旧東海道歩き旅(48)亀山宿~関宿(2024.11.5・6)

図1 安藤広重「東海道五十三次 亀山 雪晴」

亀山宿

 前回は「亀山城下」の「茶屋町」に入ったところまで書いた。「本町広場」の交差点の手前で「巡見道」の説明板を見つけた。前の「旧東海道」と直行する南北の道が徳川幕府の「巡見使」が通った道だという。「湯の山温泉」のある「菰野」を経由して「中山道」につながるらしいが、かなり距離がありそうだ。

図2 亀山宿地図(出典 亀山宿イラスト案内図を一部改変)
写真1 巡見道の説明板

 建物に「屋号」を書いた表札が掲げられていた。他の町でも見たことがある。たとえば、写真 2 は「茶屋町 あぶらや」と表示されている。図 3 は「茶屋町」から「西新町」までの屋号の図面だが、「油屋」が出ていた。街道の左側、「巡見道(浄願寺道)」から七軒目だ。

写真2 あぶらや跡
図3 亀山宿屋号(出典 亀山宿イラスト案内図)

 道は「鍋町」で左に大きくカーブして南向きとなり「東新町」に入る。このあたり、古い町家建築が残っている。右側の「松葉屋」と左側の「山形屋」、まったく同じ形式だ。どうやら規格があるようだ。

写真3 東新町 まつばや
写真4 東新町 山形屋

 ここで「旧東海道」は右に曲がる。その角が「江戸口門跡」だったのだが、標識を見落としてしまった。かつては、水堀と土居で囲われた中に門と番所があったという。今はただの曲り角なので標識がないと気づかない。明治 6 年の「廃城令」でお城はすっかり取り壊されてしまったのだ。ここから「東町」、「亀山宿」の始まりである。現在は商店街になっているが、これまで多くの宿場町がそうだったように、概ねシャッター街と化していて人通りが少ない。

写真5 東町 

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:伊勢国鈴鹿郡(三重県亀山市東町・西町など)
  • 江戸・日本橋からの距離:104 里 23 町 7 間
  • 宿の規模:家数 567 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 21
  • 宿の特徴:16 世紀中頃に亀山城が築かれ、関氏の城下町として発展。城主は主に譜代大名。城下町と併せた町の規模は大きいが、宿場町としては旅籠屋が 21 軒と寂しい。

 江戸時代には旅行ブームがあった。その旅人の多くは「伊勢詣」だ。東から「伊勢」に入るには、例の「四日市宿」の先の追分から「伊勢街道」を使う。西からだと、「関宿」にある「参宮道」を通る。つまり、「石薬師」「庄野」「亀山」の三宿場を「伊勢詣」の人たちは通らない。だから、これら三宿場は小さく、経営難に陥っていたようだ。「亀山」の城下町は広いが、宿を作っても客が来なければ商売にならない。だから、旅籠屋 21 は妥当な数だったのだろう。

「東町」の通りを進む。「樋口本陣跡」は標柱だけ。手前に「脇本陣跡」があったがスルーしてしまった。

写真6 樋口本陣跡

「辻ヶ堂交番前」で左折。角の「高札場跡」はこんな具合。この辺りが「亀山城」の正面玄関「大手門」のあったところで、まっすぐ進むと「亀山城多門櫓」に出られるのだが、左折して「旧東海道」を進む。図 4 は江戸時代の地図(「東海道分間延図」)の「亀山」である。「旧東海道」は「横町」「万町」「西町」と続くが、その北側は城の「外堀」だった。ここも明治の廃城令で埋められ、現在は「本丸町」の南の「池之側」の辺りにだけ残っている。

写真5 高札場跡
図3 東海道分間延図 亀山宿に情報を追記

 「横町」は「旧街道」らしい雰囲気だ。道が S 字に曲がっている。これは城下町特有の「枡形」だ。

写真6 横町の枡形
写真7 横町の枡形

 「万町」に入ると、左に「遍照寺」の門がある。

写真8 遍照寺の門

 門の先は下り階段だ。お寺は階段下の右側。正面、下の方に町が見える。

写真9 遍照寺の下り階段

 本堂の建物は、「亀山城二ノ丸御殿」の大書院と式台部分を明治 5 年に移築したもの。廃城のタイミングに合わせて保存しておこうと考えたのだろう。

写真10 遍照寺本堂

「遍照寺」の境内から「亀山」の町を見た。目の前にあるのが「亀山第一ホテル」だが、かなりの高低差だ。つまり「旧東海道」は台地の上なのだ。

写真11 遍照寺から亀山の町を’眺望

「亀山」は「鈴鹿川」が作った「河岸段丘」の台地の上に作られた町だ。そこに城が築かれ、城下町として発展していった。

 右側にカラフルな板を展示した旧家を発見。「亀山トリエンナーレ」と書かれた幟があがっている。「トリエンナーレ」とは三年ごとに行われる展覧会。古民家とアートをコラボさせる取り組みで、10 月 27 ~ 11 月 16 日まで開催されていた。この日は 11 月 5 日で、ちょうどいいときに来合わせたことになる。パンフレットからみると、この家は「廣森家」。江戸時代は「万屋」だったところ。この辺りは多くの店が集まっており、なんでも揃ったところから「万町」と呼ばれたところだ。

