西国街道・山陽道歩き旅(7)東加古川~加古川宿~姫路宿(2025.2.14)

 翌 2 月 14 日、「加古川駅」から「東加古川駅」に戻り、7:32 に昨日ゴールしたところから「歩き旅」を再開。夕べは「加古川」のソウルフード「かつめし」を食べて元気一杯! 三日目にして初めて晴れの予想で、朝は冷え込んだが昼間は 10 ℃を越えるとのこと。ゴールは「姫路宿」、是非お城を見学しよう!

東加古川~加古川宿

図1 東加古川~加古川宿

 交差点を越えると「新在家」。街道は北西に進むが、イオンのショッピングモールに行く手を遮られしまう。その手前の右側に「五輪塔」。少し錆が浮いた説明板があった。「この五輪塔は、凝灰岩竜山石製、無銘のため造立年代はわかりませんが室町時代の初期に造られたものと思われます。播州名所巡覧図絵には足利左馬頭義氏の墓というありとあります。全高 225センチ、水輪の径 80センチ」となんとか読めた。

写真 1 五輪塔

 ショッピングモールを迂回して進むと右側に「五社宮野口神社」があった。前回、このあたりに「五社大神社」がたくさんあると書いたが、数えるとなんと七社もあるではないか! 下に名前、場所、祭神の一覧を示す。「兵庫県神社庁」のホームページで調べると、2 以下の神社の連絡先がすべて 1 の「五社宮野口神社」になっていた。どうやらここが中心のようだ。

  1. 五社宮野口神社(加古川市野口町野口):祭神 大山咋命(日吉大神)・品陀別命(八幡大神・須佐之男命(八坂大神・速玉男神(熊野大神・天伊佐佐比古命(日岡大神)
  2. 五社大神社(加古郡稲美町中一色):祭神 大山咋命・品陀別命・須佐之男命・速玉男神・天伊佐佐比古命
  3. 五社大神社(加古川市平岡町土山 通称土山若宮五社大神社):祭神 大山咋命・品陀別命・須佐之男命・速玉男神・天伊佐佐比古命
  4. 五社大神社(加古川市野口町北野字山ノ神):祭神 大山咋命・品陀別命・須佐之男命・速玉男神・天伊佐佐比古命
  5. 五社大神社(加古郡稲美町中一色):祭神 大山咋命・品陀別命・須佐之男命・速玉男神・天伊佐佐比古命
  6. 五社大神社(加古川市平岡町新在家):祭神 大山咋命・品陀別命・須佐之男命・速玉男神・天伊佐佐比古命
  7. 五社大神社(加古川市平岡町高畑):祭神 大山咋命・品陀別命・須佐男命・速玉男命・天伊佐々比古命・大年神・大山祇神
写真2 五社宮野口神社の門
写真3 野口神社の説明板

 門の前の説明板によれば、古代、この地に寺院(「野口廃寺」)があり、近くに「秀吉」に攻め落とされた「野口城」があったという。江戸時代には「山王五社宮(五社大明神・五社山神宮寺)」ができ、たいそう賑わっていたが、明治の神仏分離政策の結果、神宮寺が廃され「野口神社」となったらしい。「五社宮」は五つの神を祀ったことからきている。祭神は先に書いたとおりだが、主祭神は「大山咋命(日吉大神)」で比叡山の麓にある「山王日吉神社」から勧請したものだそうだ。「日吉大神」は「比叡山延暦寺」の守護神なので、ここは「延暦寺」と関係が深いことになる。他の「五社大神社」はおそらくこの神社の場外末社なのだろう。7 の「高畑」だけ祭神数が七と多いが、後に合祀されたものと思われる。境内はかなり広く、この地の中心的な神社とあって社殿もとても立派だ。

写真 4 野口神社拝殿
写真 5 野口神社本殿

 その先の右手に「教信寺」がある。左右に石柱が立っていて、右は「開基教信上人示寂之地」、左は「天台圓宗融通念佛道場」と書かれている。ここから三つの事がわかる。ひとつはこの地が「教信上人」の「示寂」、つまり亡くなった地であること。二つ目は「天台宗」の寺院(「天台宗」の正式名称は「天台法華円宗」である)。三つ目は「融通念佛」の道場であることだ。では「教信上人」はあまり聞いたことがないが、どんな人物なのだろう?

