3 月 14 日(金)、今回の旅の最終日、順序を入れ替え、最後に残していた「有年駅」から「三石駅」までの行程を歩いた。「岡山駅」から新幹線で「相生駅」に移動。コインロッカーに荷物を預けて「有年駅」へ向かう。「相生」からここまで「山陽本線」と並行して歩いてきたが、しばらくお別れだ。鉄道は「千種川」に沿って北上し、「上郡」へ向かう。つぎに出会うのは、今回のゴールの「三石駅」。その前に、こちらは難所の「有年峠・船坂峠」を越えなければならない。

8:04 初日にゴールした交差点から「歩き旅」を開始した。西北の角に「有年村道路元標」があったのだが、見落としてしまった。街道に入るとすぐ左に「西国街道」の標識があった。

正面の山を迂回し、国道に合流。道路の向こう側に道標があった。「左 岡山 広島道」と書かれている。


左側の斜面に「池魚塚」と「塚の元地蔵」。この塚には天保七年(1724)と刻まれているらしい。赤穂市教育委員会発行の「文化財をたずねて No.1」に、「この周辺の土地は昔から低く、雨降りことに道路は水をかぶり、旅人は往来に困り果てていた。村人たちは、この実情を見かねて考えたあげく、村総出で池魚を売った代金で道路改修を行い、旅人に喜ばれた。この喜びは村の人の力でなく池魚のおかげであると……。村人の功績は言うに及ばず池魚への感謝と供養の塚と言う」と説明がある。このあたりは二つの河の合流地点近く、水害にずっと悩まされつづけてきたに違いない。

「矢野川」を越えると、すぐ「千種川」の前に出た。ずっと「ちぐさがわ」だと思っていたのだが、これを見ると濁らない「ちくさがわ」が正しい。


「有年橋」を渡り終えたところで、左の脇道に入る。この先が「有年宿」である。


有年宿
宿場の概要はつぎの通り。
- 所在地:播磨国赤穂郡有年栗栖村、[現]赤穂市東有年周辺
- 規模:家数 約 200 軒、本陣 1 、脇本陣 1、旅籠屋 13、中宿屋十数軒、商人宿・牛馬宿・木賃宿、商店・飲食店、馬借問屋があった
- 位置:東は片島宿から三里。西は備前三石宿へ三里
- 特徴:有年川(現・千種川)の西側に位置する近世山陽道(西国街道)の宿場町。つぎの備前三石宿との間の船坂峠・有年峠は「播磨箱根」と呼ばれるほど道が悪く険阻な山道のため、近世前期に大名行列がここを越えることはほとんどなかったが、近世中頃には街道の整備も進み、参勤交代での利用も増えてくる。加えて、有年川の高瀬舟が荷を積み下ろす船着き場もあり、最盛期には数十軒の宿場関係施設が並んだ。
進むにつれて少しずつ家数が増えていく。左側に「有年村役場跡」の標柱があった。「有年村」は明治 22 年(1889)に発足し、昭和 30 年(1955)に「赤穂市」に編入されたため消滅した。その役場がここにあったらしい。

その先左に「有年宿本陣跡(旧柳原邸跡)」の標識があった。そのときは気がつかなかったのだが、写真を見直してみると矢印が書いてある。本陣跡は手前の細い通りを入ったところだろう。ここに「明治天皇駐輦記念碑」もあるようだ。しかし、この辺りの様子からは、昔、ここに宿場があって賑わっていたとはとても思えない。

右側は山になっていて、「有年山城跡」の標識が出ていた。

どんな城なのか? 帰ってから調べると、「赤穂市教育委員会」発行の「有年山城」というパンフレットがあった。「赤穂市」最大の中世の山城で「赤松氏」によって築城され、その後「浦上」「宇喜多」と城主が変わり、「秀吉」の中国攻めの時、「竹中半兵衛」の調略によって「宇喜多氏」が寝返り、「織田」側の城となったらしい。なかなか面白そうだ。城好きにはたまらないだろう。


