
見附宿
「見附宿」は現在の「静岡県磐田(いわた)市」にあった宿場である。「磐田」と「見附」、この名前の違いは何なのか? まずこの点について調べておこう。
- 磐田:平安時代中期に撰述された漢和辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』、略して『和名抄』に「遠江国磐田郡」が現れる。古代の郡域は「天竜川」の東岸で、現在の「磐田市」の「磐田地区」「豊田地区」付近と考えられている。静岡県の古墳が集中している地域でもある。ここに「遠江国」の「国府」「国分寺」「国分尼寺」が置かれていた。
- 見附:現「磐田市」の中心部に当たる古代「磐田郡」の町の名前で、ここに平安末期より「遠江国府」、鎌倉期より「遠江国守護所」が置かれており、近世の「見付宿」より広い範囲をさすと考えられている。名前の由来は諸説があり、①京都より江戸へ下る時に最初に富士山が見えた、②「水付き」の意味に由来する(古代には海水が後述する「今之浦」に湾入しており「入り海海付」の地であった)などがある。『法然上人絵伝』の正嘉二年(1258)の記事に「当国ミつけの国府」と書かれており、鎌倉期にはこの名前が使われていたことは明らかである。
「見付宿」の概要はつぎの通り。図 2 に古地図、図 3 に現在の地図を示す。
- 所在地:遠江国磐田 (いわた) 郡(静岡県磐田市見付など)
- 江戸・日本橋からの距離:60 里 17 町 45 間
- 宿の規模:家数 1029 軒、本陣 2、脇本陣 1、旅籠屋 56
- 宿の特徴:天竜川の東にあり、古代以来、遠江国府が置かれ、中世からの宿場町として栄えた。


「東木戸跡」から進むと、すぐ右に入る道があり、そこに「縣社 矢奈比賣(やなひめ)神社」の石柱があった。ここが「見附天神」への登り口である。「磐田原台地」の南端に位置しており、北へ進む道は上り坂となる。急な坂道を上っていくと、コンクリート製の鳥居が現れ、隣に「あと押し坂」の看板が。もう一息。坂の上に赤い鳥居が見えた。


朱塗りの鳥居の隣には「見付天神裸祭」の碑がある。「見付天神」と書かれた旗がたくさん立っている。「矢奈比賣神社」よりこちらの方が一般的なようだ。

社殿-1024x768.jpg)
祭神は「矢奈比賣命(ヤナヒメノミコト)」。歴史は古く「延喜式内社」だ。後に正暦四年(993)に太宰府天満宮より「菅原道真」を勧請して天神様となっている。この「矢奈比賣命」だが、どんな神様かもう一つわからない。もう一つ、この神社には霊犬「悉平太郎(しっぺいたろう)」が祀られている。「見付天神」のホームページには、「見付の町を救った、勇気ある犬の物語」という題で詳しく紹介されている。妖怪をやっつけた霊犬の伝承だが、この「悉平太郎」が「磐田市」のイメージキャラクターの「しっぺい」君のモチーフになっているという。
「裸祭り」は毎年旧暦の 8 月 10 日にあわせて行われているようだ。「浜垢離」から始まるので、このあたりが古代、海辺の町だったことが分かる。祭りの様子は「見付天神のホームページ」に詳しい。
坂を下りて「旧東海道」に戻る。右手に「元町珈琲 磐田見付の離れ」という看板がある。ここでコーヒーを飲もうと思ったが、まだオープンしていない。無念の思いで通り過ぎる。「JA 遠州中央見付支店」の前の標識を見てビックリ! なんと「旧東海道」が「栄光への道」に昇格しているではないか! この名前は東京五輪卓球混合ダブルスで金メダルを獲得したこの地区出身の「水谷隼」さんと「伊藤美誠」選手の功績をたたえようと名付けられたものらしい。

宿場の中央を流れる「中川」に鯉のぼりが泳いでいた。五月だ!