『世界大百科事典』で「教信」を引くと、「平安初期の念仏行者。後世の伝では京都の人。光仁天皇の後裔とも伝え、興福寺で出家し、諸国を巡歴したというが、いっさい不明。播磨国賀古郡賀古駅の北に草庵を結び、在俗の沙弥(しやみ)として妻子を養い、村人に雇われて生活した。西方浄土を念じて日夜念仏を怠らず、村人は〈阿弥陀丸〉と呼んだ。(中略)院政期南都の浄土教家永観は、教信を念仏者の理想像として、《往生拾因》に詳しく述べた。親鸞はつねに〈われはこれ賀古の教信沙弥の定なり〉と語り、非僧非俗の範としている。一遍も旧跡に詣でて踊念仏を興行し、臨終の地に定めようとした。教信の伝は種々の潤色が加えられ、謡曲《野口判官》や浄瑠璃《賀古教信七墓廻》の素材となり、人々に親しまれた」と書かれていた。つまり「念仏中心の生活」の実践者で、のちの「浄土系」の仏教者に大きな影響を与えた人物なのだ。その草庵がここらしい。

 浄土宗の寺院だったが、明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈で衰退した寺院を復興する為の縁で「天台宗」に改宗したそうだ。現在の本堂も明治一三年(1880)に天台宗の「書写山円教寺(現姫路市)」にあった念仏堂を移築したものである。さきの「野口神社」が比叡山と関係が深く、明治にその神宮寺が廃止になり、同じようなタイミングでこの寺が「天台宗」の寺院として復興された。何か関係があるような気がする。

写真 6 教信寺の門
写真 7 教信寺本堂

「坂元」に入って右側に「宝篋印塔」。ここは「和泉式部の墓」とされるが、「和泉式部の墓」はあちこちにある。「伊丹」の「西国街道」にあった墓についてはすでに触れたとおりだ。これらの伝承を運んだのは女性の遊行者で、「いずみ式部」と名乗って布教したため各地に墓があるのだと考えられている。説明板によれば、塔は花崗岩製で高さ 228 センチ、南北朝時代~室町時代(14~15 世紀)の作。

写真 8 和泉式部の墓とされる宝篋印塔

「別府川」を越えて「平野」に入る。その先の右手に「胴切れ地蔵」。「全長 101 cm の石材に全高 67 cm の地蔵菩薩が彫られており、石棺材を利用して作られたと思われます。伝説では、この地蔵さんを深く信仰していた人が、うっかり殿様の行列の前を横切ったために、供侍に無礼打にあい、胴体を真っ二つに切られてしまいました。ところが、ふと気がつくと自分の胴体はなんともなく、地蔵さんの胴が真っ二つになっていました。以来、地蔵さんが自分の身代わりになって下さったと、一層深く信仰するようになったといわれています」と説明があったが、胴の部分は布で隠れているので二つに切れているのかはわからない。ともかく合掌して先に進む。

写真 9 胴切れの地蔵

「加古川市道市役所線」を越えて進むと「加古川駅」につながる「県道 61 号線」に出た。ここが「寺家町(じけまち)」の交差点、「加古川宿」の入り口である。時刻は 8:33。ここまで出発してから約 1 時間だ。

写真 10 寺家町交差点

加古川宿

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:[現]加古川市加古川町本町・加古川町寺家町
  • 規模:家数 450 軒(寛永年間)、本陣 1(中谷家)、脇本陣 2(厚見・富樫家)、旅籠屋数 不明
  • 位置:東は大蔵谷宿から五・五里、西は姫路宿まで三里。間宿の御着(ごちゃく)までは二里
  • 特徴:教信寺の南にあった賀古駅は古代山陽道で最大規模を誇る。中世には加古川の渡河地点の加古村と寺家町に宿場町が形成され、近世初頭にはこの二つが一続きとなり、近隣においては規模の大きな宿場町となるが、その中心は寺家町である。

 街道はこの先で「ベルデモール商店街」を横断し、「じけまち商店街」に入っていくが、残念ながら旧街道の痕跡は発見できなかった。

写真 11 ベルデモール商店街
写真 12 じけまち商店街入り口

 8:49 に「加古川橋」のたもとまで来ていた。ここに「地蔵尊」があり、ずっと渡河の安全を見守り続けている。「加古川」は古くは「印南川」と呼ばれ、中世になると「賀古川」「加古川」と記されるようになる。『日本書紀』の「応神紀」に「鹿子水門」が見えるので、古くから河口辺りに湊があったと推測される。

