旧東海道歩き旅(13)三島宿~沼津宿(2024.3.29・30)

図1 安藤広重「東海道五十三次 三島宿 朝霧」

 前回の「箱根越え」から一週間後の 3 月 29 日、私は「三島」の町に入った。この日、千葉は雨だったが、その隙間を狙って移動すると、「三島」はすでに雨があがっていた。今回はここに前泊し、さらに「吉原(富士市)」と「興津」に宿泊して、「沼津」「原」「吉原」「蒲原」「由比」「興津」「江尻」と進み、「府中」(静岡市)にゴールする計画である。その道中を宿駅ごとに書いていこう。まずは、「三島宿~沼津宿」までの 5.8 キロである。

三島宿

「三島宿」の概要を以下に記す。

  • 所在地:伊豆国君沢 (くんたく) 郡(静岡県三島市本町など)
  • 江戸・日本橋からの距離:28 里 27 町
  • 宿の規模:家数 1025 軒、本陣 2、脇本陣 3、旅籠屋 74
  • 宿の特徴:伊豆国の国府が置かれていた地で、後に三嶋大社の鳥居前町として栄えた、地名も大社に由来して「三島」と呼ばれるようになった。東海道有数の大宿で、町並みは約 2 キロに及んだ。

 前回の「箱根宿」は「相模国」、ここ「三島宿」は「伊豆国」である。一方、次の「沼津宿」からは「駿河国」となるのだ。「三島」という地名は「三嶋大社」に由来するが、古代この神社が所在した『延喜式和名抄』の「三島郷」は「伊豆国賀茂郡」に属し、ここはなんと伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島に比定されている。平安時代中期以降にそこから当地に移ったとされる。

 家数 1025 軒はここまでの宿駅でいうと、品川が 1561 軒、神奈川 1341 軒、小田原 1542 軒だから大きな部類である。『東海道名所図会』は、「この国都会の地にして、商人多く賑わし。宿の西の入口に鐘ありて、二六中を撞くなり」と書いている。

 さて、前回は「大場川」にかかる「新町橋」を渡ったが、宿場の入口である「東の見付」はこの橋のたもとにあり、石塁式の土手に囲まれた枡型(ますがた)見付だったらしい。図 2 は「三島宿」の古地図に情報を書き加えたものである。「新町橋」から街道を西に進むと前回ゴールした「三嶋大社」の鳥居の前に出る(写真 2)。

写真1 新町橋
図2 三島宿古地図(三島市郷土資料館)に筆者が情報を加えたもの
写真2 三嶋大社の鳥居

 この鳥居、図 1 の広重の「東海道五十三次三島宿」に描かれているのだが、少し違っている。どこが違うか分かるだろうか? 答えは燈籠(常夜灯)の位置である。写真 2 では常夜灯は鳥居より後にあるのだが(さらに石段の上に二基の燈籠がある)、広重の絵では鳥居の前に描かれている。この鳥居と常夜灯の位置についての情報を整理しておこう。

  • 東海道名所図会(寛政九年(1797)):鳥居前には常夜灯なし、柵の内側、石段を上がったところに燈籠あり
  • 長谷川雪旦(文政年間(1818~1829)):鳥居前に常夜灯はない。柵の内側に燈籠が描かれている
  • 葛飾北斎(天保一年(1830)):常夜灯はない
  • 歌川(安藤)広重(天保五年(1834)頃):図 1。常夜灯は鳥居より前
  • 末広五十三次(慶応元年(1865)に発行):常夜灯は鳥居より前
  • 古写真(明治十五年(1882)):常夜灯は鳥居より前
  • 昭和初期の写真:鳥居より前に常夜灯はなく、後の柵と同じ位置に燈籠あり

 こうやって時系列で見ると、葛飾北斎以前は常夜灯がなく、初代広重以降、鳥居前に常夜灯が置かれていることがわかる。明治のものは再建だろうが、鳥居前に造られている。一方、昭和初期にはほぼ現在と同じ位置に常夜灯(燈籠?)が設置されていたようだ。

「三嶋大社」の祭神は「大山祇命(オオヤマツミノミコト)」と「事代主神(コトシロヌシノカミ)」の二柱である。合わせて「三島大明神」と呼ぶ。「大山祇命」は山の神、「事代主神」は「大国主」の子で七福神の「えびす様」と同一視されている。さて、どうしてこれらの神々が古くは伊豆諸島を源とする「三嶋大社」の祭神なのか? 「三三島」という言葉がある。これは日本に三つの「三島」という社があるという意味である。その三つとは「三嶋大社」、摂津(大阪高槻市)の「三島鴨神社」、愛媛県今治市大三島町の「大山祇神社」だ。「三島鴨神社」の祭神は「三嶋大社」と同じ「大山祇命」と「事代主神」、「大山祇神社」は「大山祇命」一柱だが、ともに「三島明神」と称している。摂津の「三島鴨神社」が最も古いようだ。『日本書記』では「事代主」が摂津の「三嶋溝橛耳(ミシマノミゾクイミミ)」の娘の「玉櫛媛(タマクシヒメ)」と結婚し、生まれた「媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)」が「神武天皇」の皇后となっている。この「事代主」が伊豆諸島とどう関係するのか、調べてみたがもうひとつよく分からなかった。