写真12 廣森家

 「池之側」に至る手前の右側に立派な商家を見つけたが、表示がないので詳しいことが分からない。

写真13 池之側手前右側の商家

「池之側」を抜けると「県道 302 号線」に出会う。ここを横断し坂を上る。左が見晴し台になっていたので、そこから来た方向を振り返った。

写真14 国道の先の上り坂
写真15 見晴らし台から来た道を振り返る

 かなりの高低差がある。県道の左側がお城である。「多門櫓」を見ていないなと思っていたら、この写真に写っていた。左端の石垣の上の白い建物がそうだ。「亀山市のホームページ」から採った写真をあげておく。「多門」とは長屋の様な細長い建物のことなので、「多門櫓」は細長い櫓のことだ。「亀山城」にはいくつも「多門櫓」があったらしいが、残っているのはこの「本丸」の「多門櫓」だけである。「廃城令」で城がすっかり取り壊されたのに、なぜここだけ残っているのかと不思議に思ったら、「亀山藩」の武士だった人々が惜しんで買い取り、木綿の敷物を織る作業場としたらしい。

写真16 多聞櫓 (出典 亀山市)

「西町」に入ると、左側に立派な建物があった。ここにも「亀山トリエンナーレ」の幟がある。「旧館家住宅(桝屋)」で、どうやらここがトリエンナーレのメイン会場のようだ。普段は無料開放なのだが、今回は 500 円を払って中に入る。

写真17 旧館家住宅(桝屋) 亀山トリエンナーレ

 ちょっと中を紹介しよう! 現代アートと古民家のコラボレーション、不思議と違和感がない。

写真18 入口付近の板場(店があったところと思われる)
写真19 中の間、二階に上がる階段がある(これは改修時に設置されたもの)
写真20 奥座敷
写真21 仏壇もアートになっている
写真22 二階は完全な美術館だ
写真23 屋根裏 アートはないがそれ自体が芸術だ
写真24 台所はアートがマッチしていて違和感なし

 この先はまた枡形で「西新町」に入る。こちらは畳屋さんで、営業中だ。

写真25 大平畳製造所

「京口門跡」の説明板があった。かつてはここに壮麗な門があったらしい。ここが冒頭の広重の絵「亀山 雪晴」の舞台だという。「三重総合美術館」の解説はつぎのようだ。「この作品に描かれた場所は、亀山の城下町の西端を画する京口門付近で、城壁の単層櫓(たんそうやぐら)や木柵(もくさく)、斜面の樹木は地元に残る亀山宿の絵図に一致しています。また、遠景の家並みは、野村の集落、背後の山々は現在の市街地の北西に連なる丘陵と思われます。広重は、京口門付近の東海道の街道情景を南東側からやや俯瞰した視点で描いています」。現在、説明板のあたりは建物で見通しが悪く、この絵の構図を確認できない。「竜川」に架かる「京口橋」を渡り、14:35 「亀山宿」を抜けた。

写真26 京口門跡の説明板
写真27 京口橋
写真28 竜川

亀山宿~亀山インター

図4 亀山宿~関宿行程

「野村」に入る。「亀山宿」は出たものの、通りには古い家が多くて、こちらの方が街道の雰囲気が残っている。橋を渡ってすぐ左に「旧佐野家住宅」。

図30 旧佐野家住宅
写真32 野村の通りの様子

 この先、古家が続いていて見物だ。街道の左側「森家住宅」は骨董・カフェになっている。

写真33 森家住宅

 街道右の「内池家」には「明治天皇御召替場所」との札がかかっていた。ここは「野村の一里塚」の近く。南北の道と交差する角地にあり、南に進むと前回、書いた「忍山神社」がある。

写真33 内池家は明治天皇の御召替場所に使われたとのこと
写真34 野村の一里塚

「野村の一里塚」は三重県で現存する唯一の一里塚。この木は「椋」で樹齢 400 年だそうだ。この辺りは「野村」の集落の西の端、進むと次第に寂しくなってくる。二手に分かれた道を右へ進むと、左手が鬱蒼とした森になっており、そこに「布気神社」と書かれた石の碑と鳥居があった。参道の両側に燈籠がずっと続いていて、いかにも神仙の住む世界への入口にふさわしい。左側にある説明板には「布気皇館太(ふけこうたつだい)神社」と書かれていた。