写真 13 加古川地蔵尊

 それにしてもいいお天気だ。雲一つ無い青空とそれを映した川が美しい。

写真 14 加古川

加古川宿~御着宿~姫路宿

図 2 加古川~御着宿

加古川橋~宝殿~魚橋~阿弥陀~御着

「加古川橋」を渡ると、「国道 2 号線」の北側は「ニッケ(日本毛織)」の工場だ。脇道に入り、工場の古い煉瓦塀沿いに進むと「米田町」になる。

写真 15 ニッケ印南工場沿いに進む

 街道は国道に並行して、その北側を走っている。「高砂市」に入り、まもなく「宝殿(ほうでん)駅」に到着。この名前は少し西にある「生石(おうしこ)神社」にある「石の宝殿」に由来する。「Hyo Go ナビ」によれば「生石神社の裏手に、切妻風の突起を後ろにして家を横たえたような横約 6.5 m、高さ約 5.6 m、奥行約 7.5 m、重さ約 500 t の巨大な石造物があります。『石の宝殿(いしのほうでん)』と呼ばれ、水面に浮かんでいるように見えるところから『浮石(うきいし)』ともいわれていますが、多くの謎に包まれ、宮城県塩竈市御釜神社の『四口の神釜(よんくのしんかま)』、宮崎県高原町霧島東神社の『天之逆鉾(あまのさかほこ)』と並んで日本三奇の一つに数えられています。いつ、誰が、何のために作ったのか、不思議な石造物として訪れた人の目を驚かせています」とあった。少し離れているからとパスしてしまったのだが、この写真を見ると立ち寄ればよかったと後悔しきりだ。

参考 石の宝殿(出典 Hyo Go ナビ)

「宝殿駅」の前には「尉(じょう)と姥(うば)の像」があった

写真 16 宝殿駅前の尉と姥の像

高砂や この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出潮(いでしお)の
波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり
はやすみのえに 着きにけり

 これは謡曲「高砂」の一部分。昔はこの謡曲を結婚式で唄うのが常だった。とはいっても七十を越えた私でさえ、一度も聞いたことはないが…。この曲の舞台は「高砂の浦」。「阿蘇」の神主「友成」が上京の途中にここ「高砂」の浦に立ち寄った際、「相生」の松の精である老人夫婦と出会うところから始まり、夫婦愛、長寿の理想をあらわした謡曲の代表作とされるとのこと。この老人夫婦がこの「尉と姥」なのである。この人形は結納品の定番だった。「尉」=おじいさんが持っている「熊手」で「福をかき集め」、「姥」=おばあさんの持っている「箒」で「邪気を払う」、合わせて「夫婦ともに助け合い、夫が福を集め、妻が家庭を守り整える」の意味につながり縁起がよい。ここ「高砂」はこの話の本家本元ということになる。で、この二人が乗っている石、そのときは気がつかなかったが、これは「石の宝殿」を模しているのではないか?

 この先、JR の線路を越えて進むと左側に鳥居があった。これは「生石神社の一の鳥居」だ。なお、この石灯籠は江戸後期の商人で学者の「山片蟠桃」が寄進したものだそうだ。

写真 17 生石神社一の鳥居

「国道 2 号線」の高架をくぐり、「法華山谷川」をこえると「魚橋」の町。川の正面に「上ノ山」、その右手は採石場になっている。さきほどの「石の宝殿」といい、このあたりは石の産地のようだ。

写真 18 橋から上ノ山と採石場が見える

 橋を渡ってすぐ右手の山の斜面に「山所(やまじょ)地蔵」の表示板があった。行ってみようかとも思ったが、ちょっと険しいのでパス。

写真 19 山所地蔵の表示板

 いかにも街道らしい細い道を進んでいくと、右側に「安楽寺」につながる路地があり、その先の右にひときわ眼を引く薄いブルーの洋風建築があった。ここが「旧魚橋郵便局舎(土田家住宅)」。明治 37 年頃に建てられた木造2階建の建物で、1階がもと局舎、2階には和室4室があるとのこと。昭和 52 年 10 月まではここで集配業務が行われていたのだそうだ。

写真 20 安楽寺
写真 21 旧魚橋郵便局舎(正面)
写真 22 旧魚橋郵便局舎(左から)

 その先の右に真宗大谷派の「無染山正蓮寺」。門の右手に「佐々木すぐる先生生育の地の碑」がある。説明板を読んでビックリ。「佐々木英(すぐる)」は童謡「月の沙漠」の作曲者なのだ。この曲、千葉県の「御宿海岸」をモデルにしたもの。作詞は「加藤まさを」。ラクダに乗った王子様とお姫様の像が「御宿」にある。ここは 2023 年の「千葉県ぐるっとウォーキング」で訪れた。こんなところでその作曲者と出会うとは思わなかった。ここ「高砂市阿弥陀町魚橋」は「佐々木すぐる」の生地だったのだ。

