ようやく「東京湾」のそばまでやって来た。今回は東京メトロ東西線の「浦安駅」をスタートし、「旧江戸川」に沿って「東京ディズニーランド」の手前まで歩いたのち、「浦安」の町を歩く。さらに東に移動し「江戸川」を越え、「船橋」を経て「新習志野駅」まで歩く予定だ。

2023 年 11 月 11 日(土曜日)、7:40 に「浦安駅」をスタートした。平日は通勤・通学で混雑が予想されるので、土曜日を選んだ。一方、東京近くになると、電車の便がよいので、ここまで楽に移動できた。今日は前回歩いていた「旧江戸川」の土手に向かう予定だが、その前に「浦安三社」の一つ「当代島(とうだいじま)稲荷神社」にお参りしていこう。

空はどんより曇っていて 11 月の初めにしては寒い朝だ。今年は 10 月がとても暑かった。暑い日と寒い日の差が極端で夏と初冬の間を往き来している感じだ。明らかに気候が狂い始めている。風が冷たいので用意してきた手袋をした。
この稲荷神社は「当代島」にある。「浦安市」の多くは埋め立て地で、古くからあるのはこの「当代島」と「猫実(ねこざね)」「堀江」の「江戸川」の左岸の三角州にある 3 箇所だけらしい。『日本歴史地名体系』によれば「当代島」は武蔵国小岩村から田中十兵衛が移住・開発したのが始まりとされる。十兵衛は熱心に堀の開削や対岸の東葛西の開墾などを行った。慶安期(1648~52 年)成立の旧知行高付帳に「とうたい嶋村」とあり、また寛文期(1661~73 年)の国絵図にも村名がみえ、「葛飾誌略」(文化 7 年成立)では高 201 石余、家数 42・3、近世初期には塩業が行われ、寛永 6 年(1629)には塩浜役永 3 貫 850 文が課せられていたという。この稲荷神社は「当代島」の鎮守であるが、古くは元禄 2 年(1669 年)に(武蔵国小岩村)の善養寺から移し祀ったものといわれている。現在の祭神は「豊受大神(トヨウケオオカミ)」「應神天皇」「春日大神(カスガノオオカミ)」である。では、なぜ「稲荷神社」なのかという疑問が沸くが、大正以前に元村長の所有の屋敷神の稲荷さまを氏神としており、また、「豊受大神」は食物・穀物を司る女神で、後に「稲荷神」と同一視されたことが理由だと思われる。



神社から南へ、「当代島公民館」の前を通り、さらに「東西線」の下をくぐって「境川(さかいがわ)」の前に出た。浦安市教育委員会の説明板によれば「江戸時代には、人々は境川の両岸に密集して民家を建て、北側が猫実村、南側が堀江村として、それぞれ集落を発展させてきました。 川の水は、昭和二十年代ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しか ったといいます。人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの 生活用水として利用してきました」とある。「猫実」とはおもしろい名前だが、浦安市のホームページよれば、「鎌倉時代、大津波で大きな被害を受けた集落の人達が豊受神社付近に堅固な堤防を築き、その上に大きな松の木を植え、今後はこの松に根を波浪が越さないように願ったことから『根越さね』といわれ、それがいつしか『猫実』と称されるようになった」ようだ。

「境川」を越えて右へ進み「旧江戸川」の堤防に上がった。散歩している人もちらほら。自転車が結構走っている。高校生らしき若者が自転車で走っている。近くに学校があるようだ。道は「堀江ドック」で河岸から少し離れたが、また堤防に戻る。

前方に「東京ディズニーランド」が見えてくる。写真中央の建物は「東京ディズニーランドホテル」だ。ここで「旧江戸川」は二手に分かれる。左に流れていくのは「見明川」だ。地図を見ると、この付近に「富士山噴水」があるとなっている。どんなものだろうと、堤防から下りた。「富士見地区」と「堀江地区」を流れる導水路上に「しおかぜ緑道」が作られ、富士山の形をしたモニュメントが建っている。噴水になっているようだ。「富士見」という名前だから、富士山が見えるのだろうが、今日はあいにく雲がたちこめていて影も形もない。


しばらく堤防沿いの道を歩き、「堀江排水機場」のところで「堀江」の町に入り、北上する。「境川」の手前に浦安三社の一つ「清瀧(せいりゅう)神社」がある。何人もの人が出て、交通整理をしている。なぜだろうと思ったが、鳥居のところの看板を見て合点した。今日は 11 月に入っての最初の土曜日、「七五三」なのだ。時刻は 9:15 だ。まだ、人出はそれほどでもないが、これから混んでくるだろう。