右手に「有年宿番所跡(旧松下家宅跡)」があった。「番所」とは警備や見張りなどを行う番人が詰めている所だ。通常、交通の要所、宿場町なら出入口に置かれるので、ここが「有年宿」の出口ではないか。だとすると、宿場の長さはとても短い。

隣の「東有年自治会館」の前に説明板を見つけた。まず、「有年宿」について説明している。第一に「千種川(有年川)」の別名が「熊見川」とある。といういことは、熊がいたのだ! つぎに、かつて「有年宿」は西の「西有年」にあったが、「千種川」の川待ちに対応するために、川に近いここ「東有年」に移ったとある。第三に旅籠屋など多くの家々が軒を並べていたが、度重なる水害で浸水し多くの家が取り壊されてしまったと書かれている。なるほど、宿場町の気配がしない理由がこれで分かった。左側の「高瀬舟灯台と大波止、小波止」に移る。「千種川」を往来する高瀬舟の目印として、この先の「八幡神社」の側に「灯台」が作られていた。また、高瀬舟から荷下ろしをする波止場があったとあり、河川を利用した物流拠点だったらしい。

有年宿から三石宿
街道はこの先で直角に折れ曲がって北に向かう。「国道 2 号線」を横断すると、道が二手に分かれ、その角に説明板が立っていた。「東有年地区 文化財 MAP」とある。

「有年宿」の位置が黄色で示されているが、予想どおり、道路が北向きになる手前までだった。現在地は赤丸の「有年山城」のある山の角。ここから上ると「八幡神社」、その手前に「高瀬舟灯台」がある。山の東の端には古墳群があるようだ。北側へ回ると、歴史を感じさせる立派な石鳥居が現れた。「八幡神社」の扁額がかかっている。左にある説明板には「此の鳥居は 延享元年甲子年(一七四四年)に建立されて、現在平成十四年壬午年で二五八年前になり 其の間風雪に耐え乍ら有年の移り変わりを見守ってきた重要な文化財です」と書かれていた。古めかしいはずである、「江戸時代」のものだったのだ。

山へ入る階段を上ってみる。鉄柵が行く手を阻んでいた。左下に「鹿・猪対策用の柵です。ロープをほどいて、自由にお入り下さい。入出後は、元通りロープでくくって下さい」と書かれた札が取り付けてある。さて、どうしよう? 前には険しそうな山道が…。迷ったが、あまり時間がないのでパスして先に進む。

右側に立派な「有年家長屋門」。説明板はつぎの通り。

長屋門とは、屋敷の入り口に設けられる、建物が付属する門のことである。文化年間(1804~1818)の建築と思われるこの門は、庄屋の屋敷構えの一部をなしており、木造平屋建て、人母屋屋根の構造をとる。規模は桁行五間(約 10 m)、梁間二周半(約 5 m)であるが、この長屋門では一間の長さを当時一般的な六尺五寸(約 197 cm)とせず、六尺六寸(約 200 cm)としている点が珍しい。なお、斜面に築かれているために、正面は石垣によって土台が築かれ、背面は礎石建てとしている。
有年家は江戸時代に本地の大庄屋を務めた家柄であった。この長屋門は標準的な規模であるものの、高さ約八尺(約 2.4 m)の石垣上に建ち、白漆喰の練、納屋と並び建って庄屋屋敷の格式を強く印象付けている。
市内に残る江戸時代の長屋門は、赤穂城内にある大石良雄宅跡長屋門、近藤源八宅跡長屋門及びこの有年家長屋門のみであり、主屋と一体となって赤穂藩の庄屋の屋敷構えを残す貴重な文化財といえる。後世の改修によって旧状を失っていたが、一部解体調査が行われ、往時の姿に復元された。
赤穂市教育委員会
「旧有年小学校跡」の前で街道は左に曲がる。進むと左手に小さな「お地蔵さん」と「名号石」が並んでいた。地図を見るとすでに「西有年」に入っているようだ。