 話変わって「三嶋大社」の中を紹介しよう。前回写真を載せた「総門」から進むと「神門」があり、その先に「舞殿」、そしてその奥に「拝殿・本殿」がある。つまり、「拝殿・本殿」を隠すように「舞殿」があるのである。最初、これが本殿かと間違ってしまった。これは普通の配置らしく、鎌倉の「鶴岡八幡宮」でも同じようになっている。「舞殿」は「拝殿」を兼ねることもあるので「下拝殿」とも呼ばれるそうだ。『東海道名所図会』では「拝殿」と書かれている。「拝殿」なら本殿の前にあってあたりまえだ。

写真3 三嶋大社 神門と舞殿

 前回、「拝殿・本殿」の正面からの写真を載せたので、今回は横に回って撮った写真を載せておこう。千木は男神を表す「外削ぎ」である。

写真4 三嶋大社 拝殿と本殿

「三嶋大社」といえばキンモクセイが有名である。樹齢は 1200 年を越えると推定される巨木で、現在もっとも古く、かつ大きなキンモクセイとして知られており、昭和 9 年に国の天然記念物の指定を受けている。

写真5 三嶋大社のキンモクセイ

 今回の「歩き旅」のスタート地点はこの「三嶋大社」である。朝、7:05 に拝殿に参拝したあと、「歩き旅」を開始した。「神池」のしだれ桜が少し咲き始めていた。

写真6 三嶋大社 神池のしだれ桜

 鳥居をくぐって「旧東海道」を西に向けて歩き出す。 「大社町西」の交差点から雄大な富士山が見えた。

写真7 大社町西交差点からの富士山

「三島」は富士山の溶岩の上にできた町である。そのためあちこちに富士山の伏流水が湧き出す「せせらぎの町」でもある。写真 8 は前日に訪れた「白滝公園」でまさに水の都らしい風景だった。

写真8 白滝公園

 こちらは三島市中央町の「旧東海道」である。朝早いので閑散としている。

写真9 三島市中央町あたりの旧東海道の町並み

「本町交差点」をすぎると道の両側に本陣跡の碑がある。このあたりが宿場の中心だ。

写真10 世古本陣跡
写真11 樋口本陣跡

「源兵衛川」にかかる「源兵衛橋」を渡ると、川沿いに「時の鐘」があった。1950 年に再建されたものだが、『東海道名所図会』の「宿の西の入口に鐘ありて、二六中を撞くなり」とあるのはここだろう。その先に見えるのが「三石神社」である。

写真12 源兵衛橋
写真14 時の鐘と三石神社

「源兵衛橋」のすぐ隣にうなぎの有名店「桜屋」さんがある。まだ朝早いので店は閉まっていたが、裏ではオジサンが富士の伏流水でウナギをさらす作業を行っていた。これによって臭みがとれて、一層美味となるらしい。

写真15 うなぎの桜屋

 さらに歩くこと10分、「千貫樋」の説明板があった。『東海道名所図会』には「三島の駅の西にあり。伊豆の水を駿河へとりて、田園の料とす。はじめ青銅一千貫をもって、水の料に贈りけるよりこの名あり。この所両国の堺にして、深さ三、四間ばかりの川ありて、北より南へ流る。その川の上を越えて、東より西に済(わた)す筥樋(はことい)あり。幅一間余、長さ二十三間ばかりなり。つねり流水滔々として増減なし。すべて山里には何国にもあるなり。中に低き所ありて水流自在ならざるには、高きより高きへわたして田園の用とす。上方にてはこれを鎌倉樋という。この所は豆州の水を駿州へとるによりて世に名高し。奇とすべきものにもあらず」と書かれている。農業用の疎水である。説明板によれば、水は「小浜池」(現在の市立公園楽寿園)から引いたらしい。

 この「千貫樋」は「旧東海道」から北側へ路地を入ると見ることができる。ただし、住宅密集地で近づけない。なんとか撮れたのが写真 16 だ。コンクリート製である。木製だったのが、関東大震災で滑落したので改めたという。現在は使われていない土木遺産である。なお、「千貫」という名前の由来だが、説明板には①架設が巧みなため銭千貫に値する、②この用水が高千貫の田地を潤している、③建設費が銭千貫を費やしたという三つの説をあげており、『東海道名所図会』の説とちょっと違う。

写真16 千貫樋

 このあたりに「西の見附」があり、その先の「境川」が「駿河国」との境であったようだ。ここを越えて「清水町」に入る。

「沼津宿」への道

 図 3 が「沼津宿」までの行程である。「清水町」に入ってすぐに右側に「常夜灯」があった。手前に「秋葉神社」があるのでそのためのものか。道標の地名は「新宿」となっている。