「清瀧神社」の創建は建久 7 年(1196 年)と伝えられている。祭神は「大綿積神(オオワタツミノカミ)」で、「イザナギ」と「イザナミ」の神生みで生まれた「海の三神」の中で最初に生まれた神である。ここの場所柄からいって、祭神が海の神様であることは納得できる。拝殿から裏へ回ると雨風から守るため立派な建物の中に設置された本殿がある。各面には精巧な彫刻が施されており素晴らしい。


説明板には「正面の龍の彫刻および浦島太郎や竜宮城などの浮き彫りは見事で、高欄の下には海の神社にふ さわしく、波間に千鳥の彫刻があります」とあるが、写真 11 にその浦島太郎・竜宮城、千鳥の彫刻が写っている。
神社を出て「宮前通り」を北上すればすぐ「境川」にかかる「新橋」に出る。前にも書いたように、この辺りは「江戸川」の三角州にできた村であり、人々は漁業を生業として生活していた。大正時代の「新橋」付近の写真が説明板にあるが、両岸に船がひしめいている。山本周五郎の自伝的小説『青べか物語』には、この頃(小説は昭和初期)の「浦安」の様子が生き生きと描かれている(なお、「浦安市郷土博物館」では、実物大の模型を作って、この『青べか物語』の世界が再現されている)。ところが時が経つにつれて、漁師町「浦安」の様子が次第に変わっていく。昭和 30 年代に入ると工場排水や生活排水によって漁場がしだいに汚染され、さらに京葉工業地帯土地造成のために海面埋立がなされ、漁獲高はどんどん減少してしまう。このため、1971 年、漁業権全面放棄に至り、「境川」の風景も漁師町の面影を失うのである。

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今でも「境川」の周辺には佃煮や焼き蛤・あさりの店があり、昔の面影を残している。再び「堀江」に戻って「フラワー通り」を歩いてみる。

『広報うらやすNo.875』に「にぎやか商店街」という題で昭和 40 年代の「フラワー通り商店街」の様子が書かれている。「この時代、魚は魚屋さん、米は米屋さん、衣類は呉服屋さんでないと手に入りま
せんでした。フラワー通りは、その専門店が集まっていたにぎやかな通りでした。日常生活に必要なものは、ここでほとんどそろえることができました。さらに、日用品のお店だけでなく、映画館もあり、江戸川区からも人が集まる通りでした。買い物の際は、買い物かごを持っていくのが定番でした。現在のエコバッグと通じるものがありますね。」
そうなのだ、私の少年時代、あちこちに「にぎやか商店街」があった。当時の娯楽はもっぱら映画。テレビはあったがまだ高値の花だった時代だ。町は活気があった。それが変わってしまった。きっかけは大型商業施設ができたことだろう。少し離れてはいるが、何でも揃っている郊外型ショッピングセンター。車や電車などの交通網の整備で簡単に出かけられる。そちらに人が押しかけ、地元の商店街は競争力を失い消滅していった。今や「老人福祉施設」ばかりが目に付く町になってしまったのだ。
この「フラワー通り」と「境川」の間には、「旧宇田川家住宅」や「旧大塚住宅」などの古い民家が残っているが、開館時間は 10:15 からで、まだ開いていない。残念ながら、今回は素通りだ。「境川」に出るが、川幅が狭くなり「境橋」まで続いている。


「境橋」のたもとに「おっぱらみ」の説明板が立っていた。
おっぱらみ
説明板より 平成十六年一月 浦安市教育委員会
ここ境橋附近は、境川のなかで最も川幅が狭いところで、かつては「おっばらみ」と呼ばれていました。
「おっばらみ」という地名が生まれたのは江戸時代で、隣の行徳地域が徳川幕府に保護された塩の生産地だったころのことです。 塩づくりは、五月から九月にかけて行われます。しかし、人梅時期で雨量が多くなると、江戸川が増水し、淡水が境川を経て海に流れ込むため、行徳地先の海水は塩分が薄くなり、よい塩ができなくなりました。そこで、行徳で塩をつくる人たち は、毎年梅雨どきには、川幅が最も狭いこのあたりを土砂や板を使ってふさいでしまうことを恒例としていました。 しかし、堀江・猫実の漁師たちは、海への玄関口である境川が通れなくなってしまうので、漁にでることができず大変困っ ていました。ある年、漁師たちは相談して、このあたりの土砂や板を強引に取り去ってしまいました。これを知った行徳の人たちが大勢押しかけて、再びふさいでしまおうとしたのですが、浦安の漁師たちは、団結してこれを追い払いました。それ 以来、行徳の人たちもあきらめたのか、ここがふさがれることはなくなったといわれています。
この「追い払い」が「おっばらみ」とかわり、このあたりを あらわす地名になったということです。