「淳泰寺」の前を過ぎて「長谷川」の前に出る。「中の橋」を渡り、「西有年」の集落に入る。とても静かだ。

右側に「西有年・宮東遺跡」の標柱があった。平安時代のものと思われる掘立柱建物三棟などがここから検出されたらしい。「宮東」とあるのは神社の東側にあるからだろう。

その神社が「大避(おおさけ)神社」。祭神は「秦河勝(ハタノカワカツ)」。『日本大百科全書』には「生没年不詳。7 世紀前半の豪族。山城国葛野郡に本拠を置く渡来系豪族秦氏の族長的な人物。『聖徳太子伝暦 』など諸種の聖徳太子伝には太子の近侍者として伝えられる。『日本書紀』では、603 年(推古天皇 11)聖徳太子より仏像を譲り受けて蜂岡寺(後の広隆寺)を創建し、644 年(皇極天皇 3)東国でカイコに似た虫を常世神と称して祀り、現世利益を得ようとする信仰が流行したときには、河勝は、人心を惑わす悪習として張本人の大生部多を打ち、これを鎮圧したという。また河勝は猿楽(能楽)の始祖と伝承されており、金春禅竹の著『明宿集』には、聖徳太子が河勝に命じて天下太平のために翁の舞を演じさせたのが猿楽のおこりであると述べられている」と書かれていた。
つまり「秦氏」のボスを祀る神社なのである。「秦河勝」は上述の活躍の後、蘇我氏の迫害を受けて「赤穂郡坂越」に逃れ、そこで没したとされている。その「坂越」に「大避神社」があり、「千種川」の流域にも同名神社が多く分布しているらしい。ここもその一つのようだ。



神社の境内にあった「西有年地区の文化財マップ」を見る。現在地点が ⑧、ここから「西国街道(山陽道)」を西へ進むと「⑨ 往来南の宝篋印塔」、「③ 西有年・長根遺跡」がある。その先にあるのが「坂折峠(有年峠)」だ。一方、「国道 2 号線」は赤線で示されており、こちらは北の「鯰峠」を通っている。

「国道 2 号線」を横断すると、道幅がぐっと狭くなった。左に「石像五輪塔」の説明板。「花崗岩製で、高さ約 165 cm (埋没部分を含めると 178 cm)を測る。下から、方形の地輪、球形の水輪、屋根形の火輪、半球形の風輪、宝珠形の空輪からなっているが、空輪と風輪は一体造りとなっている。各輪の四方には薬研彫りで大ぶりな梵字が刻まれている。残念ながら無銘だが、火輪の軒の形状や、様式、手法から見て鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけてのものと考えられる。この時代の石塔は個人の墓塔として使われることは少なく、本塔も一般的な供養塔、もしくは往来者の安全を願って建てられたものと考えられる。造立時期の古さ、規模の大きさ等からみても、西播磨地方では一級品といえ貴重である」と書かれていた。さて、塔はどこかと探すと斜面の上の方にあった。

