旧東海道歩き旅(12)箱根宿~三島宿(2024.3.22)

 前回の続きである。お昼前に「箱根宿」に入ることができたので、今日中になんとか「三島宿」までたどり着こうという気になっていた。だから、先を急ぐのである。

箱根宿

「箱根宿」の概要はつぎの通り。

  • 所在地:相模国足柄下郡(神奈川県足柄下郡箱根町箱根)
  • 江戸・日本橋からの距離:24 里 35 町
  • 宿の規模:家数 197 軒、本陣 6、脇本陣 1、旅籠屋 36
  • 宿の特徴:元箱根が本陣の提供に応じなかったので、元和 4 年(1618)、山野を切り開いた場所に小田原宿と三島宿から各 50 軒ずつを移して宿場が設置された。箱根関所が設けられたのはその翌年である。

 下記のサイトに明治 19 ~ 37 年頃の「箱根宿」全体の写真がある。また「関所通り」から三島方面を臨む江戸時代後期の写真も公開されている。そもそもが原野だった場所。宿場の周囲には何もない。とはいえ箱根越えの重要な宿場町であり、 6 軒の本陣と 1 軒の脇本陣が あったのだ。

箱根宿 関所|箱根宿と箱根関所 箱根飲食物産店組合
<箱根飲食物産店組合公式サイト>その昔、東海道の宿場町として栄えた「箱根宿」。 そして同時期に設置された箱根関所とともに、箱根の中心的なエリアとして 箱根の中でも多くの人々でにぎわい、現在も多くの飲食店や物産店が軒を連ねています。 このペー...

 図 1 は東京国立博物館蔵の『東海道分限延絵図』の「箱根宿」に情報を書き込んだものである(元図の解像度が低いため文字がハッキリ読み取れないので「地誌のはざまに」を参考にした)。一方、図 2は現在の地図で、青線が私が歩いたコース(旧東海道)だ。

図1.東海道分限延絵図(東京国立博物館)
図2 箱根宿の歩き旅の行程

村そのものは約 250 戸の貧しい家々から成り、大部分は長く弓なりに曲がった町筋をなしていて、高い山地の上の、いわば空中にあるような上述の湖の東南岸にある。けれどもこの湖は、ほかの険しい山々に取り囲まれているので、氾濫することも流れ出ることもない(山々の間になおひときわ高くそびえ立つ富士の山が、ここからは西北西よりは少し北よりに見えた)。この湖の広さは東から西まで約半里、南から北までたっぷり一里はある。私が聞いたところによると、北岸の近くで金を多量に含んだ鉱石が掘り出されるということである。東岸には先のとがった双子山がそびえ、その麓には元箱根の村があり、これと麓村との間に塔ヶ島がある。湖岸は山地で荒れているために、この湖は恐らく周囲を歩くことができないので、向こう岸に行こうと思う者は、小さい舟を使うしかない。(中略)この村のはずれに将軍の番所があり、御関所と呼ばれ、新居の関所と同様に、武器を持ったり婦人を連れたりする旅人を通さないのである。この場所を閉ざせば、西方の人々は通過することができず、ここは江戸にとって戦略上の要衝であるから、新居よりもはるかに重要な意義をもっている。非常に狭い道の傍らにある関所の建物の前後には、柵と頑丈な門が作ってあり、左手には湖があって自然の要害をなしている。

ケンベル 斉藤信訳『江戸参府旅行日記』、平凡社『東洋文庫』303

 元禄初期に長崎のオランダ商館に着任したドイツ人医師ケンペルは、江戸への道中の記録を『江戸参府旅行日記』に書いているが、「箱根宿」ついてもかなり詳しい記述がある。ここで「新居の関所」とあるのは、浜名湖の西、「新居宿」(現在の静岡県湖西市)にあった「関所」である。

「箱根関所」を抜けると高札場があり、小田原藩管轄の「小田原町」、さらに進むと三島代官所管轄の「三島町」となる。「箱根宿」の面影はすっかり消え失せ、今はすっかり駅伝の町だ。「駅伝広場」があった。かつての「三島町」は、往路のフィニッシュ直前の曲がり角にあたるのである。

写真1 駅伝広場

「国道 1 号線」を離れ、「県道 737 号」に入る。昔の「芦川町」である。この辺りまで来るとめっきり人が少なくなる。左側に鳥居があり、その先が「駒形権現」、現在の「駒形神社」だ。「駒ヶ岳」の地主「駒形大神」を祀る古社で、関東総鎮守として武門の崇敬を集めた「箱根神社」の社外の末社として尊崇されてきた土地の鎮守様である。私の他にはカメラをさげたオバサンが一人。「元箱根」の喧噪がウソのようだ。その先、県道が右に曲がるところ、その正面に「旧東海道」の入口がある。さあ、「三島宿」を目指して進もう!

