
10 月になって「旧東海道歩き旅」を再開した。今年の夏は猛暑だった。その為か 9 月は依然として夏で秋風が吹かないし、秋雨も降らない。10 月になって秋雨前線が活発となり、晴れの日が続かなくなった。「歩き旅」の予定を組むのに一苦労だ。
10 月 15 日ころから晴れるという予報(最初は中日が雨だったが、晴れに変わった)だったので、ここに計画を入れた。「浜松宿」から始めて、きりのいい「熱田神宮」のある「宮」までなんとか到達したかった。「宮」からつぎの「桑名」までは舟による「七里の渡し」である。だから、この間をパスして次回は「桑名」から始めればいい。5 日間の行程だ。前回の「歩き旅」が 4 日だったから、さらに一日増える。足は大丈夫だろうか? と不安がよぎる。さらに決行近くになって、いったん晴れに変わった中日が曇/雨に変わった。レインウェアを持っていくしかないかとあきらめ、決行となった。
せっかく「音楽の町浜松」に行くのだから、前回立ち寄れていない「楽器博物館」へ寄ってみようと前泊がてら、早めに「浜松」に着いた。この日は快晴。


「楽器博物館」は世界の楽器を集めた博物館である。お目当ては「フォルテピアノの芸術 音楽の都 ウィーンの 19 世紀」という特別展だ。「フォルテピアノ」は現在の「ピアノ」より前、18 世紀から 19 世紀に弾かれていたピアノである。モーツアルトやベートーヴェンの時代のピアノは現在のものとは相当違っている。この「フォルテピアノ」の音が気に入り、 CD を集めているのでぜひ現物を見たいと思ったのだ。いろいろなタイプの「フォルテピアノ」が展示されていて、とても楽しめた。さらに、明日からの 5 日間にわたる「歩き旅」の為にスタミナをつけようと「浜松名物の鰻」をいただく。至福の宵をすごすことができた。

浜松宿
2024 年 10 月 15 日 7:21、「浜松宿」からの「歩き旅」を開始した。天気予報は曇/晴れだ。
宿場の概要はつぎのとおり。
- 所在地:遠江国敷地 (ふち) 郡(静岡県浜松市中区伝馬町など)
- 江戸・日本橋からの距離:64 里 24 町 45 間
- 宿の規模:家数 1622 軒、本陣 6、脇本陣なし、旅籠屋 94
- 宿の特徴:徳川家康以来の城下町で、本陣が 6 つもある大きな宿場町。浜名湖の北を通る東海道の脇道である本坂通がここで分岐する。

「浜松宿」の中心は現在の「連尺交差点」から南に向かう「国道 257 号線」である。そこへ行く前に、まずは「浜松」のシンボルである「浜松城」に立ち寄ってみよう。「連尺交差点」のすぐ北に「浜松城大手門跡」の標柱があった。「国道 152 号線」を北上し(図 2 では大手門からお城の中に入る)、「市役所前」の交差点で左折して「市役所」の隣を北に入ると「引間城」の前だ。


「徳川家康」は元亀元年(1570)、本拠地を「岡崎城」から遠江の「引間城」へ移す。この「引間」は「引馬」とも書き、このあたりの旧名である。「家康」は城の西側と城域を拡張して「浜松城」と名付け、家臣団を城下の各地に配置し、商工業者を集住させたという。

「天守門」から入ると「引間城の天守」がある。写真 7 のようにとてもバランスが悪い。天守台に比べて天守閣が小さいのだ。この天守は昭和 33 年に建てられたもので、元はこれより一回り大きかったと考えられている。それにしても、なぜもっと大きく作らなかったのだろう?

来た道を「連尺交差点」まで戻る。「浜松宿」には本陣が 6 つもあり、規模の大きな宿場町だったようだ。「浜松市」は、航空隊の根拠地、軍需物資の生産都市だったため、27 回に及ぶ爆弾、焼夷弾、機銃掃射、艦砲射撃の攻撃を受け、町の大部分が焼失してしまっている。このため「宿場町」の遺構は残っておらず、標柱が立っているだけだ。
「五社前通り」を過ぎて、左に「杉浦本陣跡」(図 2 の北から二つ目)の説明板を発見。

「五社前通り」の先を見ると赤い鳥居が見える(写真 9)。その先に「五社神社諏訪神社」がある。この通りは昔の「五社小路」で、「五社神社」と「諏訪神社」の二つの神社があったが、戦災で焼失してしまい、現在は同じところに二社合わせて再建されている。