細い山道を進むと、開けたところに出た。「長谷川」の手前で、左右に県道が走っている。正面に「西国街道(旧山陽道)案内図」があった。コースを確認する。このすぐ西に「宝篋印塔」、その先に「一里塚」があるようだ。そして川を渡ると、しばらく平地が続き、道は山の中に入る。「坂折池」の北を通り、坂を上り、「有年峠」を越えて「赤穂市上郡町」に入る。
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公益財団法人姫路市文化国際交流財団発行の「BanCul 2022 春号」に街道ウォーカーの山本和人さんが「西国街道歩き旅 移動にこそ旅のおもしろさがある」という記事を書いておられた。その中の「有年峠」に関する文章を読んでハッとしたことがある。
西国街道を実際に歩いてみてわかったのだが、歩く人向けの道の整備はあまりされていない。(中略)地域によってバラツキはあるものの、おおむね道標も地図も休憩所もないことが多い。それどころか道が途中で判然としなくなるようなことも何度かあった。近いところでは赤穂市有年から岡山県側の三石に向かう途中で有年峠を越えるが、手前の坂折池のところでいきなり大きな鉄の柵が表れて行く手を阻んでいた。柵を開けて通れるようになっているが、あまりに大きいのでこの先進んではいけないような威圧感があり、一瞬諦めて引き返そうかと思ったくらいだ。
この「鉄の柵」について多くの人がブログに書いている。イノシシよけのゲートらしい。山中にもイノシシの罠が多数仕掛けられているとのこと。道は荒れていて迷いそう。峠の出口にもゲートがあるらしい。二日前に「備前片上」でお昼を食べたときにここの話が出た。街道筋なので私のような街道歩きの人、サイクリングの人が訪れるようだ。「西国街道を自転車で回っているって人が、行ってみようかと思ったんだけど、獣道みたいなんで止めましたといってました」と店のおばさんが笑いながらいう。獣道! イノシシゲート! 獣に出会わないことを祈る。ただし、最近のブログによれば、道が整備されてかなり歩きやすくなっているらしい。それにイノシシの出現は夜だろう。
「西有年宝篋印塔」。説明板には「現存高さ 1.15 m の立派な花崗岩製石造宝篋印塔で基壇・基礎・塔身・笠・相輪のうち、相輪を欠いて五輪塔の宝珠・受花で代用しているが、塔身の梵字は、深い薬研彫りの見事なものである。制作年代は、鎌倉時代末期または南北朝初期(約 600 年前)にさかのぼるかと思われる。この塔は、もと近くの街道脇にあったが、平成五年(1933 年)三月、圃場整備の際取り払われ、平成七年(1995 年)三月に現在の地に移された。同時にこの地にあった後の墓碑も築きなおした」と書かれていた。

その先の左、「一里塚跡」の標柱。

「長谷川」を渡り、右手の児童公園が最後のトイレ。

前方に見えている集落を過ぎると、次第に家数も少なくなり、坂の勾配がきつくなって、道は蛇行しながら山の中に入っていく。
有年峠

あれっ! ゲートが開いている?

9:27 にゲート前に達すると、閉じられているはずの「鉄の柵」が開き、トラックが出入りしていた。工事中のようだ。ゲートの前では山を崩して土を採取している。どうやらこの土を「坂折池」に運び、埋め立てているようだ。