写真23 愛染山正蓮寺
写真 24 佐々木すぐる先生生育の地の碑

 しばらく進んで「国道 2 号線」を越え、街道はさらに西へ。「鹿島川」を渡って「阿弥陀」の集落に入ると、右側に「地蔵堂」、その先に「薬師堂」がある。

写真 25 地蔵堂
写真 26 薬師堂

「曽根駅」の手前で街道は右に曲がり、坂を上っていくと目の前に山。これが「豆崎奥山」。国道の手前の左の細い道に入り、横断歩道を使って山側に移動。山際を進む細い道を進む。途中で「姫路市」に入った。

写真 27 姫路市に入る

 しばらく歩いて「六騎塚」までやってきた。中央の墓には「備後守児島君墓」と彫られている。説明板によれば、南北朝時代の延元元年(1336)に足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守「児島範長」が迎え撃ったが敗れ、最後に主従六騎となって、阿弥陀宿の辻堂で自害したという。これを弔して建立されたものだ。「児島範長」の子が「児島高徳」。知らなかったのだが、南朝を代表する国民的英雄だそうだ。なお、この「児島」は「備前国児島郡」(児島半島を中心にした郡域で岡山市・倉敷市の一部、玉野市全域が含まれる)からきているらしい。

写真 28 六騎塚
写真 29 六騎塚中央の墓

 さらに進むと、右手に常夜灯が二つ。「雨乞」という文字が見えるが、これは「日吉神社 雨乞開願常夜灯」。この先の細い道の向こうに階段が見えるが、これは「日吉(ひよし)神社」の山道。江戸時代までは「山王神社」、「山王権現」等とも呼ばれていたが、明治維新(1868)に至り「日吉神社」に改称したらしい。前回、ため池が多いと書いたが、このあたりも同様。雨が少なく、かなり苦しんだものと推察される。

写真 30 日吉神社 雨乞開願常夜灯

 この後、いったん国道に出たあと、「播但連絡道路」の手前で左折し、ちょっと歩いて右折する。もともと街道は直線だったが、道路建設のため分断されてこうなったようだ。この先、「県道 396 号」との分岐のところに「御着附近史跡要図」の案内板があった。これから、いよいよ「御着宿」に入るのだ。ここで時刻は 12:30。

写真 31 御着附近史跡要図の案内板

御着宿

 ここの住所は「姫路市御国野御着」である。「御着」は「ごちゃく」と読む。ずっと「おつき」だと思っていた。「御国野(みくにの)」は相当、意味深な地名だと思ったのだが、実は新しくて、明治 22 年に「御着村」「国分寺村」「深志野村」が合併し、それぞれ一字ずつを採ってできた名前だった。では「御着」はどうかと『大日本地名辞書』を引くと、「山陽道の間駅とす、名義詳ならず」とあっさり書いたあと、「御着駅とは、昔花山法王書写山御幸の時、爰(ここ)に御滞留によるといふ」と「名所図会」の説をあげている。やはり「おつき」だったのだ、誰か高貴な人物がここに着いたことから来た名前だということは明らかなのだが、その人物が誰なのか? ここがミステリーである。先の「花山法皇」の他にも、「神功皇后」「聖武天皇」「白河法皇」「後醍醐天皇」などいろいろな説があるようだ。また、『大日本地名辞書』は「御着の駅家の辺りは、古城の跡とす、此城は赤松一族宇野家の末、小寺氏の居也」とあった。しかし、今「御着」は「豊臣秀吉」の軍師「黒田官兵衛」で有名なのである。「官兵衛」の祖父の時代から、「黒田家」は「小寺家」に仕えており、「官兵衛」もまた、「小寺政職」の近習となっている。それゆえなのだが、詳しくは後ほど「御着城址」訪問時に書くことにしよう。

 さきほど地図があった場所のすぐ先、右側に「大歳(おおとし)神社」の鳥居があった。社殿は街道筋から少し入ったところにある。「兵庫県神社庁」によれば「御着の氏宮である。明治 7 年(1874)2 月、郷社に列せられた。創建時期は不詳であるが、古くは大歳大明神、御着村大明神または飾東郡吾馬負神などと呼ばれていたらしい」とある。本殿の前には舞殿があり、奉納された多数の絵が飾られていた。

写真 32 大歳神社の鳥居
写真 33 大歳神社社殿
写真 34 舞殿と奉納された絵

 この先、右側の「御着公会堂」の建物の前に「本陣跡」の説明板があったらしいのだが、見逃している。街道から外れるが、「徳證寺」を経由して、「国道 2 号線」沿いにある「御着城址」や「小寺大明神」に立ち寄ってみよう。

