旧東海道歩き旅(4)神奈川宿~保土ケ谷宿(2024.1.17)

 前回の続き。「神奈川宿」の詳細と「保土ケ谷宿」までの道中を記す。

図1 行程

神奈川宿

図2 安藤広重「東海道五十三次」 神奈川宿 台之景

『日本大百科全書』の「五街道宿駅一覧」によれば「神奈川宿」の概要はつぎの通り。

  • 所在地:武蔵国橘樹郡(神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町など)
  • 江戸・日本橋からの距離:7 里
  • 宿の規模:家数 1341 軒、本陣 2、脇本陣なし、旅籠屋 58
  • 宿の特徴:海に臨む高地にあり、神奈川の台ともよばれていた。江戸、房総半島、三浦半島を眺望できる景勝地。漁師町でもあった。

『東海道名所図会』には「この宿は船着にし、旅舎・商家多し。繁昌の地なり。神奈川台とて、風景の勝地にして、申酉(西南)の方に富士山見ゆる」と書かれている。長さは約 4 キロと「川崎宿」の 3 倍、家数は「川崎宿」の 2 倍以上あるが、旅籠屋は逆に少ない。図 3 が「神奈川宿」の地図である。「第一京浜国道」が「旧東海道」だが、その南側は江戸時代には海だった。江戸側の「長延寺」のあたりから、上方見附が置かれた「南軽井沢」のあたりまでが宿駅の範囲と結構広い。

図3 神奈川宿の地図(青線が旧東海道、赤線が歩いたところ)

 この「神奈川」は安政元年(1854)の「日米和親条約(神奈川条約)」で一躍有名になった。その 4 年後「日米修好通商条約」が締結され、「神奈川」が開港場と記載された。開港当時多くの寺が外国の領事館に当てられたが、後に幕府は開港場を「横浜」に変更したため、領事館も数年のうちに横浜の居留地へ移転した。アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新』にこの事情をつぎのように書いている。

条約においては、当初神奈川という場所がヨーロッパ人の居留地に指定されていたのだが、この場所は江戸と京都をつなぐ東海道という重要な幹線道路の上に位置していたので、ここを開港地にしたら、 日本の諸侯の武装した家臣たちと外国人居留者のあいだで衝突が起こることは目に見えていた。これを避けるべく、大君の政府は、神奈川から浅い湾を挟んで南側に位置していた横浜という漁村に、税関と木造の小屋を数軒建てたのである。列国の外交官の中には、 現地の官吏やヨーロッパ人商人の便宜よりも条約の内容を忠実に履行するほうが重要であると主張して、この対応に強く反対する人もいた。だが、より投錨地に近く、また安全であるなど、実利が多かったので、商人たちもこの対応を支持するようになり、横浜は開港地として受け入れられた。

アーネスト・メイスン・サトウ. 一外交官の見た明治維新 (講談社学術文庫) 講談社

 開国当時、外国の領事館等になった寺院はつぎの通り。

  • 本覚寺:アメリカ領事館
  • 浄龍寺:イギリス領事館
  • 甚行寺:フランス公使館
  • 慶運寺:フランス領事館
  • 長延寺:オランダ領事館(現在は「長延寺」そのものがなくなり公園に碑があるだけ)

 さて、「長延寺」跡の公園を離れて、「第一京浜」に戻るが、「良泉寺」(この寺は幕府から外国人宿舎にするように命ぜられたが、屋根をはがして修理中としてこれを断ったという猛者)を過ぎたところで国道歩きの味気なさに辟易し、もう少し内側に入ってみることにした。案の定、1 本あるいは 2 本 北側の道沿いには寺院や神社が並んでいたのである。

「熊野神社」は平安時代に紀伊から「熊野権現」を勧請したことからこの名がついたといわれる。もともと「神奈川駅」の東の位置に「権現山」という山があり、そこにあった神社を江戸時代中期の移したらしい。また「権現山」も幕末から明治にかけて切り崩され、その土を台場や鉄道建設に用いられたとのこと。

写真1 熊野神社(熊野権現)

 神社の南西に「東神奈川公園」があり、その先の「神奈川地区センター」の横に「高札場」が復元されている。「高札場」は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設。街道沿いの本陣のそばにあったらしい。人に周知させることが目的だから、たしかに街道沿いが好都合だろう。この「地区センター」の中には「神奈川宿」のジオラマが設置されているらしい。「高札場」の写真を撮っていると私と同じ年格好のオジサン 3 人組みが「地区センター」の中から出て来た。手に地図らしきものを持っている。「神奈川宿」巡りを始めるところらしい。この後、しばらくオジサン達の後をついてまわることとなった。

写真2 高札場跡

「高札場」の前が「成仏寺」。ここはアメリカ人宣教師の宿舎となっていて、ここの本堂に「ヘボン式ローマ字」で有名な「ヘボン博士」が住んでいた。「ヘボン博士」の正式名はジェームス・スチュアート・ヘボン(ヘップバーン)で、米国長老派教会の医療伝道宣教師で医師だった。ローマ字には日本式、ヘボン式、訓令式の 3 種類があることをご存知だろうか? 日本式は物理学者の田中館愛橘によって 1885 年に提案されたもの。ヘボン式はヘボン博士の考案でより英語の表記に近いもの。訓令式は 1937 年の内閣訓令により、ヘボン式と日本式の統一を図ったもので、学校で習うのはこれ。例をあげると、「新橋」はヘボン式では「shimbashi」、日本式・訓令式では「sinbasi」、「自転車」はヘボン式では「jitensya」、日本式は「ditensya」、訓令式では「zitensya」となる。確かに学校で教えているのは「訓令式」だが、日常使用しているのは明らかにヘボン式である。「新橋駅」にある駅名表示板には「shimbashi」と書かれているのだから。