ゲートの左側、開いた扉の向こうに説明板があった。有年地区まちづくり推進協議会が 2010 年に設置したもの。興味深い事項が盛り込まれているので、ここに掲載しておこう。
西国街道(近世山陽道)
その昔、都から太宰府(九州)に通じる道は山陽道と呼ばれ、近隣ではたつの市小犬丸から上郡町高田を経て、各地に至っていた。時代は下り、鎌倉幕府と元との関係が悪化し、遂に 1274 年(文永 1)元は約 2 万 6000 人の軍隊と約 900 隻の船で九州に攻入った(文永の役)。この第一報が京の都に届いたのは約10 日後であった。 この反省から道の整備を図った結果、六波羅探題(京都)と博多とを結ぶ軍用道路、近隣では正條から有年を経て梨ヶ原に通じる道が整備された。これにより、後の「弘安の役」では 6 日に短縮されたという。この道は山陽道に代わる筑紫大路と呼ばれ、江戸時代になると「西国街道(近世山陽道)」と呼ばれるようになる。更に徳川幕府は武家諸法度において大名の義務として、領地に 1 年住むと次の 1 年は必ず江戸(東京)に住むものと定めたため、各大名の参勤交代行列のために、ここ有年の街道や里道、宿場も整備されてきたと思われる。明治 18 年、明治天皇が山口、広島、岡山三県を巡幸。7 月 7 日の夜は三石村に宿泊。翌翌 7 月 8 日早朝(6時 30 分頃)宿を出発し、鯰峠を馬で越え、午前 8 時過ぎに西有年馬路池のほとりに到着。小休止の後、馬車で有年の宿(東有年)に向かったと記録されている。これらに先立ち、梨ヶ原~馬路池~東有年の道路整備により、主要道は通行難所であった有年峠越えから鯰峠越えになり、現国道2号の下地となった。かつてにぎわいのあった街道はその面影も消え、現在は生活道や山道として地域住民に利用されている。
「道」は時代とともに変化していく。「京」と「太宰府」を結ぶ「古代山陽道」は基本的に可能な限り直線となるように造られていた。つまり山・谷・川などの地形情報が無視されていたわけだ。だから難所続きだったと予想される。一方、中世の「筑紫大道」は地形に即したものでこれをベースに近世の「西国街道(山陽道)」が造られた。(「山陽道」という名称はあいまいで、古代のものなのか、中世か、近世かわからない。時代を区別して表示すべきと思う)。一方、明治になって交通手段が「徒歩」から「馬」→「馬車」→「鉄道」へと変化していくと、多少距離が長くなってもいいから、より勾配の小さなルートが求められるようになった。(例えば「箱根越え」でも「旧東海道」はおおむね直線的に山を登るのに対して、「車道」はヘアピンカーブが連続する)。かくして、「新道」が生まれ、「旧道」は廃れていく。「有年峠」は「有年」から「三石」までを比較的直線的に進むルートである。一方、「国道 2 号線」が通る「鯰峠」は迂回路で距離は長い。さらに「山陽本線」は「上郡」を通るさらに距離の長いルートだ。
いよいよゲート内に入った。道はダンプトラックが走りやすいよう、砂利を入れて整備されている。
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左に捨てられた自動車。これは先人のブログによく登場する。

「西国街道」の道標があるので、迷うおそれはない。

これもブログに出てくるイノシシ用の箱罠。あまり気持ちがよいものではない。

小川を渡る。コンクリートの橋なのでまったく問題なし。道が二手に分かれているが、標識があるので迷わない。下草も刈り取られている。

ゆるい坂道になり木々の間に入る。

左側に「弁慶の抓(つまみ)岩」。説明はない。

少し勾配がきつくなるが、歩きやすい道である。

林の中に二つ目の箱罠。こちらは閉じている。先人のブログでも閉じており、ずっと閉まったままかもしれない。

左側が川になる。道には車の轍の跡が残っている。

分岐があるが案内標識があるので迷わない。「有年峠・梨ヶ原」は直進。

石混じりの道になる。

小川を越える。橋はしっかりしている。

再度、橋の前に出る。木橋は赤いひもで通行禁止になっている。右側を迂回すれば問題なく通れる。

前方に倒木と思いきや、「昇竜のツタ」と表示されていた。

つづいて折れ曲がった木。「くの字の木」と表示がある。

左の斜面に「西国街道」の道標。

勾配がきつくなる。峠が近い。

左に「有年峠」の標識。時刻は 10:03。入り口から約 30 分。

ここから道は下り坂。

少し広いところに出た。「敷石(石畳)」の表示が出る。石道はかえって歩きにくい。注意深く下りるとしよう。

下っていくとイノシシゲートの前に出た。時刻は 10:14。あっけない峠越えだった。さて、問題はこのゲート。金網が閉まっており、U字型のかんぬきがかかっている。これを引き抜けば、ゲートは開くのだが、なかなか引き抜けない。いろいろやっていると金網を動かしながらかんぬきを持ち上げれば、引き抜けることがわかった。ということで、無事、脱出成功!

