真を撮った。下流側には橋が架かっている。

写真10 関宿水閘門(遠景)
写真11 関宿水閘門(近景)
写真12 関宿水閘門上部
写真13 関宿水閘門から江戸川下流方向の眺め
写真14 関宿水閘門からの江戸川上流の眺め

 友人にこの「水閘門」の写真を送ったところ、「閘門」はどこだ? という話になった。「閘門」とは水位差のある水面間で船舶を通航させるための構造物であり、パナマ運河が有名である。『日本大百科全書』によれば、「閘門(ロック)は閘室(ロック室)、閘門扉 (こうもんぴ) (ロックゲート)と扉室 (ひしつ) (ゲート室)からなる。閘室は船を収容する場所で、両端に閘門扉が設置される。閘室の水位を上昇、下降させるために扉室と閘室を結ぶ管路が設置される。船が水位の低いほうから高いほうに行く場合は、両端の閘門扉を閉め、低水位側の管路のバルブを開いて閘室内の水を排出し、閘室内の水位を低水位側の水位と等しくした後に低水位側の閘門扉を開いて船を閘室内に入れ、閘門扉を閉じる。そして高水位側の管路のバルブを開いて閘室内に給水し、閘室内の水位を高水位側の水位と等しくした後に高水位側の閘門扉を開いて船を通す。船が水位の高いほうから低いほうに行く場合は逆の手順になる」。写真にあるのは「洪水の支川への逆流や高潮、津波の河川への遡上 (そじょう) を阻止するために河川を横断してつくられる構造物」(『日本大百科全書』)である「水門」のようだ。この「水門」とセットで「閘門」があるはずなのだが、写真には写っていない。

図 25-2 の詳細行程図を見ると、「関宿閘門」と書かれた左側に長細い島の様なものがあり、その島と岸との間に橋とは別に 2 本、線が描かれている。「閘室は船を収容する場所で、両端に閘門扉が設置される」とあった。この 2 本の線が「閘門扉」なのかもしれない。調べると空からの写真を見つけた(図 25-3 茨城県五霞町ホームページ)。大当たりである。橋の前後に「閘門扉」らしきものが写っている。「この建設工事は、江戸川流頭部の改修工事に伴い、1918(大正 7)年に着工、1927(昭和 2)年竣工しました。現在、閘門機能は河川交通の衰退とともにその役目を終えました。」との事である。

図25-2 関宿付近の行程図
図25-3 関宿水閘門の上空からの写真
(https://www.town.goka.lg.jp/gokanabi/kousen-shisetu/page003514.html)

 つぎは「江戸川流頭部」である。河川敷には工事・管理用の舗装道路が敷設されており、そこから「流頭部」への道が分岐しているのだが、Google Map の GPS がずれた表示をするので、ちょっと迷った。砂利道を15 分ほど歩くと「流頭部」に出た。雑草が生い茂っているので見晴らしは今ひとつ。見えている橋は「圏央道」で「利根川」の上流部にかかっている。流れが分岐して、「利根川」は右手に流れ、新たに「江戸川」が生まれて左に流れ、先ほどの「水閘門」に入る。図 25-2 に示すように、私は千葉県の最北端に立っている! 時刻は 9:00 を過ぎた。博物館へ行ってみよう。

写真15 江戸川流頭部への道
写真16 江戸川流頭部

 立派な門がある。これをくぐって進むと博物館の入り口がある。向こうには天守閣も見える。

写真17 関宿城博物館の門
写真18 博物館入り口

 2023年 11 月 26 日までは、千葉県誕生 150 周年を記念して「地図は世につれ 人につれ」という企画展と「河川とそれにかかわる産業 関宿藩と関宿」という常設展が開催されている。内容については博物館のホームページを見ていただくとして、常設展の中から「利根川東遷」と「関宿藩」についての部分を簡単に紹介しておこう。

 関宿藩と関宿:戦国時代、関東の中央に位置し、大型河川が集まる「関宿」は内陸水上交通の要衝であるとともに軍事拠点としても重要な場所だった。戦国期は古川公方足利氏の筆頭家臣である簗田 (やなだ) 氏が居城を造り、この地を治めた。その後、北条氏との戦いに破れ、徳川家康の関東遺封までは後北条氏が支配していたが、江戸幕府はここに「関宿藩」を置き、譜代大名を配置する。23 代におよぶ藩主の中でも久世氏の治世(1969 ~幕末)がもっとも長い。

 利根川東遷:古くから利根川は乱流を繰り返しながら、広大な関東平野を流下して東京湾に注いでいた。1590 年に徳川家康が江戸に入府して以来、約 60 年間に及ぶ治水政策の中で、利根川は締め切りや掘削により人工的に流れを変える瀬替えが行われ、ついには太平洋の銚子にその流れを変えることに成功する。これは利根川の東遷と呼ばれ、その後の川船交通網の確立や新田開発の進展は江戸の繁栄に大いに貢献した。