図3 今回の行程
写真17 新宿の秋葉常夜灯

 更に歩いて 10 分、「一里塚」に出る。道の両側にお寺が二つあり、それぞれの前に立っている。北が「玉井寺」、反対側が「宝池寺」である。そもそも一里塚は道の両側にあったものだ。

写真20 玉井寺の一里塚
写真21 宝池寺の一里塚

「黄瀬川」は沼津市との境であるが、その手前に「義経・頼朝の対面石」がある。『東海道名所図会』には「治承四年(1180)、平家の軍勢富士川まで出陣の時、源頼朝このほとりまで蜂起あり。また奥州より九郎義経ここに来たりて、生長の後再び体面したまう所なり」とある。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」でこのシーンを見た覚えがある。「八幡交差点」の角に矢印があり、「県道 145 号」の「医療センター入口」バス停のところに「対面石 頼朝義経兄弟 八幡神社」の看板が現れる。ここを入ると、「八幡神社」の鳥居前に出る。なんと鳥居が二つ並んでいる。右側の鳥居は上部しかない。そばには台らしきものが置かれている。先客がいてこの台にあがり、鳥居の上を撫でていた。左に説眼板がある。「開運鳥居」と書かれている。「当社は東海道往来の守護神として篤く崇敬されており、この鳥居はご神域への入口として正面参道南側(旧東海道沿い)に建立されていましたが、老朽化もあり、令和五年の源頼朝公・義経公対面八四〇年記念の参道整備にあたり『開運鳥居』として此処に再建立されました。通常、触れることが出来ない鳥居上部をなでて、大神様のご加護をお受けください」と書かれている。さっそく、台の上にあがり鳥居上部をなでた。なお、帰ってから Google Map のストリートビューを見てみると、「旧東海道」沿いの鳥居の写真が残っていた。確かに同じものである。

写真22 八幡神社鳥居
写真23 Google Map の県道145号線のストリートビューに鳥居が写っていた

「八幡神社」なので祭神は「応神天皇」。創立年代は未詳。平家討伐の後、「源頼朝」が社殿の再建、境内の整備を行ったという。

写真24 八幡神社社殿

「対面石」はこれ。どちらに頼朝が座ったのだろうか? 四角い台座がある左のような気がする。

写真25 対面石

「黄瀬川」を越えて「沼津市」入る。橋の上から「富士山」が見えた。手前の「愛鷹山」が「富士」を隠している。この先、「富士」が見えなくなるようで、「富士隠れ」という。「黄瀬川」は「狩野川」に合流し沼津港に注ぐが、川の西側は昔、宿場町だったようだ。橋を渡ってすぐ「潮音寺」というお寺がありそこに「亀鶴之碑(かめつるのひ)」があった。この「亀鶴」はこのあたりで有名な遊女だったようだ。

写真26 黄瀬川からの富士山の眺め

『沼津市歴史民俗資料館 資料館だより』の47 巻 2 号に次の様な記事がある。

『吾妻鏡』によれば、建久4年(1193)5月、源頼朝は富士野に於いて大規模な巻狩りを催しました。この時に狩宿での酒宴には、手越・黄瀬川以下近隣の遊女を群集させたとあります。28 日の小雨降る夜、有力御家人工藤祐経の宿舎に、曽我十郎・五郎の兄弟が討ち入り、父河津三郎祐泰の仇討ちを果たしました。同席していた手越少将・黄瀬川の亀鶴等が大きな叫び声を上げ、曽我兄弟も父の仇討ちであることを声高々に叫んだため、大混乱となり、多くの人が傷を被ることとなりました。十郎は仁田忠常に討たれ、五郎は頼朝の宿舎に至り、捕らえられます。手越少将や亀鶴等はその後尋問を受け、その夜の子細を問われとたとあります。この出来事は曽我兄弟の仇討ちとして広く知られ、脚色されて「曽我物」として歌舞伎などで上演され、亀鶴は討ち入りの手引きをし、大声を出してその場を混乱させ仇討ち成就を助けた人物としてとして描かれています。亀鶴所縁の亀鶴山観音寺は廃寺となり、亀鶴が信仰したと伝える観音菩薩は潮音寺に移されました。この時代に黄瀬川宿が栄えていたことを今に伝えています。

 亀鶴観世音菩薩の碑、亀鶴姫の墓があった。

写真27 亀鶴観世音菩薩の碑
写真27 亀鶴姫の墓

 道は「狩野川」に沿って進み、左に土手が現れる。川を見てみようと、土手の上を少し歩く。もうすぐ「沼津宿」の入口である。

写真28 狩野川

 土手から下りると「日枝の一里塚」(現一里塚公園)があった。ここは江戸から数えて 29 番目の一里塚。三十里である。この先に「沼津宿」の入口である「見附府」があったようだ。これで「沼津宿」に入るが、この先は次回に続く。

写真29 日枝の一里塚
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