箱根宿~箱根峠~山中城址

「箱根宿」から「三島宿」までは 20 キロほどある。図 3 に「畑宿」からの距離と高度を示すが、「箱根峠」までが上り、そこから先は「三島」までずっと下りである。「芦ノ湖」は外輪山の尾根の窪地に位置していることがわかる。まさにケンペルのいう「いわば空中にあるような湖」なのである。途中の「山中城跡」までの行程を図 4 に示す。ここで[旧街道」は青、国道は赤である。「旧街道」は概ね真っ直ぐな道である。途中、土砂崩れで閉鎖されているところもあり、そこは「国道 1 号線」を歩いた。

図3 畑宿から三島宿までの距離と高度
図4 箱根宿~山中城跡の行程

 旧街道に入るとすぐに「芦川の石仏群」がある。もともと、「駒形神社」の境内にあったものを移したのだという。なかなか情緒のある石仏である。さきほど「駒形神社」で出会ったオバサンが写真を撮っていた。「箱根旧街道」の案内板があり、この先、「箱根峠」まで急坂が続くと書かれている。

写真2 芦川の石仏群

 まず、「向坂(むこうさか)」の石碑と説明板がある。石畳の道を進むと、「国道 1 号線」と出合うが、下をくぐるようになっている。つぎは「赤石坂」、そして「釜石坂」「風越坂(かざこしさか)」と石畳の坂道が続く。

写真3 向坂
写真4 国道の下をくぐる
写真5 赤石坂
写真6 釜石坂
写真7 風越坂

 最後は「挟石坂(はさみいしさか)」で、階段を上りきると「国道 1 号線」に出る。写真 10 の左の上りが小田原方面に向かう[箱根新道」、右が「三島」へ下る道である。時刻はお昼前。そのまま進むと昼食にありつけない。ここで腹ごしらえをしておこうと「国道 1 号線」を箱根方面にちょっと戻ったところにある「道の駅 箱根峠」に立ち寄った。おそばとおにぎりを注文する。土曜日なので結構、混んでいた。バイクツーリングのオジサンが多い。

写真8 挟石坂
写真10 国道1号線に合流

 食べ終わって道の駅の展望台から「芦ノ湖」を臨む。正面に見えている山が「駒ヶ岳」、てっぺんにある塔がロープウエーの駅である。右側に「上二子山」が見えている。「広重」の絵とは違ってそれほど高い山はない。

写真11 道の駅箱根峠からの展望

 昼食休憩の後、歩き旅を再開。写真 10 の場所に戻る。ここでさきほど会ったオバサンが「旧街道」を上ってきた。この人も旧街道ウォークのお仲間だったようだ。道路を渡り、右側の道の端を歩く。一応、歩道部分を緑にペンキで塗ってある。道は右に大きく曲がり、「三島」に向けて下りていく。写真 13 で左に入る道が見えるが、実はここを入るべきか迷っていた。すると、後を歩いていたさっきのオバサンから声をかけられた。「旧街道は左ですよ。先でまた 1 号線に合流するんですけどね」 詳しい! ただの観光客ではないようだ。そういえば、たくさん写真を撮っていたゾ。「旧東海道」の案内資料でも作っているのだろうか?

写真12 箱根峠の国道1号線の歩道
写真13 箱根峠 国道1号線 先を左に入ると旧街道

 「旧東海道」は長く続かず、すぐに「国道 1 号線」に合流。実はここから[旧東海道 かぶと石坂」へ入る道があるのだが、令和元年東日本台風(台風 19 号)による災害を受け通行止めとなり、それ以来、大雨による二次災害発生の恐れがあることから通行止めとなっている。しかたなく国道を歩くが、全く面白みがない。25 分歩いたところで、「旧街道」との合流地点に出た。頑丈な柵がしてある。「通るな!」という強い意思表示だ。