「徳證寺」について『大日本地名辞書』は「是昔国分尼寺の跡なりといへり、後世一人の尼蓮如上人に帰依して一向宗となれり」と説明している。浄土真宗本願寺派の寺院である。

写真 35 徳證寺

「徳證寺」から国道に抜ける道がよくわからなかったので、戻って一つ前の通りを北上する。国道の手前右に「小寺大明神」の矢印があったが、こちらは後回しにして、「御着城」に行ってみようと陸橋を渡る。上から「黒田官兵衛ゆかりの地」の看板がよく見えた。国道を間に挟んで、北に「御着城」、南に「小寺大明神」がある。

写真 36 陸橋の上から看板がよく見えた

「御着城址公園」には「姫路市役所東出張所」の建物が立っている。ちょっとお城に似せてある。写真の左の青い瓦の建物は「黒田家廟所」、その前に「黒田官兵衛」の顕彰碑があった。

写真 37 御着城址公園
写真 38 黒田官兵衛顕彰碑

 右側の説明板には、「黒田官兵衛孝高と御着城」と題してつぎのような説明があった。「黒田家は、『寛政重修諸家譜』などによれば近江国伊香郡黒田村(現、滋賀県長浜市木之本町)の出身とされます。重隆の代に播磨に入り、御着城主小寺政職に仕えました。御着城は永正 16 年(1519)に築城されたと伝わりますが、 明応 4 年(1495)に小寺氏は御着納所で段践を徴収しており 15世紀末には既にこの地域を拠点としていました。羽柴秀吉による播磨侵攻で御着城は天正 7 年(1579)に陥落しました。黒田官兵衛孝高は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め、四国・ 九州遠征などで軍師として活躍し、天正 15 年(1587)に中津城 (現、大分県中津市)を与えられました。孝高の嫡男長政は、 慶長 5 年(1600)の関ヶ原の合戦の戦功で筑前 52 万 3 千石を与えられ福岡城(現、福岡県福岡市)に移りました。この地は、かつての御着城本丸跡付近に位置し、黒田官兵衛孝高の祖父重陸と父職隆の妻(孝高の母)を祀った黒田家廟所 (姫路市指定史跡)があります。また南側には小寺三代城主を祀った小寺大明神があります」。

「御着城」の城主は「小寺家」であり、「黒田家」はその家臣だったので、本来なら「小寺家」を中心に語らねばならないが、「秀吉」の家臣となった「黒田官兵衛」の知名度からこうなっているのだろう。また、NHK の大河ドラマ「軍師官兵衛」の影響も大きいと思われる。そんなことを考えながら、再び陸橋を渡って「小寺大明神」に行ってみた。

写真 39 小寺大明神

 小さな祠があった。ちょっとこれでは寂しいと思ったら公園の左側に「天川城址 小寺城主奥津城」の碑と「御着城」を築城した「小寺正隆」の歌碑があった。「ふる里よ われらの 古城をたずねて しづかなる すてのしみまに ふるさとの 山川みえて とにかくうれし 正隆」と書かれている。

 12:51、街道に戻って「天川(あまかわ)橋」を渡る。

写真 40 天川橋
写真 41 天川

御着宿~姫路宿

図 3 御着宿~姫路宿

 少し進んで「JR 神戸線」の線路を渡る。ちょうど電車が来るところだったのでパチリ。その先の高架は新幹線だ。

写真 42 JR 神戸線の線路を渡る

 その先の左側に「山陽道一里塚跡」の標柱がポツンと立っていた。

写真 43 山陽道一里塚跡の標柱

 この先で「市川」の前に出るが、向きを北に転じて「国道 2 号線」に向かう。北に向かうのは『行程記』でも同じなので、どうやら北に渡し場があったらしい。国道の「市川橋」を渡る。川を渡るともう「姫路」の町である。

写真 44 市川橋
写真 45 市川

 昔の渡し場は「国道 2 号線」の北だったようで、橋を渡ってから右折してその位置まで進み、脇道に入っていく。少し行くと右側に「地蔵院」。ここの「地蔵菩薩」は石棺に彫られていて、前の説明板には「地蔵院の庭の西に東面して立っている。長持型の石棺の長側石の内面に長方形の輪郭を彫りくぼめ、左手に宝珠・右手に錫杖を持つ地蔵立像(像高三四・五 ㎝)を半肉彫し、下に蓮華座が線刻されている。様式からみて室町時代の作と推定されている。長持型石棺仏は例が少なく、特に長側石を使用したものとしては、市内唯一の遺品である」と説明がある。どんなものだろうと写真を探したら、「旅萌 じろたび」にあった。

