
長い松並木の道を抜けて「舞坂宿」に入った。一直線の平坦な道だ。それなのになぜ「舞坂」と、「坂」の字を使っているのだろう? 『東海道名所図会』を見ると、「前坂とも書す。いにしえは舞沢、あるいは舞沢松原という」とある。『ブリタニカ国際大百科事典』では「漂砂によって地形が変化するところから廻沢 (まわさわ) 、舞沢 (まいさわ) などと呼ばれていた」と説明されている。つまり「沢」が転じて「坂」となったようだ。しかし、なぜ「坂」なのか? 思い当たったのは、「坂」には「境界」の意味があることだ(例えば、万葉神事語辞典)。これなら、よくわかる。ここはまさに「浜名湖」で分断される「境界」の土地なのだから。
宿場の概要はつぎのとおり。
- 所在地:遠江国敷地郡(静岡県浜松市西区舞阪町舞阪など)
- 江戸・日本橋からの距離:67 里 16 町 45 間
- 宿の規模:家数 541 軒、本陣 2、脇本陣 1、旅籠屋 28
- 宿の特徴:浜名湖の湖口東岸に位置する。関所のある対岸の新居宿までは渡船。
「浜名湖」は南が海に開いている汽水湖である。もともとは砂州で閉じていたが、地震によって口が開き、「今切(いまぎれ)」と呼ばれた。「昔は閉じていたが、今は切断されている」という意味だ。『東海道名所図会』では次の様に解説している。
後土御門院御宇〔御代〕、明応八年〔1499〕六月十日。大地震して、湖と潮(しおうみ)とのあいだ切れて、海とひとつになりて入海となる。これを今切という。その後、御柏原院御宇、永正七年〔1510〕八月二十七日、螺(ほら)の貝出でて山崩れ、川埋もれ、舞坂の原を破り深淵となる。またその後、元禄年中〔1688 – 1704〕、地震海嘯(つなみ)ありて、海上あらく、風強くして波高く、渡船の災となれば、宝永年中〔1704 – 1711〕、宮家より有司〔つかさびと、役人〕来たり、今切の波頭に数万の杭を打ちて、逆流をとどめ、また舞坂の方より左へ、海中半道〔一里の半分〕の間、波戸(はと)〔波除の堤〕を築きて、渡船の風波を穏やかにし、往来をとどめず自由ならしむ。
ぺりかん社「新訂 東海道名所図会[中]」
「今切の波頭に数万の杭を打ちて、逆流をとどめ」とあるが、この杭が「広重」の絵「今切真景」(図 1)に描かれている。左から中央の杭がそれだ。描かれている舟は隣の「新居宿」までの渡し船。右側には帆船の帆だけが見えている。遠くに雪を冠した富士山。中央に高い山が描かれているが、「浜名湖」の北岸にこんな山は存在しない。これは完全に「広重」の創作だ。
淡水の湖を「淡海(あふみ)」と呼んだ。「琵琶湖」がそうだ。そこから「近江(おうみ)」という地名が生まれた。「浜名湖」の場合は京より遠いところにある「淡海」、つまり「遠つ淡海」となる。「遠江」という地名はここから来ている。「とうつあふみ」→「とうとうみ」と変化したのだ。「遠江国」とは「浜名湖」のある国という意味なのである。
「舞坂宿」である。前回書いた「見附石垣」をすぎると、すぐに「新町常夜灯と一里塚跡」がある。建物の間、奥に見えるのが「一里塚」の標柱である。通りの様子は写真 2 で宿場町の風情が残っている。


こちらは「浜名湖(まるさん) 堀江三郎商店」。昭和 13 年創業のちりめん、しらすのお店。「遠州灘」は全国有数のしらすの産地で「舞坂漁港」で水揚げされている。ここまで来ると、「今切」は目と鼻の先。湖に出る手前に「本陣跡」「脇本陣跡」がある。


「本陣跡」は標柱だけだが、その前の「脇本陣」は遺構が残っている。「浜松市のホームページ」には「天保 9 年(1838)建築の旧脇本陣『茗荷屋』の上段の間があった書院棟が残されていました。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構です。この貴重な脇本陣を後世に伝えようと、建物を復元しました」とある。「これは是非とも見ておかないと」と期待したのだが、なんと門が閉まっているではないか!

