
坂下宿
広重の絵のテーマは前回書いた「筆捨山」。写真 1 は「亀山市観光協会」のホームページにある写真だが、これは「羽黒山」! 広重の絵ととてもよく似ている。岩場は「羽黒山」と「筆捨山」の間にあるということなので、広重の絵は「羽黒山」だろうか?

「坂下宿」の概要はつぎの通り。
- 所在地:伊勢国鈴鹿郡(三重県亀山市関町坂下)
- 江戸・日本橋からの距離:107 里 29 町 7 間
- 宿の規模:家数 153 軒、本陣 3、脇本陣 1、旅籠屋 48
- 宿の特徴:近江との国境にある鈴鹿峠の麓の宿場。鈴鹿峠は箱根に次ぐ難所とされた
家数に対して宿屋が多いのは、「箱根」に次ぐ難所「鈴鹿峠」の手前で宿泊する人が多かったためだろう。天気の回復をここで待つこともあったろう。
街道の左手に「松屋本陣」、「坂下公民館」の先に「大竹屋本陣」「梅屋本陣」があったが標柱のみ。『東海道名所図会』には「この宿の本陣の家広くして、世に名高し」とあり、多くの大名家が連泊する大店だったようだが、すべて取り壊されてしまっている。




この先、右側に「法安寺」。唐破風造りの立派な玄関は「松屋本陣」の門から移築されたもの。現在、「坂下宿」に残る唯一の本陣建物の遺構だそうだ。その先の「小竹屋脇本陣」も標柱のみ。その先の「金蔵院跡」は見逃してしまっている。10:15 に「坂下宿」を出た。

坂下宿~鈴鹿峠

左側の「岩屋十一面観世音菩薩」の標柱だが、半分木に隠れてしまっていた。亀山市のホームページには「高さ 18 メートルの巨岩に掘られた岩窟に、1660 年ころ、実参和尚によって、道中の安全祈願のために阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵の三体の石仏が安置されました。お堂の隣にある清滝と合わせて「清滝観音」として広く世に知られ、葛飾北斎の『諸国滝巡り』にも描かれています」とあるのだが、そこにどうアプローチしていいのか分からなった。

ここからは「国道 1 号線」の側道を歩く。「鈴鹿峠」までの地図を載せた(図 3)。途中に「東海自然歩道」の入口が現れるが、これは「旧東海道」ではないので先に進むと、「東海道」の標識と細い坂道が現れる(写真 8)。ここが分岐点。時刻は 10:30、坂道を上がっていく。


「片山神社」の石柱があるが、すぐに神社があるわけではない。

最初の道はこんな具合。

入口から 5 分後、木々の間に「坂下宿~鈴鹿峠」の説明板があった。


林の中を進むと、「片山神社」の鳥居の前に出た。時刻は 10:38。「旧東海道」はここで右に進むのだが、神社にお詣りしていこうと階段を上った。

しかし、社殿はなく空き地だった。草を刈った跡があるので、人の手は入っている。調べると、社殿は焼失してしまっており、参道だけ残っているとか。

『東海道名所図会』には「鈴鹿神社」として次のように書かれている。「勢州〔伊勢〕鈴鹿郡鈴鹿山にあり。『延喜式神名帳』に片山神社。坂下駅中の生土(うぶすな)神。(中略)祭神三座 中央瀬織津媛命(セオリツヒメノミコト)、左右に黄吹戸(キブキト)命・瀬羅津媛(セラツヒメ)命、相殿倭姫(ヤマトヒメ)命。鈴鹿社 祭神内外太神宮・天神地祇・八百万神を祀る。摂社 大山祇命・稲荷・愛宕。頓宮殿 石段の右の方にあり」。挿絵が入っており、なかなか立派な神社だったようだ。

急な階段を下りて鳥居の前に戻り、神社に向かって右に進むと坂道があった。「東海道 鈴鹿峠」の道標が設置されている。さあ、ここからが峠越えだ。時刻は 10:42。

すぐ石畳の道となる。「坂路八町二十七曲、一名多津加美坂という」と『東海道名所図会』は書く。

途中「国道 1 号線」を潜るために階段を下り、また上る。休憩所もあった。その先に「芭蕉の句碑」。「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」。私と同じ心境だ。



ここから勾配が急になってくる。左に「馬の水飲み鉢」。昔は馬ばかりか、ここを大名行列が通ったのだと感心する。


曲りくねった坂道を上ると勾配が緩くなった。

分岐に差し掛かる。左に入っていくと「高畑山」登山道だ。「鏡岩」もこの方向にあるので左へ、木々の間を上っていく。「鏡岩」の標識に従って左折し、しばらく進む。


「鏡岩」だ。前にある説明板には「鈴鹿峠頂上にある巨岩で、岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている。これは鏡肌 (スリッケンサイド)と呼ばれ、断層が生じる際に強大な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のような光沢を帯びるようになったものをいう。東海道において、鈴鹿峠は『東の箱根峠、西の鈴鹿峠』といわれるほどの難所で、山賊がこの岩を磨きそこに映った旅人を襲ったという伝説から、『鬼の姿見』とも言われている」と書かれている。