外側から見たところが写真 55。右側にU字型の棒を逆さにして、棒の端をかんぬき穴に差し込むとともに、反対側の先を金網に引っかける構造だ。
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ゲートの横に「近世山陽道(西国街道)」の説明板があった。
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古代から中世にかけて、山陽道は北寄りの龍野・上郡断層上(県道姫路上郡線沿い)を通っていました。近世の初め、山陽道は豊臣政権によって片島 (たつの市揖保川町)から西有年(赤穂市)を経て有年峠・船坂峠を越える南寄りの道筋や宿駅が整えられました。
江戸時代の寛永年間(1624~1644)には西国街道の東有年ー三石宿の宿駅が指定されました。有年・船坂峠にはさまれた上郡町域の梨ヶ原は「安室宿村」 「船坂村」の東西 2 村に分かれ、有年・三石両駅の間の宿として、 街道沿いに宿屋や茶屋が設けられました。
江戸時代、西国大名の参勤交代など多くの人々の往来した西国街道ですが、明治 18 年(1885)の明治天皇の西国巡幸に先立ち、同 16 年(1883)に北側の鯰峠越えのルートに国道(後の2号線)が付替えられ、船坂峠も人力車や馬車が通れるよう、旧道を約 14 m 掘り下げ、切通しの新道が建設されています。 主要幹線道から外れた有年峠は、山道に往時の名残りをとどめています。
「古代山陽道」が「鯰峠」より北だったこと、「梨ヶ原」に間宿が設けられたこと、明治天皇の御幸に際して「船坂峠」も整備され、人力車や馬車が通れるよう旧道を約 14 m 掘り下げ、切通しの新道が建設されたことなど、情報がさらに追加されている。では、まず「梨ヶ原」に向かおう。
田畑の間の細い道を進み、「国道 2 号線」を横断。さらに進むと四つ辻に出る。その角にある「西国街道」の標識に従い左折。