写真36 布気皇館太神社の説明板

「皇館とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来する」と書かれているが、これだけでは分からないのでちょっと解説しよう。まず、「皇」とは「天照皇大神」、つまり「アマテラス」の事である。「天照大御神が忍山に御遷幸の折」とあるのは、「倭姫」が「アマテラス」を祀る場所を探しに、「大和」の「笠縫」から「伊賀」「甲賀」「近江」「美濃」「伊勢」と旅をした時のことを指す。最終的に「五十鈴川」のほとり、現在の「伊勢神宮」の地に落ち着くのだが、そこまでにいくつかの場所に滞在しており、これらは「元伊勢」と呼ばれている。「忍山」もその一つだったようだ。「大比古命」はこの地の豪族で「アマテラス」の誘致運動をした人物。「神田・神戸」は、平安時代になると「伊勢神宮」も各地に荘園(神戸郷)を持つようになり、そこからの収入で維持されていた。ここは「鈴鹿郡」の「神戸郷」だが、三重県だけでも隣の「河曲郷」(現在の鈴鹿市、神戸城・神戸宿があった)、「壱志郡」「飯高郡」などあちこちに「神戸郷」があった。「アマテラス」の一時滞在場所ということで「皇館」と名前がついた。ところが、その場所はここ「野尻」と現在「忍山神社」のある「野村」の二説があるようだ。『日本歴史地名大系』の「布気神社」の項には「式内布気神社は野村町の忍山神社の可能性が強く、式内忍山神社は当布気皇館太神社である可能性が強い」とあってややこしい。

 ここまでずっと河岸段丘の台地の上を歩いてきたが、この先の「昼寝観音」を過ぎると下り坂となり、「国道 565 号線」と「関西本線」を跨ぐ陸橋を通って「鈴鹿川」の前に出た。

写真37 国道と関西本線を越える陸橋

 目の前に高速道路の高架が見える。この辺りが「亀山インター」である。「名阪国道」と「亀山自動車道」を潜ったところで二日目を終了m「亀山インター」にあるホテルに入った。「日永追分」からの歩行距離は 26.9 キロ、見学・食事・休憩を含めての歩行時間は 7 時間 32 分だった。

亀山インター~関宿

 翌 11 月 6 日、7:27 昨日の「終了場所」から歩き旅を再開。この日は「関宿」から「鈴鹿峠」を越えて「土山宿」まで歩く予定である。ここで全コースの説明をしておきたい。今回の旅は「桑名宿」から始めて、5 日間で「草津宿」まで進む予定である。ところが、歩行距離と宿泊場所のバランスが悪い。ホテルが多いのは「四日市」「亀山(インター付近を含む)」「水口」である。「石薬師」「坂下」「土山」には宿屋も電車の駅もない。ざっとした距離( km )はつぎの通り。

「桑名宿」~12.5~「四日市宿」~3.7~「追分」~7.0~「石薬師宿」~2.7~「庄野宿」~7.8~「亀山宿」~3.4~「亀山インター」~2.4~「関宿」~6.5~「坂下宿」~9.7~「土山宿」~10.5~「水口宿」~8.0~「夏見」~5.7~「石部宿」~11.7~「草津宿」

「桑名」から「石薬師」まで歩くと 23 キロとちょうどいいが、宿ばかりか電車の駅もないので、「追分」まで 16 キロ歩いて電車で「四日市」に戻り宿泊。「追分~関」は 23 キロだが宿がない。「電車」で「亀山」へ戻る手もあるが、時間がもったいないので、その間の「亀山インター」まで 21 キロ歩いて宿泊。「亀山インター~鈴鹿峠~土山」は 16.2 キロ、「水口」まで行くと 27 キロ、峠越えで 30 キロ近くなるのはしんどい。幸い「土山~水口」間にバスが走っているので、これで「水口」に進んで宿泊。最後の「土山~草津」は 36 キロとなるので、途中で宿を取ろう。「草津線」で「草津」まで出ようかとも思ったが、幸い「夏見」にコンテナホテルがあるのを発見。ここに宿泊すると、四日目が 18.5 キロ、五日目は 17.4 キロと丁度いい。なお、見学などで歩く分があるので実際の歩行距離は予定よりは長くなる。

 この日は快晴! 「鈴鹿越え」には最高の日だ。朝の「鈴鹿川」は美しい。川沿いの道は歩いていてとても気持ちが良かった。正面には「鈴鹿山脈」の山並みが見える。中央右側が「錫杖が岳(しゃくじょうがだけ)」ではないか。とすると、その右側の低くなったところが「加太(かぶと)越え」の「大和街道」だろう。

写真38 鈴鹿川
写真39 鈴鹿川沿いの道
写真40 鈴鹿山脈の山並み

 美しい景色に見とれていると、「関宿」の入口に着いた。時刻は 7:43、あっという間だ。この先は次回。

写真41 関宿の表示
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