「鴨江小路」を渡るには地下道を使う。その手前に「川口本陣」(北から三つ目)の説明板があった。

しばらく直進して「成子町」で「県道 62 号線」に入るが、すぐ先の「菅原町」の交差点で南西の小道に入っていく。このあたりが「浜松宿」の出口である。
浜松宿~舞坂宿

「東海道本線」の高架を潜ると再び「国道 257 号線」が「旧東海道」になり、ここから「篠原」まで、しばらく国道歩きである。「掘留川」を渡って右手に「八丁縄手」の標柱を発見。説明板によれば、さきほどの高架をくぐったあたりから、この先の「東若松」の交差点まで長い縄手道が続いていたようだ。「八丁饅頭」を売る店があったが、店を閉じて久しい雰囲気だった。

「東若松」で道は西に曲がるが、すぐ「二つ御堂」がある。道の右側に「阿弥陀堂」、左手に「薬師堂」があるのでこの名がつけられた。この場所は「八幡神社」への参道口に当たり、「高札場」「馬頭観音」といろいろなものがあったようだ。さらに「秀衡の松」の説明板もある。


「二つ御堂の西に周囲二丈余(約六メートル)の秀衡の松と呼ばれる古い松がありました。『秀衡の側室の亡骸を埋めた所に、秀衡が植えた松である』とつたえられています」と説明がある。この「秀衡」は「奥州藤原氏」の祖とされる「藤原秀衡」だ。写真の松は二代目だそうだ。
その先の「若林町」にも松の大木があった。このあたり、昔は松並木だったと思われる。冒頭の広重の絵、松の根元でたき火をしながら休憩している旅人達の図だが、画面の右手奥に描かれているのは「浜松城」だ。とすると、絵の舞台はこのあたりではないか。

旅人たちの様にちょっと休憩したいと思いながら適当な場所を探す。地図を見ると「旧東海道」の一本南に「可美公園」がある。ちょうどいい。ちょっと休憩しようと立ち寄った。休憩後、再び街道に戻ると正面に神社がある。「諏訪神社」だ。少し西にも神社。こちらは「熊野神社」。


この先、「増楽町」から「高塚町」に入ったところ、右側に「堀江領境界石」の標柱を発見。説明版によると、このあたりは宝永二年(1705)に「浜名湖」の北、「堀江舘山寺」に城を構える「大沢家」の領地(堀江領)となったため、隣の「浜松藩領」との境界に目印の石を置いたらしい。明治に入ってすぐに、この「堀江領」は「浜松県」に吸収されたようだ。
「篠原」でようやく国道を離れて、わき道に入る。左側に「立場跡」の説明版があった。「立場」は「宿場」と「宿場」の間にある休憩所だ。このあたりは「浜松宿」と「舞坂宿」の中間地点なので「立場」が作られたのだが、「本陣」の役目も果たしていたらしく「立場本陣」と呼ばれる。写真の建物の母屋は安政年間に改築されたものらしい。

一時間あまり歩くが特になにもない。「馬郡(まごおり)」に入ると右側に「引佐山大悲院本尊観音堂聖跡」と書かれた石柱があった。「引佐山大悲院本尊観世音由来」と書かれた説明板によると、かつてこの地に永く「観音像」が安置されていて、「引佐細江の観世音」と呼ばれていた。「引佐細江」は浜名湖の北東部の支湾の名前である。もともとその地で「観音像」が彫られたが、天災によって海となり、ここに遷したものだそうだ。多くの願望成就のしるしを見たことから、東海道の旅人からもご利益ある観音として知られていたようだ。『東海道名所図会』にも「馬郡観音堂」の名で登場する。

この先「県道 49 号線」と交差するところに「タケミカヅチ」「フツヌシ」「アメノコヤネ」「ヒノカミ」を祭神とする「春日神社」がある。ここは「舞阪駅」の近くだが、ここはまだ「馬郡町」だ。

「舞阪町」に入ると、長い松並木が現れる。長さが約 700 m、370 本の松が植えられていて、なかなか壮観である。途中に「舞坂橋」の説明板があり、それによると北に「西永池」という小さな池があり、そこから昭和 10 年頃まで松並木を横切って水が流れていたらしい。説明板がないとそれとは分からない。この「まいさか」だが、江戸時代は「舞坂」と「坂」の字を使っているが、現在は「阪」の字の「舞阪」になっている。


「国道 301 号線」と交差する手前で松並木は終わり、さらに直進すると「舞坂宿」の「江戸見附」の石垣が現れる。11:38 私は「舞坂宿」入った。朝は雲が厚く空を覆っていたが、すっかり消えて青空になっていた。