梨ヶ原

「梨ヶ原」はのどかな田園地帯である。歩いて行くと左に説明板があるのが見えた。

「梨ヶ原宿遺跡」と書いてある。このあたりに中世~近世までの集落があったらしい。きっと昔は街道筋で賑わった場所なのだろう。

道はゆるやかに右にカーブしている。田圃の真ん中に二重丸が! きれいな円になっている。どうやって描いたのか?と首をひねる。

「梨ヶ原健康公園」でしばし休憩。さらに進むと、右側に立派な神社があった。鳥居には「船坂神社」とある。

兵庫県神社庁のホームページには「主祭神 天照大神、配祀神 春日大神、誉田別命、秦河勝。由緒 元弘 3 年(1333)春赤松則村苔縄城より打ち出で山の里梨の原の間に陣を取りし時、会々六波羅の催促によりて上洛せる備前、備中、安芸、周防の勢の中に伊東大和二郎なる者武家與力の志を変じて官軍合体の思いをなし祈誓の為、一社を勧請し以て赤心を籠めたり。之即ち今の船坂神社にして後醍醐天皇隠岐遷行の際、兒嶋高徳駕を船坂山に迎えんとして待ちつつ皇室の長久を当社に祈りたり。明治 7 年(1874)2 月村社に列し次いで宿村大避神社を合祀し同 11 年(1878)8 月社号を船坂神社と改称せり。同 42 年(1909)鼻塞神社、湯神社を合祀せり」と説明がある。
「宿村大避神社を合祀」とあるので、「梨ヶ原」にも「秦河勝」を祀る神社があったようだ。さて、この由緒の前半部分だが、かなり説明を要する。
- 「元弘 3 年」は「鎌倉幕府」の打倒の企てが漏れ、捕縛されて「隠岐」に流されていた「後醍醐天皇」が島から脱出して、鳥取県琴浦町の「船上山」にたて籠もり、朝敵追討の宣旨を諸国に発したことから始まる「元弘の乱」の年である。ここから「鎌倉幕府の滅亡」へ向けて時計が動き出す。これに先立ち、「後醍醐」の皇子「護良親王」と「楠木正成」が挙兵。親王は畿内各地の寺社や土豪、地侍、武装商人に蜂起を促す令旨を大量に撒布していた。
- 「赤松氏」はここまでに何回も登場した。室町時代の「播磨」の守護職である。そればかりではない、さらに「摂津」「備前」「美作」の守護となり、「赤松満祐」が「侍所所司」(御家人の統率や軍事・警察を担う主要機関の長官)となって最盛期を迎える。その「赤松氏」繁栄の基礎を作ったのが、ここに書かれる「赤松則村」、別名「赤松円心」なのだ。
- 「円心」は現在の兵庫県佐用郡佐用町、上郡町、宍粟市の一部にまたがる広大な荘園「播磨佐用荘」の地頭職であった。元弘 3 年、「円心」は「佐用荘内苔縄城」で「護良親王」の令旨を受けて鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。この「苔縄城」は「上郡駅」から「智頭急行」線で一つ北に進んだ「苔縄駅」北西の山上にある。
挙兵に際して、「円心」は周到な作戦を巡らせていたようである。その様子を「BanCul 2022 春号」にある中元孝迪さんの「黄金の革命児ー赤松円心と『太平記』4」から引用してみよう。
赤松の本拠地、佐用荘は、幕府勢力の強い西国と、幕府の西の拠点・京都六波羅のちょうど中間にある。円心が兵を挙げ、京を目指して東上すれば、西国の幕府支持勢力が背後から襲い掛かってくるのは目にも見えているうえ、山陰の幕府派も北から千種川沿いなどのルートで進行してくる。赤松一族は、東西、南北の交差点に当たる交通の要衝を支配していたのだが、自ら出陣するとなると、この要害の地が逆に不利な立地に逆転してしまうのだ。そうならないためにまず、背後を襲う山陽、山陰勢を防ぐ手立てを考えなければならない。それが前回述べた苔縄南西部に構築した陣である。一カ所か二カ所。山野里あるいは舟(船)坂頭語近郊の梨原とされるが、おそらく、山陽、山陰両方面に備え、陣は二ヵ所敷いたと思われる。この赤松軍をまず襲撃したのは、六波羅からの出陣督促に応じて、播・備国境の三石に集結した備前、備中、備後、安芸、周防の勢力である。赤松軍は、京攻めを前にしてまず、この軍勢を迎え撃った。
(中略)
三石から備前国境を越えて進行してきた西国勢を迎え撃ったのは、赤松筑前守。円心二男の貞範である。「西の箱根」と称され、最大級の難所である舟坂峠の山中で、幕府側の大軍を翻弄。深い山とヘアピンカーブの急坂を利用して、前後左右からの神出鬼没。圧倒的な兵力を誇る西国勢を討ち破り、二十余人を生け捕った。通例、捕虜は誅殺するが、貞範は彼らを助命し友好的態度で接した。武家社会の前例を無視した異例の温情は円心の指示であろう。敵将の伊東大和守二郎はその措置に深く感動し、自らの館の上方にある三石山に城を築き、続いて熊山も固め、後醍醐天皇を支持する官軍として円心とともに「義兵」を捧げたのである。
- この後、「円心」は播磨国中の武士たちを糾合して東上し、京都に攻め入り、「足利尊氏」らと協力して「六波羅」を攻略し、「北条氏」追討に重要な役割を果たす。
- 倒幕が成功した後の「建武政権」は十分なものではなかったようだ。「後醍醐」は「足利尊氏」と反目しあうようになり、「尊氏」が反旗をひるがえすと、「円心」は「尊氏」側につき、「足利政権」樹立に大きく貢献する。その功により「円心」は「播磨守護職」を与えられ、以降「赤松氏」は「播磨」を制する大豪族となっていくのである。
- なお、神社の由緒にある「後醍醐天皇隠岐遷行の際、兒嶋高徳駕を船坂山に迎えん」は、この「元弘の乱」の前年の元弘二年に、隠岐島に配流される「後醍醐天皇」を奪い返そうと、備前の将「児島高徳」が「船坂山」で待ち受けていたことを指す。しかし、天皇はこのコースを通らず未遂に終わったらしい。
だいぶ長くなった。街道に戻って、右側に「明治天皇駐輦之碑」。ずっとここまで一人で歩いていたが、ここで後ろから若者が歩いてくるのを発見。軽装なので「有年峠」を越えてきたのかはわからない。
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道は民家の間を進む。見るとある家の軒先に赤い帽子に赤い服を着たお地蔵様がいらっしゃる。思わずパチリ。