近づいてみると…

鏡の様には見えない。見る方向が逆なのだろうか? 帰り道で分岐を通り過ぎて、「高畑山」の方に少し進んでしまった。帰りは分岐の看板を見過ごしやすいので注意が必要だ。
さきほどの所に戻って、「旧東海道」を進むと「国境」の標石があった。左は「三重県・伊勢国」、右は「滋賀県・近江国」だ。ここが「鈴鹿峠」だろう。時刻は 11:06、片山神社の前からわずか 24 分。あっという間だった。「箱根越え」と比べると、とてもあっけない。

このあたり、すっかり平地だ。すすきが秋風になびいている。今日はいい天気でよかった。

峠から 4 分で「万人講常夜灯」。説明板には「万人講常夜灯は、道中安全を祈願して江戸時代に建立されたもので、『万人講』・『金毘羅大権現永代常夜灯』と刻まれています。 重さ三十八トン、高さ五メートル四十四センチメートル。由来書によれば、『文化年中』の霊験により見いだされた『神石』を用いたものといい、『甲賀郡中』の信心ある者たちが寄った『万人講』が企画・建立し、毎夜火を灯すようになったといいます。鈴鹿トンネルの工事のため旧東海道沿いから現在地に移設されましたが、東海道随一の難所・鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目 印として旅人たちの心を慰めたことでしょう」とある。地図で見るとここは「鈴鹿トンネル」の真上である。

トイレを済ませ、昼食にしようと場所を探す。ベンチがあるのだが、トイレの建物の横なので、ここは草の上に座って、「亀山」のコンビニで買ってきたおにぎりを食べよう。「土山」の方角から街道歩きらしきオジサンが急ぎ足でやってきた。目の前を通り過ぎるとトイレに駆け込んだ。ちょっと挨拶を交わす雰囲気ではない。さあ「土山宿」目指して、山を下りるぞ!
鈴鹿峠~土山宿

11:30 に「万人講常夜燈」を出発。ここから「土山宿」の手前まで主に「国道 1 号線」の歩道を歩くことになる。途中、あまり見るものもなく単調なウォーキングだ。30 分歩いて、道路の向こう側に「清浄山十楽寺」。「甲賀三大佛」の1つ、「丈六阿弥陀如来坐像」が安置されているらしいが、道路を渡るのが面倒なのでパス。ちなみに、あと二つの大仏は「水口」の「大池寺」の「釈迦如来坐像」と「甲賀町櫟野」にある「櫟野寺」の「薬師如来坐像」。

この先右側に「馬子唄公園」。ほんの少し国道から離れる。「馬子唄歌碑」、一番の歌詞「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山雨が降る」が書かれている。「坂下宿」では日が照っていたが、「鈴鹿山」では曇りとなり、「土山」では雨が降り出した、というところか。地形上、山の両側で天気が変わりやすい。「鈴鹿峠」は雨の名所、天気でよかった。この歌詞の「あいの土山」については諸説あるのだが、これについては次回に考えよう。


「馬子唄公園」を過ぎると「新名神高速」の高架が現れ、これをくぐったところに公園がある。そこに「山中一里塚跡」の石柱。この公園(「山中一里塚公園」)、他にもいろんなものが設置されている。

こちらは「櫟野観音道の道標」、先に紹介した三大仏の一つ「甲賀町櫟野」にある「櫟野寺」と結ぶ道の道標だ。

こちらは「鈴鹿馬子唄の碑」で、隣に「馬子」の像もある。


12:37 「蟹坂」の入口までやってきた。ここで国道を離れ、「田村神社」を経て「土山宿」へと入っていく。わき道に入ったところに「蟹坂」と「土山宿」への地図を書いた説明板があった。

説明板によると「海道橋」を渡り、「田村神社」を通るルートができたのは安永四年(1775)。それ以前の「東海道」は「国道 1 号線」をそのまま進み、徒歩で「田村川」を渡っていたらしい。街道の南に「蟹塚」があるが、説明板には「平安時代蟹坂に大きな蟹が出没して旅人を苦しめていた。京の僧恵信僧都が蟹討伐にやってきて往生要集を唱えると、蟹の甲羅はバラバラに砕け散った。僧は村人に蟹の供養をするための石塔を建てるようにと願い、また蟹の甲羅を模した飴を造り回向するようにと言い残された。この飴が蟹坂飴である」とある。これに対し『東海道名所図会』の蟹坂(かにがさか)の項には、「ある説に、むかしこの坂の険阻〔険しい所〕をたのんで山賊出でて、旅人に暴虐せしよりこの名をよぶ。姦賊の横行より蟹坂というか。また蟹が塔は、かの山賊を亡ぼし、こゝに埋むならん」とあり、「蟹」とは山賊のことだったようだ。

「蟹坂」を進むと右手に「蟹坂古戦場跡」の石柱と説明板があった。天文十一年(1542)に「北畠具教」が伊勢から甲賀に侵入し、この辺りで侵入軍の侵攻を防いだらしい。ここは「伊勢国」と「甲賀」を結ぶ交通の要衝なのだだと実感する。

擬宝珠のついた橋が現れた。右側には「高札場」を再現してあって、道中奉行所から出された「定書」が書かれている。この川が「田村川」、橋が「海道橋」である。『日本歴史地名体系』に「東海道分間延絵図によれば東方は田村川橋より宿内」とあるので、「土山宿」までの行程はここまで。時刻は 12:50 だ。