なんとこの場所は「漁師」と「製塩業者」のバトルが繰り広げられたところだったのだ。
次は浦安三社の最後、「豊受(とようけ)神社」に向う。ここも七五三で車の誘導に人が出ている。ここの氏子は「猫実」から東の地域となる。「豊受神社」は御祭神に「豊受姫大神(トヨウケビメオオカミ)」を祀る神社である。「豊受姫」は「イザナギ」の孫で、「和久産巣日神(ワクムスビノカミ)」の子に当たる。 五穀をつかさどる女神で、伊勢神宮の外宮に祀られている。この神社は保元 2 年(1157)の創建といわれ、浦安市で最古の神社らしい。社殿は新しいが、昭和 49 年に再建されたものである。永仁元年(1293)に大津波がこの地域を襲う。前に紹介した「猫実」の名前の由来となった津波だ。神社はこの後、再建。さらに嘉永三年(1850)にも風水害で再建されている。
拝殿に向かって右手に大銀杏がある。かなり複雑に枝が伸びていると思ったら、主幹は塩害で枯れてしまい、まわりに生えていた萌芽枝が大きくなったものらしい。もともとは「境川」の河口を流れていた枝を植えたものらしい。樹齢は数百年とのことである。



「浦安」の町の見学を終了し、「江戸川」の河口へと向かう。途中「猫実川」のバス停があった。「猫実川」は「浦安駅」の周辺に端を発し、「北栄(きたざかえ)」を東に流れてこのバス停の辺りを通り、「海楽(かいらく)」で北へ方向を変え、「市川市」との境界を流れて東京湾に注いでいる。なぜか「猫実」の地域を通っていない。不思議に思って調べると、現在「北栄」と呼ばれている地域も昔は「猫実」だったとのこと。

「江戸川」の河口へと向かうが、二つの選択肢があった。「国道 242 号線」沿いに歩くか、それとも「市川野鳥の楽園」を経由するかである。結局、国道沿いに歩いたのだが、決め手となったのはこの道が「行徳富士」の側を通っていることである。はっきり言って国道歩きは面白くない。立派な歩道がついているが、車が走ることに特化した道であり、周りに何も無い。「市川野鳥の楽園」の横を通ったが、塀があって何も見えない、と思っていたら、塀の向こうに鳥が見えた。結構背の高い止まり木があって、その上に鳥が並んでいる。この鳥は何か? 「Google レンズ」で検索すると「カワウ」と出た(便利になったものだと感心することしきりである)。

さて、お待ちかねの「行徳富士」である。ここだけ盛り上がって木が生えている。標高は 37 m、その手前は産廃場のようだった。この山は何か? 答えは「残土」である。長年にわたり残土が運び込まれ、積み上げられて山になっているのだ。「フリースタイル市川」に詳細が出ている。

河口近くの「江戸川」を「市川大橋」から見た。私は上流側を歩いていたので、河口側ではなく上流側を見たことになる。それにしても、「国道 242 号線」は交通量がものすごい。特にトラックが多い。大きなのが通るたびに橋が揺れる。かなり大きく揺れるので驚いた。「市川大橋」は北から「国道 242 号線」の下り、「首都高速湾岸線」、「国道 242 号線」の上り、「JR 京葉線」が並んでいる。川を渡り終えて、私は道に迷った。ここに「東京外環自動車道」が加わり、複雑に交差しているのだ。「南船橋」方面に進むにはどう進めばいいのかわからない。間違って北の方向に歩いてしまい。Google Map で位置を確認し、かなり戻ることになった。とてもややこしい!