船坂峠
ここからが「船坂峠越え」である。いったん国道に合流するが、すぐ右の脇道に入り「山陽本線」を越える。「播磨自然高原クラブ」の看板のところで道が二つに分岐しており、左側の細い道を進む。「西国街道」の表示が出ていた。さきほどの若者はだいぶ前に追い抜かれて、姿が見えない。時刻はちょうど 11 時である。
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「西国街道」の表示はあるが、正確にはこの道は「旧国道」である。「明治天皇御幸」に際して、「船坂峠も人力車や馬車が通れるよう、旧道を約 14 m 掘り下げ、切通しの新道が建設されています」と説明板にあった「明治時代の新道」なのである。だから決して「難所」ではない。「深い山とヘアピンカーブの急坂」はここにはないのである。
進むにつれて道は細くなり、周囲は山深くなっていく。次第に勾配も増してきている。左側に「山陽本線」「国道 2 号線」があるのだが、それより高いところを歩いているようだ。

11:20 右側に石の標柱が見えた。
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「縣界、東宮殿下行啓記念、岡山縣」と書かれている。ここが「兵庫県」と「岡山県」の県境。つまり「船坂峠」ということになる。「東宮殿下行啓記念」とあり、「明治天皇」がこの道を進まれている。

「岡山県」に入る。「備前国」である。

右側に小さな碑が立っていた。「雲水の井戸」と書いてある。井戸らしきもの探したところ、小さな水たまりを見つけた。きっとこれだろう。


この先、山に上がる道があり「舟坂山いこいの広場」の石柱とその右に碑が立っていた。

この碑、かなり風化が進んでいて字が読めない。かろうじてタイトルだけ読めた。「船坂山義挙の碑について」とある。この「船坂山義挙」とは、先ほど書いた隠岐島に配流される「後醍醐天皇」を奪還しようと「児島高徳」が待ち受けていたことを指す。この分岐から上っていったところがその場所、そこに「義挙の碑」があるようだ。

実はこの坂道が中世~近世の「山陽道」なのだ(Google Maps でも「旧山陽道」と表示されている)。だが、この道は途中で消滅してしまう。そこから先のルートは不明なのだ。県境らしき場所に「播磨と備前の国境石」もあるとのことだが、この時、それらの情報は頭の中になかった。
11:25、山道を下り、「国道 2 号線」に合流し、「三石駅」へと向かう。しかし、その道中の写真が一枚もない。実は、11:55 に「相生」行きの電車があり、ひょっとするとそれに間に合うのではないかと急いだせいなのだ。それを逃すとつぎの電車まで 1 時間待たなければならない。この日は大阪で同窓会があり、それに出席するために新幹線に乗る予定。つぎの電車でも問題はないのだが、早く「相生」に着けば、コンビニで買っておいた冷たいおにぎりではなく、温かいごはんが食べられると期待。時計とにらめっこしながらの急ぎ足の歩行となり、写真を撮っている余裕がなかったのだ。
その甲斐あって「三石駅」には 11:52 に到着。ギリギリセーフ! 歩行距離は 14.3 キロ、時間 3 時間 48 分。ちょうど来た電車に飛び乗った! と、そこまではよかったのだが、電車のアナウンスを聞いて唖然。私は「岡山行き」の電車に乗ってしまったのだ。この電車はなんと 11:54 発。一分の違いで上りと下りがあるなんて考えもしなかった。結局、つぎの「吉永駅」で下りて、駅のベンチでおにぎりを食べ、今度は間違いなく「相生」行きに乗った。急ぐとロクなことはないという教訓である。(急がなければ、「旧山陽道」にも足をのばしていたかもしれない)。