休館日は毎週月曜日と表示されている。今日は 10 月 15 日で火曜日だ。よく見ると、その下に「ただし祝日または振替休日の場合は翌日」と書いてあった。昨日 14 日は「スポーツの日」で祝日。ということで今日は休館日なのだ。まことに運が悪い。そういえば、宿場の中の店はほとんどお休みだった。そろそろ 12 時なので食べるところを探していたのだが、当てが外れた。仕方なく、先に進む。
十字路に出た。手前左に「西町の常夜灯」、正面の道の先には湖が見える。木製の「常夜灯」が右の角にあり、その先に「舞坂宿の渡船場、本雁木跡」と書かれた説明版があった。「 江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり 舞阪側の渡船場を雁木といった。雁木とは階段状になっ ている船着場のことをいい本来は『がんぎ』と読むが舞阪では『がんげ』といっている。 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡 で東西 15 間、南北 20 間の石畳が往選より海面まで坂にな って敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前 4 時、夕方の最終船は午後 4 時であった。」

先の突堤まで行ってみた。正面に見える橋は「国道一号線」、左が「今切口の堤」、右側が「新居弁天海釣公園」でその間が湖口である。右手を見ると(写真 7)、ビルが建っているところが見える。あれがこれから向かう「弁天島」だ。その左の赤いものは「弁天島」の観光シンボルタワーの鳥居である。


四つ辻を北に進むと「北雁木跡」の説明板があった。こちらはいかにも船着場らしい雰囲気だ。

舞坂宿~新居宿

「舞坂宿」を離れて、「新居宿」へ向かうために「弁天橋」を渡る。先ほど小さく見えていた赤鳥居がだいぶ大きくなってきた。「弁天島」のシンボルとして昭和 48 年に舞阪町観光協会が建設したものだという。国営地に建てるので鳥居の形にしたらしい。

橋を渡るとすぐに「田畑家の弁天島別荘跡」の説明版があった。大河ドラマ「いだてん」の主人公「田畑政治」の別荘がこのあたりにあったらしい。明治 22 年に「東海道鉄道」が開通すると、浜松の資産家たちは弁天島に別荘を建てらしい。水泳ニッポンの父と呼ばれる「田畑政治」の別荘もここにあった。説明版には当時の弁天橋の様子が掲載されている。水泳大会の写真もある。

この先の左側に「市杵島毘賣命(イチジシマヒメノミコト)」を祀る「辨天神社」があった。このあたりの通りの様子が写真 12 で、右の駅は東海道本線の「弁天島」 だ。左側にはホテルやマンションが並んでいる。今日は「新居宿」まで歩いたあと、電車で戻ってここに宿泊する予定である。泊まる予定のホテルに荷物を預けて、ビールとカレーをいただき、再び歩き出す。いいお天気になったのだが、暑いことこの上ない。


「中浜名橋」に出る。車の通る橋の横に歩道橋が架けられている。その右側は「東海道本線」、さらに右が「東海道新幹線」の鉄橋である。浜名湖はというと、これらの並行した橋の為に見晴らしがよくない。さらに両側のフェンスが視界の邪魔をしている。「新弁天」を越えてさらに橋を渡ると「新居町(あらいまち)」である。


「新居町駅」を過ぎると「浜名橋」に出る。「浜名湖」が閉じていた平安時代には、湖から海に「浜名川」が流れており、ここに「浜名橋(はまなのはし)」という大きな橋が架かっていたという。長さ 56 丈というから、約 170 m である。この「国道 301 号」にかかる「浜名橋」は同じ名前だが、昔の橋はもっと西にあった。今切の大地震で無くなったという。

橋を渡るの町の雰囲気が変わる。右側に「新居の関所」が見えてきた。