その先の「静岡銀行」が昔「問屋場」のあったところ。その前に「脇本陣」があったようだが気づかずに通り過ぎた。「見付宿」の遺構はほとんど残っていない。「北本陣」のあった場所は「立正佼成会」の道場になっている。
少し先に面白い建物があった。明治 8 年に落成した「旧見付学校」で、現存する洋風の木造小学校校舎としては日本最古のものだ。一般公開しているようだが、開館時間は 9 時でまだ早すぎる。早朝出発だと、施設がみんな閉まっているので残念だ。

右隣が「大国主」を祀る「遠江國総社」の「淡海國玉神社」。「淡海(おうみ)」とは淡水の湖のことで、ここでは「浜名湖」のこと(現在は海に通じているが、古代は淡水湖であった)。京から遠いので「遠つ淡海」から「遠江(とうとうみ)」に変化した。一方、「琵琶湖」は京から近いので「近つ淡海」から「近江(おうみ)」へと変化したらしい。

さらにその先、右手に「脇本陣大三河屋の門」がある。もともと「脇本陣」の場所はここではなく、前述のように「静岡銀行」の前だが、「中泉」の「中津川家」に移築されて使用されていたらしい。平成 17 年に市に寄贈され、ここに設置したものだ。屋根にはなんとシャチホコがついている。

現在の「見附宿」の通りの様子は写真 10 だ。

この先の「西坂町」の交差点で「旧東海道」は左に折れ曲がる。直進の道は「浜名湖」の北側を通って愛知県豊川市の「御油宿」と結ぶ「姫街道」である。「旧東海道」はこの先「加茂川」にかかる「加茂川橋」を渡るが、そこに「西木戸跡」があって宿場が終わる。橋の手前、右側の現在の様子が写真 11 だ。

中央に見えるのが「西光寺」の表門だが、その隣にピンク色の「縁結び♥パワースポット」の看板が。建物とはかなり不釣り合いだが、早朝にもかかわらず、結構、人が来ている様子だった。ここは「時宗」の寺院だが、境内を覆う大クスとナギの木が恋愛成就と縁結びのパワーを持つとテレビ・ラジオで紹介されているようだ。宣伝効果抜群で、参拝者が絶えないらしい。
「見附宿」を出たのは 7:45。コーヒーにはまだありつけていない。
見附宿~浜松宿

「旧東海道」を南下する。右側に「遠江国国分寺跡」。このあたりは「国府台(こうのだい)」と呼ばれる。「下総国国府」のあった千葉県市川市の「国府台」と同様だ。道の左側には「府八幡宮」の扁額がかかった大きな鳥居がある。天平年間(729~748)に遠江国司であった「天武天皇」の曽孫「桜井王(さくらいおう)」が、遠江国府の守護として赴任された時、遠江国内がよく治まるようにと府内に奉られたのが始まりとのこと。『東海道名所図会』には「八幡宮」として、「境松村にあり。石清水を勧請して、社頭壮麗、境内広し。この地の生土(うぶすな)神とす」と書かれているので、この場所がかつて「境松」と呼ばれていたことがわかる。境内に入ってみよう。

木々の間、参道を進むと重厚な「楼門」がある。寛永 12 年(1635)に徳川家によって建立されたと伝えられている。

さらに進むと「中門」。これも徳川家の援助によって整備されたものらしい。

奥の「拝殿」は寛永年間から延宝 4 年(1676)に建立されたもの。なかなか立派な建物である。

八幡宮なので祭神は「誉田別命(応神天皇)」「足仲彦命(仲哀天皇)」「気長足姫命(神功皇后)」の三柱。
この神社の裏手の地域の名前は「今の浦」である。「見付宿」の南側だ。『東海道名所図会』に「今はあせて〔水深が浅くなる〕沼野となる」と書かれているから江戸時代は沼地、より古くは海だった土地だ。「見附」の語源の一つ「水付き」はここから来ている。
神社から街道に戻り、さらに南下。「磐田駅」のある「中泉」に入っていく。私はコーヒーを飲むところを探しているが、なかなか適当な店がない。コンビニはあったが、イートインできそうにない。一時期、イートインできる店が多かったが、コロナ以降ドンドン減ってしまった。ファミマも廃止の方向だそうだ。これは「歩き旅」をする者にとっては大きな痛手だ。Google Map を調べると「カフェ喜楽」というのがある。駅の西側、「旧東海道」沿いである。