なんとか正しい道に戻り、「二股新町」を過ぎて「船橋市」に入った。「船橋」では「船橋大神宮」に立ち寄っておこうと思っており、このため内陸にちょっと歩かなければならない。問題はどこで曲がるかだが、時刻は 11:50 なので、この先の「ららぽーと」でお昼を食べた後でももいいかと思った。歩くこと 30 分、「海老川」に出た。「船橋」の町の方では川幅が狭いが、ここはかなりの広さがある。地図をよく見ると、河口付近でなんと川幅を大きく拡げてある。船が通るからだろう。向こうに見えるのが「ららぽーと東京ベイ」、その前が公園になっていて、船の発着場がある。昔、子供達とここから船で「横浜」に行ったことがある。

「ららぽーと」でお昼をいただいた後、ウォーキング再開。「船橋競馬場」の横を歩く。「船橋市」には、この「船橋競馬場」と「中山競馬場」、それに 2016 年に廃止された「船橋オートレース」の 3 つの公営ギャンブルがあった。少し西へ戻った後、北へ進み、京成電鉄の線路の下をくぐる。少し歩くと「房総往還道」との交差点に出るが、この角に「船橋大神宮」の鳥居がある。

鳥居をくぐると、すぐ「延喜式内意冨比神社」という碑が立っている。「意冨比(おおひ)」と言うのがこの神社の正式名称だ。神社のホームページでは英語表記を「OOHI」としている。この「意冨」は『古事記』などで用いられている「オオ・オフ」という音のかなり古い表記である。祭神は「天照大神」で、景行天皇 40 年、ヤマトタケルノミコトのが東国御平定の折、「湊郷」(今の船橋市「海神(かいじん)」)に上陸、海に捨ててあった船の中で「神鏡」を発見、祀ったのが起源とされる。この鏡は最初、湊郷の「入日神社」に祀られたが、洪水にあったため北の高地(「夏見」)に移され、さらに現在の地に移動したと伝えられている。「意富比」の語義については、「大炊」で食物神とする説、古代豪族オホ氏の氏神とする説が出されたが、その後、「意富比」は「大日」であり、「偉大な太陽神」が原義であるとする説が登場する。祭神の「天照大神」や最初祀られた場所が「入日神社」であること、古くは太陽崇拝が広く行われていたことを考えると、この「大日」説は納得できるものである。また、中世には「船橋伊勢大神宮」と称したが、北にある丘陵地帯が「伊勢神宮」の神領だった(「夏見御厨」)ことが関係していると思われる。

参道を更に進み「二ノ鳥居」の先に「拝殿」「本殿」があるが、お祓いを受ける人以外は中に入れない。神門の所に参拝所が設けられている。七五三でかなり混雑していた。

下に地図を示すが、「大神宮」の名にふさわしく、境内には摂末社がいくつもある。すぐ東側に「日本武尊」を祀る「大鳥神社」がある。境内にある神社はみんな南を向いているが、ここだけ西面である。なにか理由があるのだろうか?


さらに北へ進むと豪華絢爛な「常磐神社」がある。この神社は 1591 年に徳川家康が「常磐の御箱」を納めたことから始まり、1608 年には「日本武尊」の像が納められ、1622 年に徳川秀忠によって神社が造営されたという。このような経緯から、現在の祭神は「日本武尊」「徳川家康」「徳川秀忠」となっている。この豪華な社殿は 2015 年の家康公没後 400 年に合わせて再建されたものである。


「常磐神社」から「意富比神社」の本殿が見えた。

「常磐神社」から戻る際、「大鳥神社」の隣の丘の上にある「灯明台」がよく見えた。木造瓦葺のこの建物は 3 階建てで高さ 12 m。明治 13 年(1880)に地元の漁業関係者によって建設されたものである。海に面した所にある古(いにしえ)の大神宮であり、周辺の漁民の信仰を集めていたことがよく分かる。

さあ、ラストスパートだ。ここから「谷津干潟」を回って「新習志野駅」まで歩くのだ。時刻は 13:50、あと 1 時間ほどの道のりである。再び、「船橋競馬場」の横を通り、国道357号線の手前で「谷津干潟」の遊歩道へ入る。
「谷津干潟」は東京湾の再奥部に残された砂質・泥質干潟で、1960 ~ 1970 年代にかけて海岸部から大規模な埋め立てが行われたが、この場所は旧大蔵省の所有であったため埋め立てを免れたものである。東西 2 本の水路で東京湾と繋がれたラグーンであり、水生生物や野鳥が多数生息している。遊歩道が設けられていて、ジョギングしている人も多数みかけた。

干潟の中央よりやや東に「谷津干潟自然観察センター」がある。一度、子供と行ったことがあるが、望遠鏡が据え付けられていて、干潟の生物を観察できる面白い施設だった。今回は先を急ぐので遊歩道から建物を見ただけである。

干潟を抜けて「秋津」から「まろにえ通り」を南下、国道と東関道をくぐると、今度は「JR 京葉線」の高架橋だ。これを越えて線路沿いに東に歩くと「新習志野駅」の前に出た。時刻は 14:58。歩行距離は 27.1 km、お昼を食べた時間も含めて 7 時間 18 分だった。