写真14 旧街道との合流地点

 その先に「接待茶屋」のバス停がある。ここからの「旧街道の石畳道」は通行可能だ。道標のところから入る。この「接待茶屋」とは何だろうか? 説明板には、「箱根山中における接待の歴史は古いが、創始は江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。この接待所も一時途絶え、ついで文政七年(1824)、江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった。 やがて明治十二年(1879)、八石性理教会によって接待茶屋は再スタートしたが、教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれ、利喜三郎・とめ、 力之助、万太郎・ときらの三代により接待が続けられた。鈴木家は、昭和四十五年(1970)に茶釜を降ろし、接待茶屋の歴史に終止符を打つまでの約九十年間、箱根を往来する人馬の救済にあたったのである」とある。「接待」とは『デジタル大辞泉』によれば「1. 客をもてなすこと。2. 人の集まるところなどで、一般の人に湯茶などを振る舞うこと。3. 寺の門前や往来に清水または湯茶を出しておき、通りがかりの修行僧に振る舞うこと」である。この場合は、3から発展して「箱根山中を往来するものに湯茶や粥などをふるまう」ことだ。その茶屋はというと、「国道 1 号線」の向こう側にあったようだ。こちら側には説明板と道標のみが設置されている。写真 16 の左、静岡県に入るとこのような道標がポイントごとに設置されている。進行方向とつぎのポイントまでの距離が示されていて便利だが、距離の単位は残念ながら「里・町」だ。

写真15 旧東海道の入口と接待茶屋の説明板
写真16 接待茶屋の道標

 すぐ「かぶと石」の前に出る。まさに兜を伏せたような形をしている。この先、道が二つに分かれているが、「山中城跡・三島宿」と案内が出ているので迷わない。右側の道は「明治天皇宸賞之處」の碑の前に出るようだ。

写真17 かぶと石
写真18 分岐点

「箱根峠」を出て「西坂」最初の石畳道である。やはり石畳は歩きにくい。慎重に下りていく。ここを過ぎると、デッキ状の場所に出る。下を覗くと「国道 1 号線」が走っていた。

写真19 西坂最初の石畳道
写真20 デッキ状の場所
写真21 国道1号線が見える
写真22 道標があった

 道標があった。来た道は「石原坂」とある。さっきの石畳の坂道がそれだろう。この先は「大枯木坂」、そして「山中城跡」である。ここは上り坂で杉の木立の間を進む。この先はまた下り坂だろう、と思っていたら、急に視界が開けて農家の前に出た。「横断歩道を渡りましょう」の看板がある。「国道 1 号線」があった。このあたり、国道はヘアピンカーブだが、旧街道はそれを貫くほぼまっすぐな道なのだ。

写真23 杉の木立の間を上る(大枯木坂?)

 横断歩道を渡り、国道の左側の歩道を進むと左に下りていく階段があった。これが「旧街道」だ。下りると「山中新田」の道標。そして、また石畳の道が現れる。おっと倒木があるゾ。またいで越えた。

写真24 旧街道への分岐
写真25 山中新田の石畳道
写真26 おっと倒木がある

 結構、険しい道だ。石畳が歩きにくい。上りより下りの方がたいへんだ。雪のあるときはとても歩けないだろう。雨で濡れているときも危険だろうな、とブツブツ独り言を呟きながら下りていく。するとすぐ後に人の気配。オジサンと出会った。「こんにちは!」と挨拶をかわす。「今日はどちらから?」と訊かれたので、「畑宿から歩いています。昨日は湯本で一泊して」と私。「どちらからですか?」と訊くと「東京です」とオジサンが答える。「今朝、新幹線で小田原について、これから三島まで行きます」。むむむ … 今朝! 小田原! 三島に行く! 「箱根八里を走破するんですか!」 と思わず声が出る。「小田原」から歩いてここで出会うとは、なんたるスピード!「元気ですね! おいくつですか?」と訊くと歳は私より 3 つ下だった。30 キロを一日で歩くんだと感心していると、「それじゃぁ!」と傍らを足早に通り過ぎて行った。すごい、元気そのものだ! こちらは下り道でかなりへばっている。こちらはゆっくりとした足取りで、歩き出す。オジサンの姿はもう見えない!

 舗装道に出たところに旧街道の碑があった。「山中城」の矢印は舗装道の向こう側を指している。歩道橋があるが、車の姿がないので車道を横断する。歩道橋の先に「山中城本丸」の矢印を見つけた。本丸跡まで行くか? 行くとどのくらいかかるのだろう? この先「三島宿」まではかなり距離があるしと悩んだが、「エイ、ここはパスだ!」と決めて、舗装道を下っていく。

写真27 舗装道に出たところ旧街道の碑がある

 すぐ、「山中城址」の入口があった。そこを過ぎ、「芝切地蔵尊」の前を通り過ぎ、「山中城跡駐車場」も通り過ぎる。ここで若い観光客の姿を見かけた。お城は人気があるようだ。