写真3 成仏寺

 さて、「滝の川」にかかる「滝の橋」を渡ると、目の前に坂が現れる。この先が「権現山」になっていたわけだ。川に沿って「第一京浜」側に進み、最初の角を右折して進むと、ヘボン博士が施療所を開いていた曹洞宗のお寺「宗興寺」の前に出る。

写真3 滝の川(滝の橋から北を臨む)
写真5 宗興寺

 ここより京急の線路方向へ歩き、「権現山跡」の横を通って「神奈川駅」に出た。線路の向こう側、右手の丘の上にアメリカ領事館だった「本覚寺」が見える。丘の上なので上がっていくのがたいへんだ。門の前に「アメリカ領事館の碑」がある。本堂はなかなか立派な造りである。

写真6 本覚寺の門の前にあるアメリカ領事館の碑
写真7 本覚寺本堂

「本覚寺」から下り、「東横フラワー緑道」を横断する。ここはもともとは「東急東横線」の線路だったところだ。今は地下化されたので「緑道」になっている。右手にはトンネルも残っている。

写真8 旧東急東横線のトンネル

 その先すぐ、右側に鳥居が現れる。「大綱金刀比羅神社と一里塚」と書かれた説明板には、「この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。 その後、現在の地へ移り、さらに 琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた」と書かれている。

写真9 大綱金比羅宮

 階段を上がっていくと「金比羅宮」の社殿の前に出る。右側にあるのは「天狗」! そちらの方に目がいってしまう。ここは『東海道名所図会』に「飯綱権現」という名で登場する。

 坂道を上がる。このあたりは「台町(だいまち)」という場所だ。冒頭の安藤広重の「東海道五十三次神奈川宿 台の景」の舞台はここである。絵では道の左手に茶店が並んでおり、その先は海だ。茶店の前では女が出て、袖を引き手を取って強引な客引きをやっている。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では弥次さん喜多さんが引っ張り込まれた。

金川(神奈川)の台に来たる。ここは片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造り、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、波打ち際の景色いたってよし。茶屋の女、かどに立て「おやすみなさいやァせ。あったかな冷や飯もございやァす。煮立て肴の冷めたのもございやァす。蕎麦の太いのをあがりやァせ。うどんのおっきなのもございやァす。お休みなさいやァせ」二人はここにて一杯気をつけんと、茶屋へ入りながら……

十返舎一九 『浮世道中膝栗毛初編』 筆者により現代仮名遣いに直す

 いくつもあった茶屋だが今はすっかりなくなって、一軒だけ料亭として残っている。それが「田中家」さんだ。「神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久三年 (1863 年)創業の田中家です。 田中家の前身の旅籠f『さくらや』は安藤広重の『東海道五十三次』にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れました。坂本龍馬の妻『おりょう』が田中家で働き始めたのは明治 7 年。勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。英語が話せ、月琴も弾くことが できた『おりょう』は、外国人の接待に重宝されていました」と説明板に書かれている。「おりょう」さんがここで働いていたとは驚きだった。昼の会席は 10000 円からで、ステーキ御膳は 7600 円、入ろうかともおもったが、時間がかかりそうなので次に進むことにした。現在の「台町」は高層住宅が建ち並んでいる。

写真10 料亭「田中家」
写真11 現在の台町

 この先、右側に「神奈川台関門跡」がある。碑には、さらに「袖ケ浦見張所」とも書かれている。「袖ケ浦」は「台町」の南側に広がっていた海の名前であろう。千葉にも「袖ケ浦」という場所があり、名前の由来は「ヤマトタケル」が横須賀の走水から房総へ船で移動するさい嵐に遭い、海を静めるために妻の「オトタチバナヒメ」が入水する。その「袖」が流れ着いたところというものであった。こちらの「袖ケ浦」はどうなのかと考えながら碑の前を通り過ぎた。

写真12 神奈川台関門跡

 この先で「神奈川宿」も終わりである。終わりの場所の名前が「軽井沢」である。長野と同じ名前であるが、「涸れた沢」から来ているという。

浅間町

「旧東海道」は「南軽井沢」で「環状 1 号線」と合流し、ここから「浅間台下」の交差点までは「環状 1 号線」が「旧東海道」になる。中華料理「八角」さんでお昼をいただいた後、再び活動開始。その先に「浅間神社」がある。この神社、『東海道名所図会』には「南芝生(しばふ)の浅間神祠(やしろ)」という名で描かれている。図 5 の右図の階段がそれである。近くまで海が来ているのが分かる。江戸時代には現在の「国道 1 号線」あたりまで海が入りこんでいたらしい。

図5 秋田籬島『東海道名所図会』国立国会図書館デジタルコレクション
写真13 浅間神社一の鳥居

 昔、このあたりは「芝生村」という名であった。階段を上りきると二の鳥居の向こうに社殿がある。主祭神は「木花咲耶姫命(コノハナサクヤミメノミコト)」で、創祀は承歴 4 年(1080)、源頼朝の勧請とされる。また、周辺には横穴古墳が群生しており、境内にも 10 か所近くの古墳がある。

「浅間神社一の鳥居」から10 分ほど歩くと商店街になる。ここが「ハマのアメ横」と呼ばれる「洪福寺松原商店街」だ。商店街の先に「国道 16 号」が走っていて、その向こうにも商店街が続いている。私は見落としてしまったのだが、「国道 16 号」の向こう側すぐに「保土ケ谷宿」の「江戸見附跡」があるようなのだ。ということで、12:30 に私は「保土ケ谷宿」に入った。「保土ケ谷宿」の詳細は次回述べよう。

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