 関東地方の地形図を図 25-4 に示した。猿島台地、下総台地、大宮台地、武蔵野台地といった台地に挟まれて、加須低地、中側低地、荒川低地、そして、その南に東京低地が広がっている。古代は気温が高く海面上昇があって、これらの低地の大部分は海だった。次第に水が引いていくが、近世においてもこれらは複数の川が流れる湿地帯だったのだ。中川低地を流れていたのが「利根川」であり、「荒川」もここに合流していた。多量の水が中川低地・東京低地に流れ込み、洪水が多発した。徳川家康が江戸に入府した頃は、ほんとうに大変なところへ来たと思ったことだろう。

 目を付けたのが猿島台地と下総台地の間の細長い低地である。ここにはいくつも沼があり、「常陸川」が流れていた。そこで、数々の土木工事を行い「利根川」をこちらへ流れるように作り変えたのである。また荒川も大宮台地の西側に移し替えた(荒川西遷)。それによって、中川低地・東京低地に流れ込む水の量を減らし、さらに流れを分散させて治水を成功させ、また水運網を整備した結果、江戸の繁栄がもたらされたのである。そう考えると、「家康」は本当に「神の君」だったのかもしれない。

図25-4 関東地方の地形図
https://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/1-2-1-24.htmlに追加

 さて、本来の「関宿城」はというと、「博物館」の南西にある。写真 19 だが、ここからは昔の繁栄振りが想像できない。すぐ向こう側は「江戸川」の堤防である。「関宿城址の碑」が草に埋もれそうになっていた。そばに「関宿城の歴史」の説明板が立っている。本丸跡からは「関宿城博物館」がよく見えた。

写真19 関宿城址
写真20 関宿城址の碑
写真21 かつての本丸跡から関宿城博物館を臨む

 実は江戸時代と今とでは川筋が大きく異なっているのだ。図 25-5 は江戸時代の利根川東遷後の地図であるが、「利根川」と「権現堂川」が「逆川」で結ばれ、その川沿いにお城(本丸)があった(右下図)。「逆川」の北部は現在の江戸川よりずっと西に突き出ていたようだ。更に、「権現堂川」と「逆川」の結点が「江戸川」の流頭になっていて、ここに「棒出し」があった。「棒出し」とは杭を数千本打ち込んで川幅を狭め、「権現堂川」から「江戸川」への水流を抑える水利設備である。その機能は、平常時は権現堂川・逆川から江戸川に流下させるが、出水時には江戸川への流入量は棒出しによって制限されているので、権現堂川洪水の一部が逆川を通って利根川に流下するというものだ。

図25-5 江戸時代の関宿周辺の地図
図25-6 江戸時代の関宿三河岸と関所
迅速測図原図、明治16年,五千分の一尺「千葉県下総国東葛飾郡関宿」より

 幸手側の「棒出し」の上には「関所」が置かれていた。また、「棒出し」部の両側に、内河岸・向河岸・向下河岸からなる「関宿三河岸」があったのである(図25-6)。しかし、明治 44 年からの「江戸川」改修で川の流れが変わり(図25-5 右下図の黒の細線が堤防位置)、河岸のあったところは堤防や河川敷となってしまった。この改修で本丸址の 2/3 が堤防に埋もれ、また「関宿河岸」も消えてしまったのだ。

「関宿関所跡」の碑が立っていた。しかし、「関所」は幸手側にあったはずだ。実際その通りで、幸手川の土手に「関宿関所跡の碑」が立っている。では、ここは何か? 河の改修で関所跡が失われたので、野田市側にも近い所に碑を建てたということだろうか?

写真22 関宿関所跡

 この「関所跡の碑」のそばに「香取神社」があるのでお参りする。鳥居をくぐると拝殿がある。本殿の方に回ってみたが、同じような建物が建っていてその中に格納されているようだ。

写真23 香取神社
写真24 香取神社拝殿

 時刻は 10:40 、「関宿」を離れて再び江戸川沿いの自転車道を歩き出す。同じ道ばかり歩いていては飽きるので、時々土手の下へおりてみるが、景色はそれほど変わらない。平行して県道 17 号線が走っているのだが土手からはかなり離れている。地図では、先に進むと県道が近づいてきて、道沿いにコンビニや食堂があるようだ。12:00 を過ぎたので「中戸」で堤防を離れて、県道へと移った。「坂東太郎」でランチをいただく。暑いのでビールが欲しいところだが、我慢する。元気が出たところで、再び自転車道に戻る。

 土手から見下ろすと、面白そうな建物があった。倉庫らしき建物には「関宿滑空場」と書かれており、その前に飛行機っぽいものが見える。実は、ここにはグライダーの滑空場があり、倉庫の前のものはグライダーの運搬車だった。江戸川の河川敷が滑空路のようだが、舗装されているわけではないので、ただの草むらに見える。

写真25 関宿滑空場

 時刻は 14:27、先ほどの「関宿滑空場」が13:30 だったので、約 1 時間歩いたことになる。江戸川の土手のすぐ近くを流れている。前方に、電車が通る鉄橋が見えてきた。左手に町並みが見える。あれが「川間」の町だろう。なかなか綺麗な景色なのでカメラに収める。

写真26 川間近くの江戸川

 土手から下りて、駅を目指す。途中、コンビニがあったので熱いコーヒーをいただく。14:56 東武アーバンパークラインの「川間駅」にゴールした。歩行距離は 24.2 km、時間は 7 時間 11 分だった。

図27 川間駅にゴール
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