写真 46 地蔵院

 さらに西進すると「京口駅」の横に出る。「天神町」に入り右折、一つ目の「京口公園」の前で左折。いかにも城下町らしくジグザクになっている。「東光中学校」のフェンスに「姫路城外京口門」の説明板が立っていた。「外京口門は、姫路域の外郭に設けられた五つの門のうちの一つで、京都方面への道筋にあるのでこう呼ばれた。五門のうち外京口門と福中門は山陽道の出入口にあった重要な門で、三方を壕て囲み内外二門を持つ厳重な構であった。(中略)昭和五十七年発掘調査により地下に埋もれていた石垣の一部や東西の壕を繋ぐ長さ 15 m の暗渠などが見つかった、体育館の完成後も、遺構が見られるように地下の石垣の部分は床下にそのまま保存してある」と書いてある。さあ、ここから「姫路藩主池田氏(五二万石)」が建設した「姫路城」の城下町に入ろう。

写真 47 外京口門跡の説明板

「姫路」について『日本歴史地名体系』は、「鎌倉時代以降にみえる地名で、姫路城天守の所在する姫山一帯と考えられる。『播磨国風土記』餝磨(しかま)郡伊和(いわ)里の条に一四丘の一つとして日女道(ひめじ)丘とみえる。大汝命は素行の悪い息子火明命を置去りにして船を出したところ、怒った火明命は風波を起こして父の船をとめ打破ったが、そのとき蚕(ひめこ)の落ちた所という。この丘は姫山に比定されている」と書いている。「姫路」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、この「姫山」に築かれた美しい「姫路城」なのである。お城については、後ほど詳しく記すことにしよう。なお、「山陽道」は古くはこの「姫山」の北を通っていたが、慶長五年(1600)に「池田輝政」が播磨一国五二万石を与えられ入封すると、城の建て替え、城下町が整備が行われた。この際、「山陽道」を「姫路城」の南に引き込み、北へ通ずる「生野街道」と南の「飾万津(しかまつ)」へ通ずる道と結んで、「播磨」の中心都市に作り替えていったらしい。

 ということで、西に向かっていた街道はこの先、お城の南へと向きを変える。「国道 2 号線」の「坂田町交差点」からさらに南に進んだところで右折するのだが、新旧二つのルートがあったという。

  • 旧ルート:元塩町(本塩や丁)ー綿町ー本町ー坂元町ー備前門
  • 新ルート:元塩町(本塩や丁)ー二階町ー西二階町ー福中町ー備前門

 旧ルートは「池田輝政」が城下町を整備した当時のルート、新ルートは寛永年間(1624~44)に城の壕を浚渫した泥土で「坂元町」あたりを補修したところ、道がぬかるんで通行困難となったため、一つ南の通りを通行するようになったものらしい。『行程記』でメインに描かれているのもこちらの新ルートである。

図 4 行程記にみる姫路城下

姫路宿

 宿場の概要は次の通り。

  • 所在地:[現]姫路市本町・坂元町・立町・西二階町・福中町など
  • 規模:家数 2475 軒(慶安元年の姫路城下町大概)、本陣 1(国府寺<本町>) 、脇本陣 2(那波<西二階町>・三木<竪町>、旅籠屋数 27(福中町に 17)
  • 位置:東は加古川宿から三里。西は正條宿まで二里
  • 特徴:山陽道(西国街道)と美作道(因幡街道)、但馬街道、室津道、丹波道が交差する古くからの交通の要衝。関ヶ原合戦の後、池田輝政によって城下町の整備が行われ、播磨の中心都市となる。以降、姫路藩の城下町として栄える。当初の本町・坂元町を通るルートから、寛永期に一本南の通りに移る。このため、本陣は旧ルート、脇本陣は新ルート上に分かれている。

 私は「元塩町通」を歩いて、「元塩町 6 丁目」で南に曲がり、すぐ右折して「二階町通」に入った。つまり「新ルート」を歩いた。

写真 48 二階町通(東側)
写真 49 二階町通(西側)

 この先で、街道は南北の「大手前通り」を越えて、「西二階町通り」に入っていくのだが、この日の街道歩きはここまでとし、「姫路城」に向かった。なお、旧ルートにある「国府寺本陣跡」や「札の辻」「お夏の生家跡」に「姫路城見学」のあと立ち寄っているのだが、それについては次回に紹介しよう。時刻は 14:15。「東加古川」からここまでの歩行距離は 24.2 キロ、時間にして 6 時間 36 分だった。