「やっているのだろうか?」そんな雰囲気だった。「営業中」と書かれているから、やっているのだろう。それにしても、「寿司屋の玉子焼き」とか「おむすび」とか書いてある。不思議な感じの店だ。ドアを開けるとカウンター奥にマスター、その前にお客さんが二人いた。コーヒーを注文すると、「昔ながらのコーヒーだけどいいか?」と訊かれた。それで注文。冷たいお水がでる。とても美味しくて、乾ききった身体に浸み込んでいく感じだ。しばらくして、コーヒーが出てくる。なかなか美味しい。人心地ついたところで中を観察。常連らしきお客は和食の朝食を食べていた。それから、会話がはずんだ。「両親がやっている店を継いだが、仕事も持っているので休みの日しか開けていない。どうやってこの店を知ったか」と訊く。「Google Map」でと答えると、「へぇー」と驚く。「東海道を歩いていて、袋井から歩いてきたがコーヒーを飲もうと思っても店がない。このあたりまでコンビニもなかった」と言うと、男性のお客さんが「旧街道にはないだろうな」と答える。それから、街道松の話、明治の道・大正の道、国府台という地名が千葉にもあることなどなど、すっかり調子に乗って、ずいぶんおしゃべりしてしまった。30分くらい話していたら、元気が出て来た。こんなおしゃべりができる店がいい。もっと話していたいが、そうもいかない。さあ「歩き旅」の継続だ。
しばらく行くと「県道 261 号線」が旧街道となり、「宮之一色一里塚」があった。面白い名前だが、「一色」というのは全国各地にある地名で、「一色田」(荘園で年貢のみ納めればよい田地)に由来するのだそうだ。

左に「若宮八幡宮」の鳥居。ここまで来ると「天竜川」は近い。

「天竜川」まで来たが、歩いてきた「県道 261 号線」の「天竜川橋」には歩道がない。交通量が多いのでここを渡るのは危険だ。どうしようかと右を見ると、すぐ隣に「国道 1 号線」が走っていて立派な歩道がついている。


この歩道ができたのは実は平成 18 年の 10 月でまだそれほど時間が経っていない。それ以前は歩道のない橋を渡っていたのだ。ずいぶん恐ろしい思いをしたことだろう。
この「天竜川」だが江戸期には船渡しだった。冒頭の広重の絵はこの様子を描いている。

川を渡り、少し南に戻って旧街道に入る。入口のところで面白いものを発見。「舟橋 木橋の跡」という説明板が立っていた。江戸時代は天竜川には橋はなく渡船渡しであったが、明治元年に「明治天皇」の東幸があり、それに合わせて二日間だけ仮設の橋が設置されたという。説明板によれば、流れのあるところは舟を並べた船橋、洲の部分は木橋を用いたらしい。ここがその跡なのだ。

「浜松市」に入ると「県道 314 号」が「旧東海道」となる。「松林寺」の前を過ぎ、「県道 312 号」と合流するところが「安間の一里塚」らしいが、標柱があったのかどうか。この先、「国道 1 号線」を潜った先から「松並木」が始まる。

右側に「六所神社」の鳥居、左に進むと「天竜川」の駅である。

こちらは「しそ巻き」で有名な「六軒京本舗」。

「馬込川」の手前に「馬込の一里塚跡」、先ほどの「安間の一里塚」から 4 キロ歩いたわけだ。

「馬込川」にかかる「馬込橋」を渡る。左に「アクトシティ浜松」の建物が見える。いよいよ「浜松」の街中に入ってきた。

この「馬込橋」を越えたところが「新町」で「東番所」があったらしい。12:18 に「浜松宿」にたどり着いた。この先、「広小路通り」の交差点まで歩いて「静岡」から始まる四日間にわたる「歩き旅」を終了した。「袋井宿」からの歩行距離は 23.3 キロ、時間 6 時間 47 分だった。
この日は 5 月 5 日で「浜松まつり」の最終日、18 時から「御殿屋台引き回し」が行われる予定で、その「御殿屋台」が「板屋町」の「アクト通り」に飾られていた。82 ケ町の御殿屋台が「鍛治町通り」を練り歩くのだという。次の機会には是非、見たいものだと思う。

今回は初日に手首の捻挫、つづいて足のマメ、猛暑といろいろあったがなんとか乗り切った。かなり暑くなってきたので「歩き旅」は夏の間は休んで、10 月から再開の予定だ。