写真28 山中城址入口
写真29 芝切地蔵尊
写真29 山中城跡駐車場

「山中城」は戦国末期に「後北条氏」が建てた山城である。詳細は以下を参照してほしい。

山中城跡(国指定文化財「史跡」)|三島市
山中城跡(国指定文化財「史跡」)

山中城址~三島宿

「山中城跡」を後にして「三島宿」に向かう。時刻は 13:45 。「三島宿」まではまだ 8 キロある。再び石畳の道が始まる。コースを図 5 に示す。

「腰巻地区」の石畳に入るところに、復元整備についての説明板があった。坂を下っていくと、妙な建物を発見した。建物というよりは、鉄骨を組み合わせた砦という雰囲気なのだが、あとで調べて「ドラゴンキャッスル」という施設であることがわかった。「天空アスレチックタワー」と銘打っている。地上部、高さ 1 m のキッズコース、高さ 3 m、8 m、13 m のアスレチックコース、高さ 17 m の展望デッキの全 6 層に分かれたアスレチックタワーだそうだ。

写真30 腰巻地区石畳
写真31 ドラゴンキャッスル

 道は再び「国道 1 号線」と出会うが、その手前に「富士山」のビュースポットがある。国道を渡り、また石畳を下ると「富士見平」に出る。ここでも雄大な「富士山」が見えた。これは絶景である。美しい山だ! いつまで見ていても見飽きることがない。

写真32 ドラゴンキャッスルの先から見た富士山
写真33 富士見平から見た富士山

 再び国道を越え、「旧東海道」の坂を下ると、右手に全長400mを誇る吊り橋「三島スカイウォーク」が見えてきた。駐車場は満車状態だ。「笹原新田」の集落へ向けて石畳を下りる。向こう側に「三島」の町と光に煌めく「駿河湾」が見えている。

写真34 三島スカイウォーク
写真35 笹原新田手前の坂道

「こわめし坂」を下りる。「箱根西坂」ではもっともけわしい急坂で、「こわめし」を食べて力をつけてから登ったことでこの名がついたという。

写真36 こわめし坂

 坂を下りると「国道 1 号線」と合流するが、その手前にある「旧東海道」の説明板を見ていたら、後から声を掛けられた。振り向くとさっき会ったオジサンが立っている。てっきり、先に進んでいると思っていたが私の方が前だったのだ。「いやあ、山中城で思いのほか時間をくってしまって」とオジサン、「こちらは山中城をパスしたので、先だったですね」と私。「どうぞ、お先に」と道をゆずると、オジサンが走り出した。なんと走って坂を下っていくではないか。いやあ、速いはずだ。走っているのだから。これをなんというのだろう? そうだ「トレイルランニング」だ。彼は歩行者ではなかったのだ。

「三ツ谷新田」を過ぎたところで地図を見ると「三島市眺望地点」と書かれた場所がある。「坂公民館」の駐車場が絶景ポイントに指定されているのだ。是非、行かねばと右に曲がる。おお、見えるぞ。より裾まで山の稜線が見えている。だが、さっきより雲が増えてきていて、山にかかりだした。

写真37 三島市眺望地点 坂公民館からの富士山

 この先、「題目坂」「臼転坂(うすころげざか)」と坂が続く。「塚原新田」の先で「国道 1 号線」と合流し、「伊豆自動車道」を越えると右側に松並木の石畳道が現れる。「初音ヶ原」である。ここに「錦田の一里塚」がある。

写真38 初音ヶ原の石畳道
写真39 錦田の一里塚

 これで「三島」の町に入ったが、さらに坂がある。「愛宕坂」である。ここを過ぎ、「東海道本線」の踏切を渡り、「山田川」にかかる「愛宕橋」に出る。時刻は 16:00、ちょうど電車が通るところ、富士山をバックになかなか情緒のある光景を見ることができた。

写真40 愛宕坂
写真41 愛宕橋手前から見た富士山

 さあ、今回の「歩き旅」もいよいよ大詰めだ。15 分あまりで「三嶋大社」に到着。本殿にお詣りしていこう。参道を進むと「総門」、その先に「神門」「舞殿」と続き「本殿」に進む。手を合わせ、無事に箱根路を走破できたことに感謝した。時刻は 16:21、ゴールである。「畑宿」からの歩行距離は 22.7 キロ、時間 7 時間 52 分だった。なお、このあとトイレでトレイルランニングのオジサンと三度目の遭遇をしたことを付記しておく。

写真42 三嶋大社総門
写真43 三嶋大社本殿
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