姫路城

 ホテルに荷物を置いた後、「姫路城」に向かった。「白鷺城」とも呼ばれるように白く美しいお城であるが、城の歴史は古い。

姫路城のホームページ」などによれば、元弘三年(1333)の「元弘の乱」のとき、赤松則村(円心)が砦を構えたのに始まり、その次男の「貞範」が正平元年(1346)に本格的な城を築いたらしい。「応仁の乱」の後、「赤松」一族の「小寺氏」が「御着城」に移ってからは、その重臣の「黒田氏」が城をあずかっていた。ここで「織田信長」の命を受けて「羽柴秀吉」の中国攻めが始まる。天正五年(1577)すでに「信長」に帰順していた「小寺家」家老の「黒田孝高」は「姫路城」を「秀吉」に明け渡す。「秀吉」はここを本拠とし播磨・但馬を転戦。天正八年(1580)、三木城・御着城が陥落。「秀吉」は「姫路城」を「孝高」に還そうとするが、「姫路城は播州統治の適地である」と進言され、ここに三層の天守閣を築き、翌年完成。天正十一年(1583)「秀吉」が大阪城に移り、「羽柴秀長」が「姫路城主」となる。さらに天正十三年「秀長」が大和郡山城に移ると、「北政所」の兄「木下家定」が城主となる。そして、時は流れて「関ヶ原合戦」の後「池田輝政」が城主となるのである。

「池田輝政」は「尾張国清洲」の出身で「織田信長」の家臣、「信長」が亡くなると「秀吉」の家臣となったが、「関ヶ原」では「家康」側についた。豊臣時代の最期は「旧東海道歩き旅」で書いた「吉田城(15 万石)」(豊橋市)の城主。「姫路城」時代は 52 万石でなんと 3 倍以上になっている。「輝政」は 5 重 7 階の連立式天守を完成させるとともに城下町を整備。その後、「利隆」「光政」と続いたが、元和三年(1617)に三代「光政」が因幡鳥取 32 万 5000 石に減転封になる。その後は「本多」「松平」「酒井」と「徳川家」譜代の大名が城主となる。「本多忠政」の時、三の丸、西の丸、その他が増築されている。

 さて「本町商店街」「大手前公園」を抜けて、「城南線」を西に歩く。「桜門橋」の向こうに白いお城が見えている。

写真 50 桜門橋と姫路城

「三の丸広場」に入り進んでいくと入館口の前に出る。ここで入城料 1000 円を支払って中へ入った。この料金、2026 年 3 月から姫路市民以外は 2500 円に大幅値上げされる予定だ。

「姫路城」二来たのは二回目で、前回は「西の丸」や「好古園」にも足を伸ばしたのだが、今回はパスして「本丸」だけとした。「三国堀跡」の左を進むが、この地点から見るお城は美しい。「姫路城」の構造は、五重六階の「大天守」と三つの「小天守」(東小天守、乾小天守、西小天守)が渡櫓で連結された「連立式天守」が特徴である。右側の一番大きいのが「大天守」で、この位置からだと中央が「西小天守」、左が「乾小天守」だろう。左にある枝は桜なので春には花とお城のツーショットになるはずだ。

図 5 姫路城地図(出典 姫路城公式サイト
写真 51 三国堀跡から見た姫路城

 北に進んで「ろの門」を潜り、「将軍坂」を上がる。東向きになるので、ここから見えるのは、右が「大天守」、その下に「西小天守」、左が「乾小天守」だろう。桜の時期には、ここもとてもいい絵が撮れる。前の入り口は「はの門」だ。

写真 52 将軍坂から見た天守

「西北腰曲輪」に入ると、お城がどアップになり、迫力満点。正面に見えているのは「乾小天守」、その左に「東小天守」、右端は「西小天守」。では「大天守」はというと、中央右にちょっと顔を見せているのがわかるかな。

写真 53 西北腰曲輪からの天守

「ほの門」あたりの天守台の石垣に金網で囲まれた白っぽい石がある。これが「姥が石」でつぎのような伝承が残っている。

「羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていたときのこと、城の石垣の石がなかなか集まらず、苦労しているという話が広まっていました。城下で焼餅を売っていた貧しい老婆がそれを聞き、「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった石臼を差し出しました。これを知った秀吉は大変喜び、石臼を現在の乾小天守北側の石垣に使いました。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したため、工事が順調に進んだといわれています。(出典 姫路城公式サイト)」

 しかし、この石垣は「池田輝政」時代に「秀吉」の三層の天守を完全に壊して、同じ位置に一回り大きい石垣を積みなおして築いたものらしい。だから、この伝承は眉唾もの…

写真 54 姥が石

 ここから「大天守」に登って見えたシャチホコ。姫路城大天守には 11 尾が載っているのだそうだ。「昭和の大修理」で取り換えられ、さらに「平成の大修理」で大棟の一対だけが交換された。これはおそらく「昭和」のもの。

写真 55 シャチホコ

「大天守」から外に出て、「備前丸」から天守を眺める。右が「大天守」、左が「西小天守」。下にいる人から大きさがわかるだろう。圧巻である。

写真 56 備前丸から見た天守

 「備前門」から出て、南に進むと出口の直前に「お菊井戸」。「播州皿屋敷」のヒロイン「お菊」が責め殺されて投げ込まれたと言われる井戸で、もとは「釣瓶取井戸」と呼ばれていたらしい。

写真 57 お菊井戸

 最後に「兵庫県立歴史博物館」の「ひょうご伝説紀行」の記事を紹介しよう。

戦国時代、姫路を小寺氏が治めていたころのことです。小寺氏の重臣で青山に館をかまえる青山鉄山という人がいました。
鉄山は常々、小寺氏に代わって自分が姫路城主になりたいと思っていました。小寺氏もこうした鉄山の野望に気づいていて、様子を探るためにお菊という女性を、鉄山の館に召使いとして住みこませていました。

永正元(1504)年、小寺氏の当主が亡くなり、まだ若い則職(のりもと)があとを継ぎました。これをチャンスと見た鉄山は、翌年の春、姫路の北にある随願寺(ずいがんじ)で開かれる花見のときに、酒に毒をしこんで、小寺一族を暗殺してしまおうとたくらみました。しかし、鉄山の子息小五郎が父を止めようとします。

「父上、そのような恐ろしいくわだてはおやめください。」
「おのれ小せがれ。じゃまをするな。」

怒った鉄山は小五郎を牢屋に閉じこめました。これを知ったお菊は小五郎をかばい、小五郎から鉄山の悪いたくらみを知らされると、急いで主君の小寺則職に伝えました。そのおかげで、鉄山たちのくわだては、すんでのところで防がれました。

しかし、それからすぐに播磨では大名同士の大きな争いがおこりました。その中で勝った方についた鉄山はついに姫路城を占領し、敗れた小寺則職は瀬戸内海に浮かぶ家島(いえしま)へと落ちのびていきました。

季節は梅雨のころ、姫路城を手に入れて大喜びの鉄山は、近くの土豪たちを集めて宴会を開きました。そして、そばを振る舞うために、「こもがえの具足皿(ぐそくざら)」と呼ぶ小寺家の家宝であった十枚ぞろいの皿を出すことにしました。

鉄山の家来である町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)は、常々お菊に好意を持っていたのですが、お菊は相手にしませんでした。これをうらみに思った弾四郎は、お菊が用意することになっていた十枚ぞろいの皿のうち一枚をかくし、お菊がなくしたと疑われるようにたくらみました。

皿が一枚足りないことを知った鉄山は、お菊をきびしく責めようとします。そこを弾四郎がなだめすかし、お菊は弾四郎の屋敷に預けられることになりました。ねらいどおりに事がはこんで喜ぶ弾四郎は、この時とばかりお菊に思いを伝えますが、やはりお菊は相手にしません。おこった弾四郎は、お菊を屋敷の庭の松につるしあげるなど散々に暴力をふるった末に、井戸へ投げこんで殺してしまいました。

するとその夜から、井戸のあたりで「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚…。」と皿を数えるお菊の悲しげな声が聞こえ、屋敷中にガラガラと皿の音が鳴りひびくようになりました。人々はこれをおそれ、この屋敷を「皿屋敷」と呼ぶようになりました。

やがて、小寺則職は味方の大名の助けをえて姫路城を取り返しました。青山鉄山は討ち死にし、小五郎も父の行いをはじて自殺しましたが、町坪弾四郎はかくしていた皿を持って降伏を願い出ました。しかし、則職は許さず、室津(むろつ)にいたお菊の妹二人の仇討ちの願いを聞き入れ、弾四郎を討ちとらせました。

小寺則職は、姫路の十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)境内に社を建てて、お菊をまつりました。お菊が弾四郎につるしあげられた松は、毎年梅雨のころになると枯れ、梅雨が過ぎるともとの緑の葉にもどるので、「梅雨の松」と呼ばれたといいます。さらにお菊の亡霊は虫となって、命日が来るたびにあらわれるとされています。
(『姫路城史』をもとに